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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 乱世の若者たち
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五   別役国小浦方郷・青藍 新しい名前

 内宮ないぐう衛士はちょっと怖い。昔から青藍せいらんはひそかにそう思っていた。

 彼らはいつも腰に長い刀を差して影のように宮殿の中を歩き回っているか、彫像のようにどっしりと立って殿舎の扉を守っている。精悍で物静かで、男も女もみんないかめしい。

 小さいころ青藍は彼らを笑わせたくて、よくいろいろなことを試みた。

 物影から歩哨の前に突然飛び出したり、立哨りっしょうににらめっこを挑んで可笑おかしな顔をしてみせたり、自分で考えた滑稽な〝カモ踊り〟を披露したり。だが何をやっても宮士ぐうしは決して笑わなかったし、青藍は世話役の小祭宜しょうさいぎにばれると毎回こっぴどく叱られた。

「宮士は宮殿の皆さまをお守りするためにいるのです。危険はいつ、どこから来るかわかりません。笑ったりおしゃべりしたりして気をゆるめていると、いざという時に役目を果たせないでしょう」

 どうして宮士は笑わないし、何もしゃべらないのと訊いた青藍を、小祭宜の恵那えなはそんなふうにさとした。

 ちょっとにっこりするだけでも駄目なのかな、と何となく納得しきれなかったのを覚えている。

 彼らも御役を離れたところでは普通に感情を出すとも教えられたが、そんな様子を想像するのは難しかった。宮士は大祭堂の神像のように、いつ何時でも同じなのだと考えるほうがしっくりくる。

 御山みやまから連れ出してくれた宮士の街風つむじ一眞(かずま)も、しゃべりはしたがあまり笑わなかった。目が合ったときに笑いかけると微笑み返してくれることはあるが、居心地悪そうに視線をらしてしまうことのほうが多い。

 どうやら彼は、いまは亡き祭主さいしゅから〝お日様の笑顔〟と言われていた、青藍の明けっ広げな笑い顔が苦手らしかった。知り合ってほどなく彼女はそれに気づき、以降は彼の前で無闇に笑うのは控えるようにしている。

 下界へ降りてからずっとわずらわせてばかりなのだから、せめてそれぐらいの気づかいはするべきだ。

 御山の外の世界では、青藍は無知な上に何ひとつまともにこなせない厄介者だった。しかも浮昇ふしょう力のない低地に体がなかなか馴染まず、岩を引きずっているかのようにのろのろとしか動けない。

 そんな彼女を一眞は辛抱強く見守り、毎日かいがいしく面倒を見てくれた。

 青藍は、他人に世話をされることには慣れている。蓮水宮れんすいぐうでは食事や着替え、沐浴もくよくその他、身の回りのことはすべて世話役の小祭宜に任せっきりだった。

 だが役目としてそれをやっていた小祭宜たちと、一眞を同じに考えてはいけないのだということぐらいはわかる。彼には青藍に食べさせたり、寝させたり、何かを教えたり、歩けなくなると背負ったりしなければならない義理などこれっぽっちもないのだ。

 だから、できるだけわがままを言わないよう気をつけた。下界には耐えがたいことがたくさんあったが、顔にも態度にもなるべく出さないよう心がけている。

 初めて足を踏み入れた下界の印象は――汚い、のひと言だった。

 道も建物も、大人も子供も、彼らが着ている衣類も何もかもが汚い。すべてが薄汚れ、いたみ、しみや土汚れがついて、すり切れ、色()せ、不快なにおいがしている。

 だが、すぐに気づいた。下界が汚いのではなく、蓮水宮が清潔すぎたのだ。

 宮殿には大勢の下働きがいて、朝から晩まで常にどこかしらを掃除していた。床板は顔が映るほど磨き上げられていたし、建具のさん什器じゅうきに埃が積もっていることもなかった。手水場ちょうずばの床ですら、なめても平気だと思えるほどにいつもきれいだった。

