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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 戦(そよ)ぐ春景
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七   三鼓国北部・石動元博 出で湯にて

 抜けるように青い虚空の高みを、一羽の天隼てんしゅんが弧を描いて飛んでいく。馬の背に揺られながら、首をけらせて空を見ていた石動いするぎ元博(もとひろ)は小さな歓声を上げ、少しうしろを行く朴木ふのき直祐(なおすけ)を振り返った。

「ほら、あそこ! とりが見えますよ」

 直祐は教えられた方へ顔を向け、目の上に手でひさしをつくった。「ああ、本当だ。あれはきっと、江州こうしゅうの禽でしょう」

「なあんだ、野生じゃないのか」

「江州の禽籠とりかご山は江蒲つくも国の西の端のほう、ここからそう遠くない辺りにあると聞いています。そこで育てられている禽だと思いますよ」

 元博は馬上で身をよじり、後方へ飛び去る天隼の姿を、羨望の眼差しで見送った。孤高で、勇壮で、とても美しい。もっと間近で見たり、触れたりしてみたいといつも思うが、これまでそれを実現する機会には恵まれなかった。野生の天隼に近づけるのは雛を籠負ごおいぐらいだし、天翔隊てんしょうたいの戦闘用に飼育されている天隼は〈禽籠とりかご〉と呼ばれる飼育所が設けれた禽籠山で籠番ろうばんによって厳重に管理されており、地上に降りてくることはめったにない。そして実家である三州さんしゅう狩集かりづめ城にも、小姓として勤めていた丈州じょうしゅう生明あざみ城にも、気軽に訪ねられるほど近くに禽籠山はなかった。

 噂によると、生明では今後、天翔隊を軍備いくさぞなえに組み入れる計画があるという。当地に留まっていたら、入隊を志願することもできただろうに。そう思うと、時宜じぎを逃したことが少しだけ残念にも感じられた。

 元博は今、天山てんざんへ人質として上がることになった黒葛つづら宗家の嫡男貴昌(たかまさ)に付き従い、三州街道を北上している最中だ。随行を許された家臣はわずか七人。彼は主君である黒葛寛貴(ひろたか)から直々(じきじき)に推挙され、その一員に加わることとなった。奉公人や雑兵も含めると随員は四十二人いるが、十代は彼ひとりで、ほかはすべて大人ばかりだ。

 天隼が空の彼方に消えると、元博は顔を前に戻し、鞍に載せた尻の位置を微妙に調整して座り直した。

郡楽ごうらのご城下にある禽籠山は、とても高いそうですね。江蒲国のもそうでしょうか」

 うしろへ届くように、少し声を張って訊く。すると、直祐が隣へ馬を進めてきた。彼は貴(ぎみ)傅役もりやくで、自ら願い出て随員となった人物だ。肉の薄い面長な顔はいかにも生真面目そうだが、もの柔らかな口調と温かな目がその硬い印象を和らげている。

「ええ、おそらく。禽籠は高地に置かれるものですから。わたしは郡楽の禽籠山に登ったことがありますが、頂上に着くまで一日半かかりましたよ」

「へええ」元博は感心しきりで低く唸った。「そんなに登らされるなんて真っ平だな。でも、わたしも一度、禽籠を見てみたいと思っているんです」

「元博どのは〈隼人はやと〉になりたいのでは?」

 天隼を使役する特別な技を身につけた者は隼人と呼ばれ、軍備の花型的存在として一目置かれる。武家の若者で、その役目に漠然とでも憧れを抱かない者は少ないはずだ。だが、これまで誰にも打ち明けたことのなかった密かな願望を、直祐にずばり言い当てられた元博は、驚きを思わずそのまま顔に出してしまった。

「なぜわかったんです?」

「隼人になる人には、共通点のようなものがあるのです――といっても、わたしがそう感じているだけですが」直祐は微笑みながら言った。「好奇心旺盛。楽天家。元気がよい。そして怖い物知らず。ここまで旅をしてくるあいだずっと見ていて、元博どのはそういった気質を全てお持ちだと思いました」

