八十五 王生国天山・石動元博 門迎えの儀
柳浦重晴の急逝から六日が経った。
魂送りの儀式も疾うに終わり、〈賞月邸〉の面々は表面的には平静を取り戻している。だがあまりにも突然すぎる仲間の死は、誰の心にも重く暗い影を落としていた。
病み上がりの黒葛貴昌にその衝撃はかなり堪えたらしく、今はまた少し体調を崩している。ようやく戻りかけた食欲もなくなってしまった。随員長の黒葛禎貴と傅役の朴木直祐がつききりで世話を焼いているが、あまり笑顔の見られない日々が続いている。
しかし仲間内で重晴の死にもっとも大きな精神的打撃を受けたのは、彼の親友であった真栄城忠資だった。
いつも飄々として、世の中に難しいことなど何もないという顔をしていた彼が、見る影もないほどに打ちしおれてしまっている。勤めだけはきちんとこなすものの、それ以外の時には何もせず、ただぼうっとしていることが多くなっていた。元気のない足取りで廊下をふらふらと歩く姿は、さながら幽鬼かなにかのようだ。
しんと静まりかえった邸内で身を持て余し、秋晴れの戸外に出て若君の部屋に飾る花でも切ってこようと玄関へ向かっていた石動元博は、真栄城忠資がまた裏庭に面した縁側に座り込んでいるのを見つけて足を止めた。悄然と肩を落とし、虚ろな目で前を見つめている。
こんな調子だと、いずれこの人まで病気になってしまう。
元博は心配になり、濡れ縁を回り込んで彼に近づいた。
「忠資どの」
声をかけると、忠資は大儀そうに首を回して彼を見上げた。
「ああ」力のない声でつぶやく。「元博か」
わずかのあいだに頬がやつれ、もともと細面だった顔がさらに細くなってしまっている。肌は血の気が薄く、目の下の隈だけが異様に際立っていた。
「少し外へ出ませんか。表の花壇を見に行きましょう。重晴どのの祭壇にお供えする花を、一緒に見つくろってください」
「いや――わたしは……」
断ろうとするのを黙殺して腕を取り、強引に立ち上がらせる。
「わたしは重晴どののお好みがわからないので、手伝っていただけると助かります」
自ら積極的に動こうとはしないが、押すなり引くなりすれば忠資は元博のいいなりだった。大人に引き回される幼児のように、黙ってされるがままになっている。
随員仲間としても剣術の師としても尊敬し頼りにしている彼が、こんな有り様なのはどうにも我慢がならなかった。なんとか、少しは気力を取り戻して欲しい。
忠資を無理に引っ張り出した戸外の空気は清々しく、雲ひとつない青空から降り注ぐ陽光はじんわりと温かかった。
詠月も半ばを過ぎて天山は秋の気配が深まり、朝夕の冷え込みはすでにかなりきつくなっている。だが昼間はまだ快適に過ごせる日が多い。
玄関前でひとつ大きく伸びをしてから、元博は忠資を前庭の花壇の前までいざなった。石を並べて柵囲いした中に、みんなで丹精して育てた色とりどりの花が咲き乱れている。
そのすぐ傍にある生け垣のサザンカも花盛りで、白や桃色の大きく華やかな花弁が元博の目には好ましく映った。だが忠資はまったく興味がないらしく、どこを見るともなくぼんやり佇んでいる。
「重晴どのは、花はお好きでしたか」
元博が問いかけると、虚ろだった彼の目がゆっくりと焦点を結んだ。錆びて軋む井戸車のようにぎこちなく首を動かし、花壇のほうへ視線をやる。
「好き……だったと思うよ。無骨な質だから、派手な色目のものや大輪の花には気後れするようだったけど」
「では、素朴な花を供えましょう。そっちの フジバカマを切っていただけますか。わたしはこちらのハマギクを」
花壇の裏側に回り込んで、元博は清楚な姿のハマギクを数本切り取った。作業をしながらちょっと様子を窺うと、忠資も薄紅紫色の小花をつけたフジバカマの根元にしゃがみ込んで手を動かしている。
ほんの少しだが、先ほどまでよりは表情がしゃんとしてきた――かもしれない。
元博は立ち上がり、サザンカもひと枝切り取った。開きかけの花がふたつ、つぼみがひとつついている。これは壺型の花器に生けて、若君のお居間に飾るとよさそうだ。
そんなことを考えつつフジバカマが群れ咲いている一角へ近寄ると、忠資は切り取った花を地面に置いて見下ろしながら、はらはらと涙をこぼしていた。
