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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 戦(そよ)ぐ春景
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六   別役国龍康殿・鉄次 引っかけ

 かすりの縞模様が入った高価な阿武あんの上布(じょうふ)の小袖に、ヱえがすみを思わせる地紋が美しいしゃの黒羽織。鈍色にびいろの角帯は、膨れ織りと梨地なしじ織りを組み合わせて織り出したうろこ文様だ。

 気合い充分に着飾った男。その姿を見ただけで、彼についていろいろなことがわかる。別役わかえ国の外から来た、遊びに慣れていない田舎者。成金か、あるいは大店おおだなの若旦那。懐には大金。女を欲しがっている。それも、とびきりの女を。

 鉄次てつじは辻売りの蕎麦屋台の脇に立ち、めかし屋を観察し続けた。ころころした丸顔に似合わない立派な口髭を生やしており、年のころは三十あまり。五、六間向こうにある飯屋の格子窓の前にたたずんで、はす向かいの小間物屋をひやかしている娘たちを食い入るように見つめている。その粘りつくような視線の先にいるふたりの娘は、まだ十代のなかばにも達していない年ごろだ。

 鉄次は猫のようにしなやかに身を起こし、軽い足取りで歩き出した。夕暮れ刻のそぞろ歩きを楽しんでいる人々や、すでにどこかで一杯やってきたらしく上機嫌な酔客たちのあいだを縫って、さり気なく男の傍に近づく。

「やあ旦那。いい宵だねえ」

 声をかけると、男が飛び上がって振り向いた。さほど暑くもないのに、髪の生え際に汗を光らせている。近くで見ると、あきれたことに、羽織の紐に黒玉と翡翠ひすいの丸玉の飾りを通しているのがわかった。どうも際限なく盛るのが粋だと思い込んでいるらしい。

「へえ、あんた洒落者しゃれものだな」

 世辞せじを言ってやると、不安そうな男の硬い表情が少し和らいだ。

「いや、あの——ど、どうも。おまえさんのも、いいちぢみだね」

「ありがとよ」

 古着で安く買った、乱格子らんごうし文様の石徹白いしとろ(ちぢみ)だ。褒められるほどいい物ではないが、自分に似合うものを着ている。

龍康殿りゅうこうでんは初めてだろう」

 ずばり言うと、男の両眼がみるみる丸くなった。

「な、なんでわかるんだい」

ところの者じゃないってのは、なんとなくわかるもんさ。初めてかどうかは、振る舞いを見りゃ一目瞭然だ」

「そうなのか……」男は少し肩を落とし、小さくため息をついた。「手慣れたふうに見えたらいいと……思ってたんだけどね。どうもあたしは、遊び場に気後れするたちみたいで」

「なあに、そんなのは場数を踏めばいいだけのことさ。別州べっしゅう一の遊興地に来て、はめを外さない手はないぜ。飲む、打つ、買う、なんでもありだ。好きなことをやって、思うさま楽しみなよ」

「そ、そうだね」

 自信なさげにうなずく彼の視線が、すぐ近くを歩いて行く娘を捉えた。まだかなり若いが、一見して玄人くろうとだとわかる。匂い立つような婀娜あだっぽさだ。近ごろはやりの、セミの羽根のような杢保もくぼ上布で仕立てられた小袖を、衣紋えもんを抜いて小粋に着こなしている。それでいて、い髪のおくれ毛は少女らしい無邪気さを感じさせた。

 男の目が、ふわふわと風に舞う後れ毛と細いうなじに釘づけになり、どこまでも追っていく。鉄次は舌の先を前歯で軽く噛みながらその様子を見つめ、娘が遠ざかったところで男にすっと体を寄せて囁いた。

「ああいうと遊びたいかい」

 男がはっと我に返り、鉄次を凝視する。

「な、な、なんだって?」

「女を買いにきたんだろう? まあ落ち着きなって、旦那」逃げ腰になりかけている男の肩に軽く腕を回し、鉄次は力の抜けた笑みを見せた。「龍康殿にやってくる男の半分は、女を買いにくるんだ。なにもあんたが初めてってわけじゃない」