 祭主はもちろん、若巫女わかみこ若巫子わかふし、十二宗司(そうし)が身につけるものは念入りに手入れをされ、少しでもいためばすぐに取り替えられた。

 いま思うと、あれはほんとうに特別な場所だったのだ。誰の目にも神々しいほど美しく清浄な夢の世界を、多くの手間暇をかけて御山の天辺てっぺんに創り上げていた。

 青藍には〝汚い〟と思える下界こそが現実の世界だ。そして天門神教てんもんしんきょうの信徒たちの大半はこの場所で生きている。

 それがわかってくると、下界へ降りたことは決して無駄ではなく、これまで知らなかった信徒たちの世界に触れられてよかったと思えるようになった。

 とはいえ現実を多少知ったからといって、それに馴染みやすくなるわけではない。青藍は自分を含むあらゆるものの不潔さにすっかり滅入めいっているし、食べ物はどれも口に合わず、夜はよく眠れず、新しいものに出合うたびにまごついている。

「慣れますよ」

 一眞は青藍が現実の壁に突き当たると、毎回そう言って慰めてくれた。

「どんなことにも、いつかは慣れます」

 彼は世の中のことをよく知っている。賢くて頼りがいのある大人の男だ。だから、一眞がそう言うならきっとそうなるのだろう、と青藍は素直に信じた。

 実際、少しずつではあるが順応し始めているきざしは感じ取れる。

 旅に出て四日目ぐらいから、き火の傍に小さく丸まって、短いながらもまとまった眠りを得られるようになった。五日目ぐらいから、手足が泥や草の汁で汚れても、すぐに洗い流したいという衝動には襲われなくなった。

 何を食べるかではなく、食べられること自体が重要だと思えてきたのは七日目ぐらいからだろうか。

 低地での体の重さにも、徐々に対応できるようになりつつある。少なくとも、手足の重さを持て余すことはなくなった。

 重量感になかなか慣れないのは頭だ。細い首の上にずっしり大きい頭があるのは不安定で、うつむけば前のめりになり、胸を張ればってしまう。

 り固まった首筋をみながら、「頭をはずして、手で持って歩けたらいいのに」とこぼすと、一眞は「たしかに」と言って少し笑ってくれた。


 これから奉公に出る娘と、それを勤め先へ送り届ける男。

 もし誰かにふたりの関係を訊かれたらそう答えるようにと、青藍せいらんは旅を始めた日に一眞かずまから教えられていた。彼が調達してきてくれた衣類で、外見もそれらしくなるよう装っている。

 これまで若巫女わかみこの普段着である白い万事衣まんじごろもと、奉職者としての正装の法衣、祭祓まつりの際にだけ用いられる豪華な刺繍を施したうすものの衣装しか身につけたことのなかった青藍にとって、ざらりとした手触りの麻の小袖は新鮮だった。

 一眞が彼女のために古着屋で選んだ着物はくすんだ山吹色をしていて、井桁いげたと燕のかすり模様が入っている。対丈ついたけくるぶしのあたりまであり、袖丈は少し長めだ。それを着て、節のある糸で織られた朱色の細帯を締めると、青藍は下界の集落で見かける子供たちにも溶け込めそうな、あまり目立たない姿になった。

 付き添い人を装う一眞は、地味な黒っぽいあわせを尻からげに着て、手甲、股引ももひき脚絆きゃはんをつけ、白い棒縞の入った濃紺色の引廻し合羽がっぱをつけている。御山みやまを出るときに持っていた長い刀はどこかで手放し、短めのものに取り替えていた。

「名前を変えないといけません」

 着替えをしたあと、一眞はそう青藍に言った。

 若巫女や若巫子わかふしが神から授かる祝名いわいなは、下界で一般的とされる名前とはかなり趣が異なるのだという。祭宜さいぎの祝名ともまた少し違うので、そのまま名乗っていると怪しまれかねないらしい。

「下界では、どんな名前が普通なの?」

 訊くと、一眞は少し考えてから教えてくれた。

「とみ、さと、きぬ……女の子なら、そんな感じですね」

 なるほどと思ったが、いざ自分に新しい名前をとなるとなかなか思いつかない。青藍という祝名に愛着もあるので、それを捨てなければならないのだと思うと胸が詰まってしまい、余計に考えがまとまらなくなった。

「まったく違う名にすると、馴染むのに苦労するでしょう」

 彼女の迷いを見て取ったように、一眞は静かに言った。

「祝名を一字残して、〝あい〟と名乗られては」

 はっとして見上げると彼がいつになく優しい表情をしていたので、青藍は思わず目をうるませてしまった。

 祝福を受けた名前を捨て去るつらさを察し、一字だけでも残せと言ってくれた、その思いやりの深さが身にしみる。と同時に、たったこれだけのことで激しく動揺し、また一眞に気をつかわせてしまったのが心苦しかった。

