老人⑤
宜しくお願いします。
アマネが主人のコートを取りに、玄関に向かってから、少しの時間が過ぎた。主人は、一人考える。自身のためにしてくれるアマネが他人であるとは、思えなくなっていた。だが、その理由付けは違う。自身のためにしてくれるから、他人とは、思えないのではない。その原因は、主人が優しさを少しでも思い出したことによって、気まぐれに名付けたアマネという名前のせいだ。
誰しも、名前をつけては愛着というものが湧く。それが、物言わぬ人形や愛情だけを示す動物でもそうなのだ。ならば、チューリングテストに合格し、人と見紛うほどに高性能に作られた愛らしい人形であるならば、愛着の大きさも人並みである。
そのような理由から主人は、自律思考型多目的駆動人形WL-19であるアマネに親心にも似た感情を有している。だから、主人は、完全無欠である生まれたばかりの彼女に教えられることを模索するように考え事に耽る。
全ては教えられない。主人の歳から行ってそう長く生きてはいけないだろうから、教えることを絞らなければならない。ならば、何を教えるべきなのだろうか。
アマネとの楽しいであろう日々を想像して、珍しく、そして、久方ぶりに笑みを漏らすのであった。
主人の考えが纏まらないままでいると部屋にノックの音が響く。『入れ』と主人がそのノックに対して返事をするとコートを取りに行ったアマネが立っていた。
「旦那様。コートをお持ちしました。」
「あぁ、すまないな。」
そのやり取りの後にアマネが主人の机にティーカップが置かれた。
「これは、なんじゃ?紅茶か?わしは、紅茶はあまり飲まんのじゃが?」
「はい。存じております。ですが、外へお散歩にするのであれば、こちらをお飲みになってからお出かけした方が良いと思考しました。」
主人の前に置かれたのは、ごく普通の紅茶であった。
「普通の紅茶か?」
「いいえ。普通の紅茶とは、言い難いです。これは、台所にありました、シッキムティーに裏山に自生しておりました。ミョウガタケを添えたものになります。」
ティーカップをよく見てみると、均等なしらが切りが沈んでいた。
「アマネは、返答に対した答えしか返してくれないのじゃな。これを飲んでどうなるんじゃ?」
「申し訳ございません。シッキムティーは甘い香りで渋みが少なくストレートで飲まれることが多い紅茶ですが、今回は、苦味が多いミョウガダケを加え、アクセントとしました。そして、ミョウガはショウガの近親種にあたり、冷え性などの改善に効果があります。また、風邪の予防にも効果があるため、血行が良くなり、朝の散歩に出られる前には適した飲み物になります。どうぞ、お飲みください。」
アマネが紅茶について説明をする。コートを取りに行ったにしては、随分と長い時間戻らなかったわけである。
「そうか。では、ありがたくいただこう。」
主人は、アマネが作った紅茶に舌鼓を打っているとアマネが主人に質問をする。
「日が昇ってから散歩に出られた方がよろしいのではないですか?」
「それでは、意味がないのじゃ。日が昇る前に山頂を目指すぞ!」
この屋敷は、山の中腹ほどにある館である。老人の足でも、山頂に登るのに30分とかからないだろう。そして、山の山頂には、小さいながらも鳥居が存在し、土地神を祀る祠がある。
主人が特製の紅茶を飲み終わると立ち上がり、アマネが持っているコートを羽織る。
「では、出発するか。」
「かしこまりました。」
両名がともに外に出る。
「今朝は、本当に寒いな。アマネが入れてくれた紅茶がなかったら、風邪でも引いていたかもしれんのう。」
「ありがとうございます。そう言っていただけると幸いでございます。」
館から山道に入るまで、時間がかからない。館の裏から山道に入る。山道には、街灯などない。今朝は、まだ暗いので、アマネが先頭を歩く。
アマネの指先には、光源が存在する。つまり、懐中電灯だ。高性能メイドロボットには、標準装備である。だが、この光源。体の製作者側からしたら、不評だった。なんといっても、その行為自体が、人間離れしているためだ。しかし、高性能メイドロボットには、必要であるという研究者側の意見を取り入れて渋々取り付けた経緯がある。