「忠資どの……」
胸を衝かれ、元博は彼の脇に片膝を突いた。おずおずと右手を伸ばし、少し震えている肩口をさする。
「しっかりなさってください」
「すまん」
涙に濁った声で、忠資はつぶやくように言った。
「恥ずかしいと――思ってはいるんだ。年長者のわたしが、こんな有り様で……年若いおまえに気づかいさせるなんて……」
「そんなことは」
「でも、どうにもならない。あいつが……逝ってしまったと思うと、胸が――詰まって」
「わたしも同じです」
元博も思わず涙ぐんでしまう。
「重晴どののことが大好きでした。兄たちと同じぐらい親しみを感じていたんです。重晴どのも、いつもわたしを気にかけ、優しくしてくださいました」
「あいつは、おまえのことが嫌いだと言っていた」
ふと思い出したように言われ、元博は衝撃のあまり一瞬頭の中が真っ白になった。愕然と口を開けたまま固まっているのを見て、涙を溜めた忠資の双眸にようやく生来の輝きが戻る。
「待った、勘違いするな。初めの――出会ったばかりのころの話だよ」
急いでなだめる彼の口元に、ほんのわずかに笑みが浮かんだ。
「子供のくせに物わかりがよくて、献身的で誠実で、しかも明るくて愛嬌がある……そんなのはなんだか嘘くさい、あまりにも出来すぎだ、などとぶつぶつ言っていたな。でも天山へ向けて旅を始めると間もなく、考えが完全に逆転したようだった」
彼はそのころを懐かしむような表情で、しみじみと言った。
「元博の人柄のよさは本物だ。生まれながらにいいやつだ。若すぎるあいつを、それでもぜひ随員にと寛貴公が推されたわけが今はよくわかる。そんなふうに力説していたよ。重晴も、元博――」
喋りながらまたあふれ出した涙を、手の甲でぐいとぬぐう。
「おまえのことがとても好きで、実の弟のように思っていたんだ」
元博はうつむき、目頭を手で押さえた。へたに何か言うと、嗚咽をもらしてしまいそうだ。
「わたしと重晴は気性は違うが――いや、違うからこそ気が合って、一緒にいると楽しかった。物事をいちいち真面目に受け取るあいつを、わたしはからかってばかりいたけど、重晴の一本気な言葉に救われたり学ばされたりしたことも何度もあったんだ」
「わたしも、そうでした」
ぐっと涙を呑んで述懐する。
「わたしは人質奉公は滅私奉公で、私心に囚われてはいけないと思っていたんです。でも重晴どのは、人づきあいを楽しんだり誰かを好きになったりすることをあきらめたりするなと――諭してくださいました。〝ここで過ごす日々も人生のうちだ〟という言葉に、どれほど力づけられたかわかりません」
「あいつらしい言葉だ。重晴は――彼自身も本当にいいやつだった」
「そうです」
「あんないいやつが、まさかこんなに急に、若くして……」
その点は元博もずっと引っかかっている。彼の死はあまりにも突然すぎた。
「もともと、あまり丈夫ではなかったようにお見受けしましたが」
「なに?」
忠資が怪訝そうな顔になる。
「そんなことはないよ。あの体を見ればわかるだろう。柳浦家直系の男はみんな、骨太でがっしりしていて健康そのものだ」
そう言われてみれば、元博の元の勤め先である生明城の家老柳浦重里も堂々たる体躯の偉丈夫だったし、十文字槍の使い手として名高い七草の柳浦重益などは岩壁にも喩えられるほどの大男だと噂に聞いている。
柳浦宗家の末息子である重晴自身も、兄たちに負けない厚い胸板と頑丈そうな四肢を持つ逞しい男だった。だが元博は、彼の体が弱いという印象をずっと抱いている。
「よくお腹を壊されたり、浮昇酔いを繰り返したりなさっていたので、病弱なかただと思い込んでいたようです」
「ああ、たしかに……」
忠資はつぶやき、少し考える様子を見せた。
「あいつが妙に病みつくようになったのは、天山に来てからだ。きっとここの水が合わなかったに違いない」
そう思うとまた哀れを催したように、彼は袖で目元を押さえた。
「天山になんか来なければ、きっと今も元気で生きていたろうに」
悔しそうに言うのを聞きながら、元博は胸に不快な疑念がもやもやと湧き出すのを感じた。
天山に来てから?
