月世界へのラブレター1
秋の面影が消えつつあり、冬の吐息が聞こえ始めている。俺はストーブの準備をしながら、ふと窓の外を眺めた。灰色にくすんだガラスの向こうの世界。荒廃した世界にさえも、冬は来る。俺は消えつつある秋を探すため、視線をそっと動かした。
まるで、深夜のテレビを見ているような空。砂嵐だ。俺は一瞬だが、とても恐ろしい想像をしてしまう。このまま世界は冬に向かい、そしてずっと冬のままだと。何も動かない、静寂の世界。雪が全ての音を吸収し、頼りない、そして驚くほど大きくて真っ赤な太陽が、その最後の核反応を成し遂げる。
俺は首を大きく横に振り、そんな妄想を振り払うと、ガス管をストーブへとつなげる。
「優恵、今何時だ?」ストーブの点火コックを何度も回しながら、俺は優恵に訊ねた。ガスが十分に供給されていないのか、なかなかストーブが点かない。
「んぅ? えっと…」今まで俺に背を向けていた優恵は、大きく上体を反らすと時計へ目をやった。
「ちくしょ、ああ、点いた」俺は、ようやく点いたストーブを見つめる。
「六時ちょっと前ですよ? あ、ラジオつけていいかな?」優恵は手に持っていた筒状のもの、と、えらく長い紐状のものを床に置き立ち上がった。
「ラジオって、どっちの?」俺はその紐状のものの先端に触れた。ゆうに五、六メートルはある。
「普通のです。この時間、音楽番組があるの」
俺が首を縦に振ると、優恵は嬉しそうに卓上のラジオのスイッチを入れた。真空管式のラジオなので、なかなか音が出ない。ゆっくりと明るくなりつつある赤いパイロットランプを見つめながら、優恵は再び床にペタリと座り込むと、筒状のものを手に握り作業を再開した。
ノイズの向こうから流れる、やや古くさくて、そして淡く切ないメロディ。優恵はリズムに合わせてフサフサの尻尾を上下に振り、床をトントンと叩いている。
「ところで優恵。何してるんだ?」俺のそんな質問に、優恵は手を動かしながらこちらを見つめ、首を傾げる。
「何って、リリアンですよ? ほら」優恵はそう言うと、筒状のものから垂れ下がる紐状のものを得意げに持ち上げた。
「え、ええええええ!!? これ、リリアンなのか? てっきり、なにかの儀式かと思った…」
リリアンなんて、いくら長く作っても実用性は皆無だろう。だが、俺はその点を突っ込むのはやめにした。そんなことを言っても優恵がむくれるだけだし、それに趣味って言うものは、そもそも無駄なものほど楽しい。
「すごいでしょー? リリアンは得意なんです。後輩には、私のことをリリアンの師匠と仰いでいる人もいるんだから」優恵は、尻尾でリズムを取りながら満面の笑みを浮かべる。
「師匠ねえ」俺は鼻から大きく息を吐くと、時計に目をやる。あと少ししたら、アンテナの調整をしないと。
俺はしばらくの間、ぼうっと灯るストーブの焔を見つめた。さきほど想像した、終わる世界の太陽。ストーブの焔は、その太陽によく似ている。
「拓人さん、今日の月からの放送は、いつも通りですよね?」優恵がラジオのボリュームを絞り、リリアンを箱に閉まった。
「ああ、そうだ。七時からの放送のはずだよ。昨日受信したラジオファクシミリにそうあったはずだ」俺は立ち上がると、乱雑な工作机の上に置かれた受信機の横から、一枚の紙を取り出した。定期的に月基地から送信されるニュースレターを、通信衛星経由で受信したものだ。
「わわわ、ならそろそろ準備しないと! 拓人さんも、ほら!!」優恵は、ぱっと立ち上がると制服のスカートのしわを直し、てきぱきと行動を開始する。
「わかっているって」俺は受信機の電源を入れると、側の窓を大きく開けた。かなり冷たい風が、一気に部屋を満たす。俺は鼻をすすりながら、同軸ケーブルを窓の外からたぐり寄せ、受信機に繋ぐ。
「くちゅんっ!さむーい」優恵はくしゃみをすると、大きな耳を震わせ自分の肩を抱きながらお茶の準備を始めた。
俺たちは今、毎週金曜に一度だけ放送される『月基地からのラジオ放送』を受信する準備をしていた。この放送は、月基地に居住する日本人クルーが行っており、金曜の放送は日本を対象に日本語で行われていた。無論、普通のラジオとは違い、特殊な受信機でないと受信できない。なぜなら、ある程度、周波数が高い電波を用いないと、電離層が邪魔をして地球まで放送が届かないのだ。
そのため、うちのように受信機がある場所には人々が集まる。今では放送の時刻に合わせて、俺の家には近所の住人が十人近く集まるのだ。もっとも優恵がいるから、隣人を招き入れようなんて思ったに違いない。俺が一人で暮らしていたら、きっとそんなことを思いつくことは無かっただろう。
