六十八 江蒲国淮田郷・六車兵庫 向こう見ず
旅に出ると決めたら、すぐにも発つのが六車兵庫の流儀だ。心の準備も、こまごまとした支度も、惜別の宴も彼には必要ない。だが、そこまで身軽にはなれない者もいる。
儲口守計が旅立ちの準備をするあいだ、兵庫は永妻郷で五日間を無為に過ごすこととなった。
側仕えの長楽正幸が、主守計と自身の旅支度を整えるのに一日。儲口家の御曹司を集落ぐるみで匿っていた、忠義な村人たちへの別れの挨拶回りに一日。さらに噂を聞いて続々と駆けつけてくる、別の集落の者たちとの対面に二日。そして出立の前日には、元武士で今は漆職人をしている信賢の家で終日盛大な酒宴が開かれた。
大仰すぎていささかあきれるが、一緒に行くと言った以上、自分だけ先に出ていくわけにもいかない。
兵庫は早々にあきらめ、ここまでの逃避行の疲れを癒すことに努めた。武術修行で鍛えた若い体は回復も早い。数日まともな食事をして、畳の上でゆっくり寝るだけで、追っ手と戦いながら山野を逃げ回った疲労はすっかり消えてなくなった。
それは歓迎すべきことだったが、目的地がありながら動けずにいる停滞感にはどうも慣れることができない。
だから彼は、六日目にようやく守計が「出かけよう」と言うと、牢獄から解放されたように晴ればれとした気分になった。
三鼓国へ向かう旅の道連れは守計と正幸のみで、信賢は同行しないという。守計を儲口家の若き当主として敬う様子には並々ならぬものがあったので、てっきり侍身分に戻ってついてくるものと思ったが、彼には永妻郷に残ってすることがあるらしい。
大勢の村人に見送られながら郷を離れたあと、兵庫は旅の道すがら、そのことについて守計に訊いてみた。
「信賢どのは、なぜ一緒に来られなかったのです? 彼がいれば心強いでしょうに」
守計は寂しげに微笑み、もう遠くなった郷のほうを肩ごしに見た。
「たしかにそうだが、信賢にはあの郷に残っていてもらわねばならぬのだ」
これはよほどの理由がありそうだ、と兵庫は感じたが、敢えて深く追及はしなかった。
永妻郷を出てから八日後の午、兵庫たちは江蒲国の最南端に位置する淮田郷に辿り着いた。その外れにある上水山を越えて南へ下れば、人目に立つことなく三鼓国との国境に近づくことができる。
正幸が集落へ食べ物を購いに行っているあいだ、兵庫と守計は郷の東の境界で待っていた。
「江州、立州、三州の国境が交わる場所にしては、大きな城砦があるわけでもなく、意外にのんびりしたところですね」
起伏の少ない土地はほとんどが農作地だが、今はその半分近くが使われていないようで、あたりにはあまり人影もない。
「太い街道がないので、国境線のこのあたりは昔から静かなのだ。それに、あの山――」守計は上水山の背後に聳え立つ、巨大な山塊を指差した。「水鶏口岳といって津々路連峰でもっとも高峻な山だが、あれを越える山路は大変な難所だから、旅人は誰もみな避けて通るらしい」
「つまりこの郷を通り抜けて南へ行く者も、山越えをして南から入ってくる者もめったにいないわけですね」
「そう聞いている」
誰から、とは言わなかったが、おそらく祖父の儲口守恒や親族たちからだろう。守計自身は立身国で産まれたので、江蒲国にはこれまでに数度しか足を踏み入れていないらしい。しかし儲口一族の揺籃の地である江州について、充分な知識は持っているようだ。
彼は兵庫にそれを分け与えることを、少し楽しんでいる様子だった。
「難所といえば、あの上水山は少し変わっているらしい。こちらからだと何の変哲もない、小さくてなだらかな山に見えるだろう? だが南側は切り立った崖になっていて、下るのはいいが登るには厳しい隘路が一本通っているだけだという」
そこへ正幸が、竹串に刺した里芋の田楽を持って戻って来た。ほくほくと蒸かした芋に、こってりした黒い味噌だれがかかっている。
