老人④
宜しくお願いします。
主人の食欲は、旺盛だった。アマネが作り上げた料理を殆どすべて平らげていた。この不健康な老人がこの歳でも、きちんと一人暮らしをしている一端を垣間見た。長寿の秘訣とは、総じてよく食べることであるらしい。
主人が料理を食べ終わり、アマネが空いた食器を片付けるまでの一連の流れの間でも、主人とアマネのコミュニケーションは、行われていた。
「久しぶりに温度がある料理を食べた。冷めた料理を食べていては、心まで冷めていくようじゃな。そう思わせる。」
「あのスーパーは、特に食材の質がこの世界にて最低ランクのものでした。この地に人が少ないとしても、行政執行が行われる類のものです。グレーゾーン営業です。」
アマネが言及するが、主人は、彼女の言葉に思うところがあったのだろう。言葉を交わす。
「確かに値段は格段に安い。安いのには、理由があるのだ。あれほど安ければ、何かしらの不正があっても、おかしくはない。それは、誰しも思っておる。だが、それがどうした。この地には、買い物をする場所は、あそこしかない。あそこを取り締まっては、ここに住まう人たちは、生活に困ってしまう。困れば、犯罪に手を染めなくてはならないだろう。この地とは、そうゆう場所なのだ。」
主人が住んでいる土地は、都市部近郊からも外れている場所だ。この地に住む人は、自然を重んじ、自然のままに生活をする奇特な人たちばかりではない。世界人口爆発を二度繰り返し、人が溢れかえり、ごった返した世の中では、貧富の差が如実に現れた。強かなヒトは、そのヒト的弱肉強食の中、我先にと他者を蹴落としていった。そうすれば、相対的に自身に回ってくる取り分が多くなる。ヒトはそうして生きてゆく。
つまり、この地に住む者は、貧困層なのだ。都市部での人間社会で負けたヒトの成れの果て。社会の不要物。ここは、貧困層の中でも、最下層に位置する。だが、治安が悪いわけではない。もし、犯罪を起こしでもしたら、宇宙に108ある人工衛星監視カメラにすぐに見つかってしまう。見つかっては最後、どこで犯罪を行っていようとも、3分もしないうちに、取り押さえられてしまう。この世界は、そうゆう場所だ。
法は、絶対とは言わない。だが、この世界の法は、弱いヒトを減らす口実として最適だった。弱いヒトは、法には守られない。弱いヒトにとって、法は絶対となってしまった。
だからと言って、犯罪が皆無というわけではない。何かに困ったら、犯罪をするのは、いつの世も変わらない。それは、繰り返される世の常。
だからこそのあのスーパーなのだ。格安で食料が売られている。それが、この最底辺の土地で食事に困るものが少ないことの一つの要因だ。だが、それと比例して質は悪い。
「だから、黙認してやれ。これは、正しさではないが、優しさなのだ。正しさを武器にしたら、それは大義名分を得たと勘違いする。執拗に、必要以上に追求をしてしまうのが、人間なのじゃ。自分は、間違っていないだから、弱いヒトを責められると…。ヒトはそうしてヒトを減らしてきた。アマネは、そうゆうものにはなるな。」
「はい、承服いたしました。黙認いたします。」
ロボット三原則
一条:人間の危険、危害に対して、与えること、看過することをしてはならない。
ロボット三原則一条には、このような規定がある。だが、今アマネは、危険を看過した。アマネは、あのスーパーにある悪を正しく理解していた。あのスーパーを見過ごせば、多くの人が健康被害を被る。または、もう被っているだろう。
アマネは、それを理解して、黙認することを承服した。納得したのだ、主人の言葉に正しさは含まれていた。
あのスーパーを摘発対象と取り締まり機関に報告してしまえば、多くの人に健康被害よりも多くの危害を加えることになる。アマネは、自身にそう註釈することで、ロボット三原則一条を騙した。
