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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 乱世の若者たち
99/161

七   丈夫国生明郷・樹神真璃 片想い

 音が聞こえる。

 小さくかすかに、ほとほと、と。

 あれは蝶がはねを羽ばたかせて虫(かご)の中を飛び回り、竹ひごの柵にぶつかる音。

 意識しなければ気にしないでいられるのに、一度音を捉えるとずっと耳についてしまう。すぐそこにいることを、痛いほど感じてしまう。

 樹神こだま真璃(まり)は小さくため息をつき、書見台の上の本から目を離して、そうっと肩ごしにうしろを見た。

 長櫃ながびつの上に、繊細な細工が施された美しい虫籠がある。漆塗りの足台も、整然と並ぶ細い細い竹ひごも、持ち手にわえられた青い絹の組み紐もとても優美だ。

 その中に、二頭の蝶が入っている。

 片方は黄色、もう片方は白。どちらも翅に黒い筋模様と斑点がある。

 きれいな色。きれいな模様。

 これらが前庭に植えられた花の上をひらひらと舞っていて、それを遠くから見るだけなら、さほど抵抗なくその美を愛でることもできるだろう。

 だが部屋の中で、すぐ身近にいて音を立てていると思うと――。

 ああ、いや

 真璃はぶるっと身震いして、書見台のほうに向き直った。

 なんとかもう一度本に集中しようとするが、やはり背後ばかり気になって文字を追うことができない。いくつもの羽音が部屋じゅうに響きわたっている気がする。

 ほとほと。ほとほと。ほとほと。

 頭がおかしくなりそう――。

 真璃は顔を伏せ、両耳を手のひらでふさいだ。もう聞こえないはずなのに、なぜか耳の中でまだあの音が鳴っている。

 真璃は本を読む時にはひとりきりになりたいたちで、侍女たちはそれをよく知っているから、呼ばれるまで部屋へは近づかない。普段ならその配慮はありがたいが、いまは彼女らが必要だった。

 他愛のないおしゃべりが。立ち居に伴う衣擦きぬずれの音が。あのかすかな翅音を――かき消してくれるものが。

 もう駄目、誰か呼ばなければ。そう思って顔を上げたところへ、障子の向こうから声がした。

「姫さま」

 侍女(がしら)喜玖きくだった。おっとり優しくて、六十二歳とは思えない可愛らしい声。この声を聞くと、いつも気持ちがなごむ。

俊紀としのり(ぎみ)がおいでになります」

 ほっとゆるみかけたところへ、思いがけないしらせをもたらされ、真璃はたちまち彫像のように身を固くした。

 許婚いいなずけの来訪にいちいち緊張する必要などないはずだが、もう四年も同じ城の中で暮らしているのに、未だに彼の前では落ち着きをなくしてしまう。

「部屋を――」

 片づけてと頼もうとしたが、そうする前にもう黒葛つづら俊紀は部屋の前まで来てしまったようだった。

「入ってもよろしいか」

 涼やかな声がして、すっと障子が開かれた。「どうぞ」と応える間もない。

 俊紀は優雅な身ごなしで室内に入ると、真璃の向かいに腰を下ろした。

 今日の彼は、間近い春を予感させるような明るい出で立ちをしている。白、裏柳うらやなぎ浅葱あさぎ、濃淡の異なる三色の紅色で織り出した繊細な縞模様の小袖。遠目には淡い桃色の色無地いろむじにも見える。

 若い彼だからこそ着こなせる、洒落しゃれのある色合いだ。

 よくお似合いだわ――と、真璃は少し上目づかいにうっとり見つめながら思った。彼の品よく整った容姿を、衣装がさらに引き立てている。

 俊紀はゆったりとくつろいで座り、真璃に一瞬だけ視線を留めたあと、部屋の中をさりなく見回した。その目が、彼女の背後の虫籠にふと止まる。

「おや、蝶がいる」

 彼が口を開き、これからふたりで会話をしなければならないのだと思うと、また緊張感が戻ってきた。

 黙っていては駄目。何か言わなくては。

「はい。あの……今朝方、喜多きたさまがお届けくださいました」

「母上が?」

「お庭で見つけられたそうです。令月れいげつに入ったばかりで、春はまだ遠いのに珍しいからと。これまでにも、喜多さまからは何度か虫をいただいております」

「おせっかいだなあ」

 俊紀があきれたように言って嘆息する。

「わたしのところにも、何かというと虫籠を持ってくるんですよ。自分がそうだから、虫をもらうと誰でも喜ぶと思っているんです。真璃どのは、昆虫はお好きなんですか」

 さあ、困った。

 ほんとうのことを言うべきかしら。それとも、喜多さまのご好意をありがたく思っているふりをすべき?