「まいったなあ。怖い物知らずか」元博は頭をきながら笑った。「兄たちにもよく言われますよ」

「〝勇敢〟と言い換えてもいいですね。そういう人でなければ、禽に乗って空で戦おうなどとは、まず考えもしないでしょう」

「直祐どのは、禽にお詳しいんですね」

 道の上に蛇行している深いわだちを、手綱をさばいて横に避けながら言うと、直祐は嬉しそうに少し目を細めた。

「実は、わたしの兄が禽籠の籠長ろうちょうをしているのです」

「じゃあ、禽籠山にお住まいなんですか」

「ええ、籠番ろうばん時代からずっと。かれこれ十年ほどになるでしょうか。実家にはほとんど戻ってこないので、わたしのほうがたまに会いに行きます。籠番を長く続けて山に体が馴染むと、下界に降りるのが億劫おっくうになるのだとか。空へ近づくほどに、体や物の重みというのは減っていくものでしょう。禽籠山の頂上ほど高いところでずっと暮らしていると、その軽さが普通になってしまい、たまに地上へ降りると我が身の重さが耐えがたく感じられるのだそうです。慣れるまでには二、三日かかると言っていました」

「〝浮昇ふしょう〟ってやつですね」

 元博自身も、高い山へ登ってそれを体感したことがあった。浮昇力が働くのは地上からおよそ百丈ほど上がったあたりからで、さらに上方へ向かうほどにその力は増していくと言われている。元博が登ったのは五百丈程度の山だったが、頂上にいるあいだは実際にかなり体が軽く感じられた。だが浮昇状態に馴染むほど長時間留まりはしなかったためか、地上へ戻った時にもさほど違和感はおぼえなかったように思う。

「わたしたちも天山で暮らしたら、そんなふうになるんでしょうか」

「ええ、おそらくは。いわい城がある天山の頂上は、この国でいちばん高いところですからね」

 出発前に郡楽の老中から聞いたが、天山の頂きに築かれている慶城は、城砦としてのみ使われるほかの山城とは一線を画しているという。そこは戦のための砦であり、同時に人が住む御殿でもあるのだ。

 平らに削った頂きには天守曲輪(ぐるわ)が築かれ、巨大な天守閣と三基の隅櫓すみやぐらを渡り櫓でつないだ連立式天守が、敷地全体をぐるりと取り巻いている。その内側に建てられた本曲輪ほんぐるわ御殿と、一段下の二の曲輪くるわ御殿が大皇三廻部(みくるべ)勝元(かつもと)と一族の住居だ。さらに下の三の曲輪には、三廻部家の支族の中でも特に大きな権勢を誇る桔流きりゅう家や久留馬くるま家、妙泉よしずみ家などの居館が置かれている。元博らは桔流家の預かりとなることが決まっているので、おそらく彼らの館の一部か、別棟のようなところを住まいとしてあてがわれるだろう。

「〝天山暮らしは苦なかりし〟――なんて昔からよく言いますし、浮昇力が強いと体は楽なんでしょうけど、地上に慣れるのに何日もかかるとなると大変ですね」

「山にもりきりの兄を見ると、浮昇もしだなと思います。すっかり浮き世離れしてしまって」直祐は苦笑いを浮かべた。「まあそれでも、籠長になってからは雛の買い付けで、年に何度か久夛良木くたらぎ島や丈州の辺志切へしきりへ行っているようですよ」

「そうか、籠長になると買い付けも任されるんですね」雛と聞いて、元博は目を輝かせた。「雛のうちに禽を見られるなんてうらやましいなあ。実を言うと、籠負いや籠番の仕事にもちょっと憧れているんです。でもどうせなら、禽の世話をするだけより、わたしはやっぱり乗って飛びたいかな」

「隼人のことを、東峽とうかいでは〈天狗てんぐ〉と呼んだりもするそうですよ」

「天狗! それはまた格好いいですねえ」

 天隼の話で盛り上がるふたりを、先を行く荷車の前で馬を進めていた黒葛つづら禎貴(さだたか)が振り返った。

「おうい、おぬしら。話に水を差すようだが、じきに天気が崩れそうだ。その先で少し止めて、雨の備えをするぞ」

 言われて、再び空を見上げた元博は、どんよりとした灰色の雨雲が西から近づいているのを見て驚いた。

「ついさっきまで、雲ひとつない晴天だったのに。ここ数日、天候が変わりやすいですね」

 直祐がうなずく。「このあたりは山の多い土地ですから」

「わたしが先頭に知らせてきます」

 元博はふたりにそう言い置いて隊列から外れ、馬の腹を軽く押して先へ走らせた。旅の一行は総勢五十人にも満たない小集団だが、縦に長く伸びているので中段から叫んでも先頭へは届かない。

