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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第六章 絆の芽生え
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七十五 別役国龍康殿・伊都 狂犬

 目を覚ます前から、室内に誰かいるのはわかっていた。

 覚醒すれば忘れてしまう雑多な夢の残滓(ざんし)の中に、無遠慮に入り込んでくる他人の気配。そして匂い。祭堂や神祠(しんし)で嗅ぐような。

 お香の匂いのする人が近くにいる。

 ぞっと総毛立ち、伊都(いと)は眠りの底から急浮上した。跳ねるように(しとね)の上で半身を起こし、油断なく身構えながら部屋の隅にじっと目を凝らす。

 そこに一匹の獰猛そうな黒犬がうずくまっていた。だが息を呑んでまばたきをすると、それは人間の男の形になった。

 獰猛そうという印象は変わらないが、少なくとも人であることは間違いない。まだ年もかなり若そうだ。しかし、童顔で体つきもこぢんまりしているくせに、目尻の長く切れた双眸は奇妙に老成していて、ちょっと見では年齢を量りがたい。

 得体の知れない少年は、伊都が目覚めても壁を背に胡座(あぐら)をかいたまま身動きひとつせず、ふてぶてしい三白眼でまっすぐこちらを見据えていた。表情は能面のようで、固く閉じた唇を開く様子もない。

「あなた誰」

 伊都が訊くと、少年の短くて細い怒り眉がぴくりと動いた。

「そこで何してるの」

 問いを重ねても、返ってくるのは沈黙ばかりだ。伊都はしばらく睨み合ったあと、立腹を表して攻勢に出ることにした。彼が誰で、どんな事情があるにせよ、人の寝間に勝手に入り込んでいいはずはない。

「わたしの部屋から出て行って」

 怒った声で言うと、彼の表情が初めて変化した。頑固そうな口元に、嘲りに似た笑みが浮かぶ。

「おまえの部屋?」

 その時、廊下を歩いてくる足音がして、襖が細く引き開けられた。

「いーとちゃん」

 声を抑えながら歌うように呼んで、隙間から遠慮がちに片眼を覗かせたのは長五郎(ちょうごろう)だ。

「あ、起きてた」嬉しそうに言い、隙間をさらに押し広げる。「あのねえ今日は千太(せんた)さんが、あのう、干物を――」

 そこでようやく少年に気づいた彼は、小さな目をいっぱいに見開きながら小首を傾げた。

「あれえ? いぶき?」

 少年は無関心そうにうなずき返し、また伊都のほうへ視線を戻した。長五郎は室内に首だけ突っ込み、まだじっと彼を見ている。

「いつ来たの?」

「今朝だ」

 素っ気ない返答を気にする様子もなく、さらに長五郎が何か訊こうとしたところへ、佐吉(さきち)の寝ぼけ声が割って入った。

「おい、何やってんだよ」

 長五郎の巨体を横へ押し、間隙から室内の様子をちらりと見た佐吉が、たちまち顔を強張(こわば)らせる。

伊吹(いぶき)

 その声の調子を聞いただけで、伊都は彼の機嫌が斜め下がりになったのを感じ取った。

「おまえ、女の部屋にずかずか入るんじゃねえよ」

 佐吉は襖を大きく開け、唸るように言った。天敵に出くわした動物さながらに髪の毛を逆立てている。だが相手は素知らぬ顔だ。

 伊都はその時ようやく、伊吹と呼ばれた少年が漆黒の法衣を着ていることに気づいた。よく見れば、頭髪も指でつまむのがやっとの長さに刈り込んでおり、御山(みやま)の奉職者らしい禁欲的な雰囲気を漂わせている。

祭宜(さいぎ)……」

 仲間に小祭宜(しょうさいぎ)がいると鉄次(てつじ)に聞いていたことを思い出しながらつぶやくと、佐吉がふんと鼻を鳴らした。

「野良犬だよ」そう言う表情に険がある。「しかも狂犬だ」

 ふいに伊吹が立ち上がり、音もなく戸口へ近づいた。並べて見比べると、背丈は十三歳の佐吉のほうが少し高い。

 彼は佐吉に一瞥も与えることなく、わざと肩で押しのけるようにして、何も言わずに部屋を出て行った。その背中を睨みつけながら、佐吉は頭から湯気を出しそうな顔をしている。