 本音を言えば虫は嫌いだった。ただの嫌いではない、大嫌いだ。おぞましい。

 見た目に美しいものも、そうでないものもすべて同じで、とにかく小さいころから昆虫には辛抱がならなかった。近くを飛んだり歩き回ったりされると怖気おぞけ立ち、万一肌に触れようものなら悲鳴を上げずにはいられない。

 虫の鳴き声も、動くときに立てる音もいやだ。かさこそ。ほとほと。

 暑くもないのに、肌にうっすら汗が浮いてきた。

 沈黙が長くなりすぎている。早く答えなくては。でも、どう言えば角が立たずにすむかしら。

「姫さまは――」横でお茶の支度をしていた喜玖が、穏やかに微笑みながら助け船を出してくれた。「お小さいころから、たいそう虫を怖がられるお子でございました」

「なんだ」

 俊紀が快活に笑う。

「だったら、我慢して置いていることはない。わたしは母が虫を持ってきたら、いつも〝いらない〟とはっきり言ってやるし、強引に置いていったらすぐに捨ててしまいます」

「まあ」

「あなたもそうなさい。母は呑気なたちだから、その程度のことは気にしないし、すぐに忘れて別の虫を持ってきます。そうしたら、また捨ててやればいい」

 あっけらかんと、少し残酷なことを言う。冷たいようにも感じるが、彼のそういうところにも、真璃はなんとなく惹かれずにはいられない。

 俊紀は身軽に立ち上がると、長櫃に近寄って虫籠を持ち上げた。そのまま隣室への襖を開け、控えていた侍女に無造作に手渡す。

「庭へでも放してしまえ」

 短く命じて元の場所に座った彼の前に、喜玖がすっとお茶を出した。

「籠はよい細工だから取っておいて、何か飼われてはいかがですか。メジロかウグイスでも」

 呆然と見ていた真璃は、はっと我に返って急いで頭を下げた。

「ありがとうございます」

 俊紀はもう虫への興味をなくした様子で、今度は真璃の前に置かれている――片づけておきたかった――書見台に目をやった。

「あなたは本を読むんですか」

 少し驚いているようで、賞賛の口調ではない。女が学文がくもんをすることを快く思わない男も多いが、彼もそうなのだろうか。真璃は気詰まりに感じながら、小さな声で言った。

「はい。わたくし……好きなのです。書物からいろいろなことを学ぶのが」

 いけない。こんな言い方では、堅苦しい女だと思われてしまう。

「でも、難しいものばかり読んでいるわけではありません。物語の古写本や、絵双紙も大好きです」

 弁解するようにつけ加えながら、真璃はさっきまで読んでいた兵学書をさり気なく閉じて表紙を裏にした。

「ふうん」

 俊紀は話を振りはしたものの、たいして関心はなさそうな様子だ。

「どうりで、あまり外に出てこられないわけだ。城内でめったにお姿を見かけないので、いつも閉じこもって何をされているのかと思っていたんですよ」

 それは事実だった。たまに庭へ出ることはあるが、御殿の中を歩き回ることはほとんどしない。というのも生明あざみ城の構造は複雑怪奇で、あちこちに行き止まりや隠し戸、可動式の壁などがあり、注意していないとすぐ道に迷ってしまうのだ。

 加えて、御殿奧にいる黒葛家中(かちゅう)の女衆の前では気後れするというのもある。友達と呼べるような人もまだいないので、たまに勇気を出して立ち交じってみても身の置き所なく感じることのほうが多かった。

 彼女たちはみな慇懃いんぎんで真璃には親切だが、いつもどこかよそよそしい。十二歳で城へ来たころには誰もが温かく接してくれていたが、ここ二年ほどは明らかに少し距離を置かれている。

