八 天勝国大光明郷・伊都 襲撃
それが始まった時、伊都は寝床の中にいなかった。家じゅうが寝静まってからそっと部屋を脱け出し、裏庭の小さな池の傍にしゃがみ込んで、石灯籠の脇に生えている待宵草を眺めていたのだ。眩しいほど明るい月光の下で、黄色い花びらが白く輝きながら微風に揺れるさまは彼女を強く魅了した。
爺やに見つかったら叱られるけど、見に来てよかった――と思う。夕刻から咲き始め、朝になるまでに萎んでしまうこの花を、月明かりの下でどうしても見たかったのだ。
そうして、どれくらい経っただろう。何か訝しく感じられる物音に気づいて、少女はふと顔を上げた。家の裏手を通る細い道に、誰かがゆっくりと入ってくる。それもひとりではなく、六、七人はいそうだ。
こんな時刻に、と彼女は眉をひそめた。この辺りは閑静な屋敷町の一角で、宵の刻鐘が鳴ったあとは人通りがほぼなくなる。夜番の城勤めに出る侍が、従者をひとりかふたり伴って遅くに通ることはあっても、深更を過ぎてから集団が行き来するなど考えられない。
伊都は池から離れ、庭の外囲いに近づいて、クヌギの平板に耳を当てた。ざりっ、ざりっと土を踏む、草鞋履きの微かな足音。押し殺した息づかい。その中に時折混じる、軽く乾いた鞘音。刀を帯びた者たちが、すぐ向こうを歩いている。
彼女は唇をきゅっと引き結び、片膝を折って外囲いの根元に素早く体を沈めた。鼓動が少し速くなる。次の瞬間、裏木戸が荒々しく蹴破られ、男たちが庭になだれ込んできた。
全員が芝居の悪漢よろしく、黒い覆面で鼻から下を覆っている。だがそれ以外は、鉢金を巻いてたすきを掛け、袴の裾を臑当で締めた簡易的な戦支度だった。これは押し込み強盗ではない。武士の斬り込みだ。
縁側へ躍り上がっていく彼らの背後で、伊都は影のように音もなく移動し、裏庭の北西の角に植えられたアオキのうしろへ潜り込んだ。そこへ身を潜めたまま息を殺し、邸内の様子を窺う。
裏木戸を破る音が、家の者を目覚めさせたようだ。まもなく屋敷の中から鋭い剣戟の音が響いてきた。奉公人たちが主人を守るため、襲撃者に立ち向かっているのだろう。だが彼らは戦いに慣れておらず、刀も槍もほとんど使えない。単独で立ち向かったら、きっと容易く倒されてしまう。
年若い下男の政辰。その叔父で、伊都が〝爺や〟と呼んでい長助。馬取りの甚五郎。下女のすえと町。彼らの顔が次々と脳裏に浮かんできた。そして母と父の顔が。
父を思い浮かべると、少しだけ不安が和らいだ。父はお城の武術指南役だ。その腕前を殿さまに高く評価され、つい最近筆頭指南役に指名された。今夜はその父が家にいる。今ごろは、あの男たちを返り討ちにしているかもしれない。
だが邸内をどたばたと人が行き交い、乱暴に雨戸や襖を開け閉てする音はなかなか止まなかった。男のものとも女のものともつかない悲鳴や絶叫が、夜のしじまを衝いて時折ほとばしる。そのたびに、彼女は息を呑んで身を縮ませた。
どうして誰も助けに来ないのだろう。隣家とは少し離れているとはいえ、この騒ぎがまったく聞こえないとも思えない。こっそり抜け出て、人を呼びに行くべきだろうか。伊都はそう考え、アオキの葉の陰から足を踏み出しかけた。だが、襲撃者たちは表に見張りを置いているかもしれない。そう思うと、それ以上動けなくなってしまった。
刀が欲しい。小太刀でもいい。彼女はまだよちよち歩きのころから、父に武芸を厳しく仕込まれてきた。何か武器さえあれば、この状況を打開できる自信がある。敵が見張りひとりなら、油断させておいて腹を刺すのは難しくない。その隙に、隣家へ助けを求めに走ればいい。
中へ戻って、武器を手に入れよう。伊都は心を決めて、用心深く周囲を見回しながら立ち上がり、そっと庭の中に忍び出た。影になっている場所を選んで足を進め、母屋に少しずつ近づいていく。一歩踏み出すごとに怖くて身がすくんだが、ただじっとしているよりは、そうして動いているほうがずっといい。