 伊都はしばらく呆気にとられたあと、体の力を抜いてため息をついた。

「ああ、怖かった」

「あいつになんかされた?」佐吉が急き込んで訊く。

「ううん。でも目を覚ましたらそこにいたから、びっくりしたの。仲間に伝道の祭宜がいるって鉄次さんが言ってたけど、あの人がそうね?」

「あんなのが祭宜だなんて、信じらんないよな」

 佐吉が口をとがらせながら言う横で、長五郎はにこにこ笑っている。

「伊吹はねえ、いつもはいないんだ。それで、たまあに帰ってくるんだよ」

「町に戻った時はよくこの部屋で寝泊まりしてたから、おまえがいると思わなくて入ったんだろう。でも先客がいたら黙って出てきゃいいのにさ。あいつ、ほんと何考えてんのか全然わかんないよ」

 伊都には、佐吉がかりかりしているのが新鮮に感じられた。都会っ子で世間ずれしている彼は飄々として、普段はあまりいら立ちや怒りを露わにしない。伊吹とは、よほど相性が良くないのだろう。

「わたし、悪いことしたかしら。部屋を空けたほうがいいと思う?」

 気がかりになって訊くと、彼は憮然として頭を振った。

「ほっときゃいいよ。寝る場所ならまだあるし、別の(ねぐら)に行ったっていいんだから」

「あのねえ、伊吹は〝いぶきちゃん〟て呼ぶと怒るよ」

 とっておきの秘密を明かすように、声をひそめて伊都に教えてから、長五郎はそわそわと台所のほうを窺った。

「早くしないと、伊吹が干物全部食べちゃうよ。千太さんが焼いてくれたんだよ」

「着替えたらすぐ行くね」

 伊都の言葉に納得した面持ちで、彼は大きな足音を響かせながら廊下を歩いて行った。佐吉はまだ残って、むっつりと(かまち)にもたれかかっている。

佐吉(さき)っちゃんは、伊吹祭宜と仲が悪いの?」

「それ、その〝祭宜〟をつけて呼ぶのも、あいつ嫌がるよ」彼はそう言いながら、着崩れた内着の襟から覗く胸元をぼりぼり()いた。「めんどくさいやつなんだ」

「あの人、いくつ?」

「十五」

 佐吉よりふたつ年上であの背丈なら、かなり小柄なほうと言えるだろう。腰高な態度を取るのは、体格の不利を補うためなのかもしれない。

「ちびすけだろ」

 伊都の表情から考えを読み取ったように言い、佐吉は大きな鼻息をもらした。

「なのに乱暴でさあ。おれ昔あいつに、めちゃくちゃに殴られたことがあるんだ」

「どうして?」

 驚いて訊くと、彼は肩をすくめてみせた。

「知らない。たぶん、わけなんかないよ。鉄次さんに拾われたばっかりのころは、目が合うと誰彼かまわずに殴りかかるようなやつだったんだ」

 だから〝狂犬〟なのね――と思いながら、伊都は寝具を手早く畳んで部屋の隅に片した。

「そんな人が、どうして祭宜になったのかしら」

「鉄次さんに御山へ行かされたからさ。人をぶん殴る前に考えるようになるだろうとか……なんか、そんなことを言ってたっけ」

「それで、おとなしく昇山(しょうざん)して、何年も修行をしたの?」

 そんな従順さは彼にはまったく似合わない気がする。

「伊吹は鉄次さんの言うことだけは聞くんだ。見放されるのが怖いから、なに言われても絶対に逆らわないよ」

 わたしと同じね、と言いかけて、伊都は危うく言葉を呑み込んだ。嫌っている相手に同調してみせたりしたら、佐吉は嫌な気分になるかもしれない。

 だが今の話を聞いて、漠然と抱いていた伊吹への恐れが少し薄らいだ。彼もまた鉄次に拾われ、その存在を何より(たの)みとしている孤児(みなしご)のひとりなのだと思うと、自ずと親近感がわいてくる。

 とはいえ、どんなふうに接すればいいのか、今はまだよくわからない。長五郎や佐吉とはすぐに仲良くなったし、ほかの孤児たちとも無難に交流できていると思うが、伊吹とのつき合いは何かそれとは少し違うものになりそうな気がした。


