序 江蒲国彦吉郷・刀祢匡七郎 火中の片影
じとり。
一歩ごとに草鞋の底が地面に貼りつく。
じとり。じとり。
脚が重い。粘り気の強い泥のせいか。それとも疲れ切っているせいか。
砦を囲む長い空堀の中を、ぬかるみに足を取られながら走り回って今日も一日が暮れた。耳の中では銃声の残響が今もしつこく跳ね回っており、敵と激しく斬り結んだ両手にもまだしびれが残っている。
刀祢匡七郎は足を止め、小さくため息をついて空を見上げた。
入り日は燃えるような色合いも消えかけ、深い藍色をした夜の闇に半ば溶けている。すぐに辺りは真っ暗になり、湿った地面は氷が張りそうなほど冷たくなるだろう。
突っ立っていると、足元から寒気が這い上ってきた。たったいま藪の向こうの雪隠穴で小便をしてきたばかりなのに、また下っ腹がむずむずし始めている。
匡七郎はぶるっと身震いして再び歩き出し、野営地の焚き火に近づいていった。晩秋の雨に濡れた枝で熾した火はか弱く、芯まで冷え切った身体をさほど温めてはくれないが、それでも明かりの傍にいれば少しは心が安らぐに違いない。
火を囲む男たちのあいだに空いた場所を見つけ、彼はだるい脚を休めようと腰を下ろした。たちまち地表の水気が尻にしみてくるが、気にするだけ無駄なので意識から追いやってしまう。
脇に生えた雑草を引き抜いて手の中で丸め、草鞋の底にこびりついた重い泥土を黙々とぬぐっていると、なぜかふと女のことを思い出した。
一昨年の夏の初めに郷里の立州七草郷で馴染みになり、一年ほどつかず離れずのつき合いをしていた花売りの袖だ。べったり引っついて過ごしたのは出会った夏のあいだだけで、その後は人けのない場所や茶屋などでたまに会う程度だった。
顔を合わせれば、とりあえず寝る。ほかにすることもない。
そもそも匡七郎は、たいして袖には関心がなかった。さほど好みだったわけでもない。だが体は気に入っていた。とはいえ十五歳の男なら誰だって、自分に対して無条件に開かれる体を気に入らないはずはないだろうとも思う。
匡七郎にとって、袖は初めての女だった。袖にとって彼がそうだったかは知らない。だが彼女は匡七郎が考えていた以上に、彼を自分の男だと真剣に思い定めていたようだった。
わたしを捨てるの。
入軍が決まり、戦に出るので当分はもう会えないだろうと告げた時、彼女は眉を逆立ててそう言った。
女房にしてくれると思ったのに。
弄んだだけだったの。
ぜったいに許さないから。
恨みがましい目をしてなじり、匡七郎をたじろがせた。
ふたりのあいだでそういう話が出たことは一度もなく、彼女も女房になりたいなどとは気振りにも見せなかったくせに、素知らぬ顔の裏で勝手な期待をふくらませていたのかと肝が冷えたのを覚えている。
別れの修羅場は、いま振り返ってみても決して気分のいいものではなかった。あの時は激情に任せて、袖にかなりひどいことを言った気もする。
仕方ないじゃないか――餓鬼だったんだ。
誰に向けてかもわからない言い訳を胸の中でつぶやき、匡七郎は右手に握った泥まみれの草を見下ろした。
どうして袖のことなんか思い出したんだ。ずっと忘れていたのに。
疲れているから。そのせいだ。
草を肩ごしに投げ捨て、手のひらについた汚れを袴でぬぐっていると、またひとりの兵士が近づいてきて彼の右隣に座を占めた。
「飯だぞ、匡七郎」
そう声をかけて食糧の包みを差し出したのは、同じ部隊の孝四郎だ。十八歳の彼は細身で小柄で、鋭い顔つきをしている。
包みを受け取ろうと伸ばした左手をふと見ると、二本の指の爪が割れていた。思わず嘆息がもれる。
