七十七 三鼓国明保野郷・六車兵庫 ひと休み
ひと悶着の末に上水山を越えた六車兵庫と一行はその翌日、秘かに国境をまたいで三鼓国に入った。
南方へ向けて下る経路に立ちはだかるのは、空に届くほど高々と屹立する津々路連峰。巨大な屏風を思わせる山塊が、東から西へ長々と延び連なっている。
兵庫は屈指の難所と言われる水鶏口岳の山路を敢えて選び、歩きやすいが往来の多い街道と山裾近くの関所を避けた。黒葛禎貴に帰順を表して受け入れられるまでは、儲口守計の存在が人目に立つことのないよう注意を払わなければならない。
その後はひたすら先を急いで日に十里から十二里ほども歩き続け、詠月九日、雨もよいの夕暮れ近くになって、目的地である郡楽郷のふたつ手前の明保野郷に辿り着いた。予想よりも二日早い計算で、守計と側仕えの長楽正幸はさすがに疲れ切っている様子だ。
兵庫は郷の入口にある小さな宿場町で、久しぶりに宿を取ることを提案した。ここまでほとんど野宿か、掘っ立て小屋に毛が生えた程度の木賃宿ですませてきたので、このあたりで一度落ち着いて英気を養うのもいいだろう。
「上宿はやめておいたほうが無難だが、小旅籠なら問題ないと思います。番頭に少し多めに握らせて、相客を入れないよう頼んでおけば、安心してひと晩過ごせるでしょう」
「ありがたい」
心底そう思っている顔で、守計が深々とため息をつく。
「正直言うと、精根尽き果てそうになっていた」
「かなりの強行軍で来ましたからね」
兵庫自身は野宿中心の旅を、少しも苦にはしていなかった。だがもともと育ちのいい守計にとって、昼間はただ延々と歩き続け、夜は草深い山中や森の奥で木の根を枕に眠るという日々はかなり難儀なものだったに違いない。それでも文句ひとつ言わなかったのだから、体を伸ばしてひと晩眠るぐらいの贅沢は与えられて然るべきだろう。
「湯殿のある宿に泊まれるだろうか」
風呂好きにもかかわらず、もうずっと行水しかしていない守計が、切ないほどの期待を込めて訊く。
「飯はついているが、風呂は無理でしょうね。でも近くにきっと湯屋がありますよ」
彼が共同浴場を気に入るかどうかは疑問だが、少なくとも湯で体を洗えればそれなりに気分は上向くはずだ。
しつこい客引きの呼び込みをかわしながら宿場の端のほうまで歩いた三人は、道の脇で相談してから少し引き返し、あまりはやっている様子のない辻角の小さな旅籠に草鞋を脱いだ。二食つきで銅銭五枚という安宿だ。
出迎えたのはやたら愛想のいい四十男の番頭と、コマネズミのようにちょこまか動き回る小僧がひとり。その小僧が運んだ水盥で足をすすいでいると、何枚も重ねた布団を抱えて帳場の向こうの廊下を歩いていく若い女が見えた。十四、五ほどの年ごろに思える、垢抜けないずんぐりした娘だ。
宿場の女中や下女は客の床の相手を兼ねることが多いが、あれもそのひとりだろうか。
同じことを考えていたように、正幸が横から囁きかける。
「女はいるが、いっこうにそそられん醜女だ」
番頭のあとに続いてぎしぎし鳴る廊下を歩いていき、兵庫たちは建て増ししたように突き出た一角にある八畳間へ通された。表通りから離れていて静かに眠れそうなのだけが取り柄で、ほかには何も褒めるところのない簡素な一室だ。
記帳を終えて番頭が下がると、守計はいつも端正な彼には似合わぬ大あくびをした。
「ああ、ひさびさの畳だな」しみじみと言って、腕を枕に横になる。「今夜はよく眠れそうだ」
兵庫は腰高窓を開け、外の様子を確認した。宿の裏手には細い水路があり、水辺に植えられた柳の枝が長く枝垂れて、道を挟んだ向かいの建物との目隠しになっている。