いや違う。忠資どのは忘れている。
重晴どのの不調はそれよりも前、ここへ向けて旅をしている時からずっと続いていたことだ。
三日連続で腹を下して、馬上で渋い顔をしていたのを覚えている。随員の中で彼ひとりだけが、ひどい風邪を何度もひきこんだ。元気にしているかと思えば急に食欲が落ちたりもした。胃の腑の違和感を訴えることもよくあった。天山入りしたあとは浮昇酔いをなかなか克服できない様子で、たびたび吐き気やめまいに苦しんでいた。
郡楽にいたころの彼が、忠資の言うように〝健康そのもの〟だったのなら、旅に出た時点から何かの要因で急に病気がちになってしまったことになる。だが、その要因とはいったい何だろう。
道中も天山入り以降も、重晴と元博たちはずっと同じ生活をしている。同じように眠り、起き、働き、同じものを食べている。それなのに、どうして彼だけが繰り返し体調を崩すのか。
そして今回の突然すぎる死。
ほとんど手遅れになってからようやく駆けつけた療師は、重晴の症状は何らかの中毒によるものと思われると言った。何か悪いものでも口になさったのでしょう、と。
だがその日も彼の食事内容は、元博たちが食べたものとまったく同じだったのだ。重晴はつまみ食いをするような質ではないし、薬療学に強い不信感を抱く頑固な薬ぎらいなので、具合が悪かったとしても服薬はしない。そんな彼が、どこで悪いものを口にする機会があったというのか。
気づくと、忠資が心配そうに顔を覗き込んでいた。黙りこくったまま、かなり長い間考え込んでしまっていたらしい。
「どうした、元博」
「すみません、何でもありません」元博はあわてて言い、苦笑いを浮かべた。「ただ――わたしたちが花壇の脇に座り込んで、こんなふうにぼろぼろ泣いているのをご覧になったら、重晴どのはどんなお顔をなさるだろうと、ふとそんなことを考えたんです」
「あきれかえって物も言えんだろうな」
忠資もくすりと笑い、何か少し気が晴れたように大きく息を吐いた。
「わたしがいつまでも泣いていたら、重晴はいやがるだろうか」
「怒ると思います。そういうご気性だったでしょう」
「そうだ」彼は言下に認め、それから虚空に目をやり、誰に向かってともなくうなずいた。「そうだな」
腰を上げて袴の裾についた土を払い、忠資は散らばったフジバカマを丁寧に拾い集めた。
「萎れる前に水に挿そう」
「はい」
連れ立って家のほうへ戻りながら、元博は一度だけ振り返って前庭を見た。
向かって左手には花の時期を過ぎたタチアオイ。
右手には今が盛りのキョウチクトウ。
木戸脇の花壇では秋の花々が風に揺れている。
ふっと――何かが頭の片隅をよぎった。
だがそれは一瞬で消えてしまったので、玄関を入るころには元博の意識にはもう何も残っていなかった。
その夜は、眠りがなかなか訪れなかった。
夜着を鼻先まで引き上げていて、体はぽかぽかと温かい。だが頭の芯は冷え切っている。なぜかそんなふうに感じる。
頭寒足熱はよい睡眠をもたらすと聞くのに、なぜこういつまでも眠りに入れないのだろう。月明かりを白っぽく透かしている窓障子の向こうで、秋の虫が盛んに鳴き声を響かせているせいだろうか。
元博は横向きに体勢を変え、畳の上に落ちている障子の桟の黒い影を見つめた。
虫たちの合唱は絶え間なく続いている。
小さな鈴をチリチリと振るような、あれはカマドコオロギ。
いくつもの玉が転がるような、あれはマツムシ。
スズムシの声は、水面に波紋が静かに広がっていくさまを想像させる。
その中に混じって、何か聞こえた。
低く深い。身にしみいるような声。あれは――。
寝床の上に跳ね起き、元博はじっと耳をそばだてた。
また聞こえた。来ている。奥庭の雑木林だ。
即座に立ち上がり、夜着の上に広げてあった羽織を掴んで部屋を出た。濡れ縁に回って裏庭へ下り、木戸を開けて広い庭園内に出ていく。
道すがら、苑路脇の草むらで鳴き声を上げていたコオロギを一匹捕まえた。それを手の中に包んだまま木立へ駆け入り、月明かりが木漏れ日のようにまばらに落ちている小道を足早に進む。
