静寂の芦ノ湖⑥
どれくらい座っていただろうか。
晩秋の空気にさらされていた体は、不思議とそれほど寒さを感じず。
そして、少し体が軽く。
……ああ、そうか。
周りから力を感じる。魔力を。
パワースポットたる所以か。
目を閉じ、心を静め瞑想。
静かな気配を感じ、ゆっくりと振り返る。
アンコさんが迎えに来たようだ。
俺が立ち上がると同時に来た方角を指差すアンコさん。
それに頷きを返し彼女の元へ。
彼女は手に持っていた物を俺に差し出す。
受け取るとふわっとした柔らかな感触。
折りたたまれたその布を広げると、俺の両腕より長い。
目の前でアンコにさんはそれを首に巻けと言うジェスチャーをする。
柔らかなマフラー。
言われた通りに首に巻いたそれは、消臭スプレーとは全く違う良い匂いがした。
「寒くないの?」
宿に入るなり、開口一番にアンコさんが眉間に皺を寄せながら問うてくる。
「それほどは。
ありがとうございました」
マフラーを外して返す。
「持ってなさい」
「え?」
「それより、ご飯。
食べるでしょ?」
そう言って彼女は一階の奥に設けられた、四人がけのダイニングテーブルが二つ置かれた小さな食堂へ。
テーブルの上には、レーションやレトルト食品がいくつも置かれて居た。
「好きなの食べていいから。
他の物が良ければ言って」
「はあ」
初めて目にするそれらを手に取り確認。
「ごめんね。
私、作戦中はこう言う食事で済ます事にしてるの」
「いえ、大丈夫です。
これとこれ、貰っていいですか?」
固形のバランス栄養食と、それからチョコレート。
それほどお腹は空いてないが、食べないのも不自然だろう。
椅子に座り、バランス栄養食を開ける。
「……フォボスって、強いですか?」
「そうね。
でも、訓練をして相手を知れば勝てない敵では無い。
まあ、この世界での話だけれど。
現実で立ち向かうのは無理ね」
「どうしてですか?」
「……君はどうしてか生身で紛れ込んでしまったけど、私は強化アニマだから」
はい。わからない。
強化アニマ。
リンコさんに教えてもらおうかな。
そう言えば米軍が壊滅したんだっけ?
と言う事は、通常兵器が効かないのだろうか。禍みたいなもんなのかもな。
「さて、私、お風呂入るけど、少しでも変な動きしたら……」
首を指でトントンとやって脅すアンコさん。
先ほどまでストールが巻かれていたその首にも同じものが。
つまり、戦闘員であれ監視の対象。
無人の町で狼藉を働くことは許されない。
そういう事なのだろうか。
残された俺はバランス栄養食を平らげ、二階へ。
大きめのベッドが置かれた客室。
頂いたチョコを荷物袋に放り込みベッドに体を投げ出す。
土日を含み、試験休みは九日間。
その一日目が終わる。
しかし、帰れるアテは無い。
動きも力も制限された。
枕を下にして考えるが、妙案など浮かぼう筈も無く……。
◆
『おはよー』
「おはようございます」
起きて一階へ下りると同時にリンコさんの声に迎えられる。
時間は昼前。
もはやおはようと言う時間では無いが。
『よく眠れた?』
「全然です」
物音一つしない静かな世界。
ベッドに体を横たえても全く眠る事は出来ず。
ようやく眠りについたのは明け方だろう。
『食堂にあるもの、好きに食べて良いよー』
「はい。
アンコさんは?」
『お仕事中』
「そうですか。
あの、外出ても良いですか?」
『駄目んぬ』
そうですか。
ため息一つ吐いて食堂へ。
生野菜が入ったコンビニのサンドイッチがあったのでそれを食べる。
やる事もなく暇になったので大浴場の掃除。
ブラシで床を擦り、湯船を洗う。
ここ、男女共同の風呂だったんだな。
アンコさんと混浴とか……流石にあり得ないか。
でも……折角の温泉なんだから……。
そんな事を考えながら、一泊二食の恩を返す。
ソファに座りリンコさんに問いかける。
「強化アニマって、何ですか?」
『すっごく簡単に説明すると、分身だね』
「分身?」
『そう。
GAIA世界で戦う為の。
こっちとは比べ物にならないほど強靭な』
「つまり、アンコさんは分身?
別の所にもアンコさんが居る?」
『肉体はこっちでコールドスリープになってるよ。
眠り姫は、王子様のキスを待ってまーす』
「なら、えっと……ファボスにやられても平気なんですか?」
『そんな事無いよー。
魂が傷付いたら、死んじゃう事だってあるんだから』
ふむ。
つまり、この世界は怪物と戦う為のコピー世界。
そこで戦うアンコさんもまたコピー。
だけれど、コピーのダメージは本体へと跳ね返る、と。
「……台所、使っても良いですか?」
『良いよ。
何か必要な物ある?』
「なら……」
◆
「おかえりなさい」
「ただいま」
「お風呂、張ってあります。
それとも、ご飯が良いですか?」
「……え?」
アンコさんを迎え入れた俺は、ショニンさながらの執事、あるいは主夫。
「ご飯?」
「簡単な物ですけど」
「……荷物、置いてくるわ」
そう言って彼女は三階へ。
その間に、パスタを茹でてソースを温めただけの晩御飯を食堂へ運ぶ。
お湯を入れるだけのスープもセット。
俺の限界。
「ありがとう」
だがそんな簡単な食事にアンコさんは嬉しそうな笑顔を浮かべ食べ始める。
その向かいで俺も。
「あの、少し遠出したいんですけど」
「観光?」
「ええ」
「どこ行きたいの?」
「大涌谷とか……」
「明日連れて行ってあげるわ」
「良いんですか?」
「ええ。ファボスの駆除は終わったから。
明日は、念のための見回り。
箱根を案内してあげるわ」
「ありがとうございます」
駆除は終わったのにこの世界は解除されないのか。
謎が多い。
「この後、出かけても良いですか?
散歩に」
「良いけど、何処へ?」
「箱根神社に」
俺の答えに、アンコさんは小さく首をかしげた。
◆
昨日と同じように湖畔の鳥居の下で瞑想をする。
落ち着く。
魔力を感じるせいだろうか。
静かに、だが、少しずつその力が体の中に流れ込んでくるのを感じる。
言霊が発せないので、術を繰り出せるわけではないのだけれど。
外から流れる力。
自分の中にある力。
瞑想の中でその境界が曖昧になる、そんな感覚を抱く。
自分の内にある術の扉、その前で静かに手を合わせ……。
人の気配を感じ、静かに目を開ける。
湖の上を、蛍に似た小さな弱々しい光が舞い、すぐに消える。
振り返るとアンコさんが迎えに来ていた。




