自立の一歩目
はあ、はあ…はあ……はあ。
息切れが、動機が収まらない。キノは先ほど止めを刺したプレインカウの散り際に見てしまった瞳が頭から離れず、体もその影響から逃げられずにいた。
(くそっ。またかっ。またかよっ!)
辛さと、それを超えるいらだちと自恥の思いで心の中で自分に対して暴言を繰り返す。
「恐怖の壁」。いくらVRへの相性が存在するとはいえ、たかがゲーム。たかが一モンスター。たかが、獣ごときにここまでの恐怖を植え付けられてしまうという屈辱の念。心の中に渦巻く数多の黒く重い感情に身を任せていると、後ろで見ていたセシル、そしてカズがこちらに向かってくる。彼らは、恐らくキノの勝利を祝うだろう。だが、その事までもが今の彼にとってはただの追いうちにしか、なり得ないのであった。
「やったじゃんっ!無事に倒せたね!」
カウが爆散した一歩手前の位置に、右手に持った剣をだらりと倒し、地面を向き顔を垂らしているキノに、寄って来たセシルが満面の笑みで両手をパチンと合わせ、キノを祝福してくる。その瞳もきらきらと輝き、友の活躍を心底喜んでいる事を表していた。一歩遅れてきたカズもニカっと口端をあげ、こちらを見ている。二人には、キノの息切れも立ち姿もただ、戦いの後の消耗と余韻に見えていることなのだろう。だからこその祝福であって、その姿から、まさか最後の最後で「恐怖の壁」にぶち当たったのだとは予測できなくてもしょうがない。
二人の祝福に対しキノは、一瞬沈黙で返した。しかし、その後
「……うん。まあ、なんとかなったさ」
と数秒の沈黙の中で心情を無理に落ち着かせ、弱々しいが、確かに笑みを返した。
今回は、一瞬の交錯。故に前ほどの衝撃は襲わなかった。だが、それはキノの心身を疲労されるには十分すぎるものであったことには違いない。
「どうした?『恐怖の壁』は無かったよな?疲れたか?」
とカズが、首をかしげ、こちらを覗きこんでくる。惜しい、だが的中はしない心情分析。
「…まあ、そんなところだ。アドレナリンでもでてたのか、ドバーッと何かがこう押し寄せてきてな」
と手をひらひらと自分の方に振りつつ、引き寄せるジェスチャーをしつつ答えるキノ。「分かるぜぇ。ハードな戦いの後だとこうなんか押し寄せてくるんだよな」
「あの疲労感は、脱力的というか達成的というか……。まあ、良い感覚だよね」
とセシルもそれに同意し笑い、キノもつられて笑いだし、朗らかな雰囲気へと場は変わった。キノもあえてそのズレを指摘しようとは思わなかった。
「それじゃ、どんどん狩るかー」
とカズが、愛剣を抜きだし、空に突き上げた。セシルも腰に下げた杖を掲げ、そうだね、と一言呟きカズにならう。キノも持っていた剣を突き上げる。
「行きますか」
「「「おおっーーーー」」」
カズの音頭と共に三人の小さな合唱がフィールドに響いた。
その後1時間半ほどレべリングを行い、キノはレベル3へ、ほか二人はレベル5へなっていた。やはり、経験者二人の動きは効率的で、単純なレベリングにも初心者とは雲泥の差があった。
キノは、その心の裏の不安を無理に押しつぶし、戦闘を行った。三人はプリミアへ戻り、そこで解散となった。キノは、別れた後すぐにメニュー画面を操作し、ログアウトした。光が視界を包み、感覚が現実へと回帰しようとしている中で、今日味わった二重の心圧の負担を感じ、キノは一息ため息をこぼした。
***
目を開くと、頭に何か重いものが乗っている感覚と、半透明のディスプレイが視界を覆っている光景が飛び込んできた。手を少し浮かせ、指を開閉し、体の感覚を確かめると、覆いかぶさっているニューロニアを両手で外し、そっとベッドの上へと載せ、上半身を起こす。
一体何なんだろうな俺は…。