「——くそっ」
血のにじんだ指先を舐め、その痛みに悪態をつくと、孝四郎が低く笑った。
「あとで療師に診てもらえよ。明日も山ほど斬らなきゃならんのだからな」
「地べたを這いずりまわってな」匡七郎は吐き捨てるように言った。「いくら戦っても、まるで終わりが見えてこない」
ふたりはあちこちに焚かれた火と、それに集まる兵士たちをしばらく黙って眺めた。
みな無口だ。会話をしている者も多少はいるが、その声は押し並べて低く暗い。
火の中で時折何かが爆ぜる音だけが、ぱちぱちと威勢よく響いている。
黒葛家の陪臣宇留賀正克率いるこの部隊が、江蒲国南部の彦吉砦を攻める任務に就いてから、すでに二十日が経とうとしていた。日々繰り返される激しい戦闘に誰もが疲弊しきっている。しかし未だ、約束されていたはずの増援部隊が到着する気配はなかった。
戦えと言われるから戦ってはいるものの、匡七郎には今やっている戦闘の意味がまるでわかっていない。いや、ほかの兵士も大半はそうだろう。
守笹貫軍の一分隊が立てこもり、必死になって守っているあの砦は果たして要衝なのか。攻め落とすことができたら自軍はどんな利を得るのか。
さっぱりわからない。
上からの説明もない。
敵側の兵士も、理由など知りもせずにただ守っているだけなのかもしれない。
彼らが放り出して逃げたとしても、あるいは我々が攻めるのをやめて通り過ぎたとしても、じつは何も変わらないのではないだろうか。
「空で——戦いたいな」
焚き火の向こうに目をやったまま、ぽつりとつぶやいた匡七郎の言葉に孝四郎が瞠目する。
「天翔隊に入りたいのか?」
今や戦の花形は、ハヤブサに似た巨大な禽――天隼に乗って天翔る腕自慢の〈隼人〉たちだ。歩兵が地面を這い回って戦っているその頭上で、彼らは自由自在に大空を舞い飛び、華々しい斬り合いを繰り広げているらしい。また上空から敵情を探る、〈天眼組〉と呼ばれる偵察分隊も活躍しているという。
匡七郎は天翔隊の戦いぶりを目の当たりにしたことはないが、たびたび噂に聞いてひそかに憧れていた。
かつては士分の――それも名の通った家の子息しか入隊を許されなかったが、戦が始まってから九年が経ち人手不足も極まった感のある現在では、そのあたりはかなりゆるくなっているという。ならば直参ではない小身武家の、そのまた分家の養子という半端な身の上でも、なんとかもぐり込ませてもらえるかもしれない。
「地べたにいると視野が狭すぎて、自分がなにやってるのか、たまにわからなくなるんだ」
ぼそりと言って、匡七郎はまた指先を舐めた。唾液がしみて痛い。
「空からならもっと……よく見えるんじゃないかな」
この戦の様相も。
自分自身の心も。
大人になったら軍備に入ると決意したのは八つの時で、その年の秋に黒葛家と守笹貫家の大軍が始まった。それからずっと道場で槍術の修練に明け暮れ、十六歳で初志を貫徹して備の兵員となった。なのに十七歳になった今、入軍一年目にしてすでに戦陣で働くことに倦んでいる。
軍働きなんて少しもおもしろくない。
なんのためにここにいるんだ。
なにがしたいんだ、おれは。
最近、よくそんなことを考えるようになった。
まだ見ぬ空の戦場に憧れるのは、この退屈な斬り合いの連鎖から抜け出てあそこに行けば、何かが変わるような気がするからだ。
あの広い空でなら、出合えるのではないだろうか。
もっと心を高揚させてくれる何かに。生死を共にすることを誇れる仲間に。
命を賭して仕えたいと感じさせてくれる――誰かに。