 馬を駆けさせると、頬に当たる風がひんやりと冷たかった。まだ南部のうちだが、あと二日も行けば北部の王生いくるみ国に入るあたりまで来ているので、季節はやや逆戻りした感がある。十日前に出発した郡楽はいかにも初夏らしい爽やかさだったが、三州最北部の気温は早春のころを思わせた。

 隊列を追い抜いて先頭へ行った元博は、旅の先達せんだつを務めるために同行している五葉ごようという名の小祭宜しょうさいぎが、集団よりも少し先行して歩いているのを見つけた。彼は郡楽の祭堂の堂司どうしが手配してくれた人物で、なんでも御山みやま行堂ぎょうどうで千日間の修行を積み、その後は十余年にわたって伝道のために各国を巡り歩き続けているという。当然ながら旅慣れており、街道や宿場、その周辺のさとにも詳しかった。ここまでの道中が滞りなく円滑に運んだのは、彼が脇道を使って関所や宿場へ先回りし、一行の通過や泊まりの手配を常に抜かりなく調えてくれたからだ。

「五葉さん」近づいて声をかけると、彼はすぐに振り返った。「雨が来そうなので、少し止めて備えをすることになりましたよ」

 話を聞いた五葉は心得顔にうなずき、西の空を見やった。厚みを増し色濃くなった灰色の雲が、先ほどよりもさらに広がってきている。

「わたしも、そう申し上げようかと思っていたところでした」よく通る太い声で言う。「この雨は、すぐに激しくなりそうです。今日は早めに宿を取ったほうがいいでしょう。一()ほど向こうの村に、心当たりの家があります。先に行って話をつけておきますので、この道なりにまっすぐお越しくださいと、禎貴さまにお伝えいただけますか」

「承知しました。よろしくお願いします」

 五葉は旅汚れた黒い法衣の裾をひょいと持ち上げると、背に負った荷箱をかたかたと鳴らしながら、軽い足取りで走り出した。その姿がみるみる遠くなり、ゆるく曲がった道の先で松の木立に消えていく。彼の健脚に舌を巻きながら、元博は隊列の前方を指揮する玉県たまかね吉綱(よしつな)が横に来るのを待って話しかけた。

「吉綱どの、降られそうなので雨支度をします」前方を見ると、道の脇にちょうどよさそうな草原があった。「あのあたりで一度止めましょう」

「相わかった」

 ぎこちない手綱さばきで馬を歩かせながら、ふくふくとした赤ら顔の吉綱がのんびり答える。彼は元博がこれまで見た中で、紛れもなく最もふとった人物だ。その丸々とした体の重さに耐えかねるように、太い脚をした青毛の牡馬が一歩ごとに吐息をついている。この人がみのを着たら、造り酒屋の軒先に吊されている枯れた杉玉そっくりに見えるだろうな、と思うとつい含み笑いがもれた。

「それと、この先一里ほどのところにある村で一泊することになりそうです。五葉さんが先に行っているので、近づいたら合図をくれるでしょう」

「そうか」短く言って、うんうん、と呑気そうにうなずく。

「――では」

 元博は軽く会釈して、その場に留まったまま彼を見送った。どうも吉綱とは会話が長続きしない。打ち解けない性質というわけではなく、無口でもなさそうだが、彼は常にどこか上の空な雰囲気を漂わせていて、誰のどんな話にもあまり反応らしい反応をしないのだ。そのため、こちらがずっと一方的に喋り続けることになってしまうのが難儀だった。

 その点、直祐や禎貴は違う。彼らと元博はそれぞれ異なる世代だが、年の差も支障になることはなく、半刻でも一刻でも四方山よもやま話に花を咲かせることができた。

 黒葛禎貴は、元博と同じく寛貴に推され、若君の随員を率いる長となった人物だ。その経緯を知っていた元博は旅の当初、彼に対してかなり気を張って接していた。たとえ傍系であっても、主家である黒葛家の〝ご一門さま〟には、やはり少々近寄りがたくもある。だが禎貴は少しも気取ったところのない、大らかで感じのいい人柄だった。

 といって、甘いわけではない。旅立ったばかりのころ、随員のひとりである由解ゆげ宣親(のりちか)が私用で断りもなく列を外れ、その挙げ句道に迷って捜索の手を煩わせたことがあった。その時の禎貴の怒りの凄まじさは、今も元博の脳裏に焼きついている。〝雷を落とす〟という表現があるが、あれはまさしくそういう感じだ。彼は随員の態度や物言いといったことには頓着しないが、役目を疎かにするような振る舞いに対してはまったく容赦がなかった。