裏庭に面した小間には、すでに人けがなかった。狼藉の場面は表玄関のほうへと移り、今は次の間の辺りで人声がしている。彼女は小間を通り抜けて、自分の寝間を目指した。あそこには、今年の年改めに父から贈られた小太刀がある。それを持って、すぐに裏庭へ引き返そう。
隣の小間に入ると、死体が転がっていた。政辰だ。胸を二か所刺され、血だまりの中に仰向けに倒れている。見開かれた目は虚空を睨み、口からも大量の血が流れ出ていた。肺を貫かれ、あふれた自分の血で溺れ死んだのかもしれない。伊都はその場に一瞬凍りついた。が、すぐに気を取り直し、血の足跡が入り乱れる畳の上をまた歩き出した。ここで立ち止まっていたら、やつらに見つかって同じように殺されてしまうだけだ。
湯殿の入り口付近にも死体があった。今度は下女の町だ。そこからさほど離れていないところに、すえも倒れていた。ふたりは同じ女中部屋で寝起きしている。きっと、襲撃の音に驚いて一緒に様子を見にきたところを襲われたのだろう。彼女が産まれた時から家にいた彼らは、奉公人とはいえ、心情的には家族も同然の人々だ。その惨たらしい死にざまを見せつけられ、伊都は胸に凶暴な怒りが湧き上がるのを感じた。
その怒りを力に変え、今にも石のように固まってしまいそうな両脚をなんとか動かし続ける。目指す部屋まで、あと少しだ。床を軋ませないよう、壁際を選んで慎重に歩いていき、ついに自室の前まで辿り着いた。
襖が半開きになっている。彼女は床に膝をついて入り口の脇から少し顔を出し、片眼だけで室内を覗き見た。裏庭へ行くために出た時と同様、中はきちんと整っていて薄暗い。襲撃者は誰もこの部屋へは入らなかったか、人がいないのを見て素通りしたのだろう。
伊都は身を低くした姿勢のまま、部屋の中へと這い込んだ。ようやく体の力が少し抜け、思わず吐息がもれる。いつの間にか、背中や首筋がじっとりと汗ばんでいた。極度の緊張を強いられたせいで、まだ何も成し遂げていないのにもう疲れ果てている。
このまま寝床に潜り込んで、すべて忘れて眠ってしまえたら、どんなにいいだろう。そんな考えが、ふと頭をよぎる。だが彼女はその誘惑的な迷いを決然と押しやり、畳に両手をついて勢いよく立ち上がった。休んでいる場合ではない。
籐細工の行李から小太刀を取り出し、胸にしっかり抱えると、また力が戻ってきた。次は裏木戸から出る番だ。
その時、壁を隔てた隣室から「いたぞ!」という胴間声が突如上がった。それを合図に、いくつもの足音がこちらへ駆けつけてくる。開いたままの戸口から見られない場所へあわてて移動した数瞬後、廊下をひとつの影が走り抜けた。動くのがもう少し遅かったら、きっと通りすがりに見つけられただろう。
背中を壁にぴたりと張りつけたまま、息を整えつつ伊都は待った。足音がすべて隣室へ集まったら――その時が脱け出す好機だ。今度は外へ出るまで足を止めず、一気に行こう。決意を固めたその時、隣室で母の細い悲鳴が響いて彼女を凍りつかせた。
「よし、ここへ引き据えろ」誰かが冷酷な声で命じる。まだ若い。「奥方、もう観念なさい。ご亭主はあなたを助けには来ないよ」
母が呻いた。痛めつけられているのだろうか。伊都の目から涙がこぼれた。父上はどうしているのだろう。なぜこいつらを斬り倒して、母上を助けないの。
「あなたたち、よってたかって夫を殺したの? そうなのね」苦痛を滲ませながらも、厳しい口調で母が問う。「武士の誇りはないのですか」
「武士の誇り? つまらぬことを言う女だ」
返答した声は嘲りに満ちていた。ほかの者たちが追従するように笑う。
「誇りを重んじて死んだ亭主にお似合いの女房だな」
「まったくだ」
父上が死んだ。伊都は凝然と目を見開いた。剣を取っては城内に敵なしと言われた、筆頭武術指南役の父上が。
「わたしも殺すがいい」母が吐き捨てるように言う。「でも、逃げおおせるなどとは思わないことです。この暴挙はいずれ必ず明るみに出て、あなたたちは相応の裁きが下るでしょう」
