八十三 別役国龍康殿・伊都 異界/あちら側
沈鬱な気分の時には視野が狭くなる。
これから起こることを考えて胸ふさがる思いに囚われていた伊都は、商業街の宛町をほぼ通り抜けようというころになってようやく、伊吹がうしろをついてきていることに気づいた。
あいだに通行人を五、六人挟んでおり、たまたま道が同じになっただけとも考えられなくはないが、同行するつもりでいるのはまず間違いないだろう。
だが、一緒に来てくれるのかと訊いたところで、明確な返答をもらえるとも思えない。
彼は庭履きの下駄をつっかけ、杖を一本携行していた。伝道の祭宜に許されるわずかな持ち物の中に、鉄の石突きをつけた木杖がある。通常は三尺ほどだが、伊吹のものはその二倍の六尺近くもあり、彼自身の背丈よりも長かった。特別誂えなのは明らかで、装飾の施された石突きが片側ではなく両端につけられている。
伊吹はそれを右肩に預けて持ち、法衣の袖に風をはらませながら悠然と歩いていた。これから危険な悪所へ踏み込もうというのに、緊張している様子はまったく見られない。
玉越町から路地を抜け、歌代川沿いの道に出て対岸を望むと、灰色にくすんだ町並みが横に長く広がっていた。木造の細橋を渡れば、すぐそこが貧民のたまり場――細民窟だ。
〝歌代川より西には行くな〟
鉄次からそう言われたことを覚えている。無宿者が集まっていて、物騒なことがよく起こる場所だと教えられた。
家もなく、金もなく、まともに世を渡れない身の上の者たちが住まう町。
罪を犯した手配者や、借金を抱えた人々が逃げ込む町。
名前すらついていない町。
今からそこへ足を踏み入れるのだと思うと――怖かった。
鉄次の言いつけに背くのも怖い。
橋のたもとにしばらく佇んだあと、伊都は意を決して一歩前に踏み出した。人がすれ違うのもやっとの細橋は、あまり手入れをされていないようで、踏み板がひどく傷んでいる。途中で崩れ落ちるのではないかとひやひやしながらもどうにか渡りきると、川の東側とはまったく異なる風景に出迎えられた。
建物はほとんどが平屋で、瓦葺き屋根などはひとつも見当たらない。節くれだらけの薄い壁の上に、ただ板を渡しただけという粗雑な造りのものが目についた。それでも建物の形をしていればまだましなほうで、棒杭に筵をかけただけの掘っ立て小屋も多い。それらが肩を寄せ合うようにして、ごちゃごちゃと建ち並んでいた。
道はまったく整えられておらず、あるところでは広く、あるところでは狭く、山の獣道のようにぐねぐねと曲がりくねっている。水はけがよくないのか、小石混じりの地面はどこもひどくぬかるんでいた。蓋のない溝にはどろりとした茶色い汚水が流れ、あたりには糞尿の臭気が立ちこめている。
伊都は萎えそうな気力を奮い立たせて、履き物の裏に黒っぽい土が粘りつくのを感じながら歩いていった。
昼も夜も人で賑わっている東側とは対照的に、こちら側にはほとんど人けがない。道端にたむろして雑談に興じる大人たちもいなければ、そのあいだを駆け回って遊ぶ子供たちの姿もなかった。
でも見られている。
興味と警戒心と敵意の入り混じった、威圧的な視線がいくつもこちらに向けられ、体じゅうを這い回っているように思う。
怖じ気づいて立ちすくまずにいられるのは、背後に伊吹の気配を感じているからだ。振り向いて確認こそしていないが、彼がついてきているのはわかっていた。その確かな存在感が伊都を勇気づけ、なんとか足を前に進ませている。もしひとりだったら、恐怖に負けて逃げ帰っていたかもしれない。