何か危険が及んだ場合は、ここから出て右手の狭い横道へ逃げ込むとよさそうだ。
そんなことを考えていると、廊下からがさつな大声がした。
「お客さん、蚊が入るから窓開けねえほうがイイ」
振り向くと、さっき見たあの娘が立っていた。
「お布団、入れさしてもらいます」
敷居際でお辞儀をして入ると、彼女は両腕に抱えた三人分の寝具を枕衝立の陰に下ろし、腰を伸ばしてふーっと息をついた。
「お女中」守計が起き直りながら訊く。「この近くに湯屋はあるだろうか」
品のいい若侍から気さくに話しかけられた娘は、少し戸惑った様子でおどおどと目を伏せた。
「ヘエ、ございます。この裏手の通りを南へ一町ほど行かれたら、右手に〈亀井湯〉て看板が出ておりますんで。も少し手前の〈玉之湯〉は、主人が薪をケチるんでぬるいです」
田舎から出てきたばかりのように見えるが、なかなか受け答えが如才ない。
「そうか。かたじけない」
丁寧に礼まで言われて驚いたように、娘は恐縮しきった様子で部屋を出て行った。
「かわいそうになるほど不器量だな」
正幸が再び、遠慮のない所見を述べる。
「鼻ぺちゃで雀斑だらけで色黒で、おまけに体も寸詰まりときてる」
「健康そうな働き者じゃないか。そう、けなすものではない」
守計は眉をひそめながら擁護し、立ち上がって大きく伸びをした。
「食事の前に、その〈亀井湯〉とやらで汗を流してこないか」
きれい好きな若殿は、一刻も早く垢汚れと縁を切りたいようだ。
湯手ぬぐいと着替え、少しばかりの貴重品と差し料だけを持ち、帳場にひと声かけてから外へ出ると、今にも雨が落ちてきそうなむっとした空気に取り巻かれた。
ほぼ日差しの消えた空を、暗い灰色の雲が走っている。
「降られる前に帰れるよう、急ぎましょう」
兵庫は守計らを促し、少し早足気味に歩きながら湯屋を探した。
街道はまだ宿を決めかねている旅人や、この宿場を素通りして先を急ぐ者たちでごった返している。あと何人か客を捕まえようとする貪欲な呼び込みたちも、旅籠の幟をひらめかせながら袖を引いてまわっているが、すでに旅装を解いている兵庫たちには無関心だ。
少し先に主人が吝嗇だという〈玉之湯〉があり、さらに進んでいくと、教えられた通り右側に〈亀井湯〉の看板が見えてきた。
「わたしは、町場の湯屋というものに初めて入るのだが……」
入口まで来て、守計がやや不安げな表情になる。薄い長暖簾の向こうから賑やかな声がひっきりなしにもれてくるのが、静かな内風呂しか知らない彼には異様に思えるようだ。
「べつに、作法というほどのものはありません。おれや兵庫どのをご覧になって、同じようになされば大丈夫ですよ」
正幸が言って暖簾をたくし上げ、主人をくぐらせた。彼らに続いて兵庫も入ったが、守計は目を丸くして土間に立ったまま動く気配もない。
湯屋は仕切りのない素通しの構造なので、番台のすぐ向こうを裸体の男女がうろついている。その明けっ広げな光景が、まず彼を驚かせたようだった。
「守計どの、差し料はここに」
兵庫は番台に刀を預けたあと、三人分の浴料として鉄銭六枚を支払い、宿で借りた藁草履を脱いで土間を上がった。簡単な鍵がついた衣棚をひとつ確保して、その近くに守計を呼び寄せる。
「混んでいるから、三人でひと枡使いましょう」
勝手のわからない守計は、何でも言われるがままだ。
「兵庫どの」
彼は着物を脱ぎながら凝然と辺りを見回し、小声で囁きかけてきた。
「女子がいる」
どうやら、いちばん仰天したのはそこだったらしい。兵庫と正幸は顔を見合わせ、思わず苦笑をもらした。