 だが、その厳しさや叱り方には感情的なところがなく、常にきちんと筋が通っている。そのため叱責された当人も含め、誰も禎貴に対して反感を抱いたりははない。このような人物をおさに選んだ御屋形さまは、さすがに見る目がおありだ、と元博は内心で少し自慢に思っていた。


 ほどなくやって来た禎貴さだたか五葉ごようの言葉を伝え、草原に集まって雨具を身につけ終えるころには、すでに小雨がぽつぽつと落ち始めていた。この季節にしては、かなり冷たい雨だ。元博もとひろは胸元に水がしみ通らないよう、丸合羽まるがっぱの前をかき合わせ、紐をぎゅっと締め直した。まだ天山てんざんまで半分以上の道のりを残しているというのに、風邪などひいてはたまらない。

 五葉の予言通り、そこから半里ほど進んだあたりで空が真っ暗になり、雨が急に激しさを増した。まるで滝に打たれているかのようで、被っている菅笠すげがさの縁から大量の水が絶え間なく落ちてくる。風も出てきたため、顔をどんな角度に向けていても、びしょ濡れになるのは避けられなかった。道の表面はまたたく間に泥土と化し、ねばりつく土に足を取られて、人も馬もなかなか先へ進めない。

 特に難渋しているのは荷車だった。重量があるため、ぬかるみにすぐ車輪がめり込んでしまうのだ。あまりにも深く沈むと、引き馬の力だけではどうにもならず、奉公人たちが手を貸す必要に迫られる場面もあった。

 好天に恵まれれば旅は楽しいが、風雨にさらされると、たちまち苦行と化してしまう。残りの半里でそれを痛切に思い知らされた元博は、五葉が言っていた村への境界石らしいものを道の端に見いだした時、心の底から安堵した。

 わずか一里の道に一刻ほどもかかってしまったため、日はすでに暮れかけている。街道かられて村の中へ向かう脇道の入り口には、雨提灯あまぢょうちんを下げた五葉が案内のために待っており、彼の周囲だけがぼんやりと明るく見えた。村の誰かに借りたらしく、わら色の油紙を貼った古傘をさしているが、法衣は雨水を吸ってぺしゃんこになり、体にべっとり張りついている。

「五葉祭宜」禎貴は馬で近づき、彼に声をかけた。「元博から聞いたが、こちらで泊まれそうか」

 後から来る者たちに手を振って先へ行かせながら、五葉は篠突しのつく雨音をついて大声で説明した。

「はい。ご一行さまは、名主の半井なからい勝之助(かつのすけ)という人が提供する母屋にお泊まりいただけます。その他の方々は数人ずつに分かれて、周辺の家や納屋でお休みになれるよう手配しました」

「おお、それは助かる。手数をかけたな」

「お泊まりになるのが黒葛つづらさまの若君だということは、主人の勝之助にしか明かしておりません。家人や村人に知れると大仰な騒ぎになりますので、ご身分は伏せられたほうがよろしいかと」

 近くに馬を止めて聞いていた元博は、五葉の行き届いた気配りに感服した。たしかに、国主の若君が突然立ち寄ったとなれば、村中が蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。噂を聞きつけて、街道沿いで暗躍している盗賊などが寄ってこないとも限らない。ここでは余計なことは漏らさず、静かに一晩過ごして、早々に立ち去るのが賢明と思えた。

「さ、皆さまもどうぞ先へ。少し向こうで、勝之助の家人らが出迎え、宿所へご案内いたします」

 五葉が促したその時、ちょうど黒葛貴昌(たかまさ)を乗せた駕籠かごがやって来た。その前後を、随員の真栄城まえしろ忠資(ただすけ)柳浦なぎうら重晴(しげはる)が守っている。

「この先の村で泊まることになった」禎貴は忠資に言い、駕籠のほうをちらりと窺った。「若君のご様子はどうか」

「ずっと、中でうとうとしておられます。昨日、直祐なおすけどのの馬に終日同乗されたので、その疲れが出たのでしょう」

 涼しい目をした細面の忠資はそう言い、開いた口に吹き込んだ雨で軽くむせてから、肩ごしに背後を見やった。

「若君はだいじょうぶですが、重晴どのが朝から腹を下してふらふらです」

「余計なことを言わんでよい」

 駕籠のうしろについている重晴が聞きつけ、だみ声で怒鳴った。ふたりは随員になる前からの知り合いで、今はかなり仲がいい。禎貴は小さく笑み、この一同を先導して先へ進んでいった。あとは後衛を務める由解ゆげ宣親(のりちか)と、彼が率いる雑兵集団が来るのを待つだけだ。何となく立ち去りがたい思いでいる元博を五葉が見上げ、提灯を持った手で道を示した。