「まだ温かいので、今のうちに召し上がってください」
正幸からそれを受け取った守計は、嬉しそうに大口を開けて頬張った。
この若殿のいいところは、守恒老と違って食い物に不平を言わないことだな――と思いながら、兵庫も田楽をひと串もらう。
実際に守計はその祖父よりも、ずっと扱いやすい同道者だった。馬や駕籠を要求しないし、上宿に泊まりたがったりもしない。食事は質素な内容でも、腹さえ満たせれば特に文句はないようだ。
ただ祖父同様にきれい好きで、ほとんど風呂に入れないことだけは不満そうだった。川や池で水浴びをすると、逆に汚れたように感じるらしい。だからといって、守恒のように風呂付きの宿に泊まらせろと駄々をこねることはないので、兵庫としては助かっている。
「握り飯もあるんですが」正幸が串についた味噌だれを舐め取りながら言った。「それは晩飯に取っておきましょう」
食事を終えると、守計は近くを流れている小川へ手を洗いに行った。その姿を離れて見守りながら、正幸がつぶやくように言う。
「集落にはほとんど男がいなかった」
兵庫は彼を横目に見て、その顔に懸念の色が浮かんでいることに気づいた。
「いるのは女と年寄りか?」
「それと、自分じゃ襁褓も替えられない餓鬼ばかりだ」
「なるほど、田畑の多くが中途に放り出されているのはそのせいか。作付けまではしたが、そのあと手を入れてないところが多い」
これらが意味するところはひとつだ。
「戦を始めようとしているな」
兵庫の言葉に、正幸が小さくうなずく。
「夏になる前ぐらいに、軍普請のために人を狩り集めていったんだろう。そいつらをまだ返さないってことは、普請が終わったら槍か鉄砲を持たせて、そのまま戦に連れて行くつもりだ。つまり、冬になる前に軍を動かす気でいる」
おや、と兵庫は思った。この男なかなか目端が利く。
「普請場はどこだと言っていた?」
「それは聞いてない」肩をすくめ、陰気に首を振る。「どうせ誰も知らされちゃいないだろう。だがひとつ、気になる話を仕入れてきた」
そこへ、ちょうど守計が戻ってきた。手のついでに顔も洗って、こざっぱりとした様子になっている。
「気になる話とは?」
主人に促され、正幸は百姓家で聞いてきたことを手短に語った。
「最近、郷の外から頻繁に荷車がやってくるそうです。騎馬の武士と武装した護衛がついていて、集落の者は近寄らせてももらえないとか」
「荷車の目的地は?」
「あの上水山です」正幸は南にこんもり盛り上がった山のほうを見ながら言った。「頂上に古い砦があるらしいんですが、そこへ何か運び込んでいるようだと」
思いがけない話だった。上水山に登って今夜のうちに国境越えをするつもりだったが、こうなると考え直さなければならないだろう。
「何を集めているにせよ、その様子だと常時警備をつけているはずだ。砦に近づくのはまずい」兵庫は低くつぶやき、守計に目をやった。「少し面倒ですが、上水山を通らずに国境越えできる経路を探しましょう」
正幸が荷物を担ぎ上げ、兵庫も歩き出そうとした時、ふいに守計がふたりを止めた。
「いや、待て」
その声の調子から何かを察したのか、正幸が嫌そうな顔で振り返る。
「どうなさいました」
「上水山に登りたい」
案の定だ、と言いたげに正幸が嘆息した。兵庫にはまだ、守計の意図が読み取れない。
「危険ですよ。避けて通ったほうがいいのでは」
やんわりと言ってみたが、彼の決然とした表情は変わらない。
「何が運ばれているのか知りたいのだ」
「知ってどうするのです」
「黒葛禎俊への手土産にする。わたしの勘では、この上水山は――おそらく兵糧庫だ。とすると守笹貫道房は水鶏口岳の裾野あたりから、三州あるいは立州への侵攻を始めるつもりで準備していることになる。この情報は黒葛家にとって必ずや役立つはずだ」