表も裏もない路地をしばらく歩いたあと、彼女はようやく人影を見つけた。雑草が好き放題に生い茂った小さな空き地で、火を焚いている老婆がいる。あまり見栄えのよくない竈を石で組み上げ、そこに鉄鍋を据えて何か煮炊きをしているようだ。
伊都は近づいて行き、遠慮がちに「すみません」と声をかけた。
女が顔を上げ、訝しげな表情をする。薄汚れた肌をしており、額に寄った皺は黒い筋になっていた。焚き火の煙で燻されていたせいか、暗く濁った双眼は少し涙目だ。
「このあたりに住んでいる、慎吾という人を知りませんか」
屈み込んで訊いた彼女に女が手を伸ばす。あと少しで襟に触れるというところで、脇から突き出された木杖の先端がその指先を軽く払った。
「触るな」
感情のこもらない声で伊吹が言い、石突きを女の喉元に向ける。彼女は腰を浮かせて数歩逃げ、恨めしげにふたりを睨んだ。
「きれいなべべだからよう」
言い訳をするようにもごもごとつぶやき、着物というよりはぼろ切れに近い自分の衣類をつまむ。
「これと換えことしたら、お、教えてやる」
「話にならねえ」
伊吹はそう吐き捨てると、伊都の腕を掴んで踵を返した。老婆がその背に向かって唸り声を上げ、足元の小石を拾っては投げつける。
「餓鬼どもが、い、去ね。去ねっ!」
勢いのない石はひとつも当たらず、だいぶ手前にぽとりぽとりと落ちた。伊吹は振り返りもしない。
路地まで戻ると彼は腕を放し、自分が先に立って歩き出した。小柄でも歩調はかなり速い。置いていかれないよう、伊都は半ば走るようにあとを追った。
この町を知っているのか、伊吹は迷いのない足取りでどんどん奧のほうへ入り込んでいく。やがてとある小屋にたどり着くと、彼は戸口の柱に無造作に蹴りを入れた。その衝撃で、粗末な建物全体がぐらぐら揺れる。
あわてて飛び出してきた住人が、扉代わりの筵から顔を突き出して吠えた。
「なんじゃコラ」
二十歳ぐらいと思われる痩せた男は、目の前に仁王立ちしている少年を見るとぎょっと息を呑み、目を大きく見開いたまま固まった。
「さ、祭宜……?」
墨染めの法衣に意表を突かれたようだ。それから彼はあらためて伊吹をじろじろ見回し、あっと声を上げた。
「おめえ、しょう――」
「黙れ」伊吹が鋭く遮る。
男は口をつぐみ、眉間に皺を寄せてしばらく考えたあと、唇をゆがめながら鼻で笑った。
「なんでえ、その辛気くせえ形は。祭宜振りで騙り商売でもやっていやがるのか」
「このへんに慎吾ってやつがいるだろう。家はどこだ」
「おい、何年かぶりに面みせたと思ったら、挨拶もなしでいきなりそれかよ」
「知ってるならさっさと吐け」半歩踏み出して肉薄し、下から睨み上げる。「慎吾。女衒か博徒。あるいはその両方だ」
男の顔に怒気がふくれ上がった――ように思えたのは一瞬で、彼は心底あきれたと言いたげに苦笑いをした。
「なんだよおめえ、よく喋るようになったなあ」
嫌味かと伊都は思ったが、どうやら本気で言っているらしい。ふたりは顔見知りで、彼は伊吹が祭宜になる以前のことをいろいろ知っているようだ。では伊吹は鉄次に拾われるまで、この界隈で暮らしていたのだろうか。
だから、ついてきてくれたのかもしれない。どんな所なのかよくわかっているから。
彼の元の名前をもう少しで聞けそうだったのに、知りそびれてしまったのが残念だった。〝しょうきち〟? それとも〝しょうた〟?
