KBC②
真っ暗闇。
辛うじて月明かりで周りの様子が伺える程度。
こんな状況で、広い園内を逃げる母親を捕まえるなど無理だろう。
どこへ向かうともなく、園内を疲労しきった体を引きずりながら歩く。
「キャッ……」
遠くから、女の短い悲鳴が聞こえた気がしたけれどそれが幻聴かどうかの区別もつかなかった。
このまま倒れ込んで寝てしまいたい。
だが、それは許されないと言う恐怖が俺を支配していた。
「……チーチェ……プラスチーチェ……」
暗闇の中から、か細い女の声が聞こえた気がした。
ふらつく頭と足取りでそちらへ向かう。
「……プラスチーチェ……プラスチーチェ……」
木に、人が吊るされていた。
逆さまに。
「……プラスチーチェ……プラスチーチェ……」
よく見ると、それは下着姿の女で目隠しをされていた。
「……プラスチーチェ……プラスチーチェ……」
うわ言の様に、泣き声で同じ言葉を繰り返している。
「……プラスチーチェ……プラスチーチェ……」
なんだろう。これは。
「……プラスチーチェ……プラスチーチェ……」
垂れ下がった、長い金色の髪。
…………アナスタシヤ?
そこで我に返る。
逃げると言っていた彼女。
地面スレスレまで垂れ下がった髪の先にツナギとナイフが一つ置かれていた。
「アナスタシヤ!」
「……ミタテさん!? ヨリチカ!!
助けて……助けて下さい!
もう逃げません!
逃げません!
助けて。
タスケテ!」
「今、紐を切るから!」
慌ててナイフを手に取り、木の幹にくくりつけられたアナスタシヤを吊るしているロープを切断する。
「……グエッ」
真っ逆さまに落下したアナスタシヤは、地面に衝突し変な声を上げた。
…………俺、悪くないよね?
◆
ガタガタと震えながらうずくまるアナスタシヤ。その横に座り込む。
座ったら、そのまま立ち上がれなくなった。
もう動く気力も出ない。
疲労と睡魔で朦朧とする意識。
そのままどれだけ時間が過ぎただろう。
昇天仕掛けた意識を引き戻す様に、腕に嵌めたリストバンドがピピピと電子音を上げる。
五時十五分。
「撤収だ」
音もなく寄って来た母が俺たちの背後から声をかける。
アナスタシヤが盛大に肩を跳ね上げた。
俺もだけど。
◆
ヨタヨタと車に乗り込み、後部座席へ身を沈める。
少しでも母親から距離を置きたかった。
だが、暖房の効いた車内で初めてアナスタシヤから異臭がする事に気付く。
……また漏らしたか。
だが、そんな事で口を開く元気など無かった。
俺はまだ暗い窓の外を眺めながら、睡魔に身を委ねようとしていた。
「帰ったら、直ぐにシャワーを浴びて学校の支度ね」
は?
徹夜のまま学校へ行けと?
しかし、それを抗議する気力などミリも無かった。
「ナーシャも、支度したらウチへ来なさい。
朝ご飯、用意するから」
「……ハイ」
隣でボロボロの女が小さく返事を返すのを背中で聞く。
こうなったのも、全部こいつの所為なんだよな……。
「熱いシャワーを浴びれる訓練なんて、天国の様よね」
「……ハイ」
嬉しそうな母の声にアナスタシヤは同じ返事を繰り返す。
◆
……熱いシャワーを浴びながら堪えきれず蹲る。
俺は、何をさせられてるのだろう。
頭は回らないし、全身が痛く重い。
腹は減っているが食欲なんて微塵もない。
この後、学校?
無理だよ。ふざけんな。
しかし、そんな抗議を受け入れられる筈も無いのだろう。
シャワーで洗顔料と涙をしっかりと流しリビングへ。
鼻歌交じりで朝食を運ぶ母。
寝癖頭でテレビを見ている父。
殺意が芽生える。
いや、余計な体力を使うのはよそう。
てか、何で二人とも平然としてられるのだろう。
部屋に戻り、制服に着替える。
ベッドが俺を誘惑する。あそこに倒れ込めば。
だが、それはインターホンの音により阻害された。
「頼知、出てー!」
はいはい。
部屋の外から母親に呼ばれインターホンへ。
「おはようございマス」
アナスタシヤの声。
そういや、朝飯ここで食うのか。
「お隣さん」
「開けてきて」
「はいはい」
朝食の支度をする母に代わり玄関へ。
「よう」
制服姿に仮面の様な笑顔を貼り付けたアナスタシヤがペコリとお辞儀をする。
「入って」
「お邪魔しマス」
「いらっしゃい。
ご飯出来てるわ。
こっち来て座ってー」
キッチンから母の朗らかな声。
一瞬、アナスタシヤが顔を引攣らせたが直ぐに笑顔に戻る。
そんなアナスタシヤを連れ、リビングへ。
親父が、彼女を見て目を丸くした後に背筋を正す。
テーブルの上には四人分の朝食が並んでいた。
「お隣のアナスタシヤ・ミシュレさん。
ロシアからの留学生で頼知と同じクラス。
一人暮らしだって言うから、朝食に呼ぶ事にしたの。これから毎日」
「……よろしくお願いしマス」
そんな話聞いてないのだけれど。
アナスタシヤはそんな空気を微塵も出さずに小さくお辞儀をした。
「ああ、そう。
ロシアから一人で。
それは大変だ」
観察する様にアナスタシヤを眺める親父。
信じたのか、それとも知ってて誤魔化しているのか。
いや、親父すら正体不明とか勘弁願いたい。
「さ、座って。
簡単だけどどうぞ。
今度、ロシアの料理にもチャレンジしてみるわね」
「ありがとうございマス」
朝食に並んだのはチキンのホットサンドとトマトスープ、そしてサラダにヨーグルト。
全然、食欲が湧かない。
とりあえず、軽いもの。
そう思いヨーグルトを手に取る。
「いやー、しかし、こんな美人の女の子が隣に引っ越して来るなんてなぁ」
親父が楽しそうな声を上げる。
「しかも、同じクラスで一人暮らし」
そう俺に語りかける。
五月蝿えな。黙って食えよ。
イライラが募る。
「これ、もうエロゲの世界だな。
ハッハッハッハッハ……」
殺す。
あまりに無神経な親父の言葉にキレた俺が立ち上がる前に、母親の手刀が親父の首筋に食い込む。
白目を剥き倒れた親父。
……いつから我が家はこんなに殺伐と戦場然としたのだろうか。
小さく溜息を吐いてヨーグルトを口に運ぶ。
「残したらダメだからね」
そう母親が有無を言わせぬ口調で言う。
……親父の前では別人、か。
それでも食は進まず、三分の一ほどしか食べれなかった。
「ま、今日は良いわ。
これ、お弁当ね」
俺とアナスタシヤ。
きっちり二人分の弁当が用意されていた。
ついでにアナスタシヤの歯ブラシも。
「六時までには帰って来なさいね。絶対」
笑顔の母親に見送られながら、二人で家を出る。
駅まで、いや、学校へ着くまで互いに一度も口を開かなかった。
プラスチーチェ




