八十四 三鼓国郡楽郷・六車兵庫 旅立ち
目的地の郡楽郷まで、あとほんの十二、三里というところへ来て儲口守計が病に倒れた。といっても風邪をこじらせた程度で、大げさに騒ぐほどのことではない。だが旅の疲れが祟ったのか高い熱が続き、しばらくの間は安静を余儀なくされた。
ここへきて足止めを食らうとは。
口に出して言いこそしないものの、六車兵庫は連れがいる旅の不自由さをあらためて感じていた。
具合の悪い守計には同情するし、己が強行軍を強いたせいかと多少の罪悪感をおぼえもするが、ひとり旅の気楽さと円滑さを懐かしむ気持ちがないと言えば嘘になる。
それでも、とりあえず守計は回復傾向を見せており、病臥しているあいだの仮の宿りとなった旅籠を明朝には引き払おうと自ら言い出すまでになっていた。今夜ひと晩様子を見て、熱がぶり返さなければ出立しても問題はないだろう。
夕暮れ近くに宿の裏手の空き地で型稽古をやっていると、手持ち無沙汰そうな長楽正幸がぶらりと様子を見に来た。剣術の稽古をしているところを見るのは好きだが、彼自身には武芸の心得はほとんどないらしい。だが守計の側仕えを今後も続けるのなら、いずれその方面も多少は嗜む必要に迫られるだろう。
兵庫が黙々と型をなぞっているあいだ、正幸は邪魔にならないよう脇へ避け、宿の小さな菜園を囲む低い木柵に尻を載せて見物していた。いつもの仏頂面だが、熱心に動きを追う目は楽しそうに輝いている。
やがて兵庫が稽古を終えると、初めて彼は口を開いた。
「それは流派で教えている型なのか? 流れる水のようだな」
「うちの道場に流だの派だのはないんだ」兵庫は首筋をつたう汗を拭きながら説明した。「型は師匠の六車利兵衛が考案したもので、これを知る者は天下に五人。師匠とおれと、三人の兄弟子だけだ」
「門人が四人?」
正幸は驚いたように言い、気難しげに眉をひそめた。
「そんなんで立ちゆくのか」
「正直、かつかつだと思う」
兵庫は笑い、手ぬぐいを懐に仕舞った。
「だが師匠は金がなければ、ないなりに暮らせばよいという考えだからな。辺鄙な山の中で稽古以外にすることもないから、みんなで畑仕事を少々やったり、たまに禽獣を獲ったりして、それなりに食っていくことはできている」
「おもしろそうな道場だ」
前にも似たようなことを言われたな、とふと思う。あれは七草で出会った刀祢匡七郎だった。彼は兵庫が〝むさ苦しい〟と評した道場暮らしの内情を聞いて、目に奇妙な憧れをにじませながら「楽しそうですね」と言ったのだ。
あの年若い友は元気でやっているだろうか。槍術の腕前はどれほど上がっただろう。
柄にもなくぼんやり思いを馳せていると、正幸が立ち上がって近づいてきた。何か言いたげな目つきをしている。
どちらかというと口下手な男だと思っているので、兵庫は話を急かすことはせず、相手が何か言い出すまで黙って待っていた。個人的な相談ごとなどされてもうまく答えられる自信はないが、話を聞いてやることぐらいならできる。
「明日、ここを発って――」彼は少し上目づかいに兵庫を見ながら、用心深い口調で切り出した。「若殿が途中で調子を崩さなければ、明後日には郡楽の城下に入れるだろうか」
「そう思う。守計どの次第だな。体がつらそうなら、どこかでもう一泊したほうが無難かもしれない」
「郡楽に着いたら、あんたはどうするんだ」
意外な質問だった。武者修行の旅の途中であることは彼も知っているはずなのに、なぜいまさらそんなことを訊くのだろう。
「すぐに城下を出て、西へ向かう。次に訪ねたい道場が、三州の南西にふたつあるんだ」
「若殿と一緒に、黒葛家に仕官するつもりはないのか」
突拍子もないことを言い出した正幸を、兵庫は戸惑いながら見つめた。
「そんな気はない」
「どうして」
どうしてなどと訊かれても、ないものはないとしか言いようがない。彼はますます困惑を深めながら、静かに問い返した。
「おれに仕官させたいのか?」
正幸は怯んだように顎を引き、少し考えてからこくりとうなずいた。今度はこちらが、どうしてと問う番だ。
「なぜそう思うんだ」
「侍身分になって、おれを郎党にしてくれないか」
兵庫は唖然として、しばし言葉を失った。
「おれの……家来になりたい、と?」
