器・御楯頼知
◇
女の子の泣き声。
何人もの大人に地面に抑え付けられながらそれを聞いて居た。
それが、俺が覚えている中で一番古い記憶。
後から聞いた話。
禍津日が暴走し、公園で禍に憑かれた中年男性に対して危害を加えた。
俺はそう言う事件を起こしたらしい。
その結果として、俺の中の禍津日は御天の管理下に置かれる事となる。
当然、その器たる俺を含めて。
祖父母の元から引き剥がされ、長らく無人であったと言う古民家に押し込められた。
見知らぬ土地に一人。身の回りの世話をするのは口を利かぬ老婆一人。誰かの式神だったのだろう。
しばらくし、そこにもうひとり俺と年の変わらない女の子がやってくる。
御楯風果。
妹だと、そう教えられた。
唐突に兄妹となった俺達だが、会話を交わすような事はほとんど無かった。
そんな俺達の前に家庭教師と言う名目で一人の女性が派遣される。
俺と風果が小学生になった年のことだったと思う。
その学校では腫れ物の様に扱われ、露骨に避けられ友達なんて言うものは一人として居なかった。
その家庭教師はそんな俺達に対し、努めて明るく接した。
訓練は厳しかったけれど。
術も刀の使い方も、禍と戦う術の全てを叩き込まれた。
だが、それら全てをそつなくこなして行く風果に比べ、俺は術を扱う事が不得手であった。俺の中にある、封印の所為だろうと、そう言われた。
そうして五年間、彼女は直毘としての全てを俺達に教え、去った。
名も知らぬ男の元へと。
白無垢を纏い、真っ白な顔をした幸せそうな彼女の顔に、裏切られたとそう感じた。
初恋だったのだろう。
それから暫く間を置いて派遣されたのは御剣家の男だった。
尊大不遜を絵に描いたような男で、常に俺達を見下すような言動をする糞野郎。
毎日の様に俺達を罵りながら手を上げるそいつを幾度となく殺してやりたいとそう思ったが、子供の力で敵うはずなど無く、そして、睨みつける度にその目つきが気に入らないと再び殴られるのだ。
だが、他に行く場所などあろうはずも無く、そんな状況でも受け入れるしかなかった。
あの時までは。
その日、男は一度帰り、再び戻ってきた。
夜中に。
庭に乱暴に車を乗り付けた男は、そのまま家に上がり込んできた。
何の用だと玄関へ出ていった俺はそのままそいつに殴られ投げ飛ばされた。
朦朧とした意識が風果の悲鳴を捉える。ふらつく足取りで半ば転げるように彼女の部屋へ。
開け放たれた襖の奥で、土足のままそいつは風果の布団の上に立っていた。
部屋の隅で丸くなる風果。
振り返ったそいつの下卑た笑いを見た瞬間、視界が真っ赤になった。
俺は禍津日に体を明け渡した。
その男を殺すために。
窓ガラスを突き破って、その糞野郎を庭に引きずり出し、そこでその首を圧し折る。
だが、それは寸前のところで阻止された。
術が俺の全身を縛り付け、拘束する。
それをしたのは、年に一度顔を見せるか見せないか、その程度の関係でしかない俺の母親、御楯響子だった。
子を捨てた女。
何故、今邪魔をするのだ。まとめて殺しやる。
そう思えど、俺の体は拘束から逃れることは出来ず。
それでもなお暴れる俺を静め、再び禍津日に封をしたのは、泣きながら俺にしがみつく風果だった。
それから二ヶ月ほど、御天本家の地下牢に閉じ込められた。
このまま処分されるか、もっと人から隔離されたところに置かれると思っていが、元の家に戻されることになる。
そして、また二人の暮らしが始まる。
中学に入っても相変わらず友人はおらず、風果とも月に一言二言言葉を交わす程度。
だが、その頃からだろか。
風果が飯を作る様になったのは。
その後に監視役として派遣されて来たのは御紘の当代。彼は俺達と同い年の娘が居ると、そう言った。
竹を割ったような人で自分の娘に俺達を重ね同情の念を抱いたのかは定かで無いが、彼は俺達を侮蔑する事なく接した。
時折、彼の娘も顔を出すようになった。
御紘杏夏という名の。
直系の娘でありながら彼女は、直毘なんてなるつもりも無いと言い放った。
直毘として生きる。それが当然だと思って居た俺達二人にとって、それは自分達を否定されるに近い事だった。
同時に、そう言う自由があるとも知る。
そして、二年ほど過ぎる。
◇
学校から家に戻り、庭にインプレッサが停まっているのを見て舌打ちする。
あの糞ババア、また来てやがる。
わざわざ都心から何の用があるんだか。
暗澹たる気持ちで玄関を開ける。
「ただいま」
例え中に誰も居なくても挨拶は必ずすること。
それが、最初の師の教えで、彼女が居なくなった後もそれは守り通している。
「おかえり」
御紘の親父さんの声。
三和土で異彩を放つ女物の靴。
「おかえりなさい」
忌々しいその女の声。
居間に居る二人に小さく頭を下げながら自分の部屋へ。
だが、それは御紘の親父さんに止められる。
「こら。母親にちゃんと挨拶をしろ」
「……ようこそいらっしゃいました。ごゆっくり」
顔も見ずにそう言って返事を待たず、部屋へ入り、制服からランニングウェアに着替える。
イヤホンを嵌め、スマホで音楽を流す。
そして、パーカーを被って部屋から出る。
「ジョギング行ってきます」
そう、御紘の親父さんに声をかけ。
玄関先でちょうど帰ってきた風果とすれ違う。