「もちろん殺しますよ」あの冷酷な声が静かに宣告する。「だが、ただ殺しはしない。そうするには、あなたは美しすぎるから」
「やめて」母の声の響きに、初めて怯えが混じった。「触らないで。多少でも情けがあるなら、殺しなさい。さあ早く」
「情けなどないよ」
無感情に発せられたその一言をきっかけに、隣室にあわただしい動きが起こった。壁を通して伝わってくる、乱暴に絹を裂く音。畳を激しく引っ掻く爪音。くぐもった母の呻きと悲鳴。その中に男たちの下卑た笑い声と、荒々しい息づかいが混じる。伊都は壁に背中をつけ、小太刀を胸にきつく抱いたまま、そのすべてを聞いていた。何が行われているかは、見なくてもわかる。
やがて誰かが「くそっ」と声高に叫んだ。焦りを含む声が「おい死なせるな」「押さえろ」などと口々に喚き合う。そののち、隣室は急に静まりかえった。
しばしの静寂を破ったのは、あの冷酷な声の持ち主だ。
「――腰物を抜かれるとは、間抜けにもほどがあるな」
「いや面目ない」年配のかさついた声が、唸るように言った。「まさか自害するとは」
伊都の顔から、一瞬で血の気が失せた。頭の中が真っ白になる。やがて音も色もにおいも、何もかもが遙か向こうへ遠ざかっていった。
倒れる。そう思った瞬間、はっと意識が戻った。だが、体ががくりと前につんのめるのを止めることはできなかった。幸いだったのは、崩れ落ちた膝の下にたまたま布団があったことだ。布と綿の厚みが、音をうまく吸収してくれた。もし畳に膝をついていたら、隣にいる男たちに気づかれただろう。
母上も死んだ。伊都はその残酷な事実をあらためて自分に言い聞かせ、萎えた脚に活を入れて立ち上がった。もう助けを呼びに行く必要はない。どこかに隠れよう。そして、あいつらがいなくなるのを待とう。あとのことは、彼らが去ってからゆっくり考えればいい。
一度決めると、彼女はもうぐずぐずしなかった。部屋を出て、さっきとは逆の道順を辿っていく。長い廊下を通って湯殿の前を過ぎ、ふたつの小間を突っ切ると、深閑とした裏庭に出た。そこに人影はないが、裏木戸の向こうがどうなっているかは今もわからない。
彼女は縁側から、庭土の上に飛び降りた。裸足のままで母屋の端まで走り、縁の下を覗き込む。記憶どおり、そこの格子が二本折れていた。以前、子猫を追ってここから床下に入ったことがある。そのころよりも少し体が大きくなっているが、まだなんとか通れそうだ。格子の向こうの暗い空間に、迷うことなく頭から飛び込み、狭い隙間に体をこじ入れる。途中で腰がつかえて恐慌状態に陥りかけたが、ふと思いついて体を斜めに倒すと、うまく通り抜けることができた。
床下の土はひんやりと冷たく、少しかび臭いにおいがする。それを両手で掻き分けながら、伊都は奥へ奥へと進んでいった。もし縁の下を覗く者があっても、見えないぐらい深く入り込まねばならない。床梁を一本、二本と数えながら這い続け、八本まで数えたところで少し休んだ。太い柱の根元に身を寄せ、外の様子を窺う。
真っ暗な床下からは、月明かりに照らされた裏庭の様子がよく見えた。光を受けて、池の表面がぽうっと光っている。待宵草は相変わらず夜風にのんびりと揺れていた。ほんの少し前まで、あそこで何の不安もなく花見を楽しんでいたのに。唇を噛みながらそう思った時、縁側にどかどかと足音を響かせて数人が出てきた。
「十かそこらの小娘だろう。なぜ見つからぬのだ」
「どういうわけか、我らが踏み込んだ時には、もう寝間にはいなかった」
わたしのことを言っている。捜している。伊都は緊張に体をこわばらせた。床下まで覗くだろうか。もし見つけられたら、もう終わりだ。その時は――母上のように、この小太刀で命を絶とう。
腹ばいのまま両手で小太刀を掴んで胸に引き寄せ、闇の中で両眼だけをぎらぎらと光らせながら、彼女は〝その時〟を待った。男たちはまだ家中を歩き回っている。ただ歩いているだけではなく、あちこちを開けたり、壊したり、物を床にぶちまけたりする音も聞こえた。物盗りに見せかけるため、わざと荒らしているのかもしれない。