 長五郎(ちょうごろう)以外みな押し黙り、どことなく気まずい空気が漂う中で朝餉をすませると、伊都(いと)は日課にしている家の掃除に取りかかった。

 今この(ねぐら)には六人が暮らしているが、彼女以外の者は家が散らかったり汚れたりしていてもあまり気にしない。だが伊都は、そのうち虫でも湧きそうに思えて、どうにも我慢がならなかった。

 しかし、外での活動が忙しく、ほとんど寝るためだけに帰ってくる宏太(こうた)加代(かよ)に、掃除をしようなどと持ちかけても怪訝な顔をされるだけだろう。長五郎は協力してくれそうだが、彼も朝早くから湊で働き、戻るのはいつも夕暮れになってからだ。佐吉(さきち)は掃除も片づけも大嫌いなので、(ほうき)を見ただけで逃げ出してしまう。

 だから伊都は人に頼らず、自分で気の済むようにしようと決めた。各自の居室はそれぞれに任せるしかないが、共同部分をきれいに保っていればなんとか気持ちよく暮らせるだろう。

 戸や障子の桟にたまった埃を、はたきで払い落とす。廊下と縁側、手水の床の砂埃を掃き出し、板間には雑巾をかける。裏庭の雑草を抜き、落ち葉を竹箒で集める。放浪中に働いた家々で清掃術を教えられたので、こうしたことはどれも手際よくできるようになっていた。

 (かまど)や流し周りは、台所を自身の領分と心得ているらしい千太郎(せんたろう)が、日ごろから念入りにきれいにしてくれるので問題はない。

 玄関へ続く廊下に雑巾をかけていると、これから勤めに出る長五郎がやって来た。

「おれ、湊行ってくるね」

「はい、いってらっしゃい」

 掃除の手を止めて送り出していると、彼に続いて伊吹(いぶき)も現れた。長五郎が土間で足を止め、不思議そうな顔をする。

「あれえ、伊吹どこ行くの」

鉄次(てつじ)を捜しに」

 ぶっきらぼうに答える彼に、伊都は急いで声をかけた。

「あの、鉄次さんなら――」三白眼で横目に見られ、ちょっと言葉に詰まってしまう。「お(ひる)に会う約束だから、よかったら一緒に」

「伊都ちゃんはねえ、毎日鉄次さんと会えるんだよ」

 少し羨望のこもった声で長五郎が教える。

「なんでかっていうと、あのう、〝ひざっこ〟だから」

「違う。秘蔵っ子って言ったんだ」

 すかさず訂正したのは、廊下の先の部屋からふらりと出てきた佐吉だ。

「伊都は鉄次さんの仕事を手伝ってて、特別かわいがられてるからな」

「特別なんかじゃない。みんなと同じよ」

 長五郎ちゃんに変な入れ知恵をして、と上目づかいに睨んだが、佐吉は平気な顔でにやにや笑っている。

「おれらは鉄次さんにとって、用がある時だけの当座雇いだけど、おまえは常雇いだもん。絶対、特別だと思ってるよ」

 喋りながら、意味ありげにちらりと流す視線。そこで伊都はようやく、彼が伊吹を煽っていることに気づいた。

 佐吉が彼に敵意を持っているのはわかっていたが、挑発するためのだしに使われるのは嬉しくない。

「違うって言ってるでしょ」

 伊都はぴしゃりと言い、近づいてきた彼の臑をぐいと押した。

「お掃除の邪魔」

「ちぇっ、なんだよ」

 その時、伊吹がふいに(きびす)を返した。何も言わないまま歩き出し、家の奥へ引っ込んでいく。出かけるのをやめたということは、(ひる)の待ち合わせに同行する気になったのだろうか。