「宇留賀さまは結局、今日もほとんど後方の幕内に引っ込んだままだったな」
皮肉っぽく言うと、横で孝四郎が苦笑いをした。彼は匡七郎が宇留賀隊に入ったばかりのころ、この手の不満をもらすたびに叱っていたが、最近ではもうあきらめたのか説教臭いことは何も言わなくなっている。
「あのかたは、斬り合いがお嫌いなんだよ」
「斬り合いの嫌いな御仁が、なんだって部隊なんか率いてるのか、わけを訊いてみたいもんだ」
匡七郎はふんと鼻を鳴らし、食糧の包みを開いた。毎回代わり映えのしない中身だ。その上、このごろ少しずつ割り当ての分量が減ってきている。
自分も包みを開けながら、孝四郎がふと問いかけてきた。
「おまえこそ、いつもつまらなさそうに戦ってるが、どうして入軍なんかしたんだ?」
「この不味いしろものを食うためじゃないことだけは確かだな」
匡七郎は仏頂面でそう言うと、石のように固く、味も素っ気もない干し芋に食らいついた。およそ食欲をそそることのない食い物だが、それでも食わなければ生き残ることはできない。
「おれも、ほかのやつらと同じさ。戦に出て名を挙げ、立身出世を果たす——なんて、ありきたりな夢を描いていたんだ。初めのうちはな」
「今は現実に目覚めたか」
「槍を握って、どれだけ戦場を駆けめぐろうが、おれたちに出世の順番なんか回ってきやしない」
星影ひとつない暗い夜空に目をやって、匡七郎は嘆息した。そんな彼を横目に見ながら、孝四郎が肩をすくめる。
「じゃあ、辞めちまって郷里へ戻ったらどうなんだ。嫁をもらって子どもをこさえて、近所の餓鬼に剣術か算盤でも教えて生きてくって道もあるだろう」
「そうだな」
ようやく、匡七郎の口許に小さく笑みが浮かぶ。しかし彼はすぐにその笑みを消し、無表情に焚き火の炎を見つめた。
「——だが、ひとつだけ戦場に未練があるんだ」
強すぎる思いがにじみ出て、声が奇妙にかすれた。目もぎらついたかもしれない。ちょっと怯んだかのように、孝四郎が小さく身じろぎをした。
「どんな未練だ」
「ある人と、同じ場所で生きていたい」
匡七郎は一言ひとこと、噛み締めるようにつぶやいた。
「ある人って……この隊に、そんな知り合いでもいるのか」
怪訝そうに訊く孝四郎に、小さく首を振ってみせる。
「この隊にはいない。だが、どこかの戦場にいることは間違いないと思う」
「なんだよ、どの隊にいるかわからないのか」
「どの隊どころか、どっちの陣営にいるかも知らねえよ」
ぞんざいな口調で言い、彼は額にかかったほつれ髪を乱暴にかき上げた。
「軍に入って一年以上経つのに出会わないってことは、ひょっとすると敵方だったり――するのかもな」
あるいは、縁がなかったのか。
匡七郎は食い終わった食糧の包みを丸め、それを手の中に握ったまま膝を抱えた。冷え切った身体は、火の傍にいるにもかかわらず少しも温もる気配がない。さらに、いま頭をよぎった嫌な考えが、胸の中までをも凍えさせるように感じられた。
縁があればまた会える。
幼い日、別れ際にあの人はそう言ってくれた。だがそれは裏を返せば、縁がなければもう会えないという意味にもなる。
孝四郎に語った、出世を夢見て軍役に就いたという言葉は、まったくの嘘というわけではない。乱世に武家の子として産まれた自分が、それらしい生き方を全うできる場所は戦場しかないと思ったのは事実だ。
だが本音を言えば、出世しようとしまいとどうでもよかった。追い求めているのは、別れの日からこれほど長い年月を経ても、なお鮮烈に脳裏に焼き付いているあの人の面影だ。