 そうなった原因はわかっていた。寂しくないと言えば嘘になるが、どうしようもないことだとも思う。

 だが、そんなことを俊紀に話すつもりはなかった。

「俊紀さまは普段、どんなことをなさっておられるのですか」

 自分が引きこもりがちだという話題から離れたくて、真璃はお茶をすすっている俊紀に問いかけた。

「わたしがたしなむのは音曲や書画、あと鷹狩りですね。芝居や角力すもうを観るのも好きですよ。近ごろは陶芸にも興味があって、いずれ北のほうにある登り窯を見学に行きたいと思っています」

「まあ、多趣味でいらっしゃるのですね」

 真璃が感心すると、彼はちょっと微笑んでみせてから小さく嘆息した。

「趣味のことばかりしていられればいいのですが――」ふっと表情を曇らせる。「生明家の跡取りとしては、そうもいきません」

 それから彼は少し居住まいを正し、真面目な顔をして真璃を見た。

「じつは今日は、そういうお話をしに来たんです。父の意向により、次の戦で初陣を飾ることになりました」

 はっと息を呑み、真璃は膝の上で両手を強く握り合わせた。

「そ、それは、おめでとう……ございます」

 で、いいのだろうか。言ったあとで気がかりになって横目に喜玖のほうを窺うと、彼女はかすかにうなずいてくれた。

「ま、建前としてはおめでたいと言うべきですがね」

 俊紀は肩をすくめ、またお茶をひと口飲んだ。

「わたしは気が進まないんです」

「そう――なのですか」

戦場いくさばに出るなんて真っ平ですよ。寒くて汚くて、一刻も気を抜けないほど右も左も危険だらけで。話に聞くだけでもぞっとするのに、わざわざ行きたいと思うわけがありません」

「はい」

「まったく、貴之たかゆきのせいで、とんだとばっちりだ」

 彼がぽつりともらした名前に、真璃の胸がひときわ強く鼓動を打った

七草さえくさの、おいとこの貴之さま?」

「ええ」

 俊紀は苦い顔をして、初陣が決まった経緯を話してくれた。

 七草黒葛家の嫡男である黒葛貴之が、この春行われることになっている江州こうしゅう決戦に加わりたいと願い出たのが事の発端だという。彼は十四歳でまだ元服げんぷくも済ませていないが、いくさ働きをして家の役に立ちたいという思いがことのほか強いらしい。

 周囲には反対する声もなくはなかったが、父親の黒葛貴昭(たかあき)は熟慮の末、息子を初めての戦場へ出すことに決めた。だが自分の陣ではなく、兄である黒葛寛貴(ひろたか)の陣中に預ける体裁を取るという。

「そうなると、まさか父の跡取り息子で、貴之よりも年長のわたしが城に居残るわけにいかないじゃないですか」

 俊紀はいかにも不満げだった。

「〝では俊紀ともども在陣し、戦の有り様を間近で見て学ぶがよい〟――と、父の鶴の一声でわたしも初陣することになってしまったんです」

 お気の毒にと言うべきか。彼の心情をおもんぱかるに、おめでとうよりはそちらのほうがしっくりきそうだ。

「いつ、ご出立しゅったつなさるのですか」

「月が変わって桃月とうげつに入ったらすぐ」

 ひと月後――真璃はそこはかとない不安をおぼえながら、声に出さずにつぶやいた。

「当初、江州決戦は梅月ばいげつにという話だったんですが、予定が早まりました。貴之の叔父の石動いするぎ博武(ひろたけ)率いる立州りっしゅう天翔(てんしょう)隊が、百武ひゃくたけ周辺に残っていた四つの城砦のうち、もう三つまで片づけてしまったそうなんです。まさに破竹の勢いというやつですよ」

「すごい……」

「残るひとつも、今月半ばまでには落とせる見通しとか。三州さんしゅう天翔隊と連携作戦を行うようだから、たぶんうまくいくでしょう」

 今はどの国の軍備いくさぞなえにも天翔隊が組み込まれているが、その中でも立州の部隊の強さは別格なのだと聞いている。さむらい大将の石動博武という人は先鋭な思考の持ち主で、この十年ほどのあいだにさまざまな改革を行い、天翔隊の機能を劇的に進化させたらしい。