中ほどまで来たところで、元博は木々の梢を見上げながら左腕を伸ばして肩の高さに上げた。
「玉輪」
声を抑えながら呼びかける。
どうだろう。来るだろうか。それとも――いると思ったのは勘違いだったのか。
「玉輪、来い」
動悸が速まるのを感じながら、もう一度呼ぶ。すると右上の高いところでかすかな羽ばたきが聞こえ、はっと顔を上げるとこちらへ向かって滑空してくる鳥の姿が見えた。
満月のような丸い眼。茶と灰色が入り混じった柔らかそうな羽毛。柳浦重晴が〝相棒〟と言っていた、あのフクロウだ。
玉輪は元博の腕に舞い降り、大きなかぎ爪で体を安定させたあと、くるりとこちらへ顔を回した。
「おまえ、ちゃんとわたしを覚えていたんだな」
元博が囁きかけ、先ほど捕まえたコオロギを差し出すと、鳥は躊躇なくそれを掴み取って呑み込んだ。よく訓練されているらしく、餌をもらったあとは腕の上でおとなしくしている。
「重晴どのは、もういらっしゃらないんだ」
低くつぶやく彼を、玉輪は黄色い縁取りのある大きな黒い瞳でじっと見つめた。その顔つきがあまりに賢そうなので、こちらの言うことをすべて理解しているのではないかと錯覚しそうになる。
ふいに、フクロウが首を背面に回した。くぐもった短い鳴き声を放ち、ぱっと飛び立つ。
元博が急いで振り向くと、そこにひとりの男が佇んでいた。
黒い猿股を穿き、洗いざらした藍色の小袖を尻はしょりにして、いくつも引き出しのついた大きな荷箱を背負っている。一見したところ、煙管の修理や掃除をする〝羅宇屋〟と呼ばれる職人のようだ。
男はその場にさっと片膝をつき、独特の抑揚があるやわらかな声で囁くように言った。
「石動元博さま、でございますね」
「そうだ。おぬしは、もしや――空閑の」
「は」男は顔を伏せたまま、深くうなずいた。「手前は空閑宗兵衛配下の者で、政茂と申します。皆さまのご行列と共に秘かに天山へまいり、以降は羅宇屋を装って五の曲輪の長屋に住まいながら、鳥を使って柳浦重晴さまと七日に一度つなぎを取っておりました」
忍びの存在は重晴から聞いて承知していたが、実際に会うのは初めてだ。
「重晴どののことは……」
「存じております。おいたわしいことでございました」
政茂は目を上げて元博を見た。落ち着いた物腰だが、年はまだ若い。二十歳をいくらも過ぎていないように見える。
「もうしばらくここで待ち、おいでにならぬようでしたら、お部屋へ忍んで行くべきかと思案しておりました」
「出てきたのは玉輪の声が聞こえたと思ったからで――まさか、おぬしがいるとは思わなかった。この曲輪へ入るのはかなり難儀だと聞いていたし」
「このたびは無理を押して、どうにかもぐり込みました。重晴さまがおられなくなろうとも、ここでの仕事は続けねばなりません」
それはわかるが、自分とどういう関係があるのだろう。こうして会いはしても、忍び働きの役に立つようなことをしてやれるとも思えない。
「わたしに……何か頼みたいことでも?」
「重晴さまのお跡を継いでいただきとうございます」
政茂は寸間も置かず、きっぱりとした口調で言った。
「手前の役目は、お国元とこちらさまとをおつなぎすること、それから探索です。この曲輪でのつなぎ先となり、また何を探索すべきかをご指示くださるかたがおられねば役目を果たせません。重晴さま亡き今、それを元博さまに肩代わりしていただきたいのです」
「まさか、そんな……わたしは――」
子供なのにと言おうとして、はたと口をつぐむ。
違う。子供ではない。
年こそ若いが元服を――それも成り行きとはいえ三度も済ませた立派な大人だ。武家の子は早ければ十歳ぐらいから小姓などの御役に就いて働くものだし、ひとたびそうなったらもう〝子供ですから〟などという言い訳は通用しない。
だが自信がなかった。