備に入れば、必ず彼に会える。すぐではないにしても、そう長く待つことはないはずだ。あのころは、何の根拠もなく無邪気にそう信じ込んでいた。
うまくすれば、同じ部隊に配属されるかもしれない。それが無理だとしても、いずれどこかで噂を耳にするだろう。あれだけの腕を持った剣士だ、きっと軍の隅々まで勇名を馳せているに違いない。
しかし、そんな子どもっぽい思い込みは、たちまち打ち砕かれてしまった。
匡七郎がまず気づかされたのは、自分が軍備というものの規模をまるで理解していなかったということだ。
十年近くに及ぶ長い戦のあいだに、三鼓国、丈夫国、立身国の黒葛連合軍は想像をはるかに超える大きさにまでふくれ上がっていた。時期によって多少の増減はあるものの、軍全体の総兵員数はじつに十六万人。うち七万人が常に前線に配備されている。
匡七郎が所属する宇留賀隊は、三州中央本陣の真栄城勢配下として編成されているが、その真栄城勢だけ見ても所属兵員数は一万人を超えているのだ。
これだけの規模になると、個人の存在など芥子粒に等しいと言っても過言ではない。誰かが他に抜きん出る手柄を立て、噂に上るほどの活躍を見せたとしても、その名は連携して動くことの多い三部隊あたりまで鳴り響けば御の字といったところだ。
軍の隅々まで勇名を馳せる、などというのが少年の夢物語でしかなかったことを、匡七郎は入軍していくらも経たないうちに思い知らされた。
そして、これだけの人間がひしめき合う中で偶然の出会いを期待するなど、富くじに当たるのを待つようなものだということも。
匡七郎は胸に引き寄せた膝に顎を載せ、闇の中で明々と燃える焚き火に目を凝らした。じっと見つめていると、炎の中に懐かしい姿が見え隠れし始める。
こうして思い出す時の彼は、いつもあの夜の装いだ。ふたりで一緒に浮浪人を退治した時の、黒絹の小袖に黒袴。腰には長めの打刀。
堂々として、圧倒されるほどの威厳に満ち、それまでに出会ったどんな剣士よりも強そうに見えた。七草の郷境で別れてから、もう九年も経ってしまったが、今でもはっきりと覚えている。
すっかり押し黙ってしまった彼を気づかうように、孝四郎が横から顔を覗き込んだ。
「おい、だいじょうぶか」
「ああ」匡七郎は目を伏せてうなずき、深々と嘆息した。このごろは、ちょっと気を抜くとすぐにため息ばかりついてしまう。「失敗したな……」
低いつぶやきを聞き咎め、孝四郎が眉を上げる。
「なんだって?」
「やっぱりあの時、泣いてすがってでも手紙の宛先を聞き出すんだった」
「なに言ってるんだ、おまえ」
「なんでもねえよ」
匡七郎は素っ気なく言って、握っていた食糧の包み殻を焚き火の中へ投げ込んだ。すぐに火がつき、ぽっと小さく音を立てて燃え上がる。
「おれはもう寝る」
立ち上がって膝を伸ばすと、闇の彼方に敵軍の砦がうっすら見えた。あちらでもやはり、小さな焚き火をいくつか熾して兵士たちが暖を取っているようだ。あの人も、あるいはその火を囲む敵兵の中にいるのかもしれない。
もしそうなら明日、乱戦の中でばったり顔を合わせることだって充分にあり得る。
そうしたら彼は、いったいどうするだろう。おれに気づくだろうか。気づいて――そして躊躇いもせずに斬るだろうか。
たぶんそうだ。瞬きする間も与えずに。
でもあとで、きっと少しぐらいは悼んでくれるに違いない。
その想像は少しも愉快ではなく心を安らげてもくれなかったが、ひとり思いをめぐらせる匡七郎の唇には小さく笑みが浮かんでいた。
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