静寂の芦ノ湖⑦
クジラの鳴き声に入眠効果があるらしい。
夜、寝付けないことを相談するとアンコさんがそれを教えてくれた。
結果、俺の部屋にはなんとも形容し難い低音が響き、その中でだがすぐに眠りに就いたようだ。
本音としては、添い寝などを期待していたのだけれど……。
そして、三日目の朝を迎える。
「おはよう」
「おはようございます」
「朝ごはん、軽めで良い?」
「はい」
アンコさんが用意したのはコーンフレークとヨーグルト。
それを食べ、出かける準備。
洗濯された服に着替え、外套を羽織り、アンコさんに渡されたマフラーを巻く。
鎧はひとまず荷物袋に放り込んだ。
ついでに靴下も貰い、ボロボロのブーツを履く。
そして、ヘルメットを被る。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「いや……」
移動はバイク。
リアガードやレッグガード、そしてライトガードが取り付けられた軍が使う様な偵察用バイク。
聞けば、オフロードを走ることも想定されているらしい。
そして、そのバイクの後部座席にこれから乗るのだけれど。
バイク乗るの、初めてなんだよな。
「少しでも変なところ触ったら殺すから。ていうか本当に死にかねないからやめてね」
「はい」
「曲がるときはコーナーの内側に体を倒す」
「はい」
「大丈夫、転んでも痛いだけだから。多分」
「アンコさんを信じます」
「じゃ、行くよー」
「はい」
『いってらっしゃーい。気をつけてねー』
◆
こえぇぇぇぇぇ!
ゆっくり走って!!
無音のバイクで必死にアンコさんにしがみつく。
女性に密着しているなんて甘い感想は一ミリもない。
そんな俺を乗せバイクは箱根を走る。
真っ白の海原と化した仙石原のススキ野原。
無人の博物館。
そして、煙を上げる大涌谷。
一日かけ、無人の、映画セットのような世界を回る。
終末世界に二人だけ。
そんな錯覚すら覚える。
大涌谷でリンコさんの見たと言う石碑はもちろん元からあったもので触っても何も起きず。
そして、夕刻。
宿へと戻る。
ソファに倒れ込んだまま一ミリも体を動かすことが出来ない。
世界が揺れている。
全身の水分が、吹き飛ばされた気がする。
「はい、お茶」
「……ありがとうございます……」
「どうだった?」
「毎日こんな事してるんですか?」
「まあ、仕事だからね。
でも今日で終わり。
日付が変わると同時に世界は一つに戻る。
そしたら君の身柄は警察に引き渡す。
お別れね」
「……お世話になりました」
もうこうなったからには成り行きに身を任せるしか無い。
様子を見て、逃げ出すことも考えよう。
だがそんな世界を引き裂く様に突然、音がした。
踵を打ち鳴らすややテンポの早い足音。
アンコさんが弾かれたように身構える。
いつの間にかその手に銃。
『大丈夫ー。お客さん』
上からリンコさんののんびりとした声。
「客って……どういう事?」
「私よ。
二人とも、黙ってクルマに乗って」
腕を組みながら現れた、長身の女性。
刈り上げた金の短髪。
白いレザーのスーツに網のストッキングとピンヒール。
室内に土足で上がり込む……ヤバそうな人。
アンコさんが、心底嫌そうに顔を歪めた。
その女性に命ぜられるまま、宿の外に停められた車に乗り込む。
小型車、フィアット。
狭い後部座席に俺が一人乗り、アンコさんが助手席へ。
女性が窮屈そうに運転席に座り、車は音もなく走り出す。
湖畔を走り、山道を登り建物の地下駐車場へ。
途中見た看板から推測するに、彫刻の森の近くの様だ。
「一体何なのですか?」
駐車場から建物に入るなりアンコさんが怒りを押し殺した声で言う。
この建物の中も音があるのか。
女性は、エレベーターのボタンを押しながら俺を一瞥。
「篁真嗣郎。
ヴェロス日本支部、装備部の本部長職に就いている。
よろしくね。
ようこそ。
ヴィロス自慢の箱根研修センターへ」
ハスキーボイスで自己紹介して、ニヤリと笑う篁氏。
……男だったのか。
直後、到着したエレベーターで三階へ。
無人の受付カウンターが見えた。
建物が斜面に沿って建っている関係で三階がグランドエントランスになっている様だ。
そこからエスカレーターで下へと下って行く。
「神託が下った」
「……は?」
先頭に立つの篁が振り返らずに告げる様に言った言葉に、一拍置いてアンコさんが訝しげな声を上げる。
「セフィロトの樹が現れる」
「え!?」
「四度目の人類の危機ね」
はい。わからない。
俺を置いてけぼりにして二人の会話は進む。
「マージは延期ですか?」
「そう。
作戦開始は明朝、夜明けより」
「戦力は?」
「正規の戦闘員は貴女一人。
喜んで。
装備部の新兵器で貴女は天使殺しの手柄を打ち立てるわ。おめでとう」
「……新兵器……ですか。
最初からそう言う計画ですか?」
「まさか。
わかってたら精鋭をあつめるわよ」
「ですよね。
……彼はここで保護ですか?」
「装備部のモットー、知ってる?」
「いいえ」
「馬鹿と鋏は使いよう」
篁氏は振り返り、俺を見てニヤリとする。
背筋が、ゾクリとした。