つい悠長にそんなことを考えていると、小屋の主がひょいと首を横に曲げてこちらを見た。
「そっちの、とびきりかわいい娘はなんだい。まさか、おめえの女じゃあるめえな」
「かまうな」伊吹は憮然として言い、進まない会話に焦れたように地面を蹴った。「知らねえならそう言え。どうなんだ」
「気が短けえのは相変わらずだなあ」
男はふうとため息をつき、頬をぽりぽり搔きながら、もったいぶった口調で言った。
「若えやつだろ。わりと色男の」
「家は」
「そりゃ知らねえが、たいてい小悪党仲間の文蔵ん家にたむろってるよ」
「どこだ」
「奧へ一本入った辻角だ。だが行かねえほうがいいぞ。あそこに溜まってる連中はみんな血の気が多いし、たちが悪ぃからな」
最後まで聞く前に、伊吹はもう歩き出している。伊都は唖然とした顔の男に「ありがとうございました」と頭を下げてから、急いで彼のあとを追った。
慎吾という男の居場所は見当がついたものの、ここからどうすればいいのだろう。奈実もその家に一緒にいるとしたら、連れ出すのはかなり難しいかもしれない。なんとかひとりだけ呼び出して、話をすることはできないだろうか。
伊吹は頭を悩ませているふうもなく、黙然として足を進めている。何か策があるのか――いや、おそらく何もないのだろう。いざとなれば暴れればいいと思っているかもしれない。
目的の場所と思われる家は、そのあたりではいちばん大きかった。元は小さな小屋だったものに、あとから気の向くままに建て増ししていったような、無秩序で不格好な形をしている。
伊都は今にも玄関から突っ込みそうな伊吹の袖を引き、家の裏手にそっと回り込んだ。中を覗き見られる隙間でもないかと、薄い壁板を丹念に探る。
その時、ふいに誰かが背後に忍び寄った。彼女の襟首に伸ばされた手を、ほとんど反射的に伊吹が木杖で打ち据える。
そして混乱が始まった。
打たれた男が大声を上げる。
家の裏口からふたり飛び出してくる。
そのひとりが匕首を抜いて迫り、伊吹が彼の鼻に杖の石突きを叩き込む。
悲鳴が響きわたり、ぬかるんだ道にぼたぼたと鮮血が滴り落ちる。
表と裏からさらに加勢が、怒号を発しながら駆けつける。
いちばん最後に出てきた、でっぷり腹回りの太い大男が、あたりを見渡して「静まれ!」と怒鳴る。
ふと気づけば伊都と伊吹は壁際に追い詰められ、八人もの男たちに取り囲まれていた。
「なんの騒ぎだ」
大男はげっぷをして酒臭い息を周囲にまき散らし、鼻を血まみれにしている仲間に目をやった。
「その餓鬼にやられたのか」
鼻を折られた男が、顔を押さえた指の隙間からたらたら血を流しながらうなずく。最初に伊吹に打たれた男は、そのうしろに立って鼻息も荒く言葉を添えた。
「おれの手も打ちやがった。いきなりだぜ」
「叩きのめしてから、簀巻きにして川へ放り込め!」
誰かが威勢よく言い、周囲の者たちも賛同の声を上げる。
「そうだ」
「やっちまえ」
「いや待て。この娘ァ、そうとうな上玉だ。売りゃあ高値がつくぞ」
「男の餓鬼もまだ小せえから、好き者にいい値で売れそうだ」
伊都は隣に立つ伊吹の体に力が入り、木杖を握る手の甲にくっきりと腱が浮き出るのを目の隅で捉えた。今にも怒りを爆発させて暴れ出しそうだ。
彼が強いのはわかっている。何度も打ち合いをして、そのたびにぼろぼろにされた。しかも稽古の時、明らかに彼は手加減をしている。本気で戦ったら、きっと相手が大人でも易々と打ち倒すだろう。
だが敵は八人だ。中には刃物を持っている者もいる。長めの棒きれ一本で、はたして彼ら全員を倒せるのだろうか。
「人を捜しに来ました」
一瞬、奇妙な間が生じた。
男たちが当惑顔できょろきょろあたりを見回し、それからようやく伊都に目を向ける。
注目を浴びると胃がきゅっと縮こまったが、恐れていると思われないよう、必死に平然とした表情を保った。
「こちらに、慎吾さんという人はいらっしゃいますか」
「おう、いらっしゃるともよ」
答えたのは、この一団の頭目らしいあの大男だった。締まりなく口元をゆるめているが、目はまったく笑っていない。