「あ、兄さん。
響子さん、来てるのですね?」
「ああ」
「いってらっしゃい」
風果はあのババアが来ていると知って、微かに笑みを浮かべた様に見えた。
何故かはわからない。
……どうでもいい。
スマホの音量を上げ、日課のジョギングに出る。
◇
湖、霞ヶ浦北浦のサイクリングロードを走り湖面に浮かぶ鹿島神宮の一之鳥居で折り返す。
そうやって、一時間ほど無心で体を動かし日が沈みはじめた湖面を眺めながらクールダウン。
「減量は順調かな?」
背後から声を掛けられる。
別にボクサーでもダイエット目的で走っている訳でも無い。
ただ、目深にフードを被って周りの目を気にしない様に走るのが好きなだけなのだ。
その格好を揶揄する杏夏を振り返る。
「……来たのか」
彼女は家から勝手に持ち出した俺の自転車の上で微笑む。
俺達の監視役として単身こちらに居を移した父親に会うため、月に二、三度俺達に顔を見せる杏夏。
同じ御天八門という境遇に加え、親父さんに似た強気な男勝りの性格ゆえか俺達の抱える後ろ暗い事情など気にする素振りも見せない彼女は、同年代の友人など皆無な俺と風果にとっては唯一と言っていい友人だった。
最初の師匠を思わせる様な明るさにいつの間にか微かな好意を抱いてはいたが、それを表に出すつもりなど毛頭無かった。
それが許される生き方が出来るとも。
生まれながらの器とされた身。
人としての幸せなど、望むべくもなく、人から遠ざかり遠ざけ生きてきた。
そんな俺の内側にたやすく踏み込んで来た杏夏の笑顔はとても眩しく、目を背け遠ざけようともがく。奥底ではずっと見ていたいと思いながら。
自転車を置き、杏夏が隣に並ぶ。
横に一歩ずれ、距離を取る。
夕陽が真っ赤に湖を染める。
「お母さん、もう帰ったよ」
「あっそ」
「パパ怒ってたよ?」
「そう」
なら、今日の稽古は覚悟した方が良いな。
「帰……」
帰る。
そう言おうとした俺は、湖の上に異変を捉える。
光が屈折し、景色が歪む。
まるで金色の炎……禍か?
「どうしたの?」
杏夏が横で眉間に皺を寄せ目を細める。
稜威乃眼を持たぬ彼女には見えぬか。
「祓えるだろうか」
その光を見ながら両手を合わせる。
「清め給え」
そう、静かに唱え。
「……駄目だな」
光はより強く。
しかし、光を放つという事はよもや、神の権現か何かだろうか。
しかし、それにしてはこの薄っすらと感じるのは瘴気か?
「マガ?」
「多分」
「パパ、呼んだ方が良い?」
「そうだな」
杏夏が、スマホを取り出すのを横目に見る。
視線を再び光の方へ。
それは徐々に人の形へと変わり行く様に見えた。
「……ちょっと、様子がおかしい」
耳にスマホを当てた杏夏に警戒しながら声をかける。
右目の奥がチリチリと疼く。
――ここに居たか。
歓喜を押し殺した様な声。
だが、杏夏はそれに気付いて無い……?
「……逃げろ」
「え?」
俺の声に、スマホから耳を離しポカンと俺を見る杏夏。
「逃げろ!」
そう言って再び光の方へ視線を戻す。
そこには角髪を結った男の姿。
湖の上に静かに浮かぶその男の瞳は金色に輝いていた。
「……何者……?」
――天津甕星也。
――その体、再びいただこう。
天津甕星……。
神代に伝わる服ろわぬ神……。
荒ぶる悪神……。
突然現れたその存在に理解が追いつかぬ俺の前で天津甕星はゆっくりと左手をかざす。
すると、男の前に一本の刀が現れる。
薄っすらと揺らめく炎を纏う刀。
男がニヤリと笑う。
次の瞬間、刀がこちらに向け飛び来る。
それを弾こうとした俺の拙い力は容易く掻き消され、だが飛び行く先が僅かにずれる。
横に居た杏夏の方へと。
咄嗟に右手を差し出す。
刀は杏夏をかばうように突き出した俺の掌を容易く貫き、その刃は後ろに居た杏夏へと達する。
「杏夏!」
刀を抜き捨てながら崩れ落ちる彼女を受け止める。
杏夏の顔が苦痛に歪み、口から言葉にならない言葉が漏れ、胸から流れる血が、アスファルトに血だまりを作る。
どうしてこんな事に?
「杏夏!!」
叫べども彼女は俺を見ず。
呼吸が浅い。
このままでは、杏夏が死んでしまう。
杏夏が。
杏夏が。
彼女の顔に手を当てる。
もう一度、笑ってほしい。
だが、弛緩したその顔は俺の手から流れる血で真っ赤に染まり、ヌルリと滑る。
そして、視界が像を結ば無いほどに歪む。
杏夏が。
杏夏が。
杏夏が……。
不意に後ろから髪を掴まれ、体を引き起こされる。
そのまま首を鷲掴みにされ吊り上げられる。
金色の目が、ニヤリと笑う。
俺はゆっくり目を閉じる。
杏夏は死ぬ。
そして、俺も。
カチリと、頭の中で音がした気がした。
直後、天津甕星の腕を引き剥がし、その体を投げ飛ばした。
俺では無く、禍津日が。
「兄さん! 駄目ー!」
風果の声。
そして、地から鎖が伸び体に巻きつく。
だが、それはあっさりと消滅。
それを成したのは俺では無く、禍津日。
俺は、自分の体の中で勝手に動く自分をぼんやりと見ているだけだった。
「兄さん! 止まって!」
風果が血だまりの中から杏夏を抱き起こしながら叫ぶ。
再び迫る天津甕星。
小さな衝撃の後、刀が俺を貫く。
腹から飛び出た炎の刃。
直後、世界が真っ暗な闇となった。
◇