俺は素足でベランダへ立つと、コンピュータで求めた月軌道の予測位置に合わせ、大型の指向性アンテナを動かした。月に方向が合うと、テスト用の単調な発信音がノイズとともに受信機から流れ出す。今こうして方向を合わせても、これは受信系統のチェックになるというだけで、放送時には再びアンテナの位置を修正しなければならない。月は動くからだ。これが意外と面倒なので、いつか赤道儀と組み合わせ自動追尾するシステムを作ってやろう、なんて思っているのだが。
「それにしても、結構寒いぞ?」俺は窓から手を出し、アンテナのくくりつけられた支柱を動かしながら、部屋に吹き込んでくる冷たい風に顔をしかめた。かなり大きい支柱を手で回すため、渾身の力を込める必要がある。それで汗をかいて、アンテナの移動が終われば、風によって身体が冷やされてしまう。
俺はアンテナの設置が終わるとジャンプをするようにして部屋へ戻り、そそくさと窓を閉めた。暖かい室内に目を向けると、既に優恵がコーヒーカップやらお菓子やらを用意していた。
*
今日のラジオ聴取会も盛況だ。準備が終わるやいなや、続々と近所の住人が訪れる。ほとんどの人が差し入れを持ってくるため、今やテーブルの上には様々な食べ物が置かれている。
「今、コーヒーを煎れますね」優恵は嬉しそうに鼻歌を歌いながら、大きめのコーヒーメーカー(こんな事態になったので、俺が自腹で買ったやつだ)にコーヒーの粉を入れる。
「こんばんは。やあ、今日もすごい人だな」白いビニール袋を掲げた、近所に住む情報屋のラウルが玄関先で感嘆の声を上げる。
「ああ、上がってくれ」俺がそう言うと、ラウルは奥さんと一人娘とともに敷居をまたいだ。このラウルという男、ドイツ系なのだが日本生まれのため、文化的背景は完全な日本人だ。政府の進めた移民政策の結果、そんな人々は多くいたが、好物が納豆だということを聞いたときは笑ってしまった。
「お邪魔します」ラウルの奥さんの香織さんと、一人娘の佐紀ちゃんがお辞儀をしながら部屋に入ってくる。
「優恵ちゃん、申し訳ないんだけど紅茶は無いかしらね?」ラウルたちが居間に上がると同時に、このマンションの一階に住む一ノ瀬のおばさんが、優恵に紅茶を催促した。
「あ、ありますよー。今、用意しますね」優恵は微笑みながら、ティーパックをカップに入れるとお湯を注いだ。ちなみにコーヒーや紅茶それにカップなどは、ラジオを聞きに来た人たちが持ち寄っている。
「あら、ありがとう。優恵ちゃん、本当に気が利くわね。如月さんも、こんなにできた彼女を手に入れるなんて、羨ましいわねー」一ノ瀬さんが優恵をねっとりとした視線で見つめてから、俺の脇を軽く肘で叩く。俺は飲みかけのコーヒーを思い切り吐き出した。
「か、かかか、彼女ですか、かかか?」優恵が、ボンっと音を出し頭から湯気を上げる。そして、そのままカップにお湯を注ぎ続けて…
「あ、あちちちち!」優恵はカップをテーブルに置くと、慌てて流しへ向かった。
「あら、悪いことしちゃった。大丈夫?」一ノ瀬さんはテーブルにカップを受け取りながら、流しへ向かった。俺も一緒に向かう。
「優恵、大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。手にお湯がかかったわけじゃなくて、カップが熱かっただけですから」優恵はそう言うと、水道の蛇口を閉め、タオルで手を拭う。
突然、ざわついていた居間が静かになる。どうやら、月からの電波を受信し始めたらしい。一ノ瀬さんは優恵に謝ると、そわそわしながら居間へと向かった。無論、俺たちも向かう。
単調な発信音が途切れてから数十秒後、月基地からの放送であることを知らせるインターバルが流れた。そして、若干耳障りなノイズを載せながら、フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンがかかりだす。まだ少しざわついていた室内が、完全に沈黙した。皆、期待の表情を浮かべながら、受信機のスピーカーを見つめる。別にテレビではないのだから、見つめても仕方が無いのだが、なぜか見つめてしまうのだ。
『今週も、この声は地球に届いていますか。何せ通信手段が限られているから、たまにしかリクエストなんて来やしないので、少し不安になります』やや素人臭い口上で、月基地に住む日本人クルー鏑木博視が話し始める。放送の内容は、鏑木が選んだ曲と月基地の近況。と言っても、すでに基地には鏑木しかいないので、無人温室がどうの、月に設置したレーザ干渉計がどうの、と言ったどうでも良い話題しか無い。でも、何故だかそれがなかなか面白く、皆、毎週の放送を楽しみにしている。
それに、たまにだが政府の回線を使って、リクエストやメッセージが基地に届くことがある。だが噂によると、そのリクエストの倍率は数千倍らしい。