「藍なら、下界で名乗ってもだいじょうぶ?」

「数多い名前ではありませんが、悪目立ちすることもないと思います。由来を訊かれたら、藍染めの藍だとおっしゃればいい」

 こうして青藍は、家を離れて奉公に出ようとしている少女〝藍〟になった。

 今のところ、まだ誰からも名前や旅の目的を訊ねられてはいないが、いざというときにあわてずにすむよう、しばしば思い返して頭に刻みつける努力をしている。

 自分にできることを――まだ多くはないけれど、ひとつずつ確実にこなしていく。そうすることで、一眞の献身と親切にわずかでも報いたかった。


 西へ向かってじりじりと進むふたり旅が始まって、気づけばもう半月あまりになろうとしていた。これまでは寒いながらもほぼ晴天に恵まれていたが、今日は朝から湿った雪が舞っている。

 薄く積もった雪の上に一眞かずまがつけた足跡の上を、青藍せいらんは襟巻きに顎をうずめて黙々と辿った。そこは見渡す限り白い平原で、あたりには人家もなければ生き物の気配もない。

 いまどこを歩いてるのと訊けば、一眞はいつもすぐに教えてくれるが、訊いたところで何かわかるわけではなかった。御山みやまから出たことのなかった青藍にとって、下界はすべて見知らぬ土地だ。

 振り向けば常に見えていた御山もいつしか視界から姿を消しており、そのせいでなおさら位置関係を把握しづらくなっている。

「明日は関所を避けて山越えをします」

 日暮れまでひたすら歩いたあと、どこかの山裾の廃村で野宿の支度をしながら、一眞は青藍にそう言った。

「夜になる前に別役わかえ国へ入れるでしょう」

 別役国が、御山のある御守みもり国と国境くにざかいを接していることぐらいは、青藍もかろうじて知っている。これまで、どこへ向かっているのか考えもせずについてきたが、一眞は旅の始めからずっと隣国を目指していたのだろうか。

「別役国へ行ったら、どうするの?」

「あなたの落ち着き先を見つけます。国境を越えればもう追っ手の心配はなくなるし、当てもないまま、いつまでもさまよっているわけにもいきません」

 隙間風の入る朽ちた農家の中で、彼が手際よく火をおこすのを見ながら、青藍は声に出さずつぶやいた。

 わたしの落ち着き先。

 ――じゃあ一眞は? そのあとどうするの。わたしがどこかに落ち着いても傍にいてくれる? それとも、別の場所へ行ってしまうの?

 それを訊ねる代わりに、彼女は別のことを訊いた。

「別役国はどんな国?」

別州べっしゅうは南北を海、東西を陸地に挟まれた地峡の国です。南の海沿いに龍康殿りゅうこうでんという、大きくて賑やかな湊町がある」

 海も湊も話に聞くだけで、実際に目にしたことはない。

「海には、山みたいに大きなお魚がいるんでしょう? 人も船もひと呑みにしちゃうくらいの」

「クジラのことですか」

「背中の上に古い森があって、小さい祭堂が建っているんですって。わたし、そこへ行って堂司どうしになれないかな」

 一眞はふっと笑みをもらし、手荷物の中からお結びを出して渡してくれた。

「魚が水に潜ったらどうするんです」

「潜るの?」

 てっきり、水鳥のようにずっと水面に浮いているのだと思っていた。潜られたら、青藍は泳げないから溺れてしまう。

「じゃあ駄目ね。水に落ちたら死んじゃうもの」もらったお結びをひと口食べて、彼女は小さく嘆息した。「わたしは生きなきゃ」

 粗朶そだを火にくべかけていた一眞が、ふと手を止める。

 彼は炎を瞳に映しながら、黙ってじっと青藍を見つめた。多くの感情が入り交じっているような、どこか奇妙な眼差まなざしだ。わらうような。探るような。おののくような。

 青藍は口をもぐもぐさせながら、まっすぐに彼を見つめ返した。つかの間、ふたりの視線がからみ――一眞がすっと目をらす。

 まただ。

 彼は決して目の中を覗かせてくれない。心を覗かせてくれない。何を怖がっているの?