 佐吉と違って、伊吹の考えは読みづらい。ほとんど話そうとしないのでなおさらだ。

 伊都は小さく嘆息して顔を上げ、佐吉に厳しい視線を注いだ。

佐吉(さき)っちゃんたら、どうしてあんなこと言うの」

「伊吹の顔見た?」

 彼は悪びれる様子もなく、楽しそうに笑っている。

「あいつ、子犬みたいにやきもち焼きなんだ。一緒にいる時に、鉄次さんがほかのやつをちょっとかまうだけでも嫌そうにする」

「伊吹はねえ、鉄次さんが大好きなんだよ」長五郎が微笑みながらほのぼのと言う。「おれもだーいすき」

 仲間同士の軋轢になど気づいた様子もなく、彼は上機嫌で仕事へ出かけていった。

 佐吉は遅ればせながら伊都の不興を感じ取ったらしく、機嫌を取るかのように柄にもない気づかいをしてくる。

「雑巾がけ、手伝おっか?」

「いい。もう終わるから」

 少し頭に来ていたので、彼女は素っ気なく言った。

「そんなに冷たくしなくたって――」

 彼の寂しげなぼやきは、玄関口でふいに響いた張りのある声に遮られた。

「ご免」

 伊都がそちらを見ると、黒っぽい袴姿をした四十代ぐらいの男が立っていた。頭はつるつるで一本の毛もないが、顔には黒々とした髭をたっぷり蓄えている。ぎょろりと大きな目をしており、眼光はかなり鋭い。腰には二本差しているが、よく見るとどちらも木太刀だ。

「はい、どちらさまですか」

「なあんだ、おっちゃんか」

 横から佐吉がつまらなさそうに言い、客にその太く濃い眉をしかめさせる。

「おっちゃんとは何だ。傳次郎(でんじろう)さまと呼べ」禿頭の男はあらためて伊都のほうに向き直り、厳めしい顔つきをして名乗った。「南浮(なんぶ)傳次郎と申す。鉄次の依頼で参った。本日よりおぬしに剣術を指南する」

 伊都ははっとなり、急いで床に手をつきながら挨拶をした。

「伊都と申します。御指南、なにとぞよろしくお願いいたします」

「小さいとは聞いてたが、ほんとにちびっこいのう」

 傳次郎は下駄を脱いで上がると、勝手知ったる様子でどんどん歩いて行く。そのうしろを伊都が追い、さらに佐吉もついてこようとしたが、ぎょろ目で肩ごしに睨まれて足を止めた。

「おまえは来んでいい」

「なんでさ、おれ見たいよ」

「邪魔だ。弟子の気が散る。どこかへ稼ぎに行くなり、遊びに行くなりしろ」

 有無を言わさぬ口調で命じられ、さしもの佐吉もそれ以上は食い下がれない。残念そうな顔の彼に、伊都は手真似で「雑巾と桶を片づけてね」と頼んでおいてから、師匠に続いて裏へ出ていった。

 この古い借家の裏庭は六坪ほどあり、節穴の多い板塀で囲まれている。北西の角にねじくれた柿の木が一本、その脇に貧弱なハクチョウゲがふた株ほど植えられているが、あとの部分は土がむき出しになっているだけだ。

「ほれ、振ってみろ」

 傳次郎は伊都に木太刀を一本手渡し、横に退いて腕組みをした。

 渡された木太刀はやや短めだが刀身が太く、両手で握っていてもずしりと重い。よほどしっかり腰を入れなければ、重量に振り回されてしまうだろう。

 伊都は気息を整えて中段に構えると、振りかぶって頭上からまっすぐに打ち下ろした。なんとか剣先を止められたが、少しでも気を抜くと一気に下へ持っていかれそうだ。

「ふむ」

 鼻息とも嘆息ともつかない声をもらし、傳次郎が口を開く。

「もう一本」

 二本目は、体の感覚が馴染んできたのか、もっとうまく振ることができた。

「続けろ。どんどん振れ。打ち込みの間を揃えろ。足さばきを忘れるな。いいぞ、そうだ――よし、()め」

 二十本目で止めが入り、伊都は前髪を払って大きく息をついた。ひさしぶりに柄を握った手のひらは、もう摩擦に耐えきれなくなってじんじんしている。

「なかなか堂に()っとるわい」

 傳次郎はゆっくり前に歩み出て伊都と向き合った。

「誰に剣を教わった」

「父です。武芸者でした」

「いくつで稽古を始めたのだ」

「稽古という形になったのは五歳の時です。でもそれより前、ふたつか三つのころから、遊びの中で剣術の手ほどきを受けていました」

「なんとまあ、女の子になあ」

 彼はあきれたように言い、手のひらでうしろ頭をつるりとなでた。

父御(ててご)はおぬしを、どうするつもりだったのだ。道場の跡継ぎにしようとでも?」

「父は道場主ではありません。おし――」お城のと言いかけて、あわてて言い換える。「お屋敷の武術指南役でした。わたしに剣を教えたのは、家にはほかに技を伝えられる子が……男子がいなかったからだと思います」