「元博さまも、どうぞお先へ。残りの方々をご案内したら、わたしもすぐ村へ参ります」

「はい。ではまた後で」

 降りしきる雨の中に彼を残して、元博は脇道へ馬を乗り入れた。田んぼのあぜのような細道で、よくよく注意しながら進まなければ、雨水が溜まってなかば沼のようになっている左右の草地に落ちてしまいそうだ。

 三町ほど行くと、五葉が言っていた出迎えの者に出くわした。年は四十ぐらいで、屈強そうながっしりした体つきをしている。彼は何も言わずに小さく会釈し、元博の馬を村長の家の前庭まで引いていった。先に着いた者たちはそこで主人の勝之助に出迎えられ、すでに半分ほどはそれぞれの宿所へ誘導されているようだ。元博が馬を下りた時は、ちょうど禎貴と貴昌が勝之助からの挨拶を受けているところだった。

あばら屋ではございますが、どうぞご自由にお使いくださいませ」

 丁寧に口上を述べる勝之助に、禎貴は軽く頭を下げた。

「この雨の中、次の宿場まで行かずにすんで助かった。ありがたく世話になる」

 ふたりのやり取りを傍で聞いている貴昌は、まだ半分眠っているような顔でぼんやりしていた。よほど疲れているのだろう。

 勝之助の家は茅葺かやぶき屋根を載せた重厚な寄棟造りで、武家の館と比べても全く見劣りしないほど豪壮なものだった。離れ座敷と思われる建物と三つの蔵が隣接しており、庭には小さいながらも祭堂さいどうが設けられている。

 貴昌らに続いて母屋へ通された元博は、座敷と畳廊下の小座敷を通って、奥座敷の裏手にある奥寝間おくのねまに近い八畳ほどの部屋へ案内された。先に真栄城まえしろ忠資(ただすけ)柳浦なぎうら重晴(しげはる)が入っており、同行の従者に手伝わせて、早くも旅装を解きかけている。

「やっと人心地つくな」重晴が言い、濡れて湿った帯が外れると、ごつごつした手で下腹をさすった。「雨は嫌いじゃないが、こう冷えてはかなわん」

「お腹の具合はいかがですか」

 元博が訊くと、彼は眉間に深い皺を作って嘆息し、畳の上にどっかりと座り込んだ。

ぬくいものを胃袋に入れて、一晩寝れば治るだろうよ――いや、そうでなくては困る。しぶ(ばら)を抱えて、一日馬に揺られる気持ちがわかるか?」

「家の者に薬を頼まれては」

「無理、無理」忠資が口を挟み、屈託なく笑った。「この人はな、薬と名のつくものは何であれ信用せんのだ」

「なんで信用できるのかわからんね」重晴が気難しい顔で低く唸る。「薬師やくし呪師じゅしも似たようなもので、結局のところ野術師のじゅつしだろう。やつらのすることは、どれもこれも胡散臭い」

占師せんじや呪師は野術師のうちだが、薬師や療師りょうじは違うぞ。きちんと薬療学を修めた者たちだし、戦にも同行する。おぬしだって、戦場で負傷したら世話にならざるを得んのだから、あまり悪く言うもんじゃない」

 忠資がたしなめたところへ、元博自身の従者である小酒部こさかべ孫六(まごろく)が姿を見せた。

「殿さまがた、離れ座敷に湯殿の支度がしてあるそうです。小さいので二、三人ずつお入りくださいとのことでした。玉県たまかね吉綱(よしつな)さまが先に行かれています」

「普段はのっそりしているくせに、こういう時は素早いのだな」重晴はあきれたように言いつつ、いそいそと腰を上げた。「なんにせよ、冷え腹に風呂はありがたい」

「おふたり、どうぞお先に」

 元博が先を譲ると、彼らは着替えを抱えて嬉しそうに出ていった。入れ替わりに孫六が入ってきて、主人の世話を焼き始める。

「この小袖、朝までに乾きましょうか」

 袖に布を当てて水を吸わせながら心配そうにつぶやく彼に、元博はにやりと笑って見せた。

「乾かなかったら、荷車の覆い代わりに被せて風に当てよう」

「なんと勿体ないことを。大殿さまが若さまに似合うものを、とお指図なさって仕立てさせたものなのに」

 彼の言う通り、元博が今着ている小袖は、父の石動いするぎ博嗣(ひろつぐ)から旅のはなむけにと贈られたものだった。さらりとした肌触りの小数賀こすが上布(じょうふ)で、黒地に緻密なかすり模様が織り出されている。帯は母の世津せつからで、こちらには心づくしの手刺繍が施してあった。

