偶然同じマンションに住んでいる
あれ? ひょっとしてこれ、俺に舞い降りたチャンスなのか?
幸運の女神は金髪なのか?
いやいやいやいや、俺には桜河さんが。
なんて内心で葛藤をしているうちに、いつの間にか自宅のあるマンション前。
「じゃ、ウチここだから」
「え!?」
「ん?」
「ワタシも、ここデス!」
「マジで!?」
「マジです! 304号室」
全然知らなかった。
まあ、引っ越して来たばかりだろうから顔を合わせる機会なんてなかったのだろうが。
そうか。
ご近所、というか、お隣さん。
これ、なんて(
「そうだったのか」
家の鍵を取り出し、エントランスのオートロックを開けながらそしたら、明日から毎日一緒に登校? これ、なんて(
「アレ? アレ?」
その横でアナスタシヤが鞄を開け中をゴソゴソと探る。
「どうしたの?」
開いた自動ドアの前で彼女に声をかける。
「家の鍵が、無いんデス」
「えっ」
泣きそうな顔、いや涙目で彼女が言う。
「……どうしましょう」
「家に人は?」
「パーパは夜まで帰って来ないデス」
首を横に振りながらアナスタシヤが言う。
となるとそれまで待つしかないか。
選択肢何て一つしか無いわけで。
「……ウチで、待つ?」
「いいんデスか?」
「母親も居ると思うから」
むしろ居ない方が良いのだけれど。
でも、居るだろうな。主婦だし。
ママ友と旅行とか行ってないだろうか。今日、帰って来なくて良いのに。
「スミマセン。
お邪魔虫させて下さい。
あ、その間にG Playの話を聞かせて下さい!」
「あ、そうね」
母親の不在を祈りながら家のドアを開ける。
「ただいま」
……返事が無い。
あれ? 不在?
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下。その先のリビングルームまで、見える範囲に人の姿は無い。
「入って」
「お邪魔します」
振り返り、アナスタシヤに声を掛けながら靴を脱ぎ客用のスリッパを出す。
そして、リビングへ。
誰もいないリビングの入り口で中を見回しながら、声をかける。
「母さん?」
「お帰り」
居るのかよ!
何故か後ろから発せられた母親の声に振り返ると目を丸くしたアナスタシヤの直ぐ後ろに母親の姿が。
「何処に居たんだよ」
「トイレよ。
お友達?」
「あ、そう。
アナスタシヤさん。隣の部屋に越して来た同級生」
がっかりしながら、アナスタシヤを紹介する。
「ああ、ミシュレさんでしたっけ?
朝、ゴミ捨て場でお父さんにお会いしたわ」
「……ヨ、ヨロシクオネガイシマス」
「今、何か用意するわ。
座って。
頼知、着替えてらっしゃい」
「ん、ああ」
後ろに突然人が居て余程びっくりとしたのか顔をひきつらせるアナスタシヤをリビングのローテーブルまで案内する。
「座って待ってて」
そう声をかけ、薄ら笑いを浮かべる母親をひと睨みしてから自室へ。
手早く制服から家着に着替え、ざっと部屋を片付ける。そして、いつから置きっ放しになっているのかわからない消臭スプレーを部屋に蒔き……念のため、ベッドも整えて。
そうやって万が一、アナスタシヤがこの部屋に入っても大丈夫な様にと入念にチェックする。
流石に母親の前でG Playの話をする様な事はするつもりは無いし。
つまり、あの邪魔者が自らの居城と定めるリビングダイニングキッチンに居座り続ける限りはこの部屋へ招かざるを得ないのである。
うん。
仕方ない。
部屋から出てリビングへ。
アナスタシヤが俯いて正座している。微動だにせず。
緊張しているのだろうか。
母が出したであろうお茶には手もつけず。
その母は、リビングからカウンター越しのキッチンに立ち微かに笑みを浮かべている。
初めて息子が家に連れてきた異性を事細かに観察する様な視線をアナスタシヤに向けて。
これ、アレだ。口煩い姑。
そんな母に背を向け、アナスタシヤの斜め前に座る。
「お待たせ」
だが、彼女は顔も上げず。
小さく頷いた様な気がしたけれど。
「えっと、辛くない? 足、崩したら?」
「……ダイジョウブ……デス」
俯きながら、小さな声で答えるアナスタシヤ。
心なしかその声が震えている様に聞こえた。
何か言ったのか?