今日のモンスターとの戦闘を思い出し、改めてため息をこぼす。初めのプレインボア戦は言わずもがなだが、その後のプレインカウ戦も中々の負担だった。逃げ出さなかったのは、ただの友人に対する意地とプライド、ただ、それだけ。
「どうしようかなぁ。このままこのゲーム続けられるのかな」
そう一人で口に出しても、電気も消してあり、少し薄暗い自分だけしかいない自室に声など空しく響きわたるだけ。
「まあ、何とかレベル上げは出来るし、とりあえず何とかなるのかな」
もう一度誰の答えを期待するでも無い、自分への無駄な独白を行うと立ち上がり、一階の風呂場へと向かう。この夏の殺人的気候と、ゲーム内での体験の相乗効果で、着ていたシャツにはそれなりの量の汗が付着しており、心底気持ち悪い。
さっぱりして来よう……。そう思い、ドアへと歩を進める。
***
その日の木野家の夕食。七時ごろなのでまだ父・祐三は帰ってきていない。妹・美咲は今日友達と泊まるのだ、と言って家には帰ってこない。食卓に着くのは、兄・利哉、母・静子の二人であった。四角い木目調のダイニングテーブルに、両サイド二つずつ計四つ並べてある椅子には、今二人の人物が向かい合って座っていた。
母の年齢は39である。いわゆるアラフォー。だが、その和風美人、大和撫子的な落ち着いた雰囲気が醸し出す人に与える印象は、年齢をずっと若く見せるらしい。よく人に30代前半だと勘違いされる、というのは母がちらちらと会話の中で見せるちょっとした自慢だ。
実際、息子である自分の目から見ても、母の肩下あたりまで伸びている艶やかな黒髪やその優しそうな物腰、おっとりとした顔つきなど、世の同年代のお母様方と比べても美人であり、若々しいのは事実であると認められる。
そんな母から、受け継いだ俺の髪は、前に桜から誉められ羨ましがられた事もあり、良い髪らしい、それまではあまり気にしていなかったが、それを言われてから意識してみると、そんな気もしてきたので、今は少し髪の量が多めの髪形で日々を過ごしている。まあ、誰に話したことも無いのだけれども。
「どうしたの、利哉。そんなじろじろ私の顔見て。何かついてる?」
と箸をとめ、不思議そうな顔でこちらを見てくる母。
「ああ。いや、何もついてないよ。少し、ボーとしていただけ」
と内心少し焦りつつ返す。母親の顔を観察していたなど知られたくもない。照れ隠しに、茶碗を持ち、白米を一気に掻き込む。
「ごふっ。ぐふっ」
蒸せた。
「そんな、急いでがっつくから」
と母が、コップにお茶を入れ出してくれる。それをひったくり液体を口に流し、食材を胃へと押しこむ。ふーーっ。
「ごめんごめん」
「せっかちなんだから」
と手を唇に添え、くすくすと笑う母。
「そういえば、今日から夏休みね。今日とかずっと部屋にいたみたいだけど、何してたの?」
「ああ、母さんってRegnum World Onlineって知ってる?今話題のゲームなんだけど」
「何とかオンライン?んー。ああ知ってるわよ。最近コマーシャルたくさん流してるあれでしょ。新たな世界へようこそ、みたいな」
少し首を傾げ、思い出したかのように顔を上げた後、ぺらぺらと話し始めた母の顔をみて、俺もさらに言葉を添える。
「そうそう、それそれ。それが、和馬の伝手で手に入ってさ。やってたんだよ」
「あら。あれ人気で手に入らないとかじゃなかったっけ?」
「あいつん家の親が関連会社に勤めてるらしくてさ」
思いがけないゲームの話題だったが、母と二人で囲む食卓は、以外にも花を咲かせ、美味しい料理をつつき合いつつ、時は流れて行った。夕食も食べ終わり、片付けるわね、と言って立ち上がって母にならい、食器を台所に運び、洗い物を手伝う。終わると、俺は部屋へと戻っていった。時計を見ると9時を指していた。
(やることも特に無いんだよな。)