人と話して情報を集めたり、政茂から報告を聞いたりするのはともかく、それらにどんな意味があるかを考え的確な判断を下すことなどできるだろうか。それに重晴の役目を肩代わりするということは、彼がしていたように随員仲間の監視をするということでもある。そんな重い仕事を自分にこなせるとはとても思えなかった。
「無理なお願いとは存じますが――」政茂が静かに言った。「重晴さまより、元博さまには諜報の動きについてつぶさに打ち明け、ご助力いただいておられたと伺っております。この件を知る者は、ひとりでも少ないに越したことはございません。それゆえ重晴さまのお跡は、すべてご存じの元博さまにぜひお引き受けいただきたいのです」
「でも、いずれ国元から……重晴どのに代わる人物が送られてくるのでは?」
「かもしれません。では、その時までの間を埋める代役とお考えいただいてもけっこうです」
「言い分はわかるが、これほど重要な役目をこの場で今すぐには引き受けかねる。少しだけ――猶予をもらえないか」
政茂は凝然と元博を見上げながらしばらく黙っていたが、やがて納得したように首を垂れた。
「ごもっともです。では七日後の深更、再びここでお会いできましょうか」
「承知した」
その時にどんな返答をすることになるのか、今の時点ではまったくわからない。だがともかく、考える時間を与えられて内心かなりほっとしていた。
「ところで」
政茂は腰を上げながら、意味深な面持ちで元博を見た。
「重晴さまがお亡くなりになった経緯について、できれば詳しくお聞かせ願いたいのですが」
思い出すだけでもつらい一連の出来事を、それでも元博はなるべく何も省略せずに話して聞かせた。
柳浦重晴が宿直の最中に不快を催し倒れたこと。
激しいめまいと嘔吐、疝痛があり、体は冷や汗でしとどに濡れていたこと。
時が経つにつれて四肢の力がなくなり、意識が混濁していったこと。
最後には呼吸が極端に浅くなり、脈もほとんどふれなくなったこと。
桔流家が手配してくれた療師が到着した時には、もう呼びかけても目を開けることすらできなかったこと。
療師が言った「中毒だろう」という所見についても教えた。「悪いものを食べたに違いない」という見立てだが、そんな様子はないようだったということも。
政茂は真剣な表情で聞き入り、元博が話し終えると低い呻き声をもらした。
「老人や子供ならばともかく、あのように若く身体屈強なかたが、たとえ何かに中毒を起こしたにせよ、それほど短時間でお命を落とされるものでしょうか」
「わたしも――」元博は思わず急き込んで言った。「どうしても腑に落ちないんだ。具合が悪くなられてから、亡くなるまでに三刻とかからなかった。そもそも食べ物に中ったとしても、普通はあそこまでひどい症状にはならないと思う」
「おっしゃるとおりです」
その時なぜか、元博の脳裏にふと昼間見た光景が蘇った。
風に揺れる花壇の花々。
タチアオイにサザンカ。
キョウチクトウ。
「毒……」
小さくつぶやいた彼を、若い忍びが怪訝そうに見つめる。
「キョウチクトウには毒があると――以前聞いたことがある気がする。本当だろうか」
「はい。毒のある植物は、ほかにもいろいろございます。トリカブトやヒガンバナ、スズランなども」
「人が口にしたらどうなるかな」
「それは……ものによりけりです。たとえばトリカブトを食べると呼吸ができなくなり、激しく嘔吐し、時には心の蔵が止まることもあるとか」
「〈賞月邸〉の前庭に、キョウチクトウが植えられているんだ」
政茂の眼光が少し鋭さを増した。
「元博さまは、重晴さまが何者かに毒を盛られたと――お考えで」
「わからない。でも重晴どのは郡楽を発たれたあと、おひとりだけたびたび体調を崩されていた。もし誰かが旅の始まりから少しずつ毒を盛ってお体を弱らせていたなら……そして今回、いよいよお命を奪う意図で強い毒を使ったとしたら」
激烈な症状を呈し、短時間で命を落としたのもうなずける。
政茂と目を見交わしただけで、互いに同じことを考えているとわかった。
「しかし、だとすると――」忍びが張り詰めた表情になる。「下手人は郡楽からご一緒された、随行のかたがたの中にいるということに」