「生きなければ……ならないんですか」

 かなり間を空けて、一眞がぽつりと訊いた。声は低く、囁きに近い。

「そうよ」

 青藍は短く答え、米よりも麦の割合が多い握り飯の最後のひと口を呑み込んだ。

「わたしがこの世に生かされているのは大事な仕事をするためだから、それをしないうちに死んじゃいけないの」

「仕事とは、なんです」

「まだ知らないけど、そのときが来たらわかるって、祭主さいしゅさまはおっしゃったわ。わたしだけじゃなくて、人はみんな何か大切な役目を果たすために産まれてくるのよ」

 人には必ず、その人なりの役目がある。無駄な人生などひとつもない。

 それは小さいころから祭主に言い聞かされていたことで、青藍は確信を持っていたが、一眞は疑わしく思っているようだった。表情には出さないものの、彼の気配からそれが感じ取れる。

「あなたは祭主の言葉を、すべて信じているんですか。あのかたがおっしゃることは、みな真実だと?」

 おかしなことを訊く。祭主さまが嘘を言ったりするはずないのに。

「祭主さまは正しくて賢いかただから――だったから」死んだ人について話しているのだと、はたと気づいて言い直す。「わたしは、いつだって信じてたわ」

 一眞は火の中に粗朶を差し込み、しばらく沈黙を漂わせてから口を開いた。

「あのかたは、あなたにとってかけがえのない人だったんですね」

「うん」

 うなずいたとたん、目から涙がこぼれ落ちた。

 もう泣くまいと思っているのに、あの優しい人のことを思い出すたびに涙腺がゆるんでしまう。野宿の寝床で、一眞の背中を見ながら歩く路上で、彼女はしばしばりし日の祭主に思いを馳せ、耐えがたい哀しみに囚われて泣いた。

 そういうとき、いつも一眞は気づかないふりをして、そっとしておいてくれる。だが今回は目の前で泣いてしまったので、手ぬぐいを手渡された。

「泣いたりしてごめんなさい」

「大切な人を亡くしたら、悲しむのは当然のことです」

「わたしね、ずっと考えているの。あの時、ほんとうは何が起きたのか」

 祭主が落命した朝のことを、ふたりのあいだで話題にするのはこれが初めてだった。言葉にするとまだ心は乱れるが、いつまでも触れずにいるわけにもいかない。

「祭主さまをあやめた――のはくれない……だと思う?」

「どうでしょう」

 一眞は曖昧に答え、火勢の弱まりかけた焚き火にまた粗朶をくべた。

「あの場には、あなたと紅さましかいなかった。だから、あなたでないなら、紅さまがやったのだろうと考えることはできます」

「でも、わからないわ。どうしてそんなことをするの。紅だって、わたしと同じくらい祭主さまのことを大切に思ってたはずなのに」

「表向きそう見えていても、じつは違っていたのかもしれません。人の心というのは、外からは量りづらいものだから」

 青藍は両膝を胸に引き寄せて抱え、ぱちぱちと音を立てて燃えているたきぎをじっと見つめた。

 宮殿の北の院で一緒に暮らしていたのに、思えば紅のことは何も知らないに等しい。若巫女わかみこの中でも飛び抜けて美人で利発な〝姉巫女〟に、少し憧れに似た気持ちを抱いてはいたものの、親しいつき合いを持ったことはなかった。

 紅は年少の仲間にはあまり興味を示さず、同じ年ごろの若巫女や若巫子わかふしたちと過ごすことを好んでいたように思う。

 いま紅のことを考えると、真っ先に浮かんでくるのはあの朝の彼女だ。血の海に横たわる祭主の亡骸なきがらを前にしながら、動揺する様子もなく淡々と青藍の罪を糾弾した。

 あの日の紅は、それまでに見たこともないほどきれいで、冷ややかで、悪意に満ちていて――怖かった。とても怖かった。

 こうして思い返すと、それだけで少し息苦しくなってしまう。

 その時、意識の片隅に、ふいにいやな心象が浮かんだ。

 地面にぽっかり空いた穴。そこから、じわりと黒いものが湧き出す。黒いものは鈍い光沢を放ちながらとろとろと溶け流れ、ゆっくり忍び寄ってくる。

 それには目があった。こちらを見ている。

 ぞっとして、腕に鳥肌が立った。

 うなじのあたりがチリチリする。

 はっと顔を上げて、青藍は廃屋の中を見回した。黒い紗の幕をかけられたように、場景がけぶって見える。

 ところどころに穴の空いた壁板。窓枠から外れかけた蔀戸しとみど。一部抜け落ちた天井からは、小さな雪片が室内に降り込んでいる。

 その方々(ほうぼう)の隙間から、あの黒いものがぬるりとしみ出した。

「どうしました」

 彼女の様子に気づいて、一眞が低く訊いた。

「わたし、怖いことを思い出していたから――」青藍は小声で言いながら、手荷物に入れてある笛を取り出した。「闇を引き寄せてしまったみたい」

「闇を?」

 それには答えず、彼女は細竹の横笛に唇を当てた。

 最初の一(せい)