 真璃は子供のころから天翔隊に興味があったので、俊紀の話を聞きながら胸が躍るのを感じた。もっといろいろ教えて欲しいが、熱のない口ぶりから察するに、彼のほうはそれほど関心を抱いてはいないようだ。

「――と、そういうわけで、わたしはしばらく城へは帰れないだろうから、あなたも心づもりをしておいてください」

 これで話は終わりというように簡単にまとめて、俊紀は早くも腰を上げる素振そぶりを見せた。

「は、はい。お戻りになられるまで、朝夕に武運長久をお祈りいたします」

 あわてて言った真璃に、俊紀が意味深な眼差しを投げる。

「ええ。しっかり祈っていてください。前回のような――ほら、敗戦目前の守笹貫かみささぬき家が不可解な増援を得て巻き返した――あんなことが、また起こらないようにね」

 捨て台詞のように言って、彼は来た時と同じく、さっさと部屋を出ていった。


 深く平伏して足音が遠ざかるのを待ち、やがてそれが消えてしまうと、真璃まりは顔を上げて大きく息をついた。

 帯で覆われた腰のあたりや、額の髪の生え際付近に、じっとり脂汗がにじんでいる。自分で感じる以上に緊張していたようだ。

 それと察したように、喜玖きくが湯冷ましを茶碗に汲んで出してくれた。ほどよい冷たさで喉に心地いい。

「今日はたくさんお話しができて、ようございましたね」

「そうね」

 手の中で茶碗をいじりながら相槌を打つ。

「わたし……ちゃんと話せていたかしら。おかしなことを言って、俊紀としのりさまをあきれさせてしまったかもしれないわ」

「なにをおっしゃいます。若君も楽しげになさっておられて、たいそう睦まじいご様子でございましたよ」

「それならいいのだけれど。あのかたのおそばにいると、どうしても――気持ちが張り詰めてしまって」

「まれに見る素敵な殿方でございますものねえ。気品がおありで、お顔立ちやお姿もほんとうにお美しくて」

 目を細めながら言ってから、喜玖は口元を袖で隠してくすくす笑った。

「まあ姫さま、若君のことを思い出されただけで赤いお顔に」

「嘘よ」

 否定はしたが、事実だとわかっている。意識すると、頬がさらに熱くなった。

「わたしね、ずっと不安に……思っているの。俊紀さまのようなかたに、わたしは相応ふさわしくないのではと」

「とんでもない」

 自分が侮辱されたかのように憤然として、喜玖は強い口調で言った。

「緒名家のどこを見ても、姫さまより俊紀(ぎみ)に相応しい姫君などおられません」

「そうかしら」

「そうですとも。姫さまは黒葛つづら家にも劣らぬ高貴の出で、誰よりも愛らしく、お美しく、情け深く、またご聡明でもあられます。名家の奥方となるに足る資質は、すべて備えておいでなのですよ」

 そう言われて嬉しかったが、喜玖の言葉をそのまま鵜呑うのみにすることはできない。赤子のころからいつも傍にいて、自分の孫のように愛育してくれた彼女は、真璃に対する思い入れが強すぎて欠点が目に映らないのだ。

 聳城国たかしろのくにでいちばん可愛くてお利口な姫君と事あるごとに褒め称えられ、小さいころはそれを素直に信じていたが、もう大人なのだから正しく自己評価するよう努めなければならない。

 家柄のみを見るなら、たしかに真璃以上の貴種はこの生明あざみ城にはいないだろう。だが美しさや華やかさという点では、俊紀を取り巻く女性たちの誰にも遠く及ばない気がする。たくさん本を読んでいるから知識だけは豊富だが、それを使って人をらさない気のいた会話ができるわけでもない。

 真璃が客観的に見た自分は、ただ生まれがいいだけの、地味で臆病で頭でっかちな娘だった。家同士の盟約を抜きに出会ったとしたら、おそらく俊紀から妻にと求められることはなかったに違いない。