「慎吾、お姫さまのご指名だぜ」
彼が視線をやった先には、少し顔色の悪い優男が立っていた。目鼻立ちはそこそこ整っているが瞳に輝きがなく、唇をずっと半開きにしているせいで頭が悪そうに見える。
こんな人――伊都は心の中で思わずつぶやいた。少しも……鉄次さんに似てなんかいないじゃない。
「おれに何の用だ」
慎吾は戸惑いもあらわな声で言い、自信なさげに目をうろうろさせた。
「奈実ちゃんをつれていったでしょう。会わせて欲しいんです」
「はァ?」
呑み込み悪く訊き返してから、むっとしたように眉をひそめる。
「会わせる義理ァねえ」
つれていったことを否定しなかった。視線が横に流れた。裏戸口のほうに。つまり――。
「この家にいるんですね」
決めつけると、周りを囲む男たちがどっと哄笑した。
「語るに落ちたな慎吾ォ」
「このちび女のほうが、おめえより役者が上だぜ」
慎吾が青白い頬に朱を上らせる。伊都はまだ笑っている連中を無視して、彼だけをまっすぐ見ながら言った。
「取り返しに来たんじゃありません。ただ、話をしたいだけなの。急にいなくなってしまったから、心配しているんです」
家の中からすすり泣きが聞こえた。奈実がこの会話を耳にして、仲間が来たことに気づいたのかもしれない。
「心配している、か」大男がにやつき、伊都のほうに手を伸ばした。「泣かせるねえ」
頬をなでようとしたその指を、伊吹の杖が手前で阻止する。
「触んじゃねえ」
彼が三白眼で凄むと、大男はさも楽しそうに高笑いした。
「おお怖え。ちっこいが、強そうな番犬だなァ、おい」
そう言って彼は伊吹の上に屈み込み、顔を突き合わせて犬の吠え声を真似た。
「ほれ、おめえもキャンキャン鳴いてみろ」
嘲弄するように、さらに二、三回吠えたあと、大男はふいに真顔になって伊吹を殴りつけた。鈍重そうな体に似合わぬ敏捷な動きだ。
伊吹は横面を襲った拳を寸前でかわし、逆に杖の先端を男のぶよつく脇腹に叩き込んだ。自由に動ける空間がないので、打ち込みはやや浅い。
大男は攻撃にびっくりしたような顔で一歩うしろへよろめき、それから左右の仲間を見て静かに言った。
「この餓鬼の手足ぶち折って、指を全部切り落とせ」厚く重たげな瞼の下の目が冥い。「それからふたりとも裸に剥いて、ここで犯せ」
まったく話が通じない。
仲間にひと目会いたいという、ごく当たり前の要求すら通らない。
こんなことが往来で起きているのに、誰も様子を見に出てこない。
伊都は暗闇に呑み込まれるような気持ちになったが、横から伊吹に小突かれて我に返った。
「うしろにいろ」
指示する声はゆるぎない。八人の大人を相手に戦って、勝つ自信があるのだ。
頼もしくはあるが、敵はここにいる者だけとは限らない。乱闘になったら、もっとたくさんの仲間が集まってくるかもしれない。どれほど伊吹が強くても、いずれは倒されてしまうだろう。
わたしの考えが甘かったせいで、彼をひどい目に遭わせるわけにはいかない。
せめて伊吹だけは逃がそう。盾になって、ほんの少し時間を稼ぐことぐらいならできる。
そう決意を固め、じわじわと包囲を縮める男たちと伊吹の間に躍り出ようとした。だが遅かった。
包囲陣の背後から、また数人の男たちが近づいてくるのが見える。敵方の人数が増えて、こちらはますます不利になる。
手詰まりを感じて唇を噛んだその時、あとから来た男のひとりが張りのある声で呼ばわった。
「そこのふたり、鉄次の兄哥の身内か」
鉄次――その名を聞いた瞬間、何かを考える間もなく伊都は「はい!」と大声で答えていた。
破落戸たちを押しのけるようにして、揃いの上っ張りをまとった三人の男が姿を現す。いずれも背が高く、精悍な顔つきをしていた。
「なんだァてめえら」
思わぬ邪魔に入られた大男が、雷の轟くような怒声を上げる。三人組の中でもっとも年上に見える男が、彼のほうを向いてきびきびと言った。
「おれは〈梧桐屋〉の番頭で、与三郎てェ者だ」
意外な言葉に驚き、伊都は凝然と目を瞠った。