「おりますが、気になさることはありません」
正幸が噛んで含めるように言う。
「でも、からまれると厄介なので、あまりじろじろご覧にならないほうが」
「じろじろなど」戸惑いも露わに守計が顔を伏せる。「むしろ目のやり場がない」
純情な若殿を微笑ましく思いながら、兵庫は旅汚れた衣類を手早く脱いだ。たちまち、周囲の目がこちらに吸い寄せられる。
人目のある場所で裸体になるといつもこうだ。並はずれて背が高い上に、剣術の修行で鍛え上げ、数多くの勝負傷を刻んだ体は注目の的になりやすい。
川で一緒に水浴びなどをして、すでに見慣れているはずの守計ですら、やり場のなかった目の向けどころを発見したというように見つめている。
「いつ見ても感心するな」
「でかくて、ごついというだけですよ」
兵庫は気のない顔で言い、肩に湯手ぬぐいをひっかけた。
「脱衣場の向こうの板敷きは洗い場で、手前の溝に流れているのが洗い湯、右手の湯桶に溜めてあるのは上がり湯です。奧に見える、あの上框の低い膝行り口の向こうに湯船がありますよ」
そう教えると、湯屋の雰囲気にようやく慣れてきたらしい守計は、嬉しそうに洗い場へ入っていった。正幸が横に陣取って世話を焼き始めたので、兵庫は少し離れた場所で体を洗うことにする。
ぬか袋で肌をこすりながら、彼は時折周囲に目を走らせて客の顔ぶれを窺った。
守計が気にしていたほどには、女の数はたいして多くない。せいぜい八、九人というところで、若い娘はそのうちふたりだ。圧倒的に多いのは青年層から中年層の男で、兵庫の目にはそのうち半数以上が武士に見えた。
旅をする武士が宿場町に大勢いても、なんら不思議はない。だが行楽にはまだ早く、特に大きな祝いごとや催しがあるわけでもない今の時期には少し珍しいかもしれない。このあたりで一泊する者の大半は郡楽郷を目指しているはずだが、何が目的で黒葛家の本拠地へ入ろうとしているのだろうか。
訊いてみたくはあるが、洗い場で見知らぬ相手に馴れ馴れしく話しかけたりするものではないので、ここで情報収集しようとするのはやめておいたほうが無難な気がする。宿へ戻ってから何か算段をしよう。
兵庫は体を洗い終えると、奧の湯船に少しだけ浸かった。ここの主人は〈玉之湯〉とは違って薪を大盤振る舞いするらしく、彼には湯がやや熱すぎるように感じられる。
汗が噴き出す前に上がって、ぬるめの上がり湯をかけたあと、脱衣場に引き揚げた兵庫は火照った肌を冷ましながらゆるゆると着替えを身につけた。
守計は熱い風呂が好きらしく、まだ湯船に浸かっているようだ。正幸の姿がないのは、それにつき合っているからだろう。
身支度を終えた兵庫はさり気なく番台に近寄り、煙管を片手にぷかりぷかりと輪煙を吐いている六十半ばの老爺に声をかけた。
「賑わっているな」
「そこそこでさ」
塩辛声で答え、老爺がちらりとこちらを見る。
「この宿場は人の往来が頻繁か」
「郡楽が近いでね。昔っから、行き来が絶えたこたねえやナ」
囲いに軽く寄りかかり、上背を活かして上から覗くと、老人の足元の籠に立てられている無数の預かり刀が見えた。
「武家客が多いようだ」
「お城で人集めしとると噂が立っとるで、近ごろはお武家さんやら職人の旅客がめっきり増えました」
「人集め? なんのために」
「さあて、戦でもなさるんでしょうかな」
老爺はとぼけた口調で言って煙草盆を引き寄せると、煙管の雁首を覗き込みながら、ほとんど粉ばかりの貧乏くさい煙草をせせった。
宿に帰り着いたとたん、空が割れたかと思うほどの轟音と共に稲妻がひらめき、滝のような雨がどっと落ちてきた。もう少し湯屋でのんびりしていたら、替えたばかりの衣類をずぶ濡れにされるところだ。