「そうなんだ」
元博は背筋にうそ寒いものを感じながら、憂鬱な気持ちで目を伏せた。
「考えたくもないが、その可能性は否定できない。人質身分の我々がここで秘密裏に毒物などを調達するのは難しいと思ったけど、危険な植物がすぐそこにあるなら……〈賞月邸〉に立ち入れる者であれば毒殺は誰でも実行できる」
こんなのは厭だ。本当に厭だ。
共に暮らし、笑い、泣き、助け合ってきた随行家臣団の面々や、よく仕えてくれている従者たち、雑務に警備に尽力してくれている雑兵たちの中に、悪意に満ちた企みを抱く者がいるかもしれないなどと疑うこと自体が耐えがたかった。
だが目をつぶり、知らなかったことにするわけにはいかない。重晴を殺めた何者かが、いつ黒葛貴昌に牙を剥かないとも限らないからだ。
「調べます」
政茂が静かに言い、元博はゆっくりと顔を上げた。
「随行衆の中に、毒や薬の扱いに慣れた人物がいないかどうか。急ぎ頭目につなぎを取り、南部でも仲間にこの件を調べさせるよう伝えます」
「……うん」彼の存在を頼もしく思い、わずかに心慰められるのを感じながらうなずく。「わたしも、それとなく探ってみる」
「はい。ですが、どうかお気をつけて。常にお身の安全を第一にお考えくださいますよう」
「わかった。おぬしのほうも、くれぐれも用心して欲しい」
「心得ました」
初めて政茂の口元に小さく笑みが浮かんだ。
「では、七日後にまた」
すうっと身を引いて影に溶け込み、音もなく木立の中へと姿を消す。
最後に一度だけこちらへよこした眼差しは、ほら、できるじゃありませんか――と言っているように見えた。
二回の休みをはさんで久しぶりに本曲輪御殿の道場へ稽古に出かけた元博は、相変わらず容赦のない月下部知恒にさんざんしごかれたあとで白須美緒に会った。
会えるとは思っていなかったが、稽古を終えていつもの石段に行ってみたら、彼女が握り飯の包みを抱えて待っていたのだ。
従者の小酒部孫六が気を利かせてその場を離れたあと、元博は風呂敷包みを受け取りながら彼女に謝罪した。
「お知らせもせずに、二度もすっぽかしてしまってすみません」
「どうぞお気になさらず。大変なことがあったのですもの」
美緒は悲しげに言い、沈痛な面持ちで頭を下げた。
「柳浦重晴さまのこと――お悔やみ申し上げます」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
こうした紋切り型の言葉でも、彼女の口から発せられると、この上ない優しさと気づかいにあふれているように思える。
今朝の握り飯には鶏のそぼろが入っており、どこかしみじみとしたその味を元博は素直に旨いと感じた。重晴の死後、食べ物の味をちゃんと感じられたのはこれが初めてかもしれない。
「このお結びなら、若君もすすんで召し上がるかなあ」
ぽつりとつぶやいた彼を、美緒が小首を傾げながら見つめる。
「食欲をなくされておいでなのですか」
「そうなんです。重晴どのの一件がかなりおつらかったようで、すっかり元気をなくされてしまって」
「わたしでよろしければ、お結びぐらいいくらでもお作りしますけど」
「でも、まさか奧勤めをなさっているかたに、お結びを握りに〈賞月邸〉まで来ていただくわけにもいきませんしね」
元博が苦笑して頭を搔くと、美緒は手を口元にあててくすくす笑った。いつも変わらない、その穏やかで慎み深い笑顔にほっとさせられる。
かなり気分が上向いたのを感じながら帰途についた元博は、荷物を抱えてうしろを歩いている孫六に何げなく問いかけた。
「美緒どのが作られるお結びは、絶対ほかの人が握るものより味がいいと思うんだ。お人柄のせいでそう感じるのかな」
「それもあるでしょうが」孫六は何とも言いがたい奇妙な声音で言った。「好きな人が作ってくれれば、なんでも美味しく思えるということなのではないですか」
「好きな……」
元博は急に頬が熱くなったのに気づき、少し決まりが悪くなって手のひらでごしごしこすった。話題を変えようと、適当な材料を求めてあたりを見回す。