正幸が真面目な顔でうなずく。あまりに唐突――と兵庫には思えたが、いま急に思い立ったわけではなく、どうやら前々から腹の裡で考えをあたためていたらしい。その眼差しに曖昧さは微塵もなかった。
「だが、おぬしは儲口家の家臣で、いまは守計どのの側仕えだろう。なにも、おれのような名もない若造に――」
「あの人だって、まだほんの若造だ」木で鼻を括るように言う。「どうせ仕えるなら、同じ若造でも自分が気に入った相手にしたい」
そうは言うが、気に入ったという素振りなど一度も見た覚えはない。いったいいつ、何が原因でそんなふうに見込まれたのだろう。
「おれを変に買いかぶっているのでは」
「違う」
むっと眉をしかめ、正幸は射るような目をした。
「このひと月あまり、ずっとあんたを見てきて、こいつだと感じたんだ。最初にそう思ったのは上水山でだが――あの時おれが去らずに残ったのは、もうしばらくあんたとつき合ってみたくなったからで……若殿のためじゃなかった」
「そうまで言われる理由が、正直さっぱりわからん」
「上水山で若殿が不覚を取った時、あんたはすぐさま助けに行くと決めた。理由を訊けば、もうこの世にいない〝守恒公のため〟だと言う。こいつ阿呆じゃないのかと、おれは心底あきれたよ」
褒められるのかと思えば、ずいぶんひどい言われようだ。
「だってそうだろう。話を聞けば、その守恒さまにだって、べつに何か世話になったってわけじゃない。あんたは世話をした側だ。そのせいで命を狙われるはめになったのに、律儀に処刑にも立ち合った。驚くのは、そこまでやっておきながら、なにひとつ得をしてないってことだ。むしろ、行きがかりで孫の世話まですることになって損をしているぐらいだろう。なのに、山で勝手に突っ走ったあの人を、あんたは迷いもせず救いに行った」
そうまとめて並べ立てられると、いかに自分が要領の悪い人間かを突きつけられているようで居心地が悪い。師匠にはいつも、〝損得勘定ができず情で動く駄目なやつ〟だと言われていた。
「たんに不器用なんだ」
「かもしれんが、そこがいい。あんたの物事との向き合い方には、ぶきっちょなりに一本筋が通ってる――とおれは思う」
「落とされたり上げられたり、忙しないな」
兵庫が笑みをもらすと、正幸はつられたように頬をゆるめた。
「もともと育ちも口も悪いんだ、おれは。だが、あんたは違うと思ってる。名もない一介の武芸者だなどと嘯いているが、たぶん氏素性は悪くないはずだ。どんなに隠そうとしても品位は行いに表れるもので、日々近くで見ていれば自ずと知れる」
やっぱり、と兵庫は苦笑いをした。
「買いかぶってるな。あいにくだが、おれはそんな大層な者じゃない」
夕焼け雲が広がる空を見上げ、ひとつ大きく息をつく。
「ご隠居――守恒公とのことも……何も得をしていないとおぬしは言ったが、それは違う。あの人は、おれに大切なことを教えてくれた」
ふたりで酒を酌み交わしたあの夜。
胸にしまっていた哀しみと後悔をすべて吐き出し、抑えきれぬ涙にひとしきり咽んだあと、あの人は言った。
人生は短いと。
だからあとで悔いることのないよう、思いのままに生きよと。
そして、よき死にざまを得よと。
あの時、彼がとても美しい表現を使ったことを覚えている。あれはどんな言葉だったろうか。
人の一生は――そうだ、〝玉響のことにすぎぬ〟と、彼はそう言ったのだった。
玉は触れ合えば互いに跳ね返す。触れているのは、接して音を発するほんの一瞬だけだ。天地に較すれば、人の生はそれと同じほどにも短い。だから無駄なことに費やす暇などないのだと、その生涯で多くの悔恨を背負ってきた老人は、まだ人生を歩み始めたばかりともいえる青二才を真摯に教え諭してくれた。
誰もが知っていることではある。
知ってはいるが、ともすれば失念しがちなことでもある。
守恒の言葉と死に触れることによって、兵庫はそれを魂に深く刻みつけられた。この先どれだけ生きるとしても、いつどんな時も決して忘れることはないだろう。
兵庫は守恒のために骨折って、何も得をしなかったとは思っていない。それは目に見える得でこそないが、間違いなく手渡され、たしかに彼は受け取ったのだ。
「それに護衛料ももらっていたぞ。なんだかんだで、けっこうな稼ぎになった」