間一髪で間に合った兵庫たちを、あの愛想のいい番頭が揉み手をしながら迎えた。
「雨に降られずお帰りになられて、ようございました」
「危ないところだった」守計がほがらかに応じる。
「じきにお部屋へ、夕餉をお運びしますんで」
食事のことを言われると、急に腹が減ってきた。守計と正幸も思いは同じらしい。
部屋に戻って、濡れた手ぬぐいを干したり旅荷を整理したりしているうちに、三人分の食膳が届けられた。三段重ねにした脚付き膳を軽々と運んできたのは、布団を入れにきたのとは別の女中だ。こちらは三十近い年増だが、若いほうよりずっと見栄えのいい顔立ちをしている。
安宿なので期待していなかったものの、食事は内容、量ともに満足のいくものだった。
炊きたての飯に柳松茸とわかめの味噌汁、香の物は刻み茄子と胡瓜の赤紫蘇漬け。浅蜊のしぐれ煮は身がぷっくりと大きく、炒り雪花菜を衣のようにまとわせて揚げ焼きにした太刀魚は、香ばしさが食欲をそそる凝ったひと品だった。
「やはり魚は海のものに限るな」
守計が太刀魚を堪能しながら、噛みしめるように言う。
「内陸を旅していたあいだは川魚ばかりで、あれも決して悪くはないが、海魚が恋しく思えてならなかった」
「わかります」食い物にあまりこだわりはないが、その点は兵庫も同意するところだ。「おれも、元は島の出ですから」
彼が自分のことを話すのは珍しいせいか、守計と正幸が興味ありげな目をする。
「兵庫どのは島びとであったか。どこの?」
「丈州の南にある、名もない小島ですよ」
出身を訊かれるといつもそうするように、兵庫は曖昧な返答をした。ずっと前に縁を切った実家への遠慮もあり、あまり詳しくは話さないことにしている。
「顔立ちが、本島の者とは少し違うと思っていた」
横からそう言ったのは正幸だ。
「彫りが深いし、肌も少し浅黒い。湊で見かける異国人や渡来人のようだと」
「それはよく言われる。先祖の誰かが異国人と契ったのやもしれんな」
戯れ口を利くと、常になく明るい声で正幸が笑い、守計もくつろいだ笑みを浮かべた。風呂にも入り、久しぶりの座敷でこれからゆっくり眠れるとあって、ふたりともだいぶ気がゆるんでいるようだ。
なごやかな雰囲気で食事を終えた兵庫たちは、翌朝の出立に備えて早めに休むことにした。早寝早起きは旅をする者の嗜みでもある。
客室は半分がた埋まっているようだが、夜四つを過ぎるころにはもう宿の中はしんと静まりかえっていた。旅籠には酒を飲んで遅くまで騒ぐような輩がつきものだが、幸い今夜はそういう客とは泊まり合わせなかったようだ。
守計も正幸も完全に寝入ったころ、兵庫はそっと寝床を抜け出して部屋の外に出た。暗い廊下には風に揺すられて時折雨戸が軋む音と、小ぶりになった雨の雫が雨樋から滴り落ちる音だけが響いている。
客はもう寝静まっているが、宿の奉公人たちの中にはまだ起きている者もいるはずだ。
適当に当たりをつけて台所がありそうなほうへ歩いていると、手燭を持った女中がちょうど角を曲がって現れた。湯屋を教えてくれた、あの若い娘だ。
「あれ、奥の間のお客さん」
彼女は驚いたように言い、おそるおそる近づいてきた。
「なんかご不便でも?」
「いや、違う。少し話を聞かせてもらえないか」
「はア?」呑み込めない顔で訊き返し、ちょっと腰を引け気味にする。「話なんて……あたい、なんも知らねえです」
「知っていることだけでいいんだ」
重ねて言うと、娘は再び少し近づき、手燭を上げて兵庫の顔を見た。
「ふわあ」