 天勝(ちよし)国の大光明(おおみや)城下で生まれ育ったこと、父が名門志鷹(したか)家の筆頭武術指南役であったことを、もう隠す必要はないのかもしれない。謀反を起こして宗主の地位を手に入れた志鷹頼英(よりひで)は、その過程で踏みにじった一家の生き残りの娘のことなど忘れてしまっただろう。覚えていたとしても、どこかでのたれ死んだものと思っているに違いない。

 敵の膝元から遠く離れたここは、ようやく辿り着いた安全な場所だ。自分を偽ることなく生きていくことができる。そう思いながらも、伊都はまだ他人に出自を明かす気にはなれなかった。

 もしも鉄次に訊かれたら、その時は正直に答えるかもしれない。だが、おそらく彼は訊かないだろう。そういう気がする。

「父御は、ずいぶん厳しくおぬしを仕込んだようだな」

 傳次郎は伊都の目を覗き込むようにしながら言った。

「へなちょこの鉄次が言うことなど当てにならんと思っとったが、なるほど、そこそこ素地はできておる」

 素振りを見ただけで、そんなことがわかるのかしら。伊都は疑問に思ったが、使い手というのはそういう見極めにも長けているのかもしれない。

師匠(せんせい)はこれまでに、たくさんの弟子を育てられたのですか」

 ふと興味がわいて訊ねると、傳次郎はにやりと唇をゆがめた。

「おうよ、育てた。そりゃあもう、数えきれんほど大勢な」

 冗談めかした口調だが、声にはどことなく感慨がこもっている。

「おぬしは、わしが教えた最後の弟子によう似とるわい。たいそう目鼻立ちの整った少年(こども)で、礼儀正しくおとなしいが、誰よりも稽古熱心で自らに厳しく、賢く、何もかもを見通すような目をしておった」

