静寂の芦ノ湖⑤
窓から目を離しソファに戻るとテーブルの上に一冊のパンフレットが置かれていた。
地球にかかる太陽の写真。
その上に『Belos』と書かれた表紙。
ソファに腰を下ろし、一ページめくる。
見開きで様々な国旗がはためく写真。その脇に一文があった。
――世界を覆った悲しみを振り払い
――再び、安全で豊かな世界を取り戻すために
――私達は日夜戦い続けます。
――人類の英知は、必ず勝利すると約束します。
その下に目次。
次のページは戦場の写真。
煙のくすぶる瓦礫の山の奥に摩天楼。
――1999年7月。
――空からアンゴルモアが出現した日
――ニューヨーク
その横に年表。
そのページ以降、組織、活動内容とヴェロスと言う機関の紹介は続いていく。
要約すると、1999年7月に怪物群が出現し、ニューヨークを襲撃。
アメリカ陸海空軍による掃討作戦の末、その怪物群は撃退された。
ニューヨークを半ば焦土と化し。
その怪物群は後にフォボス(恐怖)と命名され、ニューヨークに現れた個体はアンゴルモアと言う名がつけられた。
その13年後、再びフォボスの襲撃が起こる。
今度は、世界各地で同時多発的に。
しかし、その被害を最小限に食い止めたのが、国連配下の特務機関ヴェロス。
彼らが用いたのはGAIAと呼ばれる一時的に世界を分断しフォボスをそちらに追い込むシステムとフォボスを殲滅するための特殊な武器、戦闘技術。
それ以降、断続的に現れるフォボスの対処を行っている。
なお、フォボスは数十種類が確認されており、その身体、能力的特徴から神話や物語になぞらえた名が与えられることが多いという。
映画のパンプレット……現実離れした内容にそんな感想を抱きながらページを捲る。
そして、最後のページ。
――特務機関ヴェロス 日本支部司令
――キョウコ・ミタテ
………………え?
見開きの半分にドヤ顔の……母親。
俺の。
え、ちょ、何してんの? この人。
いや、俺の親では無いのだが、俺のオカンだ。
何だ? この息子が赤面するようなドヤ顔は。
意味わかんね。
ちょっと、お前、専業主婦だろ!?
偉そうに何かを語っているであろう文面を冷静に読めるわけなどなく、そっとパンフレットを閉じ眉間を抑える。
……てことは、あれか?
この世界、俺も居るかもしれないのか?
下手にこのキョウコとの関係性を疑われると不味い。
名を口にしなくて良かった。
しかし……ここ、本当に別世界か。
誰かの設定が作り上げた物だとしたらキョウコ・ミタテなんて出てくるわけ無いものな……。
さっさと帰ろう!
その為には門を見つけねばならないのだけれど……。
眉間を抑えながら、気持ちの整理をつける。
『何か食べる?』
俺の気持ちが落ち着いた頃に、リンコさんの問いかけ。
正直、食欲などわかない。
俺は顔を上げ首を横に振る。
「すいません。ノートとペンを使いたいんですけど」
再びブンと言う音。
テーブルの上に、ヴェロスのロゴが描かれたノートとボールペンが出現。
『どぞー』
「ありがとうございます」
早速ノートを開き、石碑のイラストを描く。
「リンコさん」
『なにー?』
「どこかにこう言う石碑みたいなの、無いですか?」
『んー?』
書いたばかりのイラストをテーブルの上に広げる。
『……うーん……。石碑かー。
何個か見たかなー』
「どこですか!?」
『えっとねー。
箱根神社の近くと大涌谷。
でも、上から見ただけだけど』
箱根神社、大涌谷。
……地図が欲しいな。
室内を見回す。
カウンターの上に何冊か雑誌が置かれていた。
それをめくり、それぞれの場所を確認。
すぐそこの箱根神社から当たるか。
他に手掛かりは無いし。
「あの、どうしても外に行きたいんですけど」
『今はダメ。
アンコ帰ってきたら相談して』
「……はい」
ドローンが上から見張っていると言うことは抜け出してもすぐにバレるのか。
「アンコさんは何をしてるんですか?」
『今、丁度戦闘中だよ!』
「え!?