腑抜けたような嘆声をもらし、色黒の頬にさっと朱を上らせる。
「お客さん、いい男だね」
思わず吹き出しそうになるのを堪えて、兵庫はどうにか真顔を保った。
「怖い顔だと言われるぞ。鬼のようだと」
「厳しいお顔つきだから、怖がりな人にはそう見えるのかも」否定はせずにうなずきながらも、頑固な口調で言い添える。「でも、いい男です。背も高いし、強そうだし」
「そうか」
兵庫は少し屈み、辺りを憚って声を落とした。
「ここで喋っていると怒鳴られそうだ。どこか、話せる場所はないか」
そのとたん、娘は急におろおろし始めた。さらに赤くなった顔は、今にも火を噴きそうだ。
「そ、そ、それは、あの――」額に汗を浮かべてどもり、やたらと唾を飲み込んでいる。「お、お代は銅四枚ですが、よ、よろしいですか」
何を言っているのかと訊きかけて、兵庫ははたと気づいた。床の相手をするよう迫られていると思っているのだ。
可笑しいような、同時に情けないような気持ちになりながら、彼は穏やかに彼女の勘違いを正した。
「そういう意味じゃない。ほんとうに話を聞きたいだけなんだ。むろん、手間を取らせたぶんの礼はする」
するとぶるぶる震えていた娘の手が止まり、揺れる手燭の炎もぴたりと落ち着いた。
「なあんだ」
拍子抜けしたように言い、がっくり肩を落とす。あれほど怖じけていたくせに、違うとわかって気落ちしているらしい。
「あたい不細工で、あんまりお客がつかないんです。だから買ってもらえると思ったら、つい舞い上がっちまって」
「それは、すまなかった。だがどのみち、おまえのように小さい娘を買う気にはとても――」
「柄は小さいけど、あたい十八だよ」
めったにないことだが、兵庫は呆気にとられて、しばらく言葉を失ってしまった。
往々にして女の年齢は見破りにくいものだが、それにしてもこの見かけでまさか年上とは。
「子供と間違われないか」
「ヘエ、もうしょっちゅう」娘は舌先をちろりと出して苦笑いした。そうやって笑った顔は、なかなか愛嬌がある。「さすがに慣れました」
彼女は手燭を下げて足元を照らしながら、先に立って歩き出した。
「こっちへどうぞ」
連れて行かれた先は、宿で使う行灯や蝋燭などを仕舞ってある三畳ほどの小部屋だ。
「狭いとこですいません」
行灯をひとつ寄せて火を入れ、板間に腰を下ろして向かい合うと、娘はもじもじしながら両手で顔を覆ってうつむいた。
「ひゃあ、なんか、小っ恥ずかしい」
「そう恥ずかしがられると、おれも妙な気分になる」
兵庫が笑いながら言うと、彼女は大きく息をつき、決然と体を起こして襟を直した。
「もう、だいじょうぶです」
「聞きたいのは、この辺りの近ごろの様子だ」
「はア……近ごろの」
「教えてもらった湯屋に行ったが、武家筋の客が多いように見受けられた。この宿の、泊まり客の顔ぶれはどうだ」
「ああ、たしかに、このごろお武家さんやご牢人さんが急に増えました。あんまり金持ってない人が多くて、たいていひとり旅です」
「湯屋の番頭は、郡楽で人を集めているという噂があるからだと言っていた」
「ヘエ、そう聞いてます」あっさりうなずく。「お殿さまが戦をなさるんで、三州のあちこちから人が寄ってきてるって」
「黒葛禎俊公の家来衆なのか」
「ご家来衆はこんな宿に泊まりません。ふだんは畑を作ったりしてる地侍とか、郷士とか、やっとうができる百姓とか、そういうのです」
「そんな有象無象を、禎俊公が呼び集めているのか」
「昔から三州じゃ、黒葛のお殿さまが戦をなさると風の噂にでも聞いたら、呼ばれなくたってみんな押っ取り刀で駆けつけるんです。ご家来衆じゃなくても」