『まあ、番組の最初から愚痴を言ってしまいましたが、今回は何とリクエストが届いています。二週間ぶりですね。ええと、メッセージも一緒に来ています。「鏑木さん、こんばんは…」』鏑木がメッセージを読み始めると、俺の隣で優恵が奇妙な声を上げる。
「あわわわわわ、もしかして…」優恵が耳を上下させながら、そわそわ。
「おい、優恵もリクエストを出したのか?」
「う、うん、二か月ぐらい前だけど…」
そんな優恵の言葉に、息をのむ聴取者たち。
『「…というわけで、鏑木さんは今、何が一番したいですか?」 Y市の神無月優恵さんからのお手紙です。うーん、そうですねえ、自宅に帰ってのんびりしたいかな…」鏑木が話を続けるのにも関わらず、皆が驚きの声を上げながら、優恵を見つめる。
「あわわわわ、よ、読まれちゃいました!」優恵はおろおろしながらも、顔を上気させ喜んでいる。俺はそんな彼女の様子を、穏やかな気持ちで見つめた。優恵は喜怒哀楽を表現する時、どうしても一枚の薄い膜を隔てて行ってしまう場合がある。とくに、見知らぬ人がいる場所では、その傾向はかなり強い。でも、今の彼女の笑顔は、本物だ。
メッセージが読まれた後、優恵がリクエストしたパッヘルベルのカノンが流れ始めた。名曲だな。
「すごいじゃないか、優恵ちゃん」コーヒーのおかわりを注ぎながら、ラウルが優恵に笑いかける。優恵は微笑みながら、無言でコクコクと何度も頷いた。
遠い空の向こうから降り注ぐ、カノンの旋律。わずかな空電ノイズが、その旋律に切なさのような震えをあたえ、しばし皆、黙って曲に聞き入る、曲が終わり、再び鏑木の声が聞こえた。
『パッヘルベルのカノン、名曲です。こういう曲なら基地のストックにあるから、非常に助かります。ところで、今日は皆さんにお伝えしたいことがあります。私はもう、長い間一人でいるわけですが…』
曲が終わり、再び聞こえ始めたささやき声が、そんな鏑木の言葉で一斉に静まる。皆、どことなく顔を緊張させ、受信機を見つめた。漠然とした不安。皆が感じていることを、一言で表すとそうなる。すでに基地のクルーは、鏑木のみ。もとは七人いたクルーが、もう一人だけ。他の六人は地球に帰って来たのではない。皆、病死か自殺だった。
鏑木の発する言葉に、皆が一斉に耳を傾ける。優恵の表情から、今までの微笑みが消えた。
『ここ数日、原因不明の動悸と胸苦しさがあります。基地の医療ユニットが故障しているため、診断がうまくいきません。グランドベースに無線で協力を要請しましたが、決まりきって「もう少し待ってくれ」との返事。まあ、待つのは慣れてますが。自衛軍の規律手帳も、最初から最後まで「待機する」事に対する内容ばかりだし。ええと、確か一ページ目にあるのは「上官が待てと言えば、自分が葬式に出されても待つこと」だったかな』
鏑木は、最後に嫌みを込めたジョークとも取れるような発言をする。だが、彼のかすれた笑い後により、さらに悲壮感は増してしまう。
『こりゃ、いけない。こんな下らない話をするんじゃなかった。じゃあ、お別れは明るいナンバーでもかけながら。では、また来週のこの時間に。あ、そうだ、忘れていた。リクエストをくれた神無月さんには、グランドベース、多分クリスマス島の日本基地からノベルティが送られます…』
鏑木は最後に次回の放送周波数と日時を告げると、古くさいポップスをかけた。既に、彼の声は聞こえない。
「鏑木さん、どうしたのかな?」優恵の不安に押しつぶされるような声が、部屋に響く。ノベルティなんて、もうどうでも良いとでも言いたそうに。
「精神的なストレスから来る症状かもしれない。だが、とにかく彼には医者が必要だ」俺の言葉に、皆が頷く。
「でも…」受信機の前に陣取っていた、一人の男、確か同じマンションの住人だ、が声を上げる。
「彼、自殺なんてしないだろうな…?」
俺は一瞬顔をこわばらせたが、無理に筋肉の強張りを解くと、ため息をつきながら笑った。
「大丈夫ですよ。彼は、今まで頑張って来たんだ。でも、できるだけ早く地球に帰って来てもらった方が良いかもしれない。放送は終わっちゃうけどね」俺がおどけたように両手を広げると、皆の呪縛が解け、再び話し声が聞こえ始めた。
次々にお礼を言いながら帰って行く隣人たち。彼らは笑っているが、どこか先ほど感じた不安を打ち消そうと必死になっているような気がする。
「じゃあ、また来週な」ラウルが俺の肩を叩き、ウィンクしてからニッと笑った。彼の奥さんと娘さんがお辞儀をし、部屋から去って行った。
「ああ、またな。皆さんも、よかったらまた来て下さい」俺が少し大きめの声で言うと、帰り支度をすませた者たちが、声を上げてお礼を言う。
優恵と俺は、最後の一人が帰るまで、玄関で彼らを見送った。