龍康殿の大差配、〝三龍〟のひとり。
町の賭場を仕切る大立て者。
梧桐屋峰助。
鉄次につれられて彼への挨拶に出向いたのは、ついこのあいだのことだ。その梧桐屋の奉公人が、なぜ突然こんなところに現れたのだろう。
与三郎とふたりの仲間は包囲陣の内に入り込み、伊都と伊吹を背後にかくまうようにして立ちはだかった。揃いの印半纏の背には、三枚の桐の葉に小花を配した桐紋が大きく染め抜かれている。
「この嬢ちゃんと坊は引き取らせてもらうぜ」
平然と言い放った彼を、大男が正面から睨めつけた。
「なに吐かす。いくら梧桐屋でも、そんな勝手が通るか」
「文蔵さんよ」与三郎は恐ろしいほどに落ち着いている。「それが通るんだ。この子らは買われたわけじゃねえ。ただ、ここへ迷い込んだだけだ。おれは大旦那に言われて迎えに来た。あんたらに止める権利はねえよ」
「させるかよ。おれの手の内に入ったもんは、おれのもんだ」
「なめんじゃねえぞ文蔵!」
ふいに与三郎が大喝した。伊都の背後の板壁がびりびり振動する。
「てめえが中町あたりで裏賭場ァ開帳いてやがるのを、おれらが知らねえとでも思ってんのか。梧桐屋に筋ィ通さず、ふざけた真似しやがって」
彼はずいと足を前に出し、文蔵と真っ向対峙して凄んだ。
「いますぐ潰してもらいてえか」
息の詰まるような睨み合いが長く続く。どちらも決して退くことはないように見えた――が、最後には文蔵が折れた。梧桐屋の力は、それほどまでに大きいのだろう。
「好きにしろ」
憎々しげに顔をゆがめ、ちっと舌打ちをする。
「それから、奈実って娘がいるな。そいつもつれていく。どこだ」
与三郎のさらなる要求に、文蔵の怒りが再燃した。
「あれは慎吾の女だ。てめえらにつれてかれる筋合いはねえぞ」
「誰の女だろうが関係ねえ。奈実はお手配者だ。引っ捕らえて戻るよう、大旦那から命じられてる。勤め先の茶屋から金をくすねてたらしいな。締めて五金八銀――無宿人は五金以上の盗みで死罪だ」
「死罪……」
茫然とした声でつぶやいたのは、裏戸口にふらりと出てきた奈実だった。顔は青ざめ、頬には涙のあとと殴られた痣がある。
「鉄次の兄哥が身元を保証しねえ以上、おめえは無宿の扱いになる」
与三郎は奈実に向かって淡々と言った。
「てめえがしでかしたことの始末をつけな」
つと首を回し、文蔵と仲間たちを見回す。
「こいつの男がいるとか言ったな。慎吾だったか」
視線の先で、慎吾があからさまに動揺し始める。与三郎は薄く笑み、彼をじっと見つめた。
「どうせ、盗みはてめえがそそのかしたんだろう。離れがたい女だってんなら、三尺高ェ木の上で一緒に首ィ晒すか」
強烈な脅しに、慎吾がたちまちすくみ上がる。
「じょ、冗談じゃねえ。そいつはおれの女なんかじゃねえよ。おれァなんにも知らねえぞ!」
「――と、慎吾も言ってることだし、奈実をつれてくのに異存はねえな」
梧桐屋の番頭はふてぶてしい笑顔を文蔵たちに向けた。鮮やかすぎる仕切りに、誰もがぐうの音も出ない。
「さ、引き揚げるぜ」
与三郎は全員を促し、先に立って歩き出した。伊都、伊吹、奈実を真ん中に挟み、三人組の残りふたりがしんがりを務める。
誰もうしろは見なかった。だが文蔵たちが怨念と憎悪に顔をゆがめながら見送っているのはわかる。
伊都は横を歩いている奈実の震える背に、そっと手を添えた。
「奈実ちゃん、しっかり」
声をかけても、彼女の耳には入っていないようだ。
やがて行きに渡ったあの橋が見えてきた。対岸に人影が見える。与三郎たちと同じ印半纏を着た若い衆が五人。佐吉。そして鉄次だ。
彼の姿を見た奈実の顔が喜びに輝き、すぐまた曇るのを見るのはつらかった。
「与三郎」
橋を渡りきった一行を出迎え、鉄次は梧桐屋の番頭に微笑みかけた。
「手間かけたな。荒事になったかい」
「睨み合い程度ですよ」
にやりとする彼に、鉄次は数枚の銭貨を握らせた。
「酒手の足しにでもしてくれ」
「ありがたくいただきます。それじゃ、おれらはこれで」