 男はそわそわと身をよじっているものの、そう言われて少し安心した様子だ。

「は、半分——そうか。の、残りの半分は?」

「それも女を買いにくる」鉄次は悪戯いたずらっぽく眉を上げながら、訳知り顔に言った。「前の半分と違うのは、そいつらは女を買うだけじゃなく、博打ばくちもやるってことさ」

 男はきょとんとして、それから遠慮がちに笑い出した。じきにその笑い声が大きく、明るく変わる。鉄次は一緒に笑いながら、相手が自分の手の内に落ちかけているのを感じ取った。

「それであんた、三番町の娼楼しょうろう街にはもう行ったのかい? いい店を紹介しようか」

 男は笑いやめ、ちょっと気恥ずかしそうに首を振った。

「いや——あの……娼楼にいるような、百戦錬磨(れんま)ねえさんたちを前にしたら、づいてしまいそうで」

「わかるよ。じゃあ見世みせに上がるよりは、通りで素人しろうとっぽいのを探したほうがいいな。さっきみたいな娘が好みかい?」

「ああ。いや、その——」男は辺りをはばかるように見回し、鉄次のほうへ身を乗り出した。その頬がうっすらと赤らんでいる。「かわいい娘だったね。でもその、本当はもうちょっと……」

 もごもごと口の中で呟く男は多量に発汗し始めており、その甘酸っぱいにおいが鉄次の鼻先まで漂ってきた。放っておくと、いつまでもそれを嗅がされそうなので、代わりに言ってやる。

「もうちょっと〝若い〟?」

「〝幼い〟——娘がいいな」打てば響くように返した男の双眸そうぼうが、ぎらりと貪欲どんよくに光る。「あの、こ、このあたりの若い娘は、れっらしが多いって聞いてるからね。あどけない……ぐらいの年ごろの娘のほうが、あたしにはいいんじゃないかなって」

 予想はついていたものの、鉄次の腹の中で嫌悪感が黒々と渦巻いた。幼い娘だと? この変態野郎め。

「なるほど。擦れてない娘はいいよな。じゃあ、あそこの店先にいるふたり、どうだい」

 鉄次が顎で指した先には、男が先ほど舐めるように見ていた娘たちがいた。

「なかなか——いいね」男は心を読まれて驚いたように、やや警戒しながら言った。「で、でも、あんな娘らが、あたしと遊びたいと思うかな」

「おれが言えば遊ぶさ。あいつらは、おれの手駒だからな」

 鉄次はさらりと答えた。男が真顔になり、それから少し怯えたように一歩後ずさる。

「あの、おまえさん、その……〝そういう〟人、なのかい?」

「おれは周旋人だ。取り持ちをする。面倒を見る。人が欲しがるものを調達する」鉄次は自信たっぷりな口調で言った。「あんたが何か欲しがってるのは、見ればわかった。だから声をかけたのさ」

 男は怖がっているが、同時に興味もそそられている。頭と下半身、上下ふたつの場所で別々のことを考えており、じきに下のほうが勝利を収めそうだ。鉄次はそれと見抜いて、一気に畳みかけた。

「まともな娼楼は、十五にならない娘は客前に出さない。でも、旦那はもっと幼いのがお好みだ。まともじゃないたなに行けば、まあ見つかるかもしれんが、いくらぼったくられるかもわからないような店へ行きたかねえだろう? あのふたりは、まだこの道に入ったばっかりで擦れてないし、おれの手駒の中でも上玉だ。年のころも、あんたの好みに合ってる。だから、おれに任せなよ」

 任せろのひと言が、男の中で繰り広げられていたせめぎ合いに決着をつけた。ごくりと音を立てて唾を呑み、鉄次の傍へにじり寄ってくる。

「ほ、本当に、あの娘らと話をつけられるのかい?」

「もちろんさ」

 その時、娘のひとりが、ちょうどこちらへ目を向けた。店をひやかすのに飽きたのだ。鉄次はその娘の視線を素早く捉え、笑顔で手を振った。たとえ幼くとも、女は男の誘いに敏感だ。そして鉄次は、女から好感を抱かれやすい容姿をしていた。ほどほどに整った顔立ちと、相反する粗野な男っぽさ、その不均衡がなぜかうけるのだ。