目のつけどころは悪くない、と兵庫は思った。だが自ら忍び働きをしようなどとは、あまりにも無謀きわまりない。
「お考えをそのまま伝え、場所を教えるだけでも充分なのでは。実際のところを知りたければ、黒葛家自身が間諜を放って調べさせるでしょう」
「それはそうだが、わたしなら今日すぐに調べられる。こっそり砦に近づき、どの程度の規模で、何が蓄えられているかを見るだけだ。糧秣や武器などがあることを確かめたら、すぐに南へ下山すればいいだろう」
守計の目が熱を帯び、きらきらと輝いている。そういえば彼の祖父も、自分の思いつきに夢中になると、よくこういう目をしていた。やはり血は争えないなと苦笑する兵庫の横で、正幸は仏頂面をしている。
「こっそり近づくなど、できませんよ」彼は若い主を、素っ気ない口調でたしなめた。「もし捕まって、ご身分がばれたらどうなさるんです」
正幸は守計が捕らえられたら、責め問いであらいざらい吐かされると踏んでいるようだ。その点は兵庫も同感だった。
「守計どの、おれも砦に近づくのは難しいと思いますよ」
ふたりがかりの説得にも、守計は翻意の気配を見せない。むしろ、ますます熱が高まっていく様子だ。
「困難だからこそ、ここで得る情報には価値があるのだ」
正幸が顔を背けて、小さく舌打ちした。だがそれは兵庫にしか聞こえなかったらしい。守計は議論は終わったものと思っているようで、もうすっかり山へ向かう気になっている。
「今のうちに山裾まで行っておいて、日が暮れたら登り始めよう」
兵庫と正幸は顔を見合わせ、意気揚々と歩き出した守計のあとを、気乗りしない足取りでついて行った。
上水山の東の裾野に広がる森で日暮れを待った一行は、空が暗くなり始めるとすぐに山へ分け入った。昼間のうちに兵庫が見つけておいた鹿の通い路を辿り、脇目もふらず中腹あたりまで一気に登る。
そこまでは幸いにして、人にも獣にも出会うことはなかった。月光が淡く差し込む鬱蒼とした森林の中はしんと静まりかえり、湿り気を帯びた生温かい空気が重く淀んでいる。
山頂を仰いでも、厚く重なり合った木々の影のほかに見えるものはない。だが砦に人がいるなら、もう少し登れば灯火がちらつくのを目にすることになるだろう。人声が聞こえてくるほうが先かもしれない。
中腹を過ぎたところで道は横へ折れ、山の側腹を回り込むように細く伸びていた。向かう先は、おそらく南側にあるという断崖だろう。
「獣道を外れるので、この先は少し登りにくいですよ」
先導を務めていた兵庫は守計を振り返り、声をひそめて注意した。
「滑って音を立てないよう、足元に気をつけてください」
予想通り、その後の山登りは困難さを増した。ほんの何歩か進むごとに、胸まで届く深い下生えに足を取られる。野放図に伸び繁った灌木の枝に顔を打たれ、手や脚を引っ掻かれる。朽ちた倒木や岩にしばしば行く手を阻まれる。
それでも黙々と足を進めるうちに、ようやく彼らは山頂まであと少しというところまで辿り着いた。
ここからは、さらに慎重を期さなければならない。
兵庫は手で合図をして後続を止め、闇の中にじっと目を凝らした。上のほうで何か動いた気がする。
そのまましばらく待っていると、立ち木の向こうにちらりと人影が見えた。砦の番士が周囲を見回っているのかもしれない。急いで斜面に伏せ、下生えの隙間から上の様子をそっと窺う。
人影はこちらに気づいた様子もなく、しばらくあたりをうろついたあと、どこかへぶらぶらと歩いていった。
「やはり見張りがいますね」
兵庫は守計を招き寄せて囁いた。
「このまま山腹を回り込んで南へ向かえば、誰にも気づかれることなく下山できると思いますが、どうしても砦の中を調べるおつもりですか?」