「大旦那には、あらためて礼をしに行くと伝えてもらえるか」
梧桐屋の者たちが去ると、鉄次は初めて奈実のほうを見た。
「茶屋には、おれが金を返して話をつけた。訴えることはしねえそうだ」
死罪の話は――はったりだったのだ。慎吾たちをあきらめさせ、奈実をこちら側へつれ帰るための。伊都はようやく気づき、胸のつかえが取れたように感じた。
「これを最後に、おまえとは縁切りだ」
鉄次の口調は穏やかだが、声は厳しい。
「身内じゃなくなったからには、もう二度と助けねえぞ。わかってるな」
「はい」消え入りそうに小さく、奈実が答える。
「塒に残した持ち物を引き取って、今日じゅうに町を出な。悪党連中は執念深いからな」
「そうします」
それから彼女はおずおずと鉄次の右手に触れ、両手で押し包んだ。その仕草に彼女の思いがあふれていて、見ているだけで伊都は胸が痛くなった。
奈実の伏せた目の縁から、はらはらと涙がこぼれ落ちる。
「よくしてもらったのに、最後まで面倒ばかりかけてごめんなさい」
鉄次はしばらくそのままにしたあと、そっと手を引き抜いた。
「達者でな」
短くひと言残し、遠巻きにしている伊都たちのほうへ歩いてくる。
彼がすぐ前で立ち止まると、伊都はぎゅっと目をつぶって深々と頭を下げた。
「言いつけを破って、ごめんなさい」
「まあ、たまには馬鹿をやれと言ったのはおれだからな――」鉄次が苦笑いする。「だが、こんなでかい馬鹿は、もうこれきりにしてくれ」
恥じ入りながらうなずいた伊都の頭を軽くなで、彼は少し離れて立っている伊吹を見た。
「あいつがついていったと聞いたから、さほど心配はしてなかったよ」
それから鉄次は手振りで彼を差し招いた。呼ばれた少年が、どことなく警戒するようにゆっくり近寄ってくる。
「よく働いた褒美に、好物を食わせてやる」
そう言って歩き出した鉄次のあとを、伊吹は半歩離れて追った。
「なんだよ好物って」
「車海老だ」
「べつに好物じゃねえ」
「食えば好きになるさ」
遠ざかっていくふたりを見ながら、伊都は伊吹に礼を言い損ねたことに気づいた。彼にはいくら感謝してもし足りない。もしひとりで行っていたら、無事に帰れたかどうか怪しいところだ。
次に塒で会ったら、嫌な顔をされてもたくさんお礼を言おう。そう思いながら振り向くと、佐吉と目が合った。彼は拗ねたように、むっつり黙りこくって立っている。
「佐吉っちゃんが――知らせてくれたのね」
「そうだよ。おまえが消えちまったら、それこそ鉄次さんが悲しむだろ」
「ありがとう」
「叱られなかったからって、いい気になるなよ」
いつになく激しい口調だ。忠告を聞き入れなかったことを、まだかなり怒っているらしい。
「ちゃんと反省しろ。いいか、おまえらのせいで鉄次さんは、梧桐屋にでっかい借りを作ったんだぞ。それがどういうことか、よく考えろ」
鋭い言葉が急所にぐさりときた。
「わかった」
「ほんとにわかったのか」
「うん」真面目な顔で繰り返す。「ほんとにわかったわ」
「なら……いいや」
ようやく納得したようにうなずき、佐吉は伊都の手を掴んだ。
「いこうぜ」
「ちょっとだけ待って」
鉄次の後ろ姿をずっと見送っていた奈実のところへ行き、涙に濡れたその顔を見上げる。
「奈実ちゃん、元気でね」
彼女は悲しそうに微笑むと、伊都の両肩にそっと手を置いた。
「伊都ちゃんたちが来てくれたってわかった時、すごく嬉しかった」
そんなふうに言われると、身の置き所のない気分になる。
「でもわたし、結局何の役にも立てなくて……」
「そんなことない。もし来てくれなかったら、あたし――あいつらにずたずたにされて、二度とお日様の下を歩けなくなってたと思う。こうして戻ってきて、ごめんなさいって言うこともできなかったわ」
奈実は両の目からまた涙をあふれさせながら、伊都を優しく抱きしめた。
「もう一度鉄次さんに会えて、ちゃんと謝れてよかった。本当にありがとうね」
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