 娘はかわいらしく頬を染め、手を振り返した。隣にいたもうひとりも、その様子に気づいて振り向き、照れたように笑いながら同じく手を振る。

 鉄次の横で、男が感嘆の呻きをもらした。心の隅にわずかな疑いがあったとしても、それはもはや完全に消えたと見ていいだろう。

「旦那、ちょっとここで待っててくれるかい。あいつらと話をつけてくるからな」

「あ、ああ。もちろん。待ってるよ」

「どっちの娘がいいんだい」

「どっち? そ、そうか。あの、そうだな……できれば——」

「両方か。いいぜ」鉄次は察しをつけ、気安く請け合った。「すぐ戻る」と言い置いて、足早に娘たちのほうへ近づいていく。

 男と話しているあいだに、道にはますます人通りが増えていた。薄青い空にはまだ日の名残があるが、店先の突き出し燭台しょくだい提灯ちょうちんには早くもぽつりぽつりとがともり、巨大歓楽地がその素顔ともいえる夜の顔を見せ始めている。行きう人々のざわめきがより高くなり、空気にはいつしか、白粉おしろいと酒精の特徴的なにおいが色濃く混じっていた。

 ふたりの娘は、鉄次をちらちらと見ながら、ひそひそ話に余念がない。まだほんの子供だが、もう多少は色気づいているようだ。

「よう、嬢ちゃんたち」

 話しかけると、ふたりは恥じらいを見せ、細い声でくすくす笑った。どちらも体にぴったり合った、趣味のいい織りの小袖を着ている。羽振りのいい商家の娘といったところだ。同じぐらいの年齢だが、顔は似ていないので、おそらく友達同士だろう。

「もう日が暮れるぜ。家に帰んなよ」

 気の強そうなほうが、ちょっと生意気に肩をすくめて見せる。「まだ、だいじょうぶ」

「そうか? おっさんが心配してるだろう」

「平気。ちいちゃんと一緒だもの」

 ちいちゃん、と呼ばれたほうが、にっこり笑ってうなずいた。

「でもな、おれは心配だよ。この辺りにゃ、若い娘に悪さする連中も多いからな。知ってるだろう」

「うん……」

 ふたりが、少しあやふやな表情になったところを見計らって、鉄次は懐から銭入れを取り出した。

「よし、じゃあな、おれが餡蜜あんみつをおごってやる。それを食ったらすぐ帰るってことで、どうだ」

 娘たちが、どうする、というように顔を見合わせる。ふたりはしばらく考えていたが、やがて納得した様子で同意した。

「うん、わかった」

「よし。いい子だ」鉄次は銭入れから銅銭を二枚出し、それぞれに一枚ずつ握らせた。「その先を右へ曲がって、三本向こうへ行った通りに、年寄りの茶虎の猫がいる甘酒屋がある。知ってるかい」

「あたし、知ってる」〝ちいちゃん〟が言う。「すごくでっかくて、右の前肢に傷があるの」

「それだ。そこへ行きな。たなの女房に〝鉄次に聞いた〟って言えば、白玉をひとつおまけしてくれるぜ」

「一緒に行かないの?」

 ふたりは当てが外れた様子で、不満そうに軽く口を尖らせた。

「よせよ、おれの年でおまえらみたいな娘っ子とつるんでたら、へんな趣味かと思われちまうだろう」鉄次はそう言って笑い、つられて笑っているふたりの背中をそっと押した。「さあ、行け。約束は守れよ。食ったらすぐ帰るんだ」

「うん、わかった。ありがとう」

 娘たちは少し名残なごり惜しそうにしながらも鉄次に手を振り、腕を組んで仲良く歩いていった。おそらく言われたとおりの店へ行き、食い終わったらまっすぐ家に帰るだろう。鉄次はしばらくそこにたたずんで見送り、ふたりの姿が雑踏に消えると飯屋の前へ戻っていった。