ふと思い出してつけ加えると、正幸は疑わしそうな表情をした。
「命を懸けたのに見合うほどではなかろう」
「じつは公の財布も持っている。百武城へ上がる前に預けられたもので、中には金子がぎっしりだ」懐にずっと入れたままの守恒の道中財布を、半分ほど引き出してみせる。「まあ、これは郡楽で別れる前に守計どのにお渡しするつもりだが」
「そのままもらっちまえばいいのに」
左目をしかめながら狡そうに言い、正幸はふっと嘆息した。
「金には頓着しないんだろうな」
「あって困ることはないが、なければないで己ひとりの身ぐらいどうにでもなるものだ」
師匠と同じようなことを言っている。途中で気づき、自分が可笑しくなった。昔から事あるごとに聞いていたので、頭に刷り込まれてしまったらしい。
「それにこの金は今後、守計どのにこそ入り用となるだろう」
兵庫はつと顔を上げ、正幸のほうを見た。
「おぬしもだ」
視線の先で、無愛想な三十男が少したじろぐふうを見せる。
「おれに家来は必要ない。だが、守計どのにはおぬしが必要だ」
「ほかを見つけるさ」素っ気なく言い、彼は軽く鼻を鳴らした。「代わりなどいくらでもいる」
「いや、いない」
兵庫は視線を逸らさず、静かに言った。
「守計どのにとって、おぬしの代わりになる者などない。誰もが見捨てて離れていく中、ずっと傍にいてあのかたを助けたのはおぬしだけだった。報いたいとおっしゃっていたぞ」
「上水山でだろう。聞いたよ」
「いや、その前――永妻郷で切腹を思い留まられたあとだった。ご身分がら、そうそう面と向かっては言われぬだろうが、感謝しておられるのだ」
正幸は不満そうだった。
「おれを郎党にする気がないから、若殿に押しつけようって魂胆だな」
「気があってもどうにもならん。おれは来年にはどこかの軍備に入るつもりなんだ。身を寄せた先がそこそこしっかりした家なら多少の宛がいは見込めるだろうが、雇い人の食い扶持までは保証されまい。へたに連めば、むさい男ふたり食うや食わずの貧乏所帯、戦に出るより内職のほうが忙しい――という有り様になりかねん。そんなのは、ぞっとしないだろう」
黙って聞いていた正幸は無精髭だらけの仏頂面をほんの少しなごませ、それから悄然と視線を落とした。
「やっとうはできんが、馬取り槍持ちはお手のものだし、あんたよりずっと年食ってるぶん何かしら役に立てると思ったんだがな」
「気持ちは嬉しいが、おれじゃなく守計どのを支えてあげてくれ。たとえ黒葛家への帰順を受け入れられたとしても、かつての敵の陣中で当分は厳しくつらい時期を過ごされることになるだろうから」
正幸の暗く陰った目に、理解とあきらめの色がゆっくりと広がった。
「あんたのために」つぶやくように言い、深いため息をつく。「働いてみたかったよ。いずれ何かやりそうな男だって気がする。それを近くで見て、助けになりたかった」
「自分のために誰かを――働かせられるような人間じゃない。少なくとも今はまだ。おれは……」
修行半ばのただの子供なんだと言うと、正幸は肩を揺らして忍び笑いをした。
「違いない。志学をちょっと出た程度の年だったなあ。やけに落ち着いてて年寄りくさいから、ついつい忘れちまうんだ」
それはよく言われる。背が高く顔つきが大人びているせいもあって、実際の年齢よりもずっと上に見られることが多い。
「だが堅いばかりの朴念仁かと思えば、それなりにやんちゃもするしな。こっそり隠れて宿場女中をたらし込んだり」
「たらし込んでなどいない」
「よく言うぜ」
前の宿場を去る朝、旅籠で知り合った女中の清が涙目で兵庫を見送っていたのに目ざとく気づいて以来、正幸はことあるごとにそれを持ち出してからかおうとする。
「あんたに比べると、うちの若殿は世間知らずで奥手で――ま、放っておけなくはあるな」
ようやく気持ちに折り合いがついたというように、彼は誰に向かってともなくうなずいた。
「明日早く出立できるよう、荷物でもまとめておくか」
ぼそりと独りごち、うしろ頭を搔きながら宿のほうへ向かう。その足取りはさばさばとしているが、少し丸めた背中はどことなく寂しげに見えた。
三鼓国郡楽郷。