〝最後の〟という部分が引っかかった。では傳次郎は、今は剣術の師匠をしているわけではないのだろうか。

「その人のあとは、誰も教えておられないのですか?」

「天下に並ぶ者のない、最高の剣士を育て上げてしまったからな。もうよかろう、と思ったのだ」

 天下無双を育てたなど、とんでもない大言を吐く男だと普通ならあきれるところだが、伊都は彼の言葉を疑う気持ちにはならなかった。

「最後のお弟子さまは、今は剣客としてご活躍を……」

「いや、次代の剣士を育てておるよ。己を超える者を生み出すべくな。だが容易(たやす)くはなかろう」

 傳次郎はふふ、と含み笑いをして、腰に差した木太刀を抜いた。

「さて、もう少しおぬしの手並みを見せて――」

 言いかけてやめ、ふと縁側のほうへ目をやる。いつの間に現れたのか、そこに伊吹が立っていた。

「ひさしぶりだのう。いつ戻った」

「今朝」

 年長者に対しても、彼の態度はまったく変わらない。

「ちゃんばらごっこか?」

 にべもない問いかけに、傳次郎は愛嬌のある笑みを返した。

「いいや、剣術指南だ。鉄次はこの娘を、腕利きの女剣客に育ててもらいたいらしい」

 表情はそのままだが、伊吹の目がぎらりと剣呑な光を帯びた。

「なぜ」

「用心棒にするためだそうだ。どういうつもりか、なんて訊くなよ。あいつの酔狂は今に始まったことじゃない」

「まだほんの餓鬼じゃねえか」

 伊吹の視線が突き刺さるようで、ひどく居心地が悪い。伊都は胸のあたりがもやもやするのを感じながら、横目に彼の様子を窺った。

 怒っている。戸惑っている。同時に、少し寂しそうにも見える。

「上達するころには〝大きく〟なっとる」おまえよりもな、と言いたげに傳次郎が伊吹を()めつけ、彼に向けて木太刀を放った。「取れ」

 とっさに手を伸ばし、それを掴み取った伊吹が怪訝な顔になる。

「なんだ」

「下りてきて、わしの弟子とちょっと打ち合え」

 伊都もぎょっとしたが、伊吹はさらに動揺しているようだ。

「いやなこった」

「そうか、いやか。……鉄次はおまえに、(ねぐら)の新参に親切にしてもらいたかろうなあ」

 痛いところを突かれたようにうっと息を呑み、伊吹はしぶしぶ縁側を下りた。鉄次の名は彼には効果絶大らしい。

「こんなのは振り慣れてねえ」

 不満げに言い、片手持ちにした木太刀をぶんぶん振り回す。体こそ小さいが、腕の力はかなりありそうだ。

「長いのを使わせろ」

「阿呆。新弟子を、会ったその日に突き殺されちゃかなわん。それでやれ」

 ちっと舌打ちをして、伊吹は無造作に構えた。あまり形になっておらず、どことなくちぐはぐな印象だ。慣れていないというのは本当らしい。

 伊都が急いで構えた瞬間、どっと吹きつける向かい風のように、伊吹の剣尖が襲ってきた。かろうじてかわしたそれが左頬のすぐ横をまっすぐに突き抜け、頭の芯にしびれたような感覚をもたらす。

 驚きに目を見開きながら、伊都は草履を蹴り脱いで裸足になった。一瞬溜めてから踵で思いきり地を蹴り、低い体勢で相手の懐へと飛び込む。

 肉薄して左下から振り上げた彼女の斬撃を、伊吹は木太刀の柄頭で縦に弾いた。そのまま刀身を斜めに倒しながら横へひと薙ぎ。

 弾かれてすぐに飛び退(すさ)った伊都の喉元を、ごうっと低い唸りを上げて剣先がかすめていく。

 すごい。――強い。

 完全に圧倒され、背筋を冷や汗がつたうのを感じた。次いで、打ち合いに持ち込めない口惜しさが胸に渦を巻く。

 父との稽古でもよくこんなふうに追い詰められたが、いちおうは受け手にも回って打ち合いの体裁を取ってくれた。しかし伊吹はまったく容赦がない。無理をしてでも果敢に前へ出なければ、攻撃から逃げ回るばかりにさせられてしまう。

 伊都は()じけそうになる心をなだめ、気持ちを集中して、踏み込みと打ち込みをしぶとく繰り返した。だんだん迫ってはいるが、あと少しが届かない。一方、伊吹の打ち込みはたびたび防御をすり抜け、彼女の体に当たっている。

 じきに、たまらないほど腕が重くなってきた。髪の生え際から流れた汗が目に入り込む。疲労で足がもつれる。

 あっと思った時には上段からきた一撃をかわしそこね、こめかみの上あたりで受けていた。

()め!」

 大声で制止して、傳次郎が飛び出してきた。さっとうしろへ回り、脱力しかけた伊都の体をしっかりと支える。

「倒れそうか?」

 静かに訊かれ、彼女は小さく首を振った。目の中がちらちら点滅する星でいっぱいになり、息をするのがやっとで声も出ない。

 それでも少し待っていると、だんだん視界がはっきりしてきた。

「平気です、師匠(せんせい)

 まだふらつく両足を踏ん張り、傳次郎を振り返る。無様なところを見せて師匠を落胆させたかと思ったが、意外にも彼は嬉しそうに微笑んでいた。

「よう戦ったぞ。上等、上等」

「でも、わたし……打たれるばかりで」

「なんの。今は(かな)わずとも、いずれ伊吹をこてんぱんにしてやれる」

 引き合いに出された少年が、おもしろくなさそうに鼻を鳴らす。

「ご苦労だったな」傳次郎は彼のほうを向いてさらりと(ねぎら)った。「渋ったわりには手抜きをせず、真面目にやったのう」

「手抜きしたんじゃ親切にならねえ」

 言い訳をするようにつぶやき、伊吹は木太刀を突っ返した。それを腰に戻しながら、傳次郎がいたずらっぽく微笑みかける。

「おまえ、しばらく町にいるのだろう。たまにこの娘の相手をしてやってくれんか」

「馬鹿野郎、ふざけんな」

 噛みつかんばかりに言われても、傳次郎の愉快そうな表情はまったく変わらなかった。

「ほれ、伊都」さらに笑みを広げながら、横に立つ伊都の背を軽く押す。「おぬしからも頼め」

「よろしくお願いします」

 面前で頭を下げる彼女を唖然として見つめたあと、伊吹は低い呻き声だけを残し、逃げるように家の中へ入っていった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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