「話をつけたぜ、旦那」

 両手をみ絞りながら迎えた男の顔が、歓喜にぱっと輝く。「ほ、本当に?」

「そう言ったろう。ふたりは先に宿へ行ってる。内湯がついた離れのある、いい宿だ。そこに、おれが押さえてる部屋がひとつある」

「あ、ああ——すごい。いやもう、本当にすごい。まさか、あんな簡単に」

「銭の力ってやつさ」

「そういえば、金を払っていたね」

 目論見もくろみどおり、金を渡すところをちゃんと見ていたらしい。

「前渡し金だ」鉄次はうなずき、男の顔を覗き込みながら言った。「渡しておかなきゃ、あいつら宿へ着く前にほかから声をかけられて、そっちへ鞍替えしちまうかもしれないからな。この商売じゃ、前渡しは定法じょうほうだ」

「な、なるほど。それで——あたしの、あの娘たちへの支払いはどうするのかな。あの……終わったあとで渡せばいいんだろうか」

「いや、それはここで、おれに払ってもらう」

「え? い、今?」

 声が裏返って急に高くなる。袴を着けて帯刀したひとりの侍が、通りすがりにじろっとにらんだ。その視線を浴びて萎縮したように、男が肩をすぼめる。鉄次は彼の腕を軽く掴んで、飯屋とその隣の薬味屋の狭間に連れて行き、壁のほうを向かせた。

「そう、今払うんだ」声を少し落とし、噛んで含めるように説明する。「あいつらにじかに全部渡したら、そのまま持ってとんずらするに決まってるだろう。おれが受け取り、手数料や宿代を引いて、残りを明日あいつらに分ける。そういう決まりになってるんだ」

 男は鉄次の有無を言わさぬ口調にされる形で、先払いの妥当性にひとまず納得した。

「わ、わかった。それで、いくら払えばいいんだい」

「金銭四枚」

 迷うことなく、鉄次は盛大にふっかけた。金銭四枚といえば、娼楼街で人気の娼妓しょうぎをひと晩貸し切りにできる額だ。辻で客をひく十四歳以下の娘なら、本来は銀銭一枚で一晩買える。

 男が驚愕のあまり、目を皿のように大きく見開いた。高いだろうとは思いつつも、そこまでとは予想していなかったに違いない。だが相場を知らないため、値切っていいかどうかの判断がつかないらしく、また汗をだらだらとかきながら必死に考えをめぐらせている。

 何を言われようと、鉄次は値切りに応じるつもりはなかった。さて、どっちの欲が勝つかな——そう考えながら、片腕を懐手にして壁板に寄りかかり、じっくりと待つ。

 男は宵闇に沈みかけている足元を見つめながら逡巡しゅんじゅんしていたが、やがて観念したように巾着を取り出した。やはりしもの欲に負けたらしい。

「金銭四枚——だったね」

「そうだ」

「なにしろ〝上玉〟だから、そりゃあ、それぐらいするよねえ」慣れない俗語を使い、卑屈に微笑む。「どうもあたしは遊びにうとくて」

「あいつらを両側にはべらせてひと晩楽しんだら、もう立派な粋人すいじんさ」

 鉄次はそう言って、とびきりの笑顔を見せた。男が魅入られたように長々と見つめ、口を半開きにしたまま、ふらふらと金を差し出す。

「さて、宿の説明をするからよく聞きな」受け取った金をたもとへさっとしまい込み、鉄次は早口で先を続けた。「この道をまっすぐ行くと、右手に小さい神祠しんしがある。なんなら、ちょっと足を止めて、灯明とうみょうと香の一本も上げていくといいぜ。闔神ごうじん御利益ごりやくでよく〝しまる〟ようにな」

 龍康殿では頻繁に聞く卑猥なごとだが、男は初めて耳にしたらしく、赤面しながら相好そうごうを崩した。

「神祠を目印に左へ折れたら、そのまま五本向こうの通りまで行くんだ。南北にずらっと宿が並んでる。その中でもひときわ大きい、〈明野あけの〉って宿を探せ。入り口に大仰な破風がついてるからすぐにわかる。二階の欄干らんかん連子れんじ格子は朱塗りだ」