 あらゆる魔を引きつける〝ごう〟の音が夜気を裂いて響きわたる。

 続く音は〝しゅう〟。それから〝せい〟。

 黒いものが瞬時に集まって固まり、するすると伸び上がって人に似た形をかたどる。

 それをまっすぐに見据えながら、青藍は哀調を帯びた短音階の楽曲を吹いた。黒いものは音に合わせて伸び縮みを繰り返し、身をよじるようにうごうごとうごめいている。

 彼女は終曲に向けて音を高めていき、最後に〝さん〟の一声をひときわ強く鳴らして唇を閉ざし、息を断ち切った。

 黒いものが凝結をほどいて、ぱっと霧散する。同時に視界の薄暗さも晴れ、はっきりと周りが見えるようになった。

 硬い表情の一眞が片膝を立てて、凝然とこちらを見つめている。

「もう、だいじょうぶ。散っていったから」

 ふうっと大きく息をつくと、青藍は笛を膝に置いた。

「いま、何をしたんです」

 呻くように一眞が訊いた。まだ警戒を解いていない。

「このあたりに溜まっていた悪いものが寄ってきて、家の中に入ろうとしていたから、笛で追い払っただけ」

「悪いもの?」

「亡くなった人の魂が天門てんもんをくぐれずに現世に留まってしまうと、そのおもいが何年か経つうちにだんだんよくないものになっていくの」

「つまり悪霊あくれいか。だが、さっきのは漂魄ひょうはくを鎮める封霊ふうれいの術とは違いますね」

「あれは、まだ悪霊にはなっていなかったけど、よくないものだったわ。濁って黒くなって――いたでしょう。見えなかった?」

 一眞が驚いた顔をする。やはり彼には見えていなかったらしい。

「あなたには霊が見えるんですか」

「あの、わたし……目がよくて、いろいろ見えるの」

 見えるはずのないものに対する彼女の敏感さを、〝目がいい〟と表現したのは祭主だった。青藍は時に実体のないものを見てしまうが、それは決して悪いことではないのだと。

「祭主さまは耳がよくて、人には聞こえない音をいつも聴いていたのよ。天門をくぐり損ねた魂は猫の赤ちゃんみたいに細くて高い泣き声を上げるし、大きな古い木は低く長く唸るんですって」

「ずいぶん、うるさそうだな」

 一眞はちょっと笑い、ようやく体の力を抜いて座り直した。

「あなたはほかに、どんなものを見るんです」

唱士しょうしが大祭堂で歌っている時、重なった声がやわらかい金色をした帯になってゆっくり広がるのをよく見るわ。それから、〈尋聴じんちょう〉する人に降りる〈神告しんこく〉はホタルみたいな光で、とってもきれいなの」

「降りる――んですか。文字どおり」

「そう。うんと高いところから、すーっとまっすぐに降りてくるのよ」

 こういう話をすると胡散うさん臭そうな目を向ける人もいるが、一眞は真剣な顔をして聞いている。

「祭主やあなたのように、見たり聴いたりできる人はほかにもいるんですか。宮殿の若巫女や若巫子たちはどうです」

「巫女や巫子として神が選ばれるのは、もともとそういう素質を持っている子供なんですって。だから、みんな少しは見えたり感じたりしているみたい」

「その中でも、あなたは特別によく見えるというわけですね」

 青藍は口をつぐみ、そうだとも違うとも言わなかった。特別といわれるのは、あまり好きではない。

 一眞は彼女の沈黙を気にする様子もなく、丸めて置いてあった合羽かっぱを渡してくれた。

「もう眠るといい。明日は山登りだから、しっかり体を休めてください」

 青藍は合羽にくるまると、焚き火に背中を向けて丸まった。明かりに顔を向けていると眩しくて目が冴えてしまうし、こうするほうが炎の温かさに背後から包まれている感じがして安心する。

 さっきの〝悪いもの〟は散り散りになって消えてしまったが、青藍の中にはまだ少し落ち着かない気持ちが残っていた。

 祭主さまのことをたくさん思い出したから?