とベッドに寝転がりぼんやりと、天井を見ていると、ふとキラッと光が金属に反射しているのが飛び込んできて、横にあるニューロニアの存在を思い出させた。
「やるか」
頭に一抹の不安が過ぎったりもしたが、それに負けるのも癪であり、気持ちを振り払い、そう呟くと、頭にニューロニアをセットし、本日二度目の仮想世界へと足を踏み入れた。
「ダイブッオンッ」
***
脳内を覆っていた白い感覚が、だんだんと色付いてゆきキノの意識は数時間ぶりに仮想世界へと舞い戻ってきた。感覚の回帰に伴って、人々の昼間よりもより一層騒がしい喧騒が伝わってくる。今は夜の9時。いくら夏休みとはいえ、それは学生のみに当てはまる事。一般人にとって、ゲームに打ち込める時間は夜であり、そんな彼らが一堂に会することの出来るこれから夜中にかけての時間帯は、最もプレイ人口が膨れ上がる時である。そんな訳で、さらに人であふれているプリミアのメインストリートであった。
(人多いな。やっぱりオンラインゲームは夜がメインの時間帯なんだな。人ごみで進めないほどでは無いとはいえ、詰まってるなぁ。ってか、大分広い通りだったんだな)
ざっと、辺りを見回してそんな感想を漏らすキノ。その光景は彼に以前行った事のある都会の人ごみを思い出させていた。彼が、立っているのはプリミアの十字状の大通りの交差点に存在する噴水の前である。街中でのセーブ後のリスタート地点は、どうやらここであるらしい。とはいえ、ここにいたままでは通行の邪魔になるので、そそくさと噴水に近寄りその縁の白い大理石のような所に腰掛ける。そこで一息つくと、右手を振りメニュー画面を出し、画面をスクロールさせていった。
(さてと、レベルも上がったし色々いじってみますか。装備も変えてなかったし)
キノはそう思い、項目を色々と見ていく、まず武器の確認から、アイテムの確認、そしてSPの確認だ。
(武器は、さっき使っていた初期装備の剣と、同じく初期装備のメイスが一本ずつ。防具は無しか…。この麻みたいな服防御力無かったのか。アイテムはカズ達からもらった薬草が2つと、プレインカウのドロップ品が、少々。そして所持SPは3か……。確認はしたけど、何すればいいのか分からないな。まず、スキルか?)
メニューを見回し終わり、今はスキル項目の〈獲得可能スキル一覧〉という所は試しに見回している。キャラクターメイキングをした際、頭の中には多少の計画が出来上がっていたが、改めて見回してみると色々と迷いがこみ上げてきているようだ。
(スキルもこれしかポイント無いよな…。まだ、焦って振らなくても良いか…。それじゃ、とりあえず装備?ってか、お金の工面か。カウのドロップ品でも売ればある程度何とかなるかな)
SPの事はとりあえず置いておく事にし、ドロップ品を売るために正面に伸びている大通りのNPCショップへと向かうため立ち上がり、歩きだしてゆく。行き交う人の流れに沿い、店沿いに歩き続けていく。NPCショップは、どこかは分からなかったがその内に「道具屋」という、看板が見えたのでそこに立ち寄る。看板は、薬草の絵が描かれていてその回りを囲う様に、何やら金の塗装で文字が書かれている。そんな看板の下、木製のカウンターを挟んだ向かい側に頭に白い三角布を巻き、髪を止めている太った中年の女性NPCが立っている。まさに、田舎の優しいおばさんといった風貌だ。
「アイテムを売りたいんですけど」
「売却ね。分かったよ」
すると、手元に所持アイテムの一覧ウィンドウが現われ、どのアイテムを売るのか、名前の横にチェック欄と売却価格を示す。予定通り、プレインカウのドロップ品を売ろうと選択しようとした時だった
「そこの白髪の兄ちゃん、ちょっと良いかい?」
若者らしき男の声が背中から聞こえてきた。
***