「わ、わかった」いちおう呑み込んでうなずきはしたものの、かなり心細そうだ。「宿に入ったら、どうすればいいんだい?」

「帳場にこう言うんだ、〝花珠はなだまが届いてるだろう〟ってな」

「はなだま?」

「おれと宿との符丁だ。そう言いさえすれば、すぐに部屋へ通される」

 男は花街の流儀に感じ入った様子で、うっとりとため息をついた。

「ま、まるで別世界だよ……」

「今夜はあんたも、そこの住人さ」

 鉄次は低く言ってにやりと笑い、贅沢な装束に身を包んだ下衆な田舎者を夜の街へ送り出した。おどおどと周囲に視線をさまよわせながら、おぼつかない足取りで歩いて行く姿をじっと見送る。

 しばらく行ったところで、神祠を探すために右側へ注意を向けていた男に、正面から来た子供の肩がぶつかった。仕立て直しの古着を着た少年が偉そうに何か言い、男がぺこぺこと頭を下げる。子供は道に唾を吐くと、野良犬でも追い払うように手を振った。男が身を縮め、肩を落として去って行く。

 少年はぶらぶら歩いてくると、鉄次の前で足を止めた。その懐から、さっきの男の巾着が現れる。

「腕上げたなあ、佐吉さきち」まだかなり入っているらしい重い巾着を受け取り、鉄次は彼の頬を軽くつねった。「たいしたもんだ」

 褒められた佐吉が、くすぐったそうに笑う。

「あのおっさんの見届け、するかい」

「いや、いらねえよ。もうねぐらへ引き揚げな」

 鉄次は自分の銭入れから銀銭を一枚取り出し、佐吉に与えた。

「帰りにうまいもん、たらふく食えよ」

「へへ、あんがと!」

 佐吉は跳ねるような足取りでその場を離れ、雑踏の中にするりと潜り込んですぐに消えた。きっと道々、またどこかの間抜けの財布をるに違いない。そう考えていると、店先の提灯ちょうちんに火を入れに出た飯屋の親父が、さり気なく横へやって来た。

「よくもまあ、毎度ああもずらずらと嘘八百を並べられるもんだ」しわがれ声で言い、皮肉っぽく目をすがめる。「金銭四枚? 〈明野〉だと?」

 鉄次は店を背にして正面を向いたまま、視線だけ動かしてちらりと親父を見た。

「格子の内で聞いてやがったな」

「吹き出すまいとして骨が折れたぜ」ねちねちとずるそうに言う。「しかし金銭を四枚もふんだくっといて、手下の餓鬼に懐中まで狙わせるとは、おめえ情け容赦ねえな」

 鉄次は黙って銀銭を三枚出し、後ろ手で彼の掌に握らせた。強欲な男に相応ふさわしい腹黒い笑みを浮かべて、親父が素早くそれを懐へ突っ込む。

「おめえは世渡り上手だよ、鉄次。あの旦那が戻ってきたら——まあ、そんな気概もなさそうだが、もし来たら適当にとぼけといてやるからよう」

「ありがとよ」

 感情のこもらない声で言う鉄次を置いて、親父は店の中へ戻っていった。金を巻き上げた嬉しさで頭がいっぱいになったのか、提灯に火を入れるのはすっかり忘れている。一方、周りの店は、すでにどこも賑やかに灯りをともしていた。それらに囲まれているせいで、無灯の飯屋の前がひときわ暗く感じられる。

 自分ももう引き揚げる頃合いだ、と思いつつ、鉄次は繁華な街路にぽっかりと生じた闇に溶け込み、しばしたたずんだ。そうして身を隠し、目の前を流れていく人波を傍観していると妙に心が安まる。

「あのう……」

 ふいに声をかけられ、彼ははっと我に返った。あわてて目をやると、いつの間に近づいたのか、左脇に誰かが立っている。うしろにある薬味屋の灯りを背負っているため、顔は影になっていてほとんど見えない。それでも、がっしりとたくましく大柄な体つきなのはわかった。

 くそっ、こんなに近寄られるまで気づかないとは、どういうことだ。刺すつもりがあったら、刺されてたぞ——鉄次は腹の中で舌打ちしながら、二歩下がって相手との距離を空けた。