 それとも紅のことを考えたせい?

 青藍は首にかけた革紐をつまんで、祭主からもらったあの青い石をそっと引き出した。お守りだと言われたが、天門神教でお守りといえば普通は紙でできた護符ごふだ。石のお守りというのは見たことがないし、これがどんな力を発揮するのかもわからない。

 だが、とろりとうるんだ青色を見ていると、なんとなく心がやわらぐように思えた。その感覚には、祭主から最後に受け取ったものだということも大きく影響している気がする。

 青藍はしばらく石を見つめたあと、手の中にしっかりと握り込み、そのままやがて眠りに落ちた。


 翌朝早いうちから山に登り始めた一眞かずま青藍せいらんは、日がすっかり落ちたあとになってようやく、西の山裾のうらさびれた宿場町にたどり着いた。

小浦方こうらかた(ごう)佛田ふった宿(しゅく)という宿場です。ここはもう別役わかえ国ですよ」

 宿場の入口で青藍にそう教えたあと、一眞は眉をしかめながらあたりを見回し、当てが外れたと言いたげな顔をした。

「何年か前に聞いた話じゃ、もっと賑わっていそうに思えたんだがな」

 低くつぶやいて歩き出した彼を追いながら、青藍は興味深く町の様子を観察した。ここへ来るまで、何日も人の姿を見ないような場所ばかり歩いてきたので、彼女の目には充分賑わっているように見える。

 街道から続く埃っぽい道には、さほど数は多くないながらも男や女が行き交い、両脇に建つたなや家にはみな明かりがともっていた。きんと冷えた夜気には雑多な食べ物のにおいが漂っているし、風に乗って話し声や音楽も聞こえてくる。

 ここがわたしの〝落ち着き先〟になるのかしら。

 青藍は昨日一眞に言われたことを思い出し、ますます注意深く周囲を窺った。だが、この町で暮らしている自分をうまく想像できない。そもそも〝宿場〟というのが何なのか、それすらまだちゃんとは呑み込めていなかった。

「ねえ」

 小声で呼びかけると、一眞は肩ごしに振り向いて彼女を見た。

「宿場ってなに?」

「交通の要所にある集落のことで、旅人を泊める旅籠はたごや飲み食いさせる見世みせなどがあるところです」

「はたご?」

御山みやまにも、参拝者を泊める宿房しゅくぼうがあるでしょう。あれと同じようなものですよ」

 宿房が御山にあることは知っているが、青藍は実際に見たことはない。神域にある宮殿と大祭堂から出ない若巫女わかみこにとって、それは同じ山の中にあってもずっと縁遠いものだった。

 宿場について聞きたいことはまだまだあったが、あまり質問ばかりすると一眞には迷惑だろう。青藍はぐっと我慢して、見えるものや聞こえる音から少しでも知識を補おうと努めた。

 すれ違う人々が話している言葉には、これまで聞いたことのなかった響きが感じられる。

「そしたらあの女がよゥ」

「おあしを持って来いってんだろ。がめついアマだぜありゃ」

 道端で話し込む若い男たちの口調は、楽しげだがちょっと荒っぽい。もし宮殿でこんな話しかたをしたら、世話役の祭宜さいぎに叱られてしまうだろう。

〝おあし〟〝がめついあま〟といった、意味のよくわからない言葉が多く混じっており、青藍はだんだん不安になってきた。山を下りてから一眞以外とはまったく会話をしていないので、下界の人ともちゃんと言葉が通じるかどうかわからない。

 でも大祭堂に参拝する信徒たちが囁き交わす言葉はいつも聞き取れていたので、きっとここでもだいじょうぶだろう。

 あれこれ考えながら左右に視線を走らせていた青藍は、前を歩いていた一眞が足を止めたことに気づくのが遅れ、彼の背中に軽く追突してしまった。

「青藍さま?」

 振り返って怪訝な顔をする彼に、照れ笑いをしてみせる。

「ごめんなさい」

「着きました」

 どこに、と訊こうとして顔を上げた青藍は、すぐ前に建つ大きな建物を見て驚いた。

 それは大きいが、どことなく歪んでいるように見える不格好な二階建てで、入口の柱が強烈なあかい色で塗られている。通りに面した窓にまっている格子も、やはり同じ色で彩られていた。けばけばしいくせに、その朱がところどころ剥げかけているせいで、妙にうらぶれた雰囲気をかもし出している。

