三時間後くらい
「溶かしたのはいいが、どうやってお湯からチョコレートだけを取り出せばいいんだ?」
「どうして完成品のチョコレートを溶かしたの……?」
「それが伝統だからだ。一度溶かしたものを固めるだけで、それは手作りの品として成立するらしい」
「それって、詐欺になるんじゃないかしら」
「俺もそんな気がするぞ」
「ならやめてよ」
「クッキーには卵黄だけを使っていた気がするぞ」
「ですが卵黄だけ使って卵白を捨ててしまうのは勿体ないですね。卵白もよく解かして使いましょう」
「そうだな。卵白が余っていても困るだけだ」
「クッキーの生地って、卵白を混ぜても大丈夫だったかしら……」
「よく分からんが、卵白があると熱で固まりやすくなるんじゃないのか? クッキーの材料になら、混ぜても問題ない気がするぞ」
「混ぜたら問題があるから、わざわざ分けてるんじゃないの?」
「大丈夫です。卵の白身なんていう味のしない食材など、あっても無くても大して変わりません」
「うーん……」
「おかしいな。生地が全然膨らんでないぞ。膨らまずに、そのまま焦げた」
「パンの生地のように熟成させる必要があったのかもしれません」
「なるほど。冷蔵庫でじっくり冷す必要があったのか」
「そうなのかな……」
「パンもクッキーも小麦粉でできているのだから、きっと似たようなものです」
ユウヤ特製のオーブンの前でぱちんと指を鳴らすユウヤと、ふふんと得意げに鼻を鳴らすウィースの二人を見て、不安げに成り行きを見守っていたブラウの顔つきはいっそう複雑なものへと変わる。もしかしたら奇跡が起きているのかもしれないと、オーブンから取り出された黒コゲを一口だけほおばってみるが、砂を食っているのではないかと錯覚するような食感と舌を焼く苦みに、たまらず口元を押さえて台所で蹲ってしまった。
お菓子作りを始めた当初は、食事の時に出てくるユウヤの手料理が美味しいのだからと油断していた。だがいざ蓋をあけてみれば黒コゲが飛び出してきた。料理に関して独特の感性を発揮し、これまでに斬新な料理の数々を披露してくれたユウヤも、お菓子づくりについては門外漢らしい。ついでに、軟禁生活の長かったウィースについては、ある意味予想通りである。
捨てるのもなんとなく忍びなく思ったブラウは、四分の三ほど残っている小麦粉の死骸をそっとポケットに詰め込んだ。あとで騎士寮の庭にでも埋葬してやろう。
「材料を混ぜて捏ねて冷やして焼くだけなのですから、そうそう失敗するとは思えないのですが」
「ふくらますには重曹を使うのが鉄板だが、このあたりでは見たことも無いぞ」
「よくわからないけど、計量をしっかりやらないと駄目なんじゃないかな?」
「そうなのか? 俺はいつも目分量でやってるが、それでどうにかなってるぞ」
「ひょっとしたら、砂糖菓子は乙女心と同様に繊細なのかもしれません。繊細な生き物が食べる繊細な食べ物であるがゆえに、繊細な工程を経なければ形にならないような気がします」
「面倒だな。なんでもフライパンひとつで片付く中華料理が最強に見える」
思案顔でウィースがもっともらしいことを言うのを、ユウヤがつまらなそうに返した。
「確かにユウヤの料理は美味しいけど……大雑把なクオリティなのよね。味が濃かったり、塩が効きすぎだったり、グリューンの皿にだけ肉が無かったり、品質が一定じゃないって言うのかしら。それだから、上手にクッキーが焼けないのかも――ほら、クッキーってどれをとっても同じ味でしょう?」
「そうかもしれんな……」
ここぞとばかりにブラウがまくしたてると、ユウヤは若干しょげながらも彼女の言葉に同意した。