「おれに用かい」

 問いかけてはみたが、返事がない。相手はどう答えるべきか迷うように、うつむいてしばらく考え、再び口を開いた。

「あのう……あんた、鉄次さん?」

 驚いた。声はまだ子供だ。

「そうだ」

 警戒心を抱きながらも、鉄次は慎重にそいつのほうへ近づいた。まだどんな顔なのかは見えないが、においでおおよそのことはわかる。れきった、反吐へどが出そうなほどの悪臭は、何か月も体を洗っていない証拠だ。何年もかもしれない。川べりか、港のあたりにたむろしている物乞ものごいの子供らのひとりだろう。

「おまえ誰だい」

「おれ、長五郎ちょうごろう」図体のでかい子供は、嬉しそうに答えた。人から名前を訊かれることはあまりないのだろう。「ここへ来たら、あんたがいるって。あんたは孤児みなしごに飯を食わせてくれるって」

 鉄次はうなずき、長五郎を手招いた。

「わかった、ちょっと来い。あっちで話を聞くから」

 あの田舎者が万一戻ってきた時に、ここで鉢合わせをするようなことは避けたい。鉄次はその辻を外れ、細い裏路地に入り込んだ。子供は何も疑っていないらしく、黙って従順についてくる。

 ある居酒屋の裏手で足を止めた鉄次は、その付近を照らしている突き出し燭台しょくだいの灯りで、子供の顔をようやくはっきりと見た。図体もでかいが、顔もでかい。なのに、造作は全て輪郭の中央に寄り集まっている。額がやたらと広く、鼻と目はかわいそうなほど小さい。のっぺりとして邪気がなく、ついでに表情もあまりなかった。

 体のほうは、あきれるほど大きい。太っているのではなく、骨太で筋肉質だ。背丈はもう鉄次とほぼ変わらない。いったい何をどうしたら、こんなちぐはぐな子供が出来上がるのだろう。

 子供は店の裏口から漂ってくる焼き魚のにおいに心を奪われている様子で、しきりに鼻をひくひくさせている。人を威圧するほどのでかさとは裏腹に、その仕草はいかにも子供っぽかった。

「おい長五郎、おまえいくつだ」

 長五郎は眉根を寄せて鉄次をじっと見つめ、それから両手の指をひとつずつ折り曲げ始めた。

「ええと……」

「自分の年を知らねえのか」

 本気で困ったような顔をしている。どうやら、少し頭が弱いようだ。

「じゃあな、誰に言われておれのとこへ来た?」

「あのう、飯を食わせてくれるって」

「それはわかったが、誰がだ」

「あのう——あのう……おじさんが」

「どこのおじさんだ。おまえ、おれのとこへくる前、どこにいた?」

「海のそば」ようやくちゃんと答えられる質問をされ、ほっとしたように長五郎が言う。「浜の端っこの、岩がごろごろしてるとこ。いっぱい子供がいる」

 それで合点がいった。

「竿を二本持って、磯釣りにきたおじさんか? 頭が禿げてて、黒いひげをいっぱい生やしてる。その人に、おれのとこへ行けって言われたんだろう」

「うん、そう。髭のおじさん」

 表情の乏しい長五郎の顔が、理解された嬉しさに笑み崩れた。でかすぎるし、傍にいると目にしみるほどの体臭には閉口するが、純でかわいい子供だ。鉄次は腕を組んで少し考え、それからゆっくりと話し始めた。

「あのな、おれはたしかに、孤児に飯を食わせてる。だがそれは、おれの役に立つやつにだけだ。役に立つって、どういうことかわかるか?」

 長五郎が黙って首を振る。

「役に立つってのは、つまり——そうだな、たとえば足が速いやつ。頭のいいやつ。口のうまいやつ。喧嘩が強いやつ。おれが何かをして欲しい時に、それをしてくれるやつだ。ただするだけじゃないぞ。上手にするんだ」

 この説明はとりあえず伝わったようだった。長五郎は真剣な表情で考え込んでいる。

「おれ……足、速くない」

「喧嘩はどうだ? その図体だ、誰かをぶん殴ったら、相手は吹っ飛んでいくだろう」

「殴るのこわいよ。殴られたら痛いよ」

 長五郎の唇が、泣き出しそうに歪んだ。よくよく注意して見ると、その顔には薄れかけた殴打の痕がいくつもある。ぼろきれのような寸詰まりの着物から覗く太い両脚にも、治りきらない打ち身やり傷が残っていた。