 建物をこんな色にするなんて――青藍は息を呑み、戸惑いと感心を半々におぼえた。とても変わっているが、印象的だ。

「ここは、なに?」

娼楼しょうろうですよ」

 また知らない言葉が出てきた。その意味を訊きたかったが、一眞はもう入口の暖簾のれんをくぐろうとしている。

 あわてて彼のあとに続き、朱い柱の内側に入ると、土間の向こうの一段高い板間にいる厳しい顔つきの女と視線が合った。

「あんたが内所ないしょか」

 一眞が訊くと、女は箱火鉢に寄りかかりながら、すっと目を細めて青藍のほうに顎をしゃくった。

「売りもんかえ」

「そうだ」

「話は旦那としとくれ。三太さんた

 女が呼ぶと、どこからともなく痩せぎすの若者が姿を現した。

「なんでしょう、お内所さん」

「売り込みだよ。楼主おやかたのとこへ案内しな」

「へい」

 三太という名の若者は、一眞と青藍を板間に上がらせると、先に立って廊下の奧へ案内した。建物はずいぶん古いらしく、三人が歩くにつれて床板が派手にぎしぎし軋む。あまり手入れもされていないようで、壁にはところどころ汚らしい雨染みが浮き出ていた。

 山を下りたばかりのころなら震え上がっただろうが、いまの青藍はこれぐらいでひるんだりはしない。

 廊下の突き当たりを右に曲がり、内庭に面した入側いりかわを歩いていくと、障子戸を閉ざした部屋に行き着いた。

「楼主、お客です」

 三太が声をかけ、障子を開ける。

「おう。入りねえ」

 煙管きせるをくわえ、丸火鉢を抱え込むようにして座っていた大柄な男が手招きした。目が糸のように細くて、瞼はかなり厚ぼったい。そうとうな寒がりなのか、羽織の上にさらに褞袍どてらを重ね着している。

 一眞たちが火鉢を挟んで腰を下ろすと、彼は眉を上げながらしげしげと青藍を見つめた。

「その娘を売りたいのかい」

「ここは変わり種の娼妓おんなばかり集めてるそうだな」

「そうでもねえ、普通のもいるさ。だが、まあ……ちょいとばかり風変わりなのも、たしかに何人か置いてるよ」

 ざらざらした声で言って、糸目の男はまた青藍に視線を向けた。

「まともに見えるが、どのへんが変わり種なんだい」

「こいつは降山こうざん若巫女わかみこだ。正真正銘の御山みやま育ちで、つい最近まで下界に降りたことは一度もなかった」

 自分が話題にされていることに当惑しながら聞いていた青藍は、秘密だと考えていたことを一眞があっさりしゃべったので、仰天して思わず腰を浮かせてしまった。

 それを一眞が横目にちらりと見る。

「この見世みせに来るような客の中には、法衣の女祭宜(さいぎ)や巫女装束の初心うぶな小娘をさんざんなぶってみたいってやからもいるんじゃないのか」

「いるかもな」

 糸目の男は口からぷかりと煙を吐き、それを透かして一眞を見据えた。

「若巫女上がりってのは、たしかに珍しいが……しか生娘きむすめか? 道中、手ェつけたんじゃあるめえな」

「こんな乳臭い餓鬼」一眞が、ふんと鼻で笑う。「飢えてたって願い下げだ」

面相つらは、まァ並みってところか。歳はいくつだい」

「十二だ」

「じゃあ、向こう二年は下働きだな。たいして高値はつけられねえぞ」

御州おんしゅうからここまで連れてきた手間賃を入れて、金六枚ってとこでどうだ」

「そんなに払えるかい。せいぜい四金だ」

「五金。これで折り合わなきゃ、ほかの見世へ連れていく」

 男は煙管の吸い口を歯で噛み、しばらく考えてから小さくうなずいた。

「ま、いいだろう。それで手を打つぜ」

 彼は小箪笥こだんすから箱を取り出し、その中に入っていた金銭を五枚数えて一眞に渡した。寒そうに褞袍の襟を引っ張り合わせながら座り直し、口元をちょっとゆがめて青藍をはすに見る。