ちなみにユウヤがグリューンの皿に肉を乗せないのには、ちゃんとした理由がある。グリューンの草食動物のごときヘタレ具合をからかうためだ。なので、グリューンが晴れてブラウとくっついたときには、彼の皿にも一切れだけ肉を配膳してやろうと計画している。
このことは戦友の誰も知らない、ユウヤだけの秘密である。
「俺のあやふやなレシピの記憶を頼りに作り続けても意味が無い、な……ここは専門家に指示を請うのが妥当か? となると、王宮の料理人の手を借りるのが手っ取り早そうだな……」
「でも王宮の料理人だって、暇じゃないでしょ? なんの連絡も無しに訪ねたって、迷惑がられるだけよ」
ブラウの忠告を聞い散るのか聞いていないのか、ユウヤはうなじを掻きながらボソボソ呟く。
「……どうせ思考誘導と改組編入でバレンタインデーの知識を流布させるつもりだったしな、そっちから先に……」
呟きに不穏な言葉が混じっていることに、ブラウの口元がひきつる。
王都から遠く離れた村の出身であるブラウは、理術についてはその存在しか知らなかったために、旅の最中にユウヤが行使していた理術について何の疑問を抱いていなかった。だが、自分が王宮に騎士として召し抱えられるようになってからは、いかにユウヤが常識から外れた理術師であるかという事を思い知らされることになった。
たった今ユウヤがこぼしていた精神改変の理術とは、理術師がまず初めに学ぶべき基本的な事項である。そして人の精神を第三者が操れてしまうと言う点が、理術師は国の許可や他理術師複数名からの推薦を得た者でなければなれない主たる原因にもなっている。加えて、仮に精神を操るとしても、その手の理術は一対一でしか実行できないはずだ。
本来はツテが無ければスタートラインに立つことすらできない理術を、それも前代未聞の規模で行使してしまうこの男は、何者なのだろうか。
「バレンタインデーの起源は、たしか聖バレンティヌスが処刑された日だったよな……どうして殉教者の命日が、想い人にチョコレートを渡す日になったんだ?」
「ユウヤの故郷の文化は本当に不思議ですね。こちらで広めるにはもっと分かりやすく『女の子の日』と命名してはどうですか? 恋する乙女が一年で一番の勇気を出す素敵な日です」
「バレンタインデー以上に気まずい一日になるじゃないか。却下」
それでも、彼とウィースが仲の良い兄妹の様にじゃれ合っているところを見ていると、彼の本質が悪人だとは思えなくなってくる。ユウヤ本人も己の境遇について語るつもりがないようだし、あえて自分も踏み込むまい。今でこそ真っ当な人生を歩んでいるものの、グリューンとユウヤの旅の途中で合流した自分やウィースは、それなりに壮絶な過去を経験している。きっとユウヤにも語りたくない過去があるのだろう。
いまだ微妙に計りかねているユウヤとの距離感に、ついもどかしさを覚えてしまう。
「想い人に砂糖菓子を渡すことそのものは不自然じゃないんだがな。そもそものイベントのきっかけが曖昧だ……誰だよ、バレンティヌスって。なんだよ、バレンタインデーって」
「ユウヤも知らないなら、適当に私たちでバレンティヌスさんの歴史をでっち上げてしまいましょう。偶像崇拝というものはゼロからでも始められます。ユウヤの理術魔法をつかって都中の住民に刷り込んでしまえば、あっというまに恋する乙女の味方バレンティヌスさんの完成です」
「……実際のバレンタインデーも、こういう経緯をたどったんだろうな」
ぱちこんぱちこんと意気込んでいるウィースを、ユウヤは遠い目で見つめてから腕組みした。
「安易に刷り込みを発動してそこいらの理術師に感知されたら、俺の立場がヤバくなるしな。慎重にやるには、それっぽいシナリオと背景、流布のための期間が必要になる……。うむ、やはり俺はさっさと裏方に回ったほうがいいっぽいな」