 それでも縁あって結ばれるのなら、いつかは彼にこの妻でよかったと思われるようになりたかった。

「ねえ喜玖、俊紀さまが最後におっしゃったこと――あなたも聞いていたでしょう」

「はい」

「今度の江州こうしゅう決戦が二年前と同じく不首尾に終わるようなことがあったら、わたしは破談になって永州えいしゅうへ戻されてしまうのではないかしら」

 あの捨て台詞には、はっきりと皮肉が混じっていた。

 黒葛家は過去十二年にわたって守笹貫かみあさぬき家と戦い、その間に三度、目前で勝利を掴み損ねている。絶体絶命の窮地に追い込むたびに、守笹貫家が奇跡的ともいえる兵力増強を図って息を吹き返したからだ。

 彼らがそんな離れわざをなし得たのは、真璃の実家の樹神こだま家と裏取引をして莫大な戦費を手に入れたからだ――と黒葛家の人々は思っている。誰も口に出して言いはしないが、疑っているのは間違いない。

 そして真璃も、それが真相だろうとひそかに思っていた。

 父の樹神有政(ありまさ)は極力武力にはらず、交渉と駆け引きで他家と渡り合おうとする人だ。

 樹神家としては南部の勢力争いに一枚噛みたいが、合戦に巻き込まれたくはないし、決着がついた時に敗者側にいて損をしたくもない。となると、黒葛家と守笹貫家の双方に便宜を図り、恩を売っておくのが得策だと考えるだろう。

 それに加えて、黒葛家とは長年にわたり領土争いを繰り返してきた宿敵同士なので、同盟を結びこそしたものの、今もまだ割り切れない気持ちを残しているのかもしれない。

「俊紀さまは樹神家やお父さまや、わたしを……よく思っていらっしゃらないわ。黒葛家のほかのかたがたも」

「そのようでございますねえ」

 喜玖はおっとりと肯定し、悪びれた様子もなく微笑んだ。

「惜しいところで幾度も勝ちを逃した原因が当家にあると考え、わだかまりを抱いておられるのでしょうね」

「実際、そうでしょう? 守笹貫家が負けそうで負けないのは、お父さまが資金面で支えているからでしょう」

 返答はないが、喜玖もそう思っているのは目を見ればわかった。

「わたしね、知っているの。お父さまのところへ定期的に、あちらの家から使いが来ていること」

 たいていは年に二度、春と秋に。

 来るのはいつも同じ人だった。背が高くて、痩せていて、死人のように青白い男。

 真璃は小さいころ初めて彼を見た時に、乳母から聞いたお話の中の〝死を告げにくる妖怪あやかし〟だと思って怯えたものだった。

 べそをかいて母の由莉ゆりに「こわい」と訴えると、母は彼女を優しく膝に抱き、ちっとも怖くないわと言ってなだめてくれた。あのかたは守笹貫道房(みちふさ)さまのご家来なのよ――と。

「表向きは守笹貫家とのつき合いはないように見せているけど、昔からお父さまは道房公と取り引きをされていたんだわ」

「姫さまは、ほんとうにさとくていらっしゃる」

 誇らしげに言って、喜玖は愛らしい老顔をほころばせた。

「御屋形さまは、お家のために必要なことをなさっておられるのでしょう」

「でも、このままでは、わたしは俊紀さまの妻にしていただけないかも」

 言葉にすると、ぐっと胸が詰まった。

「実家へ戻されるのはいや。子供のころからずっと、あのかたにとつぐ日を夢見ていたのだもの」

「では――お父さまに、そうお願いなさいませ」

 喜玖は低く囁き、真璃の手にそっと自分の手を重ねた。

「是が非でも俊紀君の妻になりたい、とお伝えするのです。黒葛家と守笹貫家を天秤にかけるのはおやめになり、もうこのあたりでお心をお決めくださいと」

「聞き入れてくださるかしら」

「もちろんですとも。いちばん可愛がっておられる姫君のお願いを、無下むげに断ったりなどなさるはずがございません」

 重く暗い不安の中に、ちらりと希望の光が差したように思えた。

「わたし、お父さまにおふみを書くわ。お母さまにも」

 そうすれば、母はきっと口添えをしてくれるだろう。

すずり箱をお願い」

「はい」

 頼むまでもなく、喜玖はもう支度を始めている。蒔絵まきえの施された硯箱や巻紙などを真璃の前に並べながら、彼女は感慨深げに言った。

「姫さまはそんなにも、俊紀(ぎみ)のことをお慕いしていらしたのですね」

「そうよ」片想いのようなものだけれど、と胸の中でつぶやく。

「わたくしはてっきり、七草の貴之たかゆき君のほうがお好きなのかと」

 どきりとした。

「まあ、どうしてそんな……ことを言うの」

「出会われた日からずっと、折に触れてはあの若さまのことを思い出されていたようでしたから。それに、先達せんだっ郡楽ごうら城でお目にかかった時のご様子からしても――」