「おい、この娘さっきからぽかぁんとしてるが、自分がどうなるか、ちゃんと言い聞かせてあるんだろうな。泣いたり逃げたりしたら折檻せっかんするぞ」

「さっきも言ったが――」一眞は淡々と説明した。「こいつは御山育ちだ。これまで働いたこともなければ、物の売り買いをしたこともない。銭の使い方すら知っちゃいない。逃げようったって、逃げかたがわからねえよ」

「なんとまあ……。武家の姫さんだって、もうちょっと物がわかってるぜ」

「頭は悪くないし、素直なたちだ。よく仕込むことだな」

 一眞が立ち上がったので、青藍は自分も急いで腰を上げた。だが、じろりとにらまれて体が固まってしまう。

「ついてくるな。おまえはもう、ここの奉公人だ」

 表情も、口調も、声すらも、これまでの彼とはまったく違っている。

「おれはおまえを、この見世みせに売ったんだ」

 その意味はわかるようでいて、やはりはっきりとは理解できなかった。

「売った……」動揺と焦りを感じながら、口の中でつぶやく。「わたし――わたしって、売れるの?」

 糸目の男がぷっと吹き出した。何か可笑おかしなことを言ってしまったらしい。

 一眞はにこりともせず、黙って部屋を出て行った。

「ま、待って!」

 あとを追って飛び出し、廊下で彼の袖を捉まえる。必死だった。

「お願いだから、もっとちゃんと話して」

 一眞は袖を乱暴に振りほどき、片手で青藍の襟をぐっと掴んだ。

「おれは、おまえを殺すはずだった」

 間近に顔を突き合わせて噛みつくように言う。

「御山から連れ出し、適当に離れた山か森の中で殺して埋める。そういう手はずだったんだ。おまえが舞い戻って、余計なことをぺらぺらしゃべったりしないようにな」

 殺す、という言葉が衝撃的すぎて、あとの話は半分も耳に入ってこない。

「だが殺すのはやめにして、代わりに売り払った。そういうことだ」

 一眞が急に手を離したので青藍はよろめき、横の壁にどんとぶつかった。

「おまえは御山で聖を学んで育った。今度はここでたっぷり俗を学ぶといい。もってこいの場所だからな」

 殺すはずだった?

 助けるって言ったのに。あれは嘘だったの。わたしを騙したの。ここへ置いていくの。

 いろいろな思いが、混乱した頭の中をぐるぐると駆けめぐる。目の前が暗くなり、息が詰まるほど胸がどきどきした。どうにか立ってはいるが、今にも膝の力が抜けてしまいそうだ。

 あんまりよ、ひどすぎる。そう思ったし、そう言うつもりだった。

 だが口を開くと、出てきたのはまったく別の言葉だった。

「ありがとう」

 一眞がぎょっとしたように目をみはる。彼はしばし茫然として、それから険しい表情になった。

「皮肉のつもりか」唸るように訊く。

「そうじゃなくて――」

 彼の怖さにすくみ上がりながらも、青藍は懸命に言いつのった。

「わたしを殺すはずだったのに、殺せたのに、生かすことにしてくれてありがとうって……言いたかったの」

 どんなつもりがあったにせよ、結果として助けてくれた。

 こんなに遠くまで連れて来てくれた。

 何も知らない自分に、たくさんのことを教えてくれた。

 終わるはずだった命を救ってくれた。

 裏切られたのは悲しかったが、今日までの日々を思い返せば、真っ先に浮かんでくる言葉はやはり〝ありがとう〟しかない。

「まったく、とことんおめでたい餓鬼だ」

 一眞は苦々しげに吐き捨てて素早く手を伸ばし、青藍の首にかかった革紐をむしり取った。

「これは?」

 紐の先にぶら下がった青い石を、顔の前に掲げながら訊く。

「もらったの。さ、祭主さいしゅさまから」

「いつも大事そうに隠してたから、そうだろうと思った」

 彼は青藍が「返して」と頼む間もなく、石をたもとにさっと落とし込んだ。

「ここでどんな目に遭うか、おまえはじきに知ることになる。その時がきたら、おれに感謝なぞしたのを悔いるだろうよ」

 氷のように冷たい目、熱のない口調で言うと、一眞は青藍をその場に残して速い足取りで去って行った。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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