「あとで衣桁いこうにかけておけば、そこそこ乾くだろう」

 そこへ朴木ふのき直祐(なおすけ)が通りかかった。

「ああ、元博どのはこちらでしたか」ほがらかに言って、にっこりと笑う。

「直祐どのは、どちらのお部屋に?」

「若君と禎貴さまがお休みになる、奥寝間の脇部屋へ入れていただきました」

「おふたりは今、どうされているのですか」

「母屋の湯殿で、風呂をつかっておられます。若君のお世話は自分と奉公人でするから休め、と禎貴さまに追い払われたので、わたしはぶらぶら邸内を見回っていました」

 苦笑しながら言うのを聞いて、元博も思わず笑いをもらした。

「この母屋はたいそう立派ですねえ。あの勝之助という人は、かなりの豪農なのでしょうか」

半井なからい勝之助は、帰農した元武士です」そう答えたのは、音もなく廊下を歩いてきて顔を覗かせた五葉ごようだった。「以前は、黒葛さまの支族真境名(まきな)家の家中でした」

 家へ上がる前に力いっぱい絞ったらしく、法衣の裾や袖がしわくちゃになっている。それでも、彼の立ち姿は少しもしょぼくれては見えなかった。真新しい香のにおいをふわりと立ちのぼらせているのは、庭にあったあの祭堂へ参ってきたからだろう。

「たいへん信心深い人で、客に対しては下にも置かぬもてなしをすることで知られています。先ほど台所を覗いたら猪肉をあぶっていましたし、塩をふった鮎を地炉じろでたくさん焼いていたので、夕餉は期待なさるといいですよ」

 聞いているだけで、口中に唾が溜まってくる。元博はよだれを垂らさないうちに、あわててそれを呑み込んだ。

「ところで、おふたりはまだ濡れたままでいらっしゃいますね」五葉は元博らの様子を見ながら言った。「湯殿が空くまでお待ちにならず、外の林にある野湯へお入りになりますか?」

 思いがけない話に、元博は顔を輝かせた。

「えっ、で湯があるんですか?」

「はい。小さいですが、なかなかよい岩風呂です。家の裏手を少し歩いたところですが、傘をさして行けばだいじょうぶでしょう。差し掛け小屋がしつらえてあり、簡単な脱衣場も備えていますので、行けばすぐお使いになれますよ」

「それはありがたいな」直祐も嬉しそうに目を細める。「五葉どのも、ぜひご一緒に」

「いえ――そんな、滅相めっそうもない」

「遠慮なさらず」

「疲れが取れますよ」

 元博もすかさず言い、ふたりの強引さに押される形で、最終的に五葉もつき合うこととなった。

 冷たい雨の中へまた出るのは正直気が進まないが、出で湯に入れるとなれば話は別だ。元博は昔から温泉に目がなかった。そもそも風呂自体が好きだが、屋外で湯にかる心地よさはまた別格だと思っている。

 傘と提灯を借りて裏口から母屋を出た三人は、裏庭の小さな木戸を通ってブナの雑木林へ入っていった。普段は村人が行き来しているのだろう、細い踏み分け道が木々の間を縫って奥へと続いている。頭上に広がった枝の天蓋が雨をさえぎってくれるので、あまり濡れずにすむのがありがたかった。辺りには若葉と、林床りんしょうを覆う落ち葉の甘く濃厚なにおいが、水のにおいと混じって立ちこめている。

 ほどなく、彼らは野湯へ行き着いた。五葉は差し掛け小屋と言っていたが、湯壺を囲んでいるのは浴舎と呼んでもいいような、かなりしっかりした構造物だ。脱衣場も、想像以上に広々としていた。きっと村人が家族で使えるようにしてあるのだろう。壁に作られた棚には小ぶりな行灯あんどんがふたつ載せてあり、長さがまちまちな太い蝋燭も何本か置かれている。

 提灯から行灯に火を移し、濡れて体に張りつく着物を剥がしていた元博は、隣で法衣を脱いだ五葉にふと目をやり、その意外なほどたくましい体躯たいくに思わず息を呑んだ。胸も肩も厚く、腕や脚には鉄条をり合わせたような筋肉の束が浮き出ている。神の道を伝えるために諸国を巡っている伝道の祭宜さいぎというよりは、日ごろから剣を振るい弓を引いている武士の体に見えた。