思わず振り返り母を見る。
「お父さんがお迎えに来るまでここにいるそうだから、アンタ、相手してあげなさい」
「ん、ああ」
そう言えば、テーブルの上にアナスタシヤのスマホが置かれている。
俺が部屋に入っている間に連絡を取ったのか。
しかし、相手って言われてもなぁ。
こういう時、何の話をすれば良いのだろう。
「そう言えば、いつ引っ越してきたの?」
「……五日前……デス」
小さな声で、顔も上げずに答えるアナスタシヤ。
明らかに、電車の中とテンションが違う。
クソ。姑め! 俺の嫁(嫁ではない)に何をした!?
「日本語は、どうやって覚えたの?」
「…………勉強…………デス」
「どこか、行きたいところとか、あった?」
「……………………別に」
徐々に遅くなる返答と、小さくなる声。
会話、したくないのだろうか。
とりあえず、姑の目の届かない所へ行くべきか?
「…………部屋に行かない?」
そう、小声で提案する。
するとアナスタシヤは顔を上げずに何度も小さく首を横に振る。
それは、まるで怯えている小動物の様に見えた。
……そんなつもりじゃ無かったんだけど。
いや、つもりが無い事はないんだけど……いや、無いよ! 無い無い!
「……ごめん、何でもない」
迂闊な提案を謝り口をつぐむ。
その後も、アナスタシヤ一人残し、部屋に引っ込む事など出来る筈も無く。
彼女が微動だにしない中、母親の包丁がまな板を叩く音だけが家に響く。
◆
アナスタシヤが、顔から汗を滴らせている事に気付いたのは随分と経ってからだ。
「……大丈夫?」
俺の問いかけに、彼女は俯いたまま小さな頷く。
「体調悪いの?」
小さく首を横に振るアナスタシヤ。
その様子はまるでサウナの中の様だ。
だが、別に室内が暑いわけではない。
少なくとも俺にとっては。
雪国生まれだからかな?
俺は立ち上がり、洗面所からタオルを持ってきて彼女の前に置く。
だが、アナスタシヤはピクリとも動かなかった。
本当にどこか悪いのではないか。
そう思えるほどに、伏せたアナスタシヤの顔色は青く唇は乾燥でカサカサだ。
だけれど、汗で制服のシャツがほんのりと濡れている。
そんな状態でも、彼女は微動だにせずに座り続けた。
ピンポンとインターホンの呼び出し音が鳴る。
アナスタシヤが、肩を跳ね上げ顔を上げる。
そこに張り付いた表情は……恐怖?
「はい」
『ミシュレと申します。娘を迎えに参りました』
「はーい」
インターホンに応対する母。
それを引き攣った顔で眺めるアナスタシヤ。
玄関へ向かう母。
そして現れるスーツ姿の男。
「申し訳ありません。
娘がご迷惑をお掛けして」
「いえいえ、とても大人しいお嬢さんでしたわよ」
「そうですか。
家では騒がしくて仕方ないのですけどね。
さあ、帰ろう」
「……はい」
アナスタシヤが、まるで死人の様な顔で小さな声で返事をし、そして、ゆっくりと立ち上がる。
そこに、この異様な空間から解放される喜びなど微塵も感じられなかった。
むしろ……諦め……?
何故だ?
家に、父親の元へ帰るのが嫌なのか?
その時、俺が咄嗟にひねり出した答えは、虐待、だった。
彼女は、アナスタシヤは、この父親に虐待を受けている。それから逃げる為に、この家に来た。だが、そうと気付かぬ母が父親へと連絡をしてしまう……。
「……行っちゃダメだ」
俺に背を向けたアナスタシヤの手を咄嗟に掴んでいた。
振り返った彼女の見開かれた目。
その奥で、父親が右手をスーツの内へと静かに移動して……そのまま白目を向いて床に倒れこんだ。
その背後に手刀の構えで微笑みを浮かべる母。
アナスタシヤが奥歯をガタガタと鳴らしながら、その場へ崩れる様に座り込む。
そして、そこから床に水溜りが広がって行く。
「自分が今、死地にいる事に気付かないからこそ後先を考えない行動に出る。
そして、死地だと気付いた時は既に手遅れなのよ。
覚えておきなさい」
そう言いながら、母は転がったアナスタシヤの父親のスーツの中へ手を入れる。
そこから黒い物体……拳銃を引き抜いた。
「……は?」
「だけれど、うん。女の子を助けようとした事は褒めてあげるわ。
まあ、その女が命を捨てるに値するかどうかはさて置き」
手にした拳銃からマガジンを抜きながら母親が言う。
その雰囲気は、俺の知る御楯響子の物ではなかった。