 湊をねぐらにしている物乞いの子供たちの中には、気性の荒い者も少なくない。彼らのさ晴らしの相手として、長五郎のようにおとなしくて鈍重な子供はまさにかっこうの獲物だ。彼をよこした男は鉄次の古なじみだが、おそらくこの子の境遇を見かねて、救い出さずにいられなくなったのだろう。だがそんな理由で、まったくの役立たずを送り込まれても困る。

「おまえ、何か人より上手にできることはないのか。よく考えてみな」

 優しく言うと、長五郎はうつむいて考え始めた。だが何も思いつかないらしい。

「一度ぐらい、人から褒められたことがあるだろう。思い出してみろ」

 その言葉で、彼の瞳にぱっと光がともった。

「あ……おれ、あのね、褒められたことあるよ。おめえは力が強えなあって」

 それはそうだろう。なにしろこれだけの体格だ。本気になれば、かなりの力を出せるに違いない。

「どれくらい強いんだい」

「あのう、おれ、前に熊を持ち上げたことがあるよ」

「なに? 〝熊〟って言ったのか?」

 半笑いで聞き返した鉄次に、長五郎は真面目にうなずいて見せた。

「うん。あのう……村に熊が出て、お侍が食われそうになった。お侍は刀を持ってたから刺したけど、熊の下敷きになった。おれ遊んでたら、つぶれるうぅ死ぬうぅって叫んでるのが聞こえたから、行って、持ち上げたんだ」

 嘘や作り話をしているふうではない。鉄次はそれでもまだ半信半疑だった。人を襲うような熊なら、重さは百貫ほどもあるに違いない。いくら腕力があろうと、そんなものを子供がひとりで持ち上げられるものだろうか。

 鉄次の疑いを感じ取ったのか、長五郎はふいに両腕を前に突き出した。

「おれ、あんたも持ち上げられるよ」

「じゃあ、やってみな」

 せいぜい腰のあたりを抱えて浮かせるぐらいだろうと思って軽く応じると、長五郎はうしろに回って膝元に突然しゃがみ込んだ。彼の巨大な手に両足首をしっかりと掴まれ、そのまま頭の上まで勢いよく持ち上げられてしまう。鉄次は息を呑み、なんとか体勢を保とうと両腕をばたばたさせた。頭から転落する自分の姿が目に浮かぶ。

 つかの間の目眩めまいから回復した時には、長五郎の分厚い右肩の上に座らされていた。そうして大人ひとりを載せたまま、彼は平気な顔をしてぐるぐると円を描くように歩いている。

「お、おい、長。重くねえのか」

 狼狽しながら訊くと、長五郎は小さくすぼまった目で見上げて首を振った。

「軽いよ。このまま海まで歩けるよ」

「いや、歩かなくていい。下ろしてくれ」

 そっと地面に下ろされると、また少し頭がくらくらした。

「とてつもない剛力だな、おまえ」言ったあとで、意味が通じないかもしれないと気づき、すぐに言い直す。「おれが今までに会った中で、おまえはいちばん力が強いよ」

「いちばん?」長五郎は声を弾ませた。

「ああ、いちばんだ。おまえは役に立つ。どうだ、おれのために、重いものを運ぶ仕事をするか? するなら、毎日好きなだけ飯を食わせてやる」

「運ぶよ。おれ、重くないよ。何でも運べるよ」

「じゃあ今から、おまえはおれの仲間だ」鉄次は乱れた裾を直し、あらためて長五郎の顔をまっすぐに見た。「街の中にいくつかねぐらがあって、そこにはほかにも仲間がいる。みんな子供だ。だがそいつらは、浜にいるやつらみたいに、おまえをいじめたり殴ったりはしない。わかったか?」

「うん、わかった」

「よし。飯を食いに行こう」

 歩き出した鉄次のすぐあとを、長五郎が大股についてくる。

「いや、その前に風呂だな。おまえ、いくらなんでも臭すぎるぞ」遠慮なしに言ってやると、彼は屈託のない顔をしてけたけたと笑った。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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