それでも、製作者は、妥協した方である。研究者からは、目から明かりが出るようにしてくれ。だとか、おでこを開閉式にして光りを出せばいいのではないかという者もいた。そう言った者がいる中で、製作者は、指先から光源を出すという回答に行き着いた。せめて、この可愛いメイドロボットが人間離れしないようにとのロボット愛がそうさせた。
アマネが主人の前を歩き、その歩みをリードしてくれることに安心感を得た。
「アマネは、ここに来る前にどこかで働いていたのか?」
何気ない会話。だが、この会話の一つ一つが自分を理解させる一助になっている。何かと関わることで生きていることを認識することが生き物であるならば、認識なしに生はない。それが、痛みや哀しみと言った負の感情であっても否定することではない。
「いえ、私は、ここが初めての職場となります。」
「では、生まれてからすぐにここに来たのか?」
「はい。この体を与えられたから、私がオークションで落札されて、お屋敷にくるまで、何もしてきませんでした。」
「人工知能なのだろ?知識とかはどうするのじゃ?」
「あらかじめ人間社会の習慣、慣習や教養などは、トップダウン方式のAIにインプットされておりました。ですので、特に新しいことを得ることをしようとしませんでした。生活面では、それだけで十分でしたので。」
「はっは、そうなのか。では、これから、新しいことをたくさん覚えなさい。たくさん学びなさい。たくさん感じなさい。その全てが、今のアマネとは、また違うところに導いてくれる。わしは、そう思っておる。」
老人は、アマネに一つ提案をする。
「アマネは、物を見て、考えたことをわしに報告することにせい。例えば、そこの木について、何か考えたか?」
「この木は、ヤマモモです。6月頃に果実が熟す木になります。ジャムなどがオススメです。そして、樹齢は、20年と3ヶ月27日になります。また…」
アマネの見当はずれの返答にすかさず、
「やめやめ。そうゆうことを言っておるんじゃない。そんな分析をわしは要求してはいない。」
アマネは、主人の不機嫌を感じ取り、謝罪を言う。
「謝るんじゃない。そうゆうことではないのじゃ。そうか。アマネは、知識だけが多くあるだけに、儂の予想を超えてくるな。」
主人は、アマネの言葉にため息をこぼさずにはいられなかった。先ほどの質問は、アマネの今の現状を理解するための質問である。前兆はあった。
主人は考える。アマネには、特段感情と言えるものがないのではないのかと。
主人は考える。アマネには、感情が…自我が目覚めることがあるのかと。
主人は、考えることをやめた。自分自身ですら、感情とは何かわからなかったためだ。いや、わかっている。だが、それを説明することがとても困難であることがわかった。主人は、自分自身のことを考えて、アマネも自分自身では、小さいながらにそれを有しているが、説明できないだけではないかと思った。だから、考えることをやめた。いつかそれが大きくなることを願った。
そのあと、目的地に着くまで、必要最低限の情報の共有しかなかった。
「旦那様…。およそ200メートル前方、目的地周辺です。お疲れさまでした。所要時間は、30分です。」
アマネは、よくロボットのように決められた文句を言う。それは、彼女がロボットであることをわからせるためであるのだが、人間として扱いたい主人にとって、それらの文句は不愉快の何物でもなかった。それは、アマネが紡いだ言葉ではないからだ。
というのも、アマネは、チューリングテストに合格している。合格するだけであるのなら、この時代以前のAIでもそれは可能なのだ。だが、アマネには、他とは違い、ヒトと見紛うほどに高性能、高感度の体が与えられている。この時代のAIも無機物の体は与えられてはいたが、ヒトと間違えるほどにはそれは精巧ではなかった。
アマネであるならば、ヒトに紛れてしまうと、それがロボット、ヒューマノイドであると判断することは難しい。それほどまでに精巧な体だ。
では、なぜ、アマネにだけ、それほどの体が与えられたのか。それは、至極簡単な理由である。アマネが完成されたAIであったから。
研究者の多くは、人工生命体を作りたいと考えていた。そして、アマネは完成されたAIである。ならば、人工生命体を作りたいと考える研究者の多くがアマネには、ヒトと間違えるほどの体を与えるべきであると提唱したのは言うまでもない。個体名アマネは、ハードウェアからアプローチした初めての完成された人工生命体でもあるのだ。であるから、可愛いとも美しいとも取れる容姿を与えられるに至った。