干戈時代の初めごろに、初代当主黒葛俊貴がその一帯と領海を手中に収めて郷主となって以来、約一千年にわたり黒葛家の本領とされてきた郷。
初代俊貴と二代貴久はここを足がかりにして真栄城氏、尺度氏、花巌氏などを相次いで屈服させながら周辺地域に版図を広げていった。
現在では三国と二島を領する、西峽南部最強最大の名家黒葛家の歴史が始まった場所といえる。
六車兵庫がその郡楽郷にたどり着き、城山の裾野に広がる城下町に足を踏み入れたのは、皇暦四一〇年の初秋。詠月二十一日の黄昏れ刻だった。
城山はさほど高くはないが、横にどっしりと幅広い。その頂上に重厚な黒い下見板張りの五重大天守と、渡り櫓で連なった小天守群が見えていた。破風周りの白壁は燃えるような入り日を受けて金色に輝いており、影に溶け込みそうな漆黒の壁板との対比がたとえようもなく美しい。
横に長い塁線には堅牢そうな城壁が築かれ、その上に一直線に続く長大な多門櫓が載せられていた。おそらく、曲輪の全周をそれで囲んでいるのだろう。屈曲部には格式の高い三重櫓が建てられている。
「姿形は古風なのに、妙に新しい感じを受ける城だ」
城下町の入口で城を望みながら兵庫がつぶやくと、隣に立つ儲口守計が神妙な顔でうなずいた。
「郡楽城は築城から四百年を数える聳城国きっての古城と聞くが、こうして見るかぎり旧式な土塀などはどこにも見当たらない。最先端の築城技術を取り入れて、抜かりなく改修を重ねているのだろう」
「今夜の宿はどうなさいます」
城になど少しも興味なさげな正幸が、ふたりのうしろからぶっきらぼうに問いかけた。
「早めに決めねば、外で夜明かしするはめになりますよ」
それはそうなのだ。道すがら話には聞いていたが、城下は戦が始まると聞きつけて集まった人々であふれかえっている。いや城外もそうだった。
持ち金が潤沢なら宿でじっくり待機することもできるが、着の身着のまま駆けつけており、郡楽周辺には寄る辺もないという者たちも大勢いる。彼らは近隣の〝在〟や城下のはずれで俄仕立ての野宿集団をいくつか形成し、本格的な召集がかかるのを今か今かと待ちかまえているようだった。
「この様子だと、どの宿もすでに埋まっているやもしれんな」
守計は大通りの賑わいを眺めながら言い、視線を郡楽城のほうへ移した。
「いっそ、直に城へ行ってしまおうか」
くるりと振り向き、いたずらっぽく笑ってみせる。
「儲口守計と名乗れば、どう扱われるにしろ城内へは入れるだろう」
「それはそうですが――」兵庫は考えながら慎重に言った。「侮られ、軽く見られては損です。やはり謁見を仲立ちしてくれる者を捜されたほうが」
「しかし、まるで当てがないのだ。元の領地の立州ならともかく、ここ三州ではな。我が家と縁故の者も城下にいなくはないだろうが、それを見つけるために訊ね回っていたら、遠からず儲口家残党侵入せりと噂が立って捕り方が出張ってくるに違いない」
「たしかに」
兵庫はうなずき、また少し考えをめぐらせた。
当て――のようなものは、じつはある。しかし確実ではないので、これまで守計には何も話さずにいた。だがこの状況なら、使えるかどうか試してみるべきかもしれない。どう転んでも、儲口守計が城下に入っており、黒葛家への帰順を望んでいるということだけは禎俊公に伝わるだろう。
「守計どの」
城を見ている彼の背中に声をかける。
「ひとつだけ、使えそうな伝手があります」
こちらを向いた守計と正幸が、揃って驚きの表情を浮かべた。
「非常に細い手蔓なので何の保証もありませんが、うまくいけば禎俊公まで直接話を通してもらえるでしょう」
「兵庫どのにそんな伝手が?」
「すべて相手次第なので結局捕縛されることになるやもしれませんが、城の番士などに手荒くされるよりはましな扱いを受けられるかと。おれにお任せいただけるのなら、蔓を手繰ってみます」
「ぜひ」
守計は熱っぽい目をして、兵庫の腕を強く掴んだ。
「ぜひ頼みたい。頼ってばかりで申し訳ないとは思うが」
「それはお気になさらず。では行きましょう」
行きましょうと言って歩き出したものの、行く先がはっきりわかっているわけではない。兵庫は城を正面に見ながら屋敷町へ向かい、重臣の住まう広大豪壮な家中屋敷が建ち並ぶ一角に入ったところで、最初に目についた家の門前を守る番士に声をかけた。