ふと、道の先を行く武士の羽織に目がとまった。背に派手な意匠の家紋が刺繍されている。
「あれは〈捻じ稲妻菱〉――かな。菱形が十もある。どこの家のものだろう。知っているか」
孫六が脇から覗くように前を見て、ううんと低く唸った。
「さあ、存じません。ですが、ああいう捻じのあるご紋は珍しく感じますね。南部ではあまり見ないものですし」
「そうかな」
「黒葛さまの支族の中では、玉県氏ぐらいではないですか」
〝いつつねじ〟
突如として、そんな言葉が頭をよぎった。
最後にふたりきりで話をした時に、柳浦重晴が口にした言葉だ。
彼は空閑忍びが見かけたという、桔流邸を訪れた胡乱な男について語っていた。その人物の特徴が、かつて彼が郡楽の城内で見た誰かの供連れに酷似していたという。途中で邪魔が入ったのでおしまいまで聞けなかったが、あの時たしかに重晴は〝一緒にいた主人の羽織の背に五つ捻じ――〟と言いかけていた。
あれはきっと、家紋のことを言おうとしていたのだ。どうして今まで忘れていたのだろう。
「玉県家の家紋は……何だったかな」
元博の声が軋むような響きを帯び、それに気づいた孫六が訝しげに少し近づいてきた。
「〈五つ捻じ玉〉だったと思います。花弁が五枚の花に似た形の」心配そうに横から顔を覗き込む。「どうかなさいましたか」
「いや、なんでもない」
生返事をしたあと、元博は黙然として考え込んだ。
重晴が郡楽で見た頭に傷のある男は、玉県家の家中だったのかもしれない。そして空閑忍び――政茂がここで見かけた男と本当に同じ人物だとすると、それは国元から玉県家が遣わした使者かなにかである可能性が高いと考えるべきだろう。
だが夕暮れ近くに来て、人目を避けるように裏木戸から入ったという話だった。正式な使者がそんな真似をするだろうか。それに、南部から誰か来たという話が自分たちに伝わっていないのもおかしい。第一、そのとき玉県吉綱はほかの仲間と共に二の曲輪庭園の〈槻影館〉にいたのだ。
では玉県家の使者は、桔流邸内でいったい誰に会ったというのか。
重晴はあの時、〝当人を問い質してみる〟というようなことを言っていた気がする。あれは桔流邸に来た胡乱な男が玉県家の者かどうかを、吉綱に直接訊いてみるという意味だったに違いない。
はたして彼は実際に訊いたのだろうか。吉綱はそれに、どう返答したのだろう。
今となっては知りようもない。庭であの話をしてから半日も経たずして、重晴は死んでしまったのだから。
嫌な考えが胸中にじわりと黒いしみを作る。
あの不可解な突然の死は、もしや――。
訊いてはならないことを……訊いたせいでは――。
「元博さま」
ふいに名を呼ばれ、物思いに沈んでいた元博は思わず跳び上がった。
「な、なんだ」
あわてて振り向いた彼を、孫六が不思議そうに見つめる。
「お屋敷を通り過ぎますよ」
言われて周囲を見ると、いつの間にか桔流邸のすぐ前まで帰り着いていた。門を守る顔見知りの番士が、視線を逸らせて笑いを噛み殺している。
赤っ恥をかいてしまったが、先ほどまで考えていたことがまだ頭の中を占めているので、あまり気にならなかった。
だが、これ以上ひとりであれこれ思い悩んでも埒が明きそうにない。個人の想像や推測には限界がある。誰かと情報を共有して、腹蔵なく意見を述べ合うことが必要だ。
重晴がもういない今、その相手を務めてくれるのは政茂しかいない。おそらく彼のほうも同じように考えて、敢えて危険を冒し接触を試みてきたのだろう。
やるしか――ない。
庭園の中の小道を歩いて〈賞月邸〉に向かいながら、元博は心の中でつぶやいた。
できるか、やりたいかではなく、やらねばならない。
力量不足とは思うし、不安な気持ちは今なお強いが、それでもここで逃げ腰になって放り出したら、きっと後悔することになるだろう。あとになって、あのとき怯まずにやっておけばよかったなどと思うのはいやだ。
次に政茂に会ったら――。
元博は決然と顔を上げ、まっすぐ前を見据えた。