やがて誰かが裏庭に降りてきた。覆面を下げている。その顔が月明かりに浮かび上がり、伊都はあっと息を呑んだ。
彼女は彼を知っていた。
志鷹頼英——天勝国の国主である志鷹朋房公の年若い弟で、父とはかねてから昵懇の間柄だ。たまに大光明城で開かれる催しの際などに顔を合わせると、いつも親しげに声をかけてきた。それが、なぜこんなことを。
彼は半壊した裏木戸のほうへ歩いていき、そこで誰かとひそひそ話をした。やはり見張りがいたのだ。
さらにもうひとり、覆面をしていても顔を見分けられる人物が裏庭に現れた。高牟礼顕祐。これは隣家の主人だ。伊都は唖然としながら、助けを求めに隣へ駆け込まなくてよかったとしみじみ思った。危うく自ら罠に飛び込むところだったのだ。
続いて庭へ出てきた男たちに見覚えはなかった。だが彼らも何らかの形で、父とはつき合いがあった人々に違いない。襲撃者が全員揃ったところで数えると、姿を見ていない裏木戸の見張り役を合わせて総勢八人だった。うちふたりは負傷しているらしく、仲間に支えられてどうにか立っている。父か、あるいは奉公人の誰かが反撃して、傷を負わせたのだろう。だが残念ながら、殺された敵は誰もいないようだ。
裏庭の中央へ戻ってきた頼英が、母屋のほうに厳しい視線を向ける。「それで、娘は本当に見つからぬのか」
壁を隔てて聞いた、あの冷酷そうな声だ。伊都は奥歯をぐっと噛みしめた。小太刀を握る両手に、我知らず力が入る。この男が母をどんなふうに扱ったか、決して忘れはしない。
「家じゅうくまなく捜しました。だが、どこにも姿がありません」
「たかが小娘――だが、何か見聞きして逃げたなら問題だな」頼英が考え深げにゆっくりと言う。「あの娘はわたしの顔を見知っている。顕祐も隣家のよしみで面識があるだろう」
そう指摘され、顕祐があからさまに動揺した。
「し、しかし……押し入った際の音に驚いて逃げたなら、我らの顔までは見ておりますまい。どこかへ駆け込んだとしても、言えるのはせいぜい強盗に襲われたということぐらいでしょう」
「誰にも悟られずに逃げ出した、というのが気にかかる。裏木戸にも表玄関脇にも見張りを置いていたのだぞ」
「家人しか知らぬ出口があるのでは」
「そう――かもしれぬな」頼英は腕組みをして少し考え、心を決めた。「よし、引き揚げるぞ」
男たちが顔を見合わせてうなずき合い、一人またひとりと裏木戸からすべり出る。このままそれぞれの屋敷なり城なりに戻るのだろう、ひとかたまりになってやって来た時とは違って、その足音は四方へばらばらに散っていった。
周囲で何も音がしなくなってからも、伊都はまだその場を動かなかった。誰かがふいに戻ってこないとも限らない。ようやく動く気になったのは、小半刻ほども経ったころだった。
湿った土の上に長く寝そべっていたせいで、体が完全に冷え切っている。骨まで凍えて硬くなったようで、滑らかに動くことができない。身をよじりながらぎこちなく這い進み、格子の破れ目から外に出るまで、思う以上に時間がかかってしまった。
邸内は何ごともなかったかのように静まりかえっている。その静寂には奇妙なよそよそしさがあり、軒下に佇んで家屋を見つめる彼女には、慣れ親しんだ我が家がもはや他人の家のように感じられた。今夜のことがどういう結末を迎えるにせよ、自分がこの家で暮らすことはもうないだろう。そんな実感がある。
伊都は汚れた裸足のままで縁側へ上がり、まっすぐに奥の間へ向かった。家の中は徹底的に荒らされ、破壊された調度や衣類が散乱している。それらを踏み越えて奥の間へ入ると、無惨な母の死体が目に飛び込んできた。
その傍らに膝をつき、畳の上に投げ出された青白い手にそっと触れる。そこにはもう温もりがほとんど感じられなかった。襲撃者の腰物で一気に搔き切ったのだろう、喉の右側に真っ赤な傷がぱっくりと口を開けている。そこから噴き出た大量の血が母の美しい顔を汚し、体の下にも大きく広がって畳にしみ込んでいた。光を失った両眼は、恨めしげに見開かれたままだ。