「すまぬが道を訊ねたい」
ふたりいるうちの若いほうが、ゆっくり前に出てきた。
「どちらへ向かわれる」
「石動さまのお屋敷は何処だろうか」
番士は仲間のほうをちょっと窺う様子を見せてから、顔を左へ向けて指差した。
「この道の突き当たりで右に折れ、ふたつ向こうの辻をさらに右へ。水路を渡った先が石動さまのお屋敷にござる」
「ご丁寧に、かたじけない」
会釈を交わし、守計らの傍へ戻る。
「こっちだそうです」
そう言って歩き出すと、守計が横に追いついて当惑の眼差しを向けてきた。
「石動というと、黒葛家支族の?」
「そうです」
「兵庫どのは、石動家とどんな縁故が……」
「縁故などというほどのものではありません。ただ七草で――石動家ご次男博武どのと、いささか誼みを通じたというだけのこと。ゆえに〝細い手蔓〟と申し上げたのです」
そう。とても細い。
気さくな石動博武と団子を食いながらほんの半刻ほど話をして、三州で黒葛宗家に仕えているという彼の兄について少々聞いた。ただそれだけのことだ。こんなものは手蔓とも呼べまい。
しかも博武本人ならともかく、一面識もないその兄にいきなり会いに行こうというのだ。門前で追い返されても文句は言えないだろう。手繰りかたを誤れば、この蔓はすぐに切れてしまう。
少し気は咎めるが、ここは詭弁を弄するしかない。兵庫は糸のように細い蔓を、舌先三寸で太縄のごとく見せかけるつもりだった。
だが守計に詳しいことは話さない。無駄に不安を植えつけるだけだ。彼には大家の当主らしく、自信ありげに堂々と振る舞って欲しかった。少しでも弱気を見せれば、屋敷内に入ることすらままならなくなる。
「守計どの、頭巾をお持ちで」
訊ねると、うしろを歩く正幸が主の返答を奪って答えた。
「絹布のものがひとつ」
「では、それをかぶってください」
兵庫の要請に、守計は不可解そうな表情を見せた。
「わたしの顔を知る者など、この城下にはおらぬと思うが」
「高貴なかただという雰囲気を――実際そうですが、漂わせるための小道具です。座敷へ通され名を名乗る段になるまではお顔をさらさず、お声も出さぬようにしてください」
「なるほど」
いちおう納得した様子で、守計が黒絹の頭巾を頭に巻きつける。そうすると涼しげな目元だけが覗き、どことなく近寄りがたい佇まいになった。
駕籠にも馬にも乗らず、夕暮れにぶらりと徒歩で現れた旅姿の三人組の怪しさが、これで多少なりとも軽減されるだろうか。いや、なおさら怪しくなっただけのような気もする。結局のところ、出た所勝負になりそうだ。
教えられた通りの順路をたどって木橋のかかった水路を渡ると、幅五十間はあろうかという長い塀に行き当たった。それを横に見ながら歩いて行き、隅櫓のところでぐるりと回り込む。すると漆喰塗りの立派な長屋門が現れた。中央に両開きの大扉、その両脇に潜り戸があり、六尺棒を携えたふたりの番士が守っている。
兵庫は守計と正幸を背後に残し、少し前に出て彼らと対峙した。
「こちらは石動さまのお屋敷か」
「いかにも。お手前は」
胡乱なものを見る目だ。屋敷町には似つかわしくない、みすぼらしい身形だと思っているに違いない。だが、ここで弱腰にならないことが肝心だ。
「六車兵庫と申す。昵懇の仲である石動博武どのよりご紹介に与り、その兄君にお目にかかるべくまかりこした。かような刻限に突然の来訪で失礼とは存ずるが、あとには延ばせぬ重要な用向きゆえ、ご主人がご在宅ならばお取り次ぎ願いたい」
できるだけ丁寧な口調を心がけたが、表情は厳めしさを保ってにこりともしなかった。持ち前の峻厳な顔つきと石動博武の名前、さらに〝昵懇の仲〟が効いたらしく、番士たちが少し態度をやわらげる。
「では、しばしお待ちを」
ひとりが言って、潜り戸から邸内へ消えた。残ったひとりは油断なく兵庫らの動きに目を配っている。
ややあって内から開いたのは潜り戸ではなく、大扉のほうだった。四十代と思われる思慮深そうな顔つきの男が立っており、その脇に先ほど取り次ぎに行った番士が控えている。
「当家家政を取り仕切る、十九浦兼秀にございます」
つまり主人の側近か。兵庫は兼秀に向かって一礼した。
「六車兵庫と申します」