「ここまで来たのだから」守計が真剣な声で言いつのる。「この目で確かめたい」
彼のうしろで、苦虫を噛みつぶしたような表情の正幸が小さく嘆息した。こんなことにつき合うのはまっぴらご免だと言いたげだ。それは兵庫も同様だった。
「守計どの、何度も言うようですが、やめておいたほうが無難ですよ」
聞き入れないだろうと思いつつ、いちおう言ってみる。ひょっとして気が変わらないとも限らない。しかし守計は兵庫のかすかな期待をあっさり裏切り、毅然とした目で厳かに言った。
「危険は重々承知」
愚かさと純粋さは似ている――兵庫は心の中でつぶやいた。この人物は決して愚かではないが、純粋ゆえに懐疑心が薄く、傲慢なほどに向こう見ずで、あまりにも物事を楽観しすぎている。
彼が承知していると思っている危険は、厳しく苦い現実のほんの一端に過ぎないのだ。だが失敗して痛い目を見ない限り、守計がそれを悟ることはないだろう。
思えば儲口守恒にもこういうところがあった。彼が義父守笹貫道房との絆を最後まで疑わなかったように、この孫もまた、見通しの甘さでいつか己の身を滅ぼすことになるのだろうか。
ずっと黙っていた正幸が、その時ふいに口を開いた。
「おれはご一緒できません。こんなところで命を落としたくないですから」
低い声だが、言葉ははっきりと聞き取れた。守計が傷ついた目をして、ただひとりの家臣を凝然と見つめる。
それから彼は兵庫のほうへ視線を向け、明らかに消極的な空気をようやく感じ取ったように、力なく肩を落とした。だがそれは一瞬で、すぐに気を取り直して顔を上げる。
「わかった、わたしひとりで行こう。もし待つ気があれば、ここで待っていてくれ」
そう言うなり、彼は止める間もなく斜面を駆け登っていった。正幸が、さすがにあわてた様子で腰を浮かせる。
「若殿――」
兵庫は彼の袖を掴んで引き留め、もうほとんど頂上に達しかけている守計の影を見上げた。
「一度に出て行くのはまずい。少し待って、あとを追おう」
上の様子を窺いながら、心の中でゆっくり三十数える。そしていざ動き出そうとした瞬間、「何者だ」と誰何する声が闇の中に響き、土を蹴散らしながら激しくもみ合う音が聞こえてきた。守計が番士に見つかり、取っ組み合いを演じているらしい。
助けに行きたいのはやまやまだが、いま姿を現せば砦の手勢に囲まれて一網打尽にされるだろう。
ぐっと堪えて耳をそばだてていると、案の定ほかの番士がすぐ加勢に駆けつけてきた。それを機に争いの音は静まり、荒々しい怒鳴り声が取って代わる。
「立て」
「歩かねば引きずるぞ」
やがてそれらも遠のいていき、あたりはまた水を打ったように静まりかえった。
兵庫が大きく息をつく傍で、正幸がへなへなとくずおれる。彼は頂上に背を向けて胡座をかくと、片手で顔を覆った。
「くそっ」歯噛みしながら小声で罵り、自分の腿に拳を打ちつける。「だから言ったんだ」
「守計どのの武芸の腕は? いざとなったら、それなりに戦える人か?」
こちらを振り向いた正幸の眉間に、みるみる深い縦皺が寄る。
「おい、よせ。まさか助けに行くつもりじゃあるまいな」
「放ってもおけまい」
「あんたは、あの人の家来でもなけりゃ血縁でもない。友人ですらない。どこにそんな危険を冒す義理があるんだ」
「義理はない――が、彼は守恒公の孫だからな。あの人のために助けようと思う」
理解できないと言いたげに正幸がため息をつき、分別くさい顔で首を振る。
「おれは嫌だ。悪いが、ここで降りさせてもらう」
もともと彼は、己の命が危なくなったら主人を捨てると言っていた。縁を切るとしたら、たしかに今がその時だろう。
気持ちは理解できるので、兵庫は敢えて引き留めようとはしなかった。
「そうか、仕方あるまいな。だが、去る前にひとつ頼みがある」