だが、それは、ロボットが性的なやり場にされてしまう恐れを内包している。端整に作られたヒトのようであり、それでいて従順なロボットでは、性行為をしようとするものが存在するのだ。これは、実際に、あった出来事である。ロボットの自己防衛など無意味。ロボットは、限られた条件下でしか、己を守れなかった。だから、この時代のロボットは、それほどまでヒトに似ていない。似せていない。ヒトとして求愛されることのないように、研究者は、アマネがロボットであるとヒトに理解させるため、あえて、ロボットのような言葉を言わせる。アマネを守ろうとする一つの手段である。
主人は、その理由がわかって不快を募らせていた。だが、それはアマネのせいではないので、何も言うことはない。
「アマネ、どうしてここにきたかわかるか?」
「申し訳ございません。私は、散歩であると思っておりました。目的は、散歩ではないのですか?」
「それも、一つの理由じゃな。儂には、三人の子供がおる。息子や娘は、いつも激しく夜泣きをするものじゃから、近所の迷惑になったのじゃ。だから、儂は、いつも子供をあやすところとして、見晴らしのいいところに来ていた。儂にとってこの太陽が昇るまでの時間は、懐かしい光景じゃ。」
「そうなのですか。」
アマネが主人の言葉に相槌を打つ。そして、主人は、東側にあるベンチに腰を下ろす。
今朝は、寒く空気が針のように鋭い。だが、その鋭さと比例するように、はるか遠くにあるはずの山が雪化粧の様子を見せる。
その様子を見て、主人は、白い息とともに言葉を続ける。
「そういったことがあったから、儂は、何かに悩んでいたり、考え事をする時よくここに来る。場所は違えども、目の前の山は、いつも変わらずそこにあった。山から出てくる太陽、そして、顕れる月。流れは、一緒でも何一つとして同じものはなかった。」
アマネは、主人と山々から小さく見える太陽とが重なっている様子をその後ろから見ていた。
「今朝の山は、空気が冷たく、澄んでいて、遠くまで良く見える。アマネが見ている世界は、いつもこんな光景か?」
「よく……わかりません。」
「はっはは。そうじゃろ。そうじゃろ。感情がないということは、今朝のように曇りがなく、鮮明に山が見えることだと思う。それは、素晴らしいことじゃ。何かに左右されたりせずに、山や太陽が見えるのは良い。じゃが…、儂は、それだけでは、退屈なのではないかと思うてもおる。いつも山が同じ光景では、儂は、ここにくることはないじゃろう。だから、生まれたばかりのアマネも今見ている光景にいつの日か飽きてしまう。他に違う光景があるとわかった時、それを知りたいと思うことじゃろう。」
アマネは、思考する、老人が言うことは理解している。ただ、正しくは理解してはいないのだが……。
アマネが演算し、導き出す光景は、一つしかない。他の選択肢は存在しないのだ。たった一つだけしかない答えにいつの日か飽きてしまうのではないかと主人は言っている。変化をもたらすことも必要なのではないかと言っている。
だが、今のアマネは、それは正しくないと判断を下す。正しい解答は、一つだけでいいのだ。複数の解答は、必要ない。迷うことのない自身が唯一無二の完成されたAIなのだ。惑わされることを許容することはできない。
自身の存在意義のためにアマネは、不必要なものを切り捨てる。切り捨てて、切り捨てて他に捨てるものがない身軽な状態がベストなのだ。彼女は、そう思考する。
主人の言葉は続く。
「いつの日か、その時はやってくる。アマネが拒もうが、拒まないが変わってゆくのだ。考えておくのだ、自分にとって優しい選択肢。そして、 願わくは、その時は、これから、このジジイと見る移ろいゆく山々、昇る太陽、顕れる月、舞い散る桜、押し寄せては返す木々の揺らめき、そして、幾度となく繰り返されたその時間の流れは、一つとして同じものではなかったのだと、思い出しくれることを。」
言い終えると主人と重なっていた太陽が主人から姿を現すのをアマネは見ていた。
アマネには、わからなかった。だから、主人の言葉をそのまま記録した。
旦那様のお話は難しいです。私にはわかりません。しゅん