「失礼ながら、当家主はそのお名前には聞き覚えなしと」
「こちらさまとは面識はございません」
正直に言うと、兼秀はすっと目を細めた。表情は穏やかだが視線は鋭い。
「なんでも六車どのは、博武さまとご昵懇の間柄であられるとか」
「はい。博武どのとは七草城下で出会い、深く誼を通じさせていただきました。その際、三州に立ち寄った折りには兄君を訪ねるようにとおおせられましたので」
「ほう」
腹の裡を読みにくい顔だ。兵庫は十九浦兼秀が自分たちをどうするつもりなのか、まったく予想できなかった。
「して、お連れのおふたかたは」
「こちらのかたの――」兵庫は肩ごしに守計のほうへ目をやり、恭しい調子で言った。「お名は、ゆえあって今この場では申し上げられません。右に控えるのは側仕えの者で、長楽正幸と申します」
ぺこりと頭を下げる正幸の横で、守計はすっと首を立てたまま微動だにしない。さすが名家の子息だけあって、威厳に満ちた態度が板についている。
兼秀は守計の頭巾頭にしばらく視線を据えていたが、やがて何か納得したように小さくうなずいた。
「相わかり申した。では中へ」
さらに問答が続くものと思って身がまえていたが、完全に読みを外された。兵庫としては少々拍子抜けの感がある。
式台で刀と荷物を預けたあと、三人は少し奥まった一室に案内された。さほど広くはなく装飾も控え目だが、品格を感じる立派な設えだ。
若い主は、床の間を背に端然と座して待っていた。肩幅は広いが全体的にはひょろりとした印象の痩身で、真面目そうな少し面長の顔は弟の博武にはあまり似ていない。
だが兵庫は彼が目を上げてこちらを見た瞬間、ああ――やはり兄弟だな、と思った。澄み切って明るい双眸は弟とそっくりだ。
「博武の兄で当屋敷主の石動孝博です」
彼は落ち着いた声で丁寧に名乗った。少しも尊大なところのない、誠実そうな若侍だ。
しかし、ぴりっと張り詰めたものをわずかに感じる。うさん臭いと思われ、警戒されているのだ。当然だろう。
「弟とは七草で知り合われたとか」
「はい。剣術修行のために諸国を廻っておりました際に、ご城下でお声をかけられたのがご縁となり、以降親しくおつき合いを」
少々話を盛っている。だが、ばれはしないだろう。ともかく信用されないことには本題を切り出せない。
「城下で声を……」
孝博は何とも言えない顔をした。困っているような、あるいはどこか痒いところでもあるような。ひょっとすると、苦笑しているのかもしれない。
「初対面にもかかわらず、いきなり馴れ馴れしく話しかけてきたのでしょう」
決めつけるように言って、かすかに嘆息する。
「たいへん気安いかただったので、少し驚かされました」
「昔からああなのです」
「従者とも気の置けない間柄のようで、しきりに剽げたやり取りをしておられたのを覚えています」
「博武の従者というと――」
「たしか、伝兵衛どのとか」
「ああ、そうだ。伝兵衛でしたな。わたしのことは、何か申しておりましたか」
おや、と兵庫は思った。これはもしや、試されているのではないだろうか。
「ご自身は話し好きだが、兄君は無口なほうなのだと。〝くすぐっても笑い声ももらさぬ〟などと、戯れ言をおっしゃっていました」
その時ふっと、孝博のまとう空気が変化した。表面的には何も変わっていないが、明らかに先ほどまでよりも気配がやわらいでいる。
信用された――のか。
「いかにも、それは弟が言いそうなことだ」
そう言って、彼はようやく本当に笑顔を見せた。博武のような明けっ広げな笑顔ではなく、ほんの少し唇の両端を上げる程度の控え目な笑みだが、眼差しの優しさにほっとさせられる。
孝博は居住まいを正し、あらためてまっすぐに兵庫を見た。
「ではそろそろ、〝あとには延ばせぬ重要な〟用向きを伺うとしましょう」
どうにかここまでたどり着いた。
兵庫は胸中でその思いを噛みしめながら、畳の上を膝行って脇へよけた。守計を孝博の正面に出し、あとは彼に任せることにする。
守計は音もなく膝を滑らせて少し前へ出ると、頭巾をするりと解いて顔を露わにした。
「儲口家第十三代当主、儲口守計と申します」
彼が静かに名乗りを上げた瞬間、閉じられた襖の向こうでかすかに空気が漫ろいた。次の間に二、三人控えているようだ。