じゃ、俺と喋ってる場合じゃ無いですよね?」
オペレーターなのだから。
『大丈夫!
口以外はアンコに全力だから』
自信満々の声が返ってくる。
「口以外?」
『そう。
今回は無音世界だから、私の声はアンコに届かないんだよね。
残念!』
「無音世界?」
『うん。
出現するフォボスの特徴に合わせて、分離する世界も変化させてるの。
音の無い世界、光の無い世界、痛みの無い世界、とか』
……すげぇな。
異世界。
どう言う原理なんだろう。
聞いても多分理解出来ないだろうけど。
しかし、いくら大丈夫と言われても邪魔しては悪いので暫くは静かにしていようか。
その間に洗濯物を干そう。
ついでに、鎧とブーツと外套に消臭スプレー。
結局、アンコさんが戻ったのは日が暮れる前。
それまでの間、俺は大人しく観光ガイドを眺めていた訳で。
「どこか行って見たいとこでもある?」
テーブルの上に積まれたガイドブックを見て彼女が言う。
「箱根神社とか、大涌谷とかですかね。
外、行ってみても良いですか?」
「……17時過ぎたら良いわよ」
着ていたコートを脱ぎながら彼女が言う。
そして、そのまま上階へ。
「あ、二階に二部屋あるから好きな方で寝ていいわ。
三階には上がらないこと」
一度引き返し、そう言い残し再び上に。
17時まであと30分程。
箱根のグルメガイドを眺め、これ、全部閉まってんだろうなと我に返る。
時計は17時を示していた。
アンコさんが静かに階段を下りてくる。
今までずっとかけていたグラスを外したその顔はどこかで見たような気がした。
「どこへ行くの?」
「とりあえず、箱根神社へ」
「そう。わかってると思うけど、民家には入っちゃだめだからね」
「はい」
「それと、懐に忍ばせた刃物、ちょうだい」
「護身用ですよ」
「日が暮れたらもうフォボスは現れないわ」
へー。
昼しか動かない怪物か。
変な設定。
しかし、そう言われてしまっては反論の余地はない。
荷物袋からこっそりと懐に忍ばせたナイフをテーブルの上に置く。
「じゃ、行ってきます」
「遠くへ逃げたら強制で行動不能になるから気をつけてね」
「すぐそこまでですよ」
まるっきり信じてないな。
まあ、当然か。
浴衣の上に外套を羽織り玄関でサンダルを借りて外へ。
物音、一つしない。
日の落ちた町は真っ暗闇かと思ったが、街頭の明かりは現実と同じ様に灯り、人一人居ない世界を照らす。
むき出しの爪先に冬の寒さを感じながら、箱根神社へと向かう。
ほのかに爽やかな香り。消臭スプレーの。
赤い欄干の橋を渡り、緑の深い方へ。
敵は出ない、そう言われたけれど音のないこの世界で不意に近寄られたら全く分からない。
土産屋で木刀でも拝借しようか。
……それでビリっとやられてもなぁ……。
周囲の気配を最大限に探りながら歩みを進める。
……これか。リンコさんが言っていたのは。
神社へと向かう途中、道の脇に箱根神社の案内が書かれた看板。その脇に小さな石碑。
だが、それは門ではなく字が彫り込まれた記念碑。
ダメ元で触れるが、ひんやりとした感触が伝わってくるのみ。
だろうな。
わかっては居たけれど、少し気落ちする。
せっかくなので神社まで足を伸ばす。
暗い階段を上り、本殿で手を合わせる。
賽銭の持ち合わせは当然無かった。
階段を下り、そのまま進んで湖の畔へ。
湖面に浮かぶ鳥居の下に座る。
多分、大涌谷の方も外れだろうな。
そうしたらどうしようか。
つくづく大里の能力が羨ましい。
しかし、こんな広大な世界があるとは……。
いや、それも変な言い方だ。
元々世界は広大なのだ。
俺が見えて居なかっただけで。
人の居ない町に灯った明かりが湖面に反射するのを眺める。
静かだ。
そして、無力だ。