正幸の顔にありありと警戒の色が浮かぶ。
「頼み……?」
「無理強いするつもりはないが、やってもらえるとありがたい」
兵庫は身を乗り出し、頭の中で大雑把に組み立てた計画を彼の耳に囁いた。
砦の周囲は太い丸竹の立子を並べた、厚い鉄砲垣で囲まれていた。だが材はもうかなり古くなっており、長いあいだ手入れもされず放っておかれた雰囲気が漂っている。
兵庫は夜陰に紛れて垣根の外周をぐるりと回り、風雨に傷んで崩れかけている場所を見つけ出した。といってもそのまま人が通れるほどではないので、蹴りを入れて破れ目を大きく広げる。その音で番士に見つかってもかまわないつもりだったが、聞きつけた者はいなかったようだ。
砦の中に潜り込んだ彼は、隅に立っている木組みの二重櫓の下に走り込んだ。ここに見張りを置いていないあたり、ずいぶんゆるい警備だと感じる。
見上げると二階の床が造りかけで、半分しかないことがわかった。ちょうど補修をしている最中なのかもしれない。
竹で作られたはしご段の中ほどまで登り、兵庫はそこから砦の中を見渡してみた。土を盛った狼煙台が一基。白い幕で囲まれた、陣屋と思われる建物が一棟。その横に並んでいる三棟は、おそらく兵舎だろう。厩はなく、二頭の馬が横手にそのまま繋がれている。
さらに、新築間もないように見える平屋建ての簡素な小屋が二十棟ほどあった。兵糧や武器を蓄えているとしたらそこに違いない。
たいした規模の砦ではないので、警備のために駐留させているのはせいぜい一部隊だろう。とすると侍がひとりと、雑兵三十人といったところか。
もう三更を過ぎているころなので、半分以上は兵舎で休んでいるはずだ。
その時、倉庫のあいだから男がひとり姿を現した。見回りの者だろうが、槍を担ぐでもなく、ただぶらぶらと歩いている。さらに見ていると、そういう男がほかにも数人うろついているのがわかった。内部の夜番は六人ほどのようだ。
兵庫は見回りが左右にはけたところを見計らって櫓を離れ、倉庫の一棟に素早く駆け寄った。扉に錠はなく、あおり止めがついているだけだ。彼はそれを外し、敢えて戸を開け放したまま中に入り込んだ。
暗くてほとんど何も見えないが、腰ぐらいの高さの小山が床にいくつもあるのはわかる。そのうちのひとつに近づき、上にかけられている筵をめくってみると、鉄砲の入った木箱が大量に積み上げられていた。
どうやら守計の勘が当たったようだ。当人はこれを見る前に捕まったので、まだ確信を持てずにいるだろうが。
鉄砲を一挺取り上げた時、戸口からさっと光が差した。見回りの番士がひとり、提灯を高く掲げて立っている。彼は兵庫と目が合うと、怯えたように後ずさりしながら大声を上げた。
「くせ者。くせ者だ!」
自分で取り押さえようとしないのは、あまり腕に自信がないからだろう。兵庫は鉄砲を箱に戻したあとはその場を動かず、彼の仲間たちが駆けつけてくると、何も手向かいせずにおとなしく捕らえられた。
「おまえ、さっきのやつの仲間か」
刀を取り上げ、周りを囲んで陣屋へ引き立てて行きながら、番士のひとりが当惑顔で訊く。
「いったいどこの間者だ」
「間者?」兵庫は訊き返し、その男にとぼけた顔をしてみせた。「とんだ見当違いだな」
陣屋の入り口を入ると広い土間があり、そこに儲口守計が座らされていた。縛られてしょんぼりしているが、ひどい暴行を受けた様子はない。左目の横に赤黒い痣ができているのは、発見されて争った時の名残だろう。
彼は兵庫を見ると、心底驚いたように大きく口を開けた。そこから余計な言葉が飛び出す前に、先手を打って大声を出す。
「なんだ、捕まったのか」
忌々しげに舌を鳴らし、兵庫は守計にずかずかと近寄った。
「外で待って、もしおれが捕らえられたら縄を切りに来る手はずだったろうが」