自明のことだと言わんばかりに説明するのを聞きながら、兵庫は両腕の皮膚に軽く粟が生じるのを感じた。
六百年以上も前に三州統一を果たして以来、一度たりとも本領を明け渡していない名家黒葛家の絶大な威光を、まざまざと見せつけられた思いだ。
「大衆は普通、戦を嫌うものだがな」
「ヘエ、そりゃ戦は好きじゃねえです。畑の人手を取られるし、おっ父や兄弟が死ぬかもしれないし、敵に村を焼かれたり女をさらわれたりすることもあるし。でも、お手伝いしなかったせいで黒葛のお殿さまが負けるのはもっと我慢がならんと、三州の者ならみな言います」
それが三鼓国の国振りか――とやや圧倒されながら、兵庫はしばし瞑目した。
亡き儲口守恒が、黒葛家について話していた言葉が脳裏に蘇る。
〝ひとたび黒葛と戦を始めたら、やつらが勝つまでそれは終わらぬ〟
その〝終わらぬ戦〟を支える土台こそが、黒葛家に絶対的な忠心と崇敬の念を抱き、風の噂で即座に馳せ参じるという名もなき者たちなのだろう。
ふと気づくと、前のめりになった娘が下から上目づかいに様子を窺っていた。
「あのう、訊きたいことって、それだけ?」
「もうひとつ」
兵庫は片手を床に置き、自分も少し前に身を乗り出した。
「ここに住んでいて、実際に戦が始まりそうだと肌で感じるか?」
「感じます」
言下に答え、娘はじっと兵庫を見つめた。
「お客さん、戦に行きたいの?」
「そうだ」鋭い問いに少し戸惑いながらうなずく。「なぜわかった?」
「戦に行きたがる人は、みんな同じ目をしてるから」
それはどんな目か、と訊くのはやめにした。きっと説明はできないだろう。
「いろいろ聞けて助かった。こんな遅くに、すまなかったな」
腰を上げ、礼金を出そうと懐に入れた手を、娘が上からさっと押さえる。
「お金はいいです」
彼女はそのまま身を寄せて、おずおずと兵庫を見上げた。
「お客さん、あの、ここで……もし、あたいでよかったら――」たどたどしくそこまで言って、羞恥に耐えかねたように顔を伏せる。「お代はいりませんから」
どうやら彼女に気に入られたらしいこと、無料で抱かせると言われていることはわかったが、易々と据え膳に食いつくわけにもいかない。
「嬉しいが、おれはいま禁欲中なんだ」
「きんよく?」
ぽかんとする娘に、辛抱強く説明する。
「旅が終わるまで女と寝てはいかんと、剣術の師匠に命じられている」
「それ、あの、一緒に泊まってる人? 言わなきゃばれないよ」
「師匠はここから遠く離れた山にいるが、ばれるんだ。嘘のようだが、ほんとうだぞ。おれは子供のころから、あの人に隠し事をし通せたことがない」
娘はちょっと微笑み、それから吐息をもらして寂しそうにうつむいた。
「気をつかわねえでいいです。あたいなんかが相手じゃ、その気にならないよね」
「いや、その気はある。触って確かめるか」
挑むように言うと、彼女は言葉の意味を理解するなり首まで真っ赤になった。
「お客さん、人が悪い」
「最近まで共に旅していた友人にも、よくそう言われた」
笑いながら身を屈め、行灯の仄明かりに浮かぶ娘の顔を覗き込む。
「名は?」
「清」
兵庫は腕を伸ばして彼女を抱き寄せ、仰向かせて唇を重ねた。おざなりと思われるほど短くはなく、互いに熱が入るほど長くもなく。
離れぎわに間近で見た瞳は、うるみを帯びてきらきらと輝き、とても美しく思えた。
「旅の土産にもらっていく」
部屋を出がけに言うと、清は照れくさそうにしながらくすくす笑った。
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