孝博ははっと目を瞠ったが、体はまったく動かしていない。
「儲口守計――どの」動揺が声に少し表れていた。「生きておられたのか」
「親族郎党の尽力により、恥ずかしながらこうしてひとりのみ生き延びました」
それから彼は、黒葛貴昭による立州侵攻以降のことを順序立てて説明していった。
先代当主である祖父守恒に従い、七草近郷の甲斐荘から一族うち揃って逃げ出したこと。
立州北部で祖父と別れ、父守義や母つやと共に江州へ入ったこと。
そこで両親とも別れ、父の親友が暮らす永妻郷へひとり向かったこと。
祖父や父から何の音沙汰もないまましばらく身を潜めていたところへ、祖父の最期に立ち会ったという六車兵庫が訊ねてきたこと。
その彼から、日角郷に潜伏していた両親や叔母らと、自ら百武城へ赴いた祖父守恒が、曾祖父である守笹貫道房によって全員磔刑に処せられたと教えられたこと。
兵庫は少しだけ口を挟み、自身と守恒とのかかわりについて簡単に語った。孝博は押し黙ったまま、集中してじっと耳を傾けている。
ひととおり経緯を聞き終えると、石動孝博は初めて口を開いた。
「道房公は女婿の守恒公のみならず、ご自身の外孫である守義さまをも磔に――されたのですか。その奥方や、ほかのご親族も」
「そうです」
兵庫がうなずくと、彼は目を伏せて深くため息をついた。
「非道な……」
口の中でつぶやくように言う。
「守計どのだけでもご無事であったのは僥倖と申すほかありません。しかし、貴殿は今後どうなさるおつもりですか。なぜ危険を冒して、敵の膝元である郡楽へいらしたのです」
「黒葛氏を敵とは思うておりませぬ。遺恨はもう捨てました」
守計は孝博にひたと視線を据えた。
「この上は黒葛禎俊公に膝折って、その幕下にお加えいただき、怨敵守笹貫道房を討ち果たしたい。それが、今わたしが願う唯一のことです」
決然と言い放ち、彼は畳に両拳を置いて頭を下げた。
「石動孝博どの、伏してお願い申します。禎俊公に拝謁できるよう、なにとぞお力をお貸しください」
孝博が何か言おうとするのを目顔で制して続ける。
「家も城も兵もなくし、もはやしがない一僕の身。なれどわたしには黒葛氏にも劣らぬ打倒守笹貫の揺るぎない意志があり、禎俊公に必ずやご満足いただける手土産の用意もふたつございます」
孝博がわずかに身じろぎした。
「手土産――とは」
「守笹貫家が秘かに準備しております、兵糧庫の正確な場所と規模の情報……それがひとつ」
「いまひとつは」
「禎俊公が江州へ攻め入られる際に陣で働かせていただけるなら、国境沿いの永妻郷と近隣三郷をわたしの号令で一斉に黒葛軍へ内応させることができます」
――これか。
兵庫は思わず眦に力が入るのを感じた。
これが彼の言っていた、〝黒葛禎俊に己を売り込む切り札〟か。
かつての敵に自分を味方として受け容れさせようというのだから、よほど強力な切り札なのだろうと思ってはいたが、これは予想をはるかに超えている。
攻守双方の要となる国境、その敵国側に位置する郷の内応。しかも四郷が一斉に。それはほとんど、勝利を約束されるようなものではないか。
孝博もさすがに呑まれた様子で、しばし言葉を失っていた。
「なんと、その内応の話は――まことに?」
「まことです」
裏づけを求めるように、孝博がちらと兵庫を見た。保証することなどできはしないが、補強になり得る証言ならできる。
「おれが永妻郷を訪れた際、集落の者たちは童まで一丸となって守計どのをお守りしていました。彼らの多くは儲口家の旧臣で、今も彼の家を主家と見なし敬っているようです。それに――」
話しているうちに思い出した。
「あの郷には信賢という、守計どのの忠臣がひとり居残っています。こちらとつなぎを取り、集落の動きを先導する役目のために留まった……のでは?」
最後の問いは守計に向ける。彼は力強くうなずき、孝博のほうへ視線を戻した。
「これで手の内はすべてさらしました。仲立ちの件、なにとぞ前向きにご検討くださるよう、お願い申し上げます」
談合はその後もしばらく続いたが、いつしか雑談に流れていき、どこかの時点で食事が出された。ほどなくして酒も出てきた。飲めば飲んだだけいくらでも追加が運ばれてくるので、兵庫はひさびさに鯨飲した。