伊都は母の目蓋を閉じ、乱れた髪とはだけられた寝衣を整えてから立ち上がった。いつまでこうしていても、母が生き返らないことはわかっている。
さまざまな思いを呑み込んで、彼女は決然とその部屋を後にした。暗い廊下へ出て、さきほど通らなかった部屋をひとつずつ覗いていく。父を見つけたのは、八畳の表座敷の中だった。
彼は表居間で最初の襲撃を受けたようだ。畳の上に刀が落ちていて、血溜まりがいくつかあり、そこから這い跡が表座敷まで続いていた。襲撃者たちは追い詰めて、武器を持たない父を滅多切りにしたらしい。床の間の板床に片手をかけ、仰向けに倒れている彼の体には、ざっと見ただけでも二十もの傷痕が見て取れた。畳はもちろん、壁にも、障子や襖にも鮮血が飛び散り、禍々しい模様を描き出している。
誰よりも愛し、尊敬していた父。武芸の達人であり、どんな難局も切り抜ける力を持っていると思っていた父。その父が、寝込みを襲われ不意を突かれたとはいえ、まさかこんなふうに殺されるとは。年月をかけて鍛え上げた彼の技や精神よりも、襲撃者たちの狡猾さや機略の才のほうがまさったのだ。そのことに伊都は哀しみよりも、むしろ失望を強く感じた。これまで抱いていた〝強さ〟というものに対する、ある種の信仰が揺らいだ気がする。
暗澹たる思いに囚われながら立ち尽くしていた彼女が、つと顔を上げた。どこからだろう。ごく微かな、呻き声のようなものが聞こえる。家の者が、誰か生き残っているのだろうか。
用心しながら音のするほうへ歩いていくと、配膳の間の奥の土間に辿り着いた。台所との境目に切られた炉の向こうに、うずくまっている人影がある。ひと目見ただけで、〝爺や〟だとわかった。
急いで土間へ飛び降り、伊都は下男の長助に駆け寄った。だが彼は身動きひとつしない。傷を受けているのだろうか。
「爺や」
肩に手をかけ、小声でそっと呼びかけると、長助がのろのろと首を動かして彼女を見上げた。
「お嬢さま……ご無事でしたか」その目に安堵の涙が浮かぶ。
「怪我をしたの?」
長助は何か言おうとして、力尽きたようにそのまま崩れ落ちた。着物を見ると、右の肩口と腹部が血に染まっている。やはり、町たちと同じように襲われ、斬られたらしい。
「しっかり」
上に覆い被さりながら声をかけると、彼はうっすら目を開けた。
「お逃げください。遠くへ。お城は……いけません」囁くように言う。「誰が敵か――わからない。ご城下から出て……」
「爺や、どこへ行けばいいの」
「お名前は隠して……とお……遠くへ……」
長助の目が裏返り、目蓋がゆっくりと閉じた。喉がごろごろ鳴り、すぐに静かになる。それきり、彼は二度と目を開けなかった。
伊都はふらつきながら立ち上がり、炉の端に力なく腰を下ろした。頭の中には、長助の言葉が谺している。あれはどういう意味だろう、〝誰が敵かわからない〟とは。敵は志鷹頼英だ。そして高牟礼家の当主顕祐。それから、見覚えのなかった五人と、最後まで姿を見なかった見張り役。この家で乱暴狼藉を働いた、彼らが敵ではないのか。
長助は言っていた。〝お城はいけません〟〝ご城下から出て〟〝お名前は隠して〟。それはつまり、お城やご城下に、頼英の仲間がほかにも大勢いるということだろうか。
あれほど悲鳴や怒鳴り声が響いても、近所の人はとうとう誰ひとり様子を見に来なかった。あるいはそれは、今夜何が起こるかを彼らが知っていたからではないのか。もしそうなら今後は、絶対に敵ではないと確信できる相手以外には、決して身元を明してはならない。取り逃がしたわたしを捕まえるため、頼英とその仲間は網を張っているだろう。そこに自ら飛び込まないよう、爺やは警告してくれたのだ。
でも、だったら――伊都は途方に暮れて首を深くうなだれた。誰を頼ればいいの?