「やめて」

 火が出そうなほど顔が熱くなるのを感じながらさえぎると、喜玖は楽しげにころころと笑った。

「お若いのに折り目正しく、それでいて少しも気取ったところのないおかたでございましたねえ。俊紀君が色鮮やかな牡丹なら、貴之君はさながら清々しい青竹――とでもいったような」

 上手なたとえだと感心しながら、真璃は郡楽で再会した黒葛貴之を思い浮かべていた。

 きらきらと輝いていた大きな瞳。もうだいぶ大人びかけている顔つきは、きりりとしていて凛々しいが、笑うと急に可愛らしくなる。

 物言いは飾り気がなくさばさばとして、少し彼女をじさせるような鋭さがありながらも、立ち居振る舞いは一貫して優しく丁寧だった。

 硬いばかりではなく、やわらかいだけでもなく、その釣り合いが取れている彼は、しなやかで折れない竹にたしかに似ていると思う。

「ここのお庭で、初めてお会いした時にね――」

 真璃は硯箱の蓋を開けながら、囁くように言った。

「俊紀さまと間違えてご挨拶をしたら、貴之さまはこうおっしゃったの。〝いとこなので、似ているんです。まぎらわしくて申し訳ない〟って。その時のあのかたのお声やお顔つきが温かくて、明るくて……あまりに眩しかったから、心に焼きついてしまったのよ」

 好きとか恋しているとか、たぶんそういうことではないのだろう。許婚いいなずけである俊紀への想いともまた違う。

 その気持ちに敢えて名づけるとしたら、憧れ――なのかもしれない。

 真璃は彼に自分の理想を重ねており、もし男に産まれていたならあんなふうになりたかったと思うのだ。

「俊紀さまの妻になったら、貴之さまや七草さえくさのかたがたとはご親戚として、いいおつき合いをしていきたいわ」

 硯のおかに水滴を落とし、ゆっくり墨をすりながらつぶやくと、横でそれを見守る喜玖が優しい笑みを浮かべた。

「何もかも姫さまのお望み通りになるよう、わたくしも願っております」

「まずはお父さまに、わたしの思いを知っていただかなくては」

 二通の手紙を書き上げるのに、半刻あまりかかった。父への手紙は真面目に、甘えすぎず、しっかりと丁寧な文面で。母への手紙は少しくだけて。

「今日じゅうに、日紫喜ひしきのお城へ使いを出してね」

「承りました」

 託した手紙と入れ替わりに、喜玖がれたばかりの煎茶と餅菓子を出してくれた。少し疲れを感じていたので、菓子の甘さが心身にしみ入るように思える。

 ほっとひと息ついたところで、気になっていたことを思い出した。

佐恵さえ

 声をかけると、隣室との仕切りのふすまがすうっと開いた。永州から伴ってきた、幼なじみでもある侍女の佐恵が敷居際に控えている。

「はい、姫さま」

「先ほどの虫(かご)だけど……もう蝶を放してしまった?」

「いいえ、まだ中におります」

「よかった」間に合った。

 生明家の跡取りである俊紀は、この城で何を言い、どんな振る舞いをしようともめったにとがめ立てされないだろうが、真璃は彼とは立場が違う。それぐらいのことはわきまえていた。

 いずれ義母ははとなる人との関係に、虫がどうのといったつまらないことで細瑕きずを生じさせてはならない。

「蝶はそのままにして、誰かに世話をさせて」

「下女の多香たかが、これまでの虫と同様にお世話をいたします」

 万事心得ているといった様子で佐恵が請け合う。

「あ、でも――」

 これぐらいは許されるだろうと思いながら、真璃は急いでつけ加えた。

「籠はここへ戻さずに、そちらのお部屋に置いておいてね」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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