バケツ
「そろそろ昼休みが終わりそうだ。教室に戻ろう」
そう言って僕は立ち上がるとアヤに手を差し出す。アヤも手を出して、握る。よいしょと手を引っ張ってアヤを立ち上がらせた。
「ありがとう」
そういったアヤにほんの少し笑顔が浮かんだ。久しぶりの笑顔、それだけで気持ちがうれしくなる。
「いないと思ったらずいぶん仲良さそうにしてるじゃぁありませんか」
誰もいないはずの屋上で声がかけられる。振り返れば屋上の出口の近くに沖田大輔とその取り巻きたちが立っていた。手には何故かバケツを持っている。
「こんなところでコソコソしてるってことは昼休み中ずっとファックでもしてたんじゃねえのかい?」
そう言ったのは取り巻きその1の石田恭弥だ。
「そんなことするはずないだろう。はやく教室に戻ったらどうだ」
僕も吐き捨てるように言う。顔を赤らめる必要などない、無表情にいえば奴らも興味を失くすだろうかと思っていたが、今日はなかなか引き下がろうとはしなかった。
「自分のことは棚上げか? 学校中に時任とセックスしてたって広めてやろうか」
取り巻きその2の須藤豪の下品な物言いにムッとするがそこで、僕は気付いた。いつもなら被害を受けるのは僕だけで済む。けれども今隣にはアヤがいて巻き込んでしまう可能性があった。
「“時任”とは何もなかった。幼馴染だからたまたま話していただけだ。大体なんでお前たちはバケツなんか持ってるんだ? 教室の」
「ああ、これのことか」
そう言ってバケツを片手で胸の高さまで持ち上げたのは沖田大輔。ちらりとバケツに視線をやった後、再び僕を見据えている。その瞳の奥にはクジラを取り囲むサメのような、強者の余裕のようなものがある気がした。
この時点でろくなことが起きないと予感した。さりげなく横に歩いてアヤと距離をとる。
「なぁに、セン公に目をつけられてな、昼休み中ずっと掃除させられてたんだ」
「目をつけられる? なんでまたそんなことを? また何か悪事でも働いたのか?」
とぼけてはみるが、見当はついている。朝の机を逆さづりにしたと疑われたのだろう。2年から大輔達は度
を越したいたずらをするようになり、そのころから教師にも監視されるようになったのだから自業自得だろう。
「なにもやるわけないだろぉ? 俺たちは机を逆さに吊るし上げたわけでもないし、ロッカーを水浸しにしたこともないのによ。まったく容疑者に仕立て上げられるなんていい迷惑だぜ」
確信犯が。そういえば中間テスト前に僕のロッカーだけが水浸しにされていたことがあったが、やはり大輔たちの仕業だったか。
「それで。なぜ今バケツを持っている必要がある? 掃除が終わったならさっさと道具を戻せばいいだろう」
「まぁ、そう慌てるなって。俺らはな、お前にプレゼントを持ってきてやったんだ。」
「プレゼント?」
「今日は暑いだろう? お前も体を冷やしたいだろうと思ってな。受けとれぇぇぇぇ!」
そういって3人は手に持っていたバケツを思いっきりこちらへぶん投げてきた。よけようとしたが3つのバケツが同時だとすべて避けきることはできず1つに被弾してしまった。バケツの中身がぶちまけられる。中身はもちろん液体。水ではない。ひどく濁った灰色の何かだった。嫌なにおいがするが嗅ぎ覚えがある。掃除の時の雑巾を絞った水だろう。
沖田たちはゲラゲラと下卑たわらいを響かせていた。
しばらくは笑い声だけが響いていたが、我に返ったのかアヤが大輔達に食って掛かろうとする。
「あなたたち! いい加減にしなさいよ! シュ……」
「いいんだ。“時任”。早く教室に戻って」
僕よりもアヤのほうが激高している。今にも張り手をしそうなアヤを腕で制す。とりあえずアヤの制服には汚水はかかっていないようだった。よかった。
「でも……」
「いいから。」
短くアヤを諭すと渋々といった様子でアヤが歩き出す。3人をねめつけながらアヤは屋上を降りて行った。
「いいのか? 2人一緒にもどらなくて」
相も変わらず3人は高笑いを続けていた。
「いいんだよ。それよりもお前らもはやく教室戻れよ」
僕はあくまで淡々と彼らを諭す口調でそう言った。その方が相手に効くことを経験的にしっていたからだ。効果はもちろんあった。リーダー格の沖田がいらつきをみせる。
「チッ、帰るぞオメーら。 ったく気取りやがって、だからてめーはキメえんだよ!次はお前の“親しい人”も巻き添えを食うかもな、お前のせいで」
そう捨て台詞を吐いて彼らも帰っていった。僕は無言のままハンカチで汚水をふき取っていった。