ユウヤがそう一人で納得するなり、居間の隅に据えつけてある引き出し付きの机に座り込んだ。
「というわけで、俺は俺で出来ることをすることになった。というか、そもそも男の俺がチョコチップクッキーを焼いていたのがおかしかったんだ。申し訳ないが、菓子作りは専門家に師事してくれ」
「ちょっと、ユウヤ……?」
「砂糖は無料。カカオマスとバターの代金は後日請求。小麦粉は使いすぎないようにな」
と、せせこましくユウヤ宅の台所の使用料の内訳を告げたユウヤはそれっきり台所を去り、居間にある机でなにやらを弄りだした。
瞬く間に自分の世界に飛んで行ったユウヤに、ブラウは反射的に手を伸ばしかける。しかしよく考えたらユウヤの言う通り、台所に彼が居ても役に立ちそうにない。
上着の右ポケットに安置されている小麦粉の焼死体を忍びつつ、となりで正しいチョコレートの溶かし方の究明に成功したウィースに目をやる。
「ブラウ姉さん、やりました。焦がすことも無く、チョコレートだけを溶かすことが出来ました!」
「やったじゃない!」
口元に溶けたチョコレートをくっつかせて満足げにニヤつくウィースのあどけない姿に、放棄しかけていた思考を再び手繰り寄せて、これからの自分の行動の指針をたてる。
自分の職権を乱用して王宮の厨房に乱入するのが良いだろうか……?
「慈悲と断罪の聖女たる私の手にかかればこの程度のこと、造作もありません。さあ、この溶けたチョコレートを再び固めましょう」
だがその筋書きもボールを片手にえっへんと胸を張る少女を前に、キレイさっぱり霧散する。
彼女はなんとしてでも自作のお菓子をユウヤに振舞いたいのだろう。いつになく真剣な面持ちで手を拱いている。この子と一緒の台所で調理したい。ブラウはウィースの青く輝く銀色の髪を優しく撫でる。
だが残念なことに、訳アリの聖女であるウィースを人目につく場所へと安易に連れて行くことはできない。自分だけが王宮の職人たちの手を直接借りるという手はとれなさそうだ。
「手順を紙に書いてもらえば、ここで作れるかな……?」
「しかしどうやって固めればいいのでしょうか。このままではドーム状に固まってしまいます」
「ユウヤがいればメモに多少難しい表現があっても大丈夫だし、足りない道具があれば買い足せばいいかな」
「あっ、あっ、駄目です。その形に固まってはいけません」
「……よし!」
「良くないです。あっ、ブラウ姉さん……!?」
「ちょっと出かけてくる」
鍋とボールを両手に抱えてあたふたしているウィースからボールをひったくり、固まりかけていたチョコレートを丸ごとスプーンで掬い上げて口に含む。油分が分離したのだろうか、口の中がべたつくものの、ブラウはさっさと身支度を整えて外出の用意をした。
「駄目です、ウィースはユウヤのものです。いくらブラウ姉さんと言っても、これだけは譲れません!」
「そんなことしないわよ。今から王宮の厨房に行ってクッキーとかの作り方を聞きに行くだけだから。こういうときには便利よね、騎士の権限って」
「……そうだったんですか? 安心しました」
ほっと胸をなでおろすウィースを抱きしめたくなるものの、ここで過剰なスキンシップをしてしまうとウィースが自分を慕ってくれなくなるおそれがある。
「わたしの妹になるのはいつでも歓迎だけどね? ――それじゃあ、行ってくるから」
「はい。行ってらっしゃい、ブラウさん」
「ええ、行ってき……えっ?」
ウィースの台詞によそよそしさがあったような気がしたが、深く考えても傷ついてしまいそうだったので、自分は聞かなかったのだと言い聞かせることにして玄関を出た。
外はまだまだ木枯らしの吹く、冷たい冬だった。