「五葉さん、すごいなあ」感嘆がそのまま口をついて出る。

 めったに笑顔を見せることのない五葉が、珍しく苦笑めいたものをちらりと覗かせた。

「たいしたことは」

「いやいや、武芸者もかくやという感じですよ」湯壺の脇で体を洗いながら、直祐も驚きに目をみはっている。「かなり鍛えておられるのですか」

「いえ、ただ年中、国の端から端まで歩き回っているというだけです。時には道のないような山の奥にも分け入って行きますので、自ずと体は強くなるのでしょう」

 汚れを落とした三人は湯壺に入り、縁を取り巻く平たい石に頭をもたせかけて、しばし無言のままくつろいだ。遠くのほうで雷がとどろいているが、こちらへ近づく様子はない。木々の葉を打ち、林床にしたたり落ちる雨音は妙に優しげで、不思議と心を落ち着かせた。

「ああ、幸せだ――」元博は湯に沈んで顎までかり、大きなため息をもらした。「あまりに気持ちいいので、このまま昇天してしまいそうですよ」

 五葉がふと頭を起こし、元博に目を向けた。何か珍しいものを見つけ、にわかに興味をそそられたような表情をしている。

「ずいぶんと、心の内を素直にお出しになる」

 そう言われ、元博はちょっと気恥ずかしくなった。「どうもわたしは、思ったことを秘めておけないたちのようで」

天門神教てんもんしんきょうでは幸福感や感動、感謝といったいものを表に出す素直さが尊ばれます」

「そうなんですか」幼いころから両親に連れられて何度も祭堂に参っているし、城の中にある祭壇には日常的に灯明とうみょうや香を上げていたが、天門神教の教義については実はあまりよく知らなかった。「そういうお話は、初めて聞きました」

「わたしもです」

 直祐が言うと、五葉は真面目な顔でうなずいた。

「これは原初の教えに沿った考え方なので、ご存じないのが普通だと思います。最近では信徒でも、あやふやにしか理解していないことがありますから」

「原初の――というと、ご開祖から伝わったものでしょう。正しく広まっていないのですか?」

 直祐が不思議そうに問う。元博も、そこのところをぜひ知りたかった。正しく伝えるために御山みやまがあり、祭主さいしゅや祭宜がいるのではないのだろうか。

「初めは正しかったものも、長年のうちに変容してしまうのが世の定めなのです。人から人へ伝えられるうちに、少しずつずれが生じ、余計なものがつけ加えられ、知らぬうちに本質から逸れていってしまう」五葉はいかにも伝道者らしい、朗々と響く声で静かに話した。「天門神教の開祖は、黎明れいめい時代に出現した〈授告者じゅこくしゃ朱殷しゅあんです。彼がこの国のすべての人の中で、最初に神告しんこくを授かりました。それは突然のひらめきのように天から降ってきた、と伝えられています。声ではなく、文字でもなく、ただ〝それ〟としか表現しようのないものが稲妻のように彼を打ち、ある言葉を脳裏に刻み込みました。〝きものには開き、しきものには閉じよ〟と。その時彼が受け取ったこの言葉こそが――つまるところ、天門神教の教義そのものなのです」

 元博は頭の中で彼の話を消化し、自分なりの回答を導き出した。「善いものは心を開いて取り込み、悪いものは閉め出せ、ということですか?」

「いえ、善いものも悪いものも、等しく受け入れます。その中から、天門――誰の中にもある、闢神びゃくしん闔神ごうじんが守護する門――を開いて外へ出すべきものと、閉じて出さぬようにすべきものとを、正しく選択するよう努める。それが、原初の教えの意味するところです」

 五葉の答えに、元博は少なからぬ衝撃を受けた。直祐もまた、思いがけない話に驚いたような表情をしている。

「天門はどこか、神の国の入り口とか……そういうところにあるのだと思っていました」元博は初めて知った事実に、やや気後れを感じながら言った。「本当は、わたし自身の中にあるのですか?」

「そう、誰の心も天門に通じています。しかし近年では、元博さまと同じように想像している人のほうが多いかもしれません」

「わたしの心にあるものなら……例えば、何かを入れないでおくことはできないものですか?」悪いとわかっているものまですべて入れねばならないという点は、なんとなく納得しがたかった。「悪いものがそもそも入っていなければ、出ることもないだろう、と思うのは間違っているでしょうか」