最初につぶれたのは、一見強そうに見える長楽正幸だったように思う。たしか次に、主に呼ばれて途中から座に加わった十九浦兼秀がつぶれた。三番目は儲口守計で、最後まで残ったのが石動孝博と兵庫だった。
兵庫も〝底なし〟と人に言われるが、孝博もかなり強い。いくら飲んでも顔色が変わらず、ほとんど乱れもしない。
彼は守計がふにゃふにゃと畳に沈んだあと、しばらく経って兵庫の盃に酒を差しながらぽつりと言った。
「明日登城して、御屋形さまにすべてお伝えします。守計どのの手土産は強力だ。わたしの予想では謁見は許され、そこで恭順の意を示せば幕下に加わることも認められるでしょう」
「そうなるよう願っています」
「兵庫どのは、このあとどうなさるのです」
「夜明けには発ち、また修行の旅を続けます。年内にあとふたつ道場を回らねばなりません」
孝博は少し戸惑っているような顔をした。
「やはり守計どのに――儲口家に仕えているわけではないのですね」
「いえ、まさか。おれは一介の武芸者ですよ。守恒公のことも守計どののことも、行きずりにたまたまかかわり、余計な世話を焼いたに過ぎません」
「人の好いことだ」
「その逆はよく言われますが」
苦笑すると、孝博も一緒になって笑みをもらした。
「弟の博武はあれで、人を見る目はあるのです。貴殿を気に入った理由が、なんとなくわかる気がする」
「ひとつ申し上げねばならぬことが」
この機を逃すと言わずじまいになってしまうと思い、兵庫は博武との関係について話を盛ったことを正直に告白した。
「七草で博武どのと出会い、ひととき親しく語り合ったことは事実ですが、その後もおつき合いがあるというのは嘘です。家内に入れていただくため、昵懇の仲であると大げさに言いました。悪意はありませんでしたが、謀ったことを申し訳なく思っています」
孝博は腹を立てる様子もなく、平然として酒をすすっている。
「たとえば今わたしが、〝六車兵庫どのはおまえの友人か〟と問うたとする。されば博武は迷わず〝そうだ〟と答えるでしょう。だから貴殿が言われたことは、決して嘘などではありません」
兵庫は彼の文官めいた生真面目そうな顔をじっと見つめ、それから黙って頭を下げた。
博武も好感の持てる男だったが、この兄も本当に気持ちのいい人物だ。石動家そのものが、そういう家風なのかもしれない。
結局空が白むまでふたりで飲み明かし、丸窓障子に旭光が差しはじめたのを機に、兵庫は辞去すべく腰を上げた。
旅の続きが待っている。
別れの挨拶は省略してそのまま発つつもりだったが、気配を悟った守計と正幸がふらふらと起き出して門前で見送ってくれた。ふたりともだいぶ腫れぼったい目をしている。
守恒の財布を返す返すなで少しもめたが、最後は強引に守計に押しつけて幕引きとした。
「兵庫どの」
守計はまだ酒の抜けきらない顔で、それでも精いっぱいに表情を引き締めて慇懃丁重に礼を述べた。
「祖父守恒ともども並々ならぬご助力ご親切に与り、まことにかたじけのうございました。このご恩は決して忘れませぬ」
「宿願を果たされるよう、心よりお祈り申しております」
威儀を正し一礼し合う横に控えていた正幸が、頭を上げた兵庫の視線を素早く捉えた。その眼差しにはまだ少し陰りがある。
だが唇の端だけでにやりと笑ってみせた表情は、「まあ、やれるところまでやってみるよ」とでも言っているかのようだった。
「では、おさらば」
別れを告げて歩き出すと、すっと心身が軽くなったのを感じた。古い着物を一枚さっぱりと脱ぎ捨てたような気分だ。
思えば立州北部で儲口守恒と行き合って以来、回り道に次ぐ回り道の連続だった。もうふた月半以上も、本来の旅の目的から逸れたまま過ごしてしまっている。
だが儲口家とかかわって経験したさまざまなことも、すべて修行のうちだったと言えなくもない。もっとうまくやれたのではと思う点は多々あるが、少なくとも途中で投げ出しはしなかった。だから後悔はしていない。
ご隠居、おれにできることはすべてやりましたよ。
胸の中でつぶやくと、高い秋空のどこかであの老人が微笑んだ気がした。
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