今にも蹴りを入れんばかりの剣幕で、遠慮会釈もなく頭の上から罵る。
「先に捕まってどうする、この間抜け」
番士たちがあわてたように駆け寄り、兵庫を守計から引き離した。
「いったい何なんだ、おまえら」
「何が目的でここへ来た」
口々に問われるのを無視して、兵庫は横目に守計を見た。戸惑ってはいるものの、必死に自制心を働かせようとしているのがわかる。これだけ冷静なら、どう話を展開してもうまく合わせてくれるだろう。
「金目のものがあるかと思ってな」
兵庫が言い放った言葉に、番士たちがぽかんとなる。
「か、金?」
「こんな場所に?」
先ほど「間者か」と訊いた番士が、眉根を寄せながら兵庫の顔を覗き込んだ。
「おぬしら、侍くずれの盗人か?」
「侍くずれは余計だが、そんなところだ」兵庫は鼻を鳴らし、偉そうにふんぞり返った。「大事そうに荷を運んでいるところを見かけて、山中に隠し金蔵か何かがあると当たりをつけたのだ」
「なにを馬鹿な」
番士たちが一斉にあきれ声を出す。
「隠し金蔵だと?」
「食い詰め牢人の考えそうなことだ」
警戒心がだいぶゆるんできた。一度は的確な問いをした番士も、絵空事を聞かされて気が抜けたような顔をしている。
彼は陣屋の奧にちらりと目をやり、仲間たちを見回した。
「筑田さまを、お起こししてくるべきか?」
それが組頭を務める侍の名前なのだろう。これだけ騒いでも出てこないところをみると、酒でも飲んで奥の間でぐっすり寝入っているらしい。
「明日の朝でよかろう」
ほかの者が、気乗りしなさそうにつぶやく。
「こんな連中のことで煩わせるのは気が引ける」
「寝起きは機嫌がよくないしな」別のひとりが言い、兵庫の背中をどんと小突いた。「そこへ座れ」
命じられるまま、守計の隣にどっかりと胡座をかく。
兵庫を縛る麻縄が用意されたところで、にわかに陣屋の外が騒がしくなった。大勢が口々に何か怒鳴り合い、ばたばたと走り回っている。
土間にいる者たちが小首を傾げたところへ、音高く木戸を引き開けて、外回りの番士が顔を覗かせた。
「火が出た。垣のすぐ外、北側の雑木林だ。消火の人手が要る。いま兵舎の連中も起こして回ってるが、手が空く者は手伝いにこい」
早口にまくしたてて、すぐに走り去る。
一拍おいて、土間の連中もあたふたと動き出した。水が豊富とはいえない山上で、もし砦に延焼したら一大事だ。みな顔色が変わっている。
「ふたり残れ。そいつは縛っておけよ」
言い捨てて、三人が外へ出て行った。残った男たちはどちらも大柄で力も強そうだが、あまり荒事には慣れていない様子だ。麻縄を持っているほうは、それを手の中で不安げに揉んでいる。
「よし、とにかく縛ろう」ひとりが言って、兵庫の背後に回ろうとした。「おれが押さえておく」
「その前に、薬を呑ませてもらえないか」
兵庫は片手で胸を押さえながら、努めて愛想よく頼んだ。
「持病があるんだ。火と聞いて、ちょっと胸苦しくなってきた」
番士たちが顔を見合わせる。
「薬はおれが取る」
近くに来ていたほうが、厳しい目をして言った。
「おまえは、手を見えるように上げとけ。両手ともだ。おかしな真似をしたら、ただじゃおかんぞ」
「わかった」兵庫は素直にうなずき、両手を肩の高さに上げた。「薬は懐に入ってる」
番士が小袖の胸元に手を入れ、小さい竹筒を取り出す。
「これか」
「そうだ。すまん」
兵庫は片手だけ下げて竹筒を受け取った。栓を歯でくわえて引き抜き、中にたっぷり入っている熊よけの唐辛子液を、こちらへ屈み込んでいた男の顔にぱっと浴びせる。
形容しがたい絶叫を上げて、番士が土間に倒れ込んだ。両手で顔を掻きむしり、悲鳴の合間に咳き込みながらのたうち回っている。
