KBC①
我が家のマイカー、白のアクセラスポーツのハンドルを握る母。
助手席に俺が座り、後部座席にアナスタシヤが座る。
「KBCって何?」
俺の胸に刺繍された文字の意味を尋ねる。
「キョーコズ・ブート・キャンプ」
……用意がいいな。
俺とアナスタシヤ、そして自分の三人分、迷彩のツナギを用意して、更には刺繍まで。
それに着替えるや否や有無も言わせず車に乗せられた。
「どこ行くの?」
「こどもの国」
「は?」
「昔、よく行ったでしょ?
覚えてない?」
「覚えてるけど……」
こどもの国は、横浜の郊外の山の中にある広大な遊び場。
中には牧場や動物園、夏はプール、冬はスケートと、一日中遊べる場所なのだが……。
「何するの?」
「言ったでしょ?
訓練よ」
「訓練って、何の?」
「戦闘とサバイバル」
「は? 何でさ」
「技術は必要でしょ?」
「あのさ、真壁って人も言ってたじゃん。
向こうへ行って帰ってこれる人材が貴重だって。
で、俺はそれが出来ている訳。
こっちと向こうとでは、何もかもが違うんだよ」
「お前さ、リングの上でチンピラとヘビー級のチャンピオンが戦ったらどっちが生き残ると思う?」
「チャンピオンだろ」
「残念。チャチな拳銃を手にしたチンピラでした」
「何だよ、それ」
「そう言う訳で、私の用意したプログラムをクリアするまでは向こうへ行かせないから」
「プログラム、ねえ」
「クリアするまで、毎日続けるから」
「毎日って、学校は?」
「行け。
当然だろ。
他の時間は無いから授業だけで必死に覚えろ。
良いな?」
いや、無茶だろ。
「良いな?」
「はいはい」
「後ろも良いな?」
「……ハイ」
一体何をするつもりなんだろうか。
窓の外は夕暮れで赤く染まる街が広がっていた。
◆
こどもの国には『改修工事の為閉園中』と書かれた看板がかかり人の姿は一つもなかった。
入り口のロータリーに車を停め、どうしてそんな物を持っているのかわからないが門の鍵を開け中へと入って行く母。
「ほら、来い」
俺とアナスタシヤがそれについて行く。
「はい。これはめて」
園内の地図が書かれた案内看板。
その前で母親から渡されたのは液晶のついたリストバンド。
「サボったらすぐわかるから」
時計と、心拍数が表示されている。
それをはめる間に母親が看板を指差し説明を始める。
「ここの外周。
一周、だいたい四キロ。
そうだな……四周から始めるか。
軽く準備運動してから走って来い」
「は?」
「その間に、パパの晩御飯用意して来るから」
「何馬鹿な事を」
十六キロだぞ?
「ほら。さっさと行く」
「いや……」
「KBCにノーの返事は無い」
アナスタシヤが、静かに走り出した。
渋々俺もそれに倣う。
◆
……ハア……ハア。
そろそろ二キロくらいは走ったか?
向こうなら何でも無い距離なのだよな。これくらい。
いや、やっぱり無意味だろう。これ。
アイツ、早いな。
俺の前を走るアナスタシヤ。
悔しいが俺より動けそう。
そのアナスタシヤが、少しペースを緩めたのか距離が近付く。
疲れたか?
「あの人、何者デスか?」
横に並んだアナスタシヤに走りながら問いかけられる。
「ただの主婦だろ」
そんな訳は無さそうだけれど。
「どうして大統領へ脅しを掛けれる様な人が、平和に主婦なんてしてるんデスか」
その話、本当か?
「あれは一流のアサシ……何でもないデス」
日が暮れ、あたりはすっかり暗くなった。
「オマエの目的はなんデスか?」
「目的?」
「どうして私を助けんデス? カラダ?」
「善意だよ。クラスメイトも心配してんぞ」
まあ、若干一名下心が見え隠れしていたが。
「ゼンイ?」
「だから、明日から学校こいよ」
だが、それに返事は無く再びペースを上げたアナスタシヤの姿はやがて見えなくなった。
◆
二周走って足が止まる。
馬鹿じゃねーの。
水も飯も無しで。
入り口近くで座り込み、母親が迎えに来るのを待つ。
アナスタシヤは律儀に走り続けているのだろうか。
「良い身分だな」
「うわ!」
背後から、声がした。
「二周、か。
甘やかし過ぎたな」
そう聞こえた直後、俺の顔はアスファルトに押し付けられ腕の関節を捻られる。
「痛っ! ちょ、ギブ、ギブ!」
「根性無しが」
拘束から放たれると同時に今度は片手で首を絞められる。
「お前、今更引き返せると思うなよ?
やり切るか、二人で死ぬか。
その二択しか無いんだよ」
未だ嘗て見たことのない様な冷たい目が俺を射抜く。
……本気だ。
酸素の行き渡らない脳が、危険信号を発し始めた。
母親の腕を叩くが、暗闇の中に浮かぶ冷たい目は揺らぐ事は無い。
許してくれ。
そう願いながら小さく何度も首を縦に振る。
「もう一周、行って来い」
その命令と共に解放された俺はヨロヨロとランニングを再開する。
◆
時間が22時を過ぎた頃、十二キロのランキングを終える。
「次は腕立てと腹筋」
座る間も無くそう命令される。
まだ解放されないのか……。
俺より一周多く走った筈のアナスタシヤは既に腕立てを始めている。
体は限界だ。
だが、従うしか無かった。
日付が変わった頃に、遠くから見守っていた母が寄って来る。
……やっと解放される。
俺は心の底から安堵した。
しかしそれは愚かな幻想でしか無かった。
「食え」
そう言いながら渡されたのは小さな飴玉一つ。
およそ半日ぶりに口にしたそれは、至福の味がした。
直後、耳を疑う。
「食ったら朝まで鬼ごっこな。
この敷地内からは外に出ない。
タイムリミットは夜明けまで。
私を捕まえたらこの訓練は終わり。
二対一だ。簡単だろ?」
そう言って、母はその姿を闇の中へと紛れ込ませていった。
……朝まで……鬼ごっこ?
「……は?」
かすれる声で疑問を口にしたところで答えてくれる者などおらず。
静かにアナスタシヤが近寄って来る。
そして、小声で呟いた。
「私は逃げる」
それだけ告げ、彼女も闇の中へと消えて行った。