「間違いではありません。悪いものなど、入れないほうがいいのはたしかです。ですが元博さま、物事にすべて表と裏があるように、人というものも善だけ、悪だけでは決して成り立ちません。両方を備え、その狭間はざまで揺れてこそ、人は真に〝人〟といえるのです」五葉の口調は穏やかだが、声は強い確信に満ちていた。その顔には、これまで旅をしてくる中で一度も見せたことのなかった威風が表れている。「幼子であれ老人であれ、誰の中にも同じように善と悪はあります。ただ、そこから何を出すか、出さぬかは本人次第。人の本性というのは結局、それをどう選ぶかで決まると言えるのではないでしょうか」

 そう結論づけて口をつぐみ、彼は目を閉じて湯を無造作に頭からかけた。片手でつるりと顔をなでると、もういつもの静穏な表情に戻っている。

 元博はいま聞いたばかりの話で、頭の中がいっぱいになってしまった。いつも身近にはあったものの、それについて取り立てて真剣に考えたことのなかった宗教が、にわかに自分の中で存在感を増したように感じられる。かつてないほど強く心を揺さぶられたことは間違いなく、それを五葉に伝えたいと思うのに、何も言葉が出てこない。

「熱心に聞いてくださるのをいいことに、辛気しんきくさい話をつい長々としてしまいました。お許しを」五葉は静かに言い、小波ひとつ立てずに湯壺から出た。「夕餉の支度が調ととのうまで、まだ刻があります。おふたりは、どうぞごゆっくりなさってください」

 洗いざらされた木綿の万事衣まんじごろもを身につけ、湿った落ち葉を踏みながら彼が遠ざかっていくと、それまで元博の意識から完全に消えていた周囲の音が急に戻ってきた。雨はいまも降り続いているが、少し前に比べると雨脚がわずかに弱まったようだ。

 ややあって、ずっと沈黙していた直祐が口を開いた。「なんとなく、打ちのめされた気分です。不変の真理に気づかされたようであり――」

「――もっともらしい法螺ほら話を聞かされたようでもあり」後を受けて言い、元博は火照ほてった顔をばしゃばしゃと洗って、ふーっと長く息を吐いた。「わたしも同じ気分です。さすがは伝道の祭宜さいぎ……というか、五葉さんは、わたしが知っているほかの祭宜や堂司どうしとはどこか違いますよ。伝道者はみんな、あの人のようなんでしょうか」

「さあ、どうでしょうね。ただ彼は――原初の教えと言っていましたが、それにこだわるのは、今の時代にはやや異端視されることなのかもしれません」

 異端、という言葉は、何か苛烈な響きを帯びて聞こえた。

「でも、普通に考えると、原初の教えこそが正統なのでは?」

「正統か異端かを決めるのは、結局のところ人の主観ですからね。この数百年間に、原初の教えが歪められて何か違う形になり、それをいま多くの人が信じているとしたら、たとえ開祖の示したものであっても、それは異端になり得るのだと思います」

 元博は口を閉じ、それについてよく考えてみた。たしかに彼の言う通り、多数派は正統派とされがちだ。だとすると、五葉が伝道しようとしている教えは道を外れたものと位置づけられ、いずれ消え去ってしまうのだろうか。

「もし異端なのだとしても」元博は眉を寄せ、慎重に言葉を選びながらゆっくりと言った。「五葉さんが言った原初の教え……わたしは好きです」

「わたしも、いいと思います。単純でありながら、それでいて奥深い」直祐は少しも逡巡することなくあっさりと答え、行灯の明かりに微かな笑みを浮かび上がらせた。「今後、祭壇へ灯明を上げるたびに、きっと頭をよぎるでしょうね。――さて、そろそろ戻りますか」

 湯壺を出たふたりは、用意してきた手拭いでざっと水滴を拭った。周囲の気温が下がっているため、芯まで温まった体からは微かに白い湯気が立ちのぼっている。

 しとしとと降り続く雨の音と、ブナの梢を鳴らす風のささやきに包まれて着物を身につけながら、元博はまだ先ほどの話を思い返していた。

 何を出すか、出さぬかは本人次第――と五葉は言った。いつか、人生を左右するような難しい局面に際して、彼の言葉を思い出す日が来るような気がする。

 その時、わたしは正しく選べるだろうか。

 脱衣場を出て、傘を開きながら元博は自分に問いかけ、見つからない答えを探すように暗い空を仰ぎ見た。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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