役目を引き受ける、と言おう。
その時、〈賞月邸〉の前庭に佇む人影が目に飛び込んできた。はっと息を呑む間に、足はもう駆け出している。
「五葉さん!」
花壇の花の一部のように、すっと背筋を伸ばして立っていた黒い法衣の男が、ひと声叫んで駆け寄る元博を見て軽く頭を下げた。
「元博さま。ご無沙汰しておりました」
約三月ぶりに天山へ舞い戻ってきた伝道の小祭宜は、別れた日と少しも変わっていなかった。泰然とした物腰、朗々と響く深みのある声、静穏な眼差しも元博の記憶にある通りだ。
「これから東へ向かう前に、一度皆さまにお会いしておこうと思い立ち寄りました。次にこの地方へ戻ってくるのは、数年先になるかもしれませんので」
「そう……なのですか」仕方のないことだが、少し寂しい。「来ていただけて嬉しいです。ほかのみんなには、もう?」
「はい。曲輪門が開くのを待ってすぐに入り、そのままこちらへ伺いました。朴木直祐さまが、もうじき元博さまが本曲輪から戻られるとおっしゃったので、ここでお待ちしていたのです」
彼の表情がふっと暗くなる。
「柳浦重晴さまのことをお聞きして、たいそう驚きました」
「わたしも、まだうまく受け止められません。突然すぎましたから」
「若君もずいぶん気落ちしていらっしゃるようで、気がかりですね。それに最近、大変なお怪我をなさったとか」
わずかのあいだに、あまりにも多くの出来事があった。元博はあらためてそう思い、かすかに身震いした。
「ここでの日々は、考えていた以上に困難続きです」
苦笑いする彼を、五葉が真剣な目で見つめる。
「元博さまは――お変わりありませんか」
声が微妙に変化したことに気づき、元博は彼を見上げて視線を絡ませた。静かな眼差しの中に気づかいといたわり、そしていくばくかの憂慮が入り混じっている。
心の均衡を保てているのか。この先も持ちこたえられるのか。言葉に出されずとも、彼がそう危ぶんでいることはわかった。
「わたしは、変わらなければならないと思っています」
きっぱりした口調で言うと、五葉はわずかに目を見開いた。
「もっと強くなり、賢くなり、物事をきちんと判断して正しく行動することができるようになりたい――いえ、ならねば」
小袖の布地の上から、懐に入れている祈り珠にそっと触れる。前に五葉から贈られて以来、ずっと大切に身につけているものだ。
「信仰を持つことは、その助けになるでしょうか」
五葉はしばらく黙っていたが、やがて厳粛な面持ちで深くうなずいた。
「何かに悩み、惑い、ご自身のお心と向き合おうとする時、信仰は元博さまの支えとなり得るでしょう」
元博は指先に珠の形を感じながら、しばし瞑目した。
運命だ――と思う。
ひとつの大きな決断をしたこの日、この朝に五葉祭宜と再会したのは偶然などではなく、きっと初めからそうなる定めだったのだ。
ゆっくり目を開けると、彼は表情を引き締めて居住まいを正した。
「五葉さん、わたしに〈門迎えの儀〉を授けてくださいませんか」
「天門神教への入信を――お望みなのですか」珍しく、やや戸惑う様子を見せる。「喜ばしいことではありますが、それならばわたしではなく祭堂で九重堂司にお願いされたほうが。あのかたは大祭宜ですから」
「堂司とは何度もお会いして、立派なかただというのはわかっています。でも、わたしを信仰に導いてくださったのは五葉さんですから、ぜひあなたに〈門師〉となっていただきたいのです」
少し考えたあと、五葉は穏やかに微笑んだ。
「心から光栄に思います。桔流さまに主屋の祭壇の間をお借りして、今夕にも儀式を執り行いましょう」
「ありがとうございます」
元博はほっとしながら笑みを浮かべ、ふたりの頭上に枝を伸ばしているキョウチクトウを振り仰いだ。
「ここしばらく、渦の中で為す術もなく揉まれているようでしたが、今やっと――本当にやっと、足元が定まったという気がします」
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