産まれてこのかた、城下から出たことは一度もない。大光明の郷の外に、どんな世界が広がっているのか想像もつかなかった。わけもわからず追われる身となり、両親も世話をしてくれる奉公人もいなくなった今、日々どうやって暮らしていけばいいのだろう。
その時ふと思い出した。大光明の東に隣接する門叶の郷に、父の妹の都留が嫁いでいる。住まいを訪ねたことはないが、これまでに一、二度は会っており、夫はたしか門叶城代の使番か馬廻で、度会なにがしという名前だったはずだ。屋敷町へ行って訊けば、家を教えてくれる人がきっといるだろう。
ほとんど面識のない叔母を頼っていくのは気が引けたが、比較的近くに住んでいて、すぐに思い当たる親戚は彼女ぐらいだ。それに門叶なら、大光明の城下ではないので、爺やの警告を無視したことにはならない。
伊都は心細かった。誰か大人に今夜起きたことをすべて話し、安全に保護されたかった。そして、ゆっくり悲しみに浸りたい。その思いが彼女に心を決めさせた。馬で行こう。半日もあれば着けるはずだ。伊都は腰を上げ、小走りに自室へ戻った。
土汚れがこびりついた寝衣を脱ぎ、最初に目についた小袖と馬乗り袴を手早く身につける。組み合わせも紐の結び目も適当だ。この乱暴な着付けを見たら、爺やはきっと顔をしかめるだろう。最後に髪をまとめてひとつに縛り、腰紐に小太刀を差し込んだ。
それから金目のものを探しにかかったが、襲撃者たちは徹底的に荒らしていったようで、ほとんど何も残っていない。父の巾着はもちろん、母の装飾品もすべて奪われていた。
門叶に着くまでに、何があるかわからない。わずかでもいいから銭貨を持ちたい。そこで彼女は、最後の頼みと思いながら長助の部屋へ行った。彼が甥の政辰と共に寝起きしていたのは、表玄関近くの六畳間だ。少しばかりの調度と、わずかな衣類や身の回りの品々を探って銭貨を探していると、やがて長助の小さな巾着が見つかった。襲撃者たちも、奉公人の持ち金を奪うことまでは思いつかなかったらしい。
巾着の中には、銅銭四枚と鉄銭十五枚が入っていた。全部合わせても銀銭一枚にも満たない額だが、無銭で旅をするよりは、これだけでも持っていたほうがずっと心強い。伊都は、長助の顔を思い浮かべながら巾着を押し戴き、大切に懐にしまった。
厩舎は敷地の外れにある。今は父の乗馬が二頭いるだけだ。行ってみると、その一頭の足元で馬取りの甚五郎が息絶えていた。襲撃者から馬を守ろうとしたのか、あるいは母屋の騒ぎに気づいて、馬でお城へ知らせに走ろうとしたところを見つかったのか。
伊都は、初めて馬に乗った時、彼が引き手を取って庭を回ってくれたことを思い出した。鞍のつけ方を教えてくれたのも甚五郎だ。馬具を出してきて、彼に教えられたとおりに鞍帯を締めながら、彼女はこの家で自分を育て、教え、慈しんでくれた人々を、ほんの一刻ほどのあいだに全て失ったのだとあらためて痛感し、たまらないほどの寂寥感に圧倒された。
両親や長助たちは、強い恨みの念を残して死んだだろう。彼らが悪霊に憑かれて漂魄になる前に、誰か見つけて弔いの手配をしてくれるだろうか。本来なら自分がすべきことだが、祭堂へ行っても堂司に家族全員の死をどのように伝えればいいかわからない。それに、大光明のご城下にいる堂司が、長助の言った〝敵〟のひとりではないという確証もなかった。
誰も信じられない。守ってくれる人もいない。直面している現実の厳しさと、途方もない孤独感がずしりと両肩にのしかかってくる。少しでも気を抜くと、押しつぶされてしまいそうだ。だが、あの時偶然裏庭へ出ていなかったら、自分も同じく死体となって、今ごろは家の中に横たわっていたはずだ――そう思うとまた怒りが蘇り、同時に力が湧いてきた。
死ぬものか。母が言ったように、やつらの罪が明るみに出て、お裁きが下るのを見るまで、絶対に死んだりしない。わたしを殺そうとする者がいたら、反対に殺してやるわ。それが誰であろうと。
伊都は馬を引いて厩舎と納屋を回り込み、裏門から外に出た。街路に人通りはなく、暗い夜道を月明かりだけが照らしている。行く手を邪魔をするものは何もない。
騎乗して走り出したあと、彼女はもう決して我が家を振り返らなかった。
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