彼の仲間が呆気にとられた隙に、兵庫はその膝めがけて横蹴りを見舞った。たまらず地面に手をついた男の背後から組みつき、腕を首に回して一気に絞め落とす。
ぐったりした体を土間に横たえると、すぐに奪われた刀を取り戻して守計の縄目を切った。
「さ、行きましょう」
促されて戸口へ向かいかけた守計がふと足を止め、顔に熊よけを食らった番士を振り返った。男は未だに起き上がれず、喉から壊れた笛のような音をさせている。
何を思ったか、彼はその傍に膝をつき、おもむろに懐中を探り始めた。
「守計どの、なにを――」最後まで言い終える前に、兵庫は彼の目論みに気づいた。「なるほど」
何かしら奪い取っていけば、盗みが目的で忍び込んだという嘘話に真実味が加わるだろう。この場面でそこに思い至るとは、なかなかの機転といえる。
思わずにやりとしながら、自分も絞め落とした男の体をざっと探ってみた。懐に入っていた巾着と、ついでに提げ煙草入れも失敬することにする。顔を上げると、同じく奪い取った財布を振りながら、守計がにっこりしてみせた。
「けちな稼ぎでも、ないよりはまし」
「違いない」
笑みを交わし、兵庫は彼と前後して外の暗がりへ走り出た。砦の者はみな、まだ火勢を保っている不審火に気を取られている様子だ。
「こっちだ」
かすかに呼ぶ声がして、兵庫は土塁の陰から覗いている正幸を見つけた。
「荷物は」
「全部持ってきた。行くぞ」
彼の先導で鉄砲垣の外へ出た兵庫たちは、道を外れて木立の中を突っ切り、番士が守っている砦の木戸を大きく迂回した。さらに草藪をかき分けながら、尾根づたいに山の南側を目指す。ほどなく崖が見えてくると、その手前のゆるやかな斜面を滑り降りて、話に聞いていた下山道に出た。
「追っ手は?」
激しく息を切らし、体についた落ち葉を払い落としながら、守計が背後を見やる。そこには暗い細道が伸びているばかりで、迫る追っ手の姿は見えなかった。
「でかい火をこしらえてやったから、消すのに手間取っているんでしょう」
正幸がむっつりと答える。兵庫は彼に微笑みかけ、預かっていてくれた荷物を受け取った。
「おかげで、うまく逃げ出せた」
「頼まれた通りに付け火しただけだ」
「もう行ってしまったものと思っていた」
「そうするつもりだったが」彼は口を歪め、ふっとため息をついた。「ま、気が変わったのさ」
その時、ふたりの会話を黙って聞いていた守計が前に進み出て、沈痛な面持ちで深々と頭を下げた。
「わたしの軽挙で、面倒をかけてしまった。まことに相済まぬ」
もともと小柄な体が、さらにひとまわり小さくなったように見える。
「しかも命を危うくしながら、結局何も掴み得なかった。己の力不足に恥じ入るばかりだ」
「ああ、それならご安心を。捕まる前に倉庫を見ました」
兵庫は彼の落胆をやわらげるべく、砦で目にしたことを話した。
「ここが武器倉なのは間違いありません。覗いた倉庫のひとつには、鉄砲がざっと二百挺は蓄えられていました。おそらくほかの倉にも、弓矢やら兵糧やらが入っているでしょう」
目を丸くして聞いていた守計の顔に、旭日が昇るように明るい笑みが広がる。
「かたじけない、兵庫どの。ここまで来たことが無駄にならずにすんだ」
喜びと安堵に震える声で礼を述べ、さらに彼は年上の家来にも真摯な感謝の眼差しを向けた。
「正幸も、本当によくやってくれた。いずれ立身を果たしたら、何を置いても真っ先にそなたの働きに報いよう」
一度は主人を見限ろうとした男が、気まずそうに身じろぎをする。
「ともかく――」彼は空咳をひとつして、目を逸らしながらぶっきらぼうに言った。「追撃の手の及ばないところまで逃げて、握り飯を食いましょう。今のところ、おれが望むのはそれだけです」
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