当初のアマネは天秤にかけた。感情論などを無視して、法を犯すことと安定の生活を天秤にかけ、法律を犯すことが重いことであることと判断を下した。それは、彼女にとっては、コンプライアンスこそが最も重いのだ。当然の帰結。
だが、アマネは、目下の危害を看過して、危険を見過ごした。遠い未来の危険を推測して、予想して、演算した。今のアマネにとっては、最善の手段である。
しかし、アマネは、主人が言うように、優しさというモノがわからなかった。主人が何を言っているのか。わからなかったから、主人の言葉をそのまま記録した。
「アマネ、わしは寝る。5時くらいに起こしてくれ。」
主人が自然に頼み事をした。名付け親になってからの心境の変化だろう。
「かしこまりました。5時にまた起こしに参ります。これが終わりましたら、それまで、下駄箱の横で待機しておりますので、何なりとお申し付けください。」
「いや、下駄箱の横で待機していることはない。アマネの自由にしているといい。」
彼女は、作業する手を止めて、深々とお辞儀をした。
「それでは休む。」
「おやすみなさいませ、旦那さま。」
◇◆
アマネは、下駄箱の横で待機している。主人に自由にしていろと言われていたが、彼女にとって特段命令のない状態は、なんかしたいとは思わない。今回、主人のために何かできたということもあり、これ以上はアラーム以外の命令なしに何かしようとも思考していなかった。
彼女は、主人が決めた5時まで何もすることがなく、スリープモードで待機していた。
主人が起きる、10分前にアマネはスリープモードから再起動を開始する。規定の時間まで少しある。アマネは、主人の寝室の扉の前で待機する。
5,4,3,2,1秒前。
主人の寝室にノックの音が響く。廊下は、冬の頃合いで、空気は、ひんやりと冷気がはびこっている。その冷たい空気に針を刺したような音でアマネのノックは響いていた。
「旦那さま、ご指示がありました、5時になります。いかがなさいますか?スヌーズ機能をお使いになりますか?」
アマネの声が屋敷内に響き渡った。彼女の主人は、しっかりとした声で返答をする。
「あぁ、わかっている。部屋に入ってくれて構わない。」
主人の部屋は廊下とは違い、暖かい。アマネは、部屋に入る前に主人が起きていることを足音、鼓動の音、本のページをめくる音で把握していた。彼女は、主人が起きる10分前には主人の部屋を暖めておいたのだ。主人の指定した時間は、5時であったが、主人は目を覚ましたのは、4時13分のことだった。彼女は、主人が起きる時間をあらかじめ予想していた。それに合わせて、暖房を入れておいたのだ。主人が起きる頃には、部屋中が温まっているように計算した。ヒートショックを考慮に入れてのことだ。
だから、主人の目覚めは頗る良い。
主人の言葉通り、アマネは部屋に入る。
部屋に入ったアマネが見た主人は、普段着を着て、趣味の読書をしていた。アマネが、感知していた通りの光景である。
アマネは、あらかじめ用意していた。少量のコーヒーを主人に差し出した。
「今日は、大変寒いです。お身体を温めてください。」
「はっはは。気が利きすぎていて怖いな。」
「私は、旦那さまのことを一番に考えていますので。」
アマネが主人に深々とお辞儀をする。
「それは、嬉しい。今日は、出かけようと思う。何、少し散歩に出かけるだけじゃ。」
「かしこまりました。では、私は、待機しております。」
椅子に座り、窓を眺めていた主人は、アマネの方向に体を向ける。
「何を言っておるんじゃ。アマネも付いてくるのじゃぞ?」
「かしこまりました。いつ頃出発なさいますか?」
「今じゃ。朝食前に出かけるぞ。」
「では、外はまだ暗く、寒いので、コートをお持ちいたします。」
そう言って、主人の部屋からコートを取りに、玄関に向かうのであった。
宜しくお願い致します。