六十六 別役国龍康殿・伊都 空に咲く花
「しじみぃ、えェしじみよぉ」
すぐ外で、歌うような物売りの声がする。眠りから覚めた伊都は仰向けに天井を見上げたまま、しばらく寝床の中でじっとしていた。
部屋の中はもう薄明るい。埃っぽい畳のにおいに混じって、味噌を煮るいい香りが漂っていた。かすかに、まな板を叩く包丁の音も聞こえる。
朝のにおい。朝の音。
一瞬、住み慣れた生家に戻ったような気分になった。起き出して台所を覗けば、下女のすえが漬物を刻みながら笑いかけてきそうに思える。裏の井戸へ顔を洗いに行けば、下男の政辰が薪割りの手を止めて水を汲み上げてくれるだろう。厩では甚五郎が、父の乗馬に飼い葉をやっているに違いない。
奥の間では母が父の身支度を手伝っているところで、伊都が朝の挨拶をしに行くと、ふたりとも優しく微笑むのだ。
その幻想があまりに生々しかったので、彼女は勢いよく起き上がって頭をぶるぶると振った。幻は散ったが、音とにおいはまだ残っている。これは現実のものだ。
伊都は布団を畳んで部屋の隅にかたし、肌着の上に小袖を羽織って部屋を出た。包丁を使う音は、廊下の右側から聞こえてくる。おそらく台所があるのだろう。
そちらへ行こうと足を向けた時、うしろから誰かがやってきて声を上げた。
「あれ?」
振り向いた先にいたのは、浅黄色の単衣を着た男の子だ。年は伊都よりもふたつか三つほど上だろうか。きれいな輪郭の瓜実顔で、子鹿のような目をしている。
「おまえ、だれ?」
ぶっきらぼうに訊かれ、名乗ろうとしたところへ、廊下の反対側からどたどたと騒がしい足音が近づいてきた。
「あ、伊都ちゃんだ」家じゅうに響くような声の主は長五郎だ。片手に大きな握り飯を持っている。「伊都ちゃん、おはよう」
「おはよう、長五郎ちゃん」
目を見交わしてにっこりしたふたりを、浅黄の着物の男の子が不思議そうに見つめている。
「鉄次さんが連れてきた子か」
「そうだよ」
長五郎は伊都の返事を奪って、嬉しそうに説明を始めた。
「あのねえ、一緒に旅したんだよ。山で会ったんだ。そんで夕べ、うんと暗くなってから帰ってきた。舟で、あのう――川の舟で。伊都ちゃんはね、すっごく優しいんだよ。それで、べっぴんなんだ」
「別嬪?」
少年は黒目がちな大きな瞳をさらに見開き、伊都をじろじろ見た。
「ふうん」鼻を鳴らし、ふいと顔を背けて歩き出す。「ま、いいや。おれ佐吉」
おざなりに名乗りを上げ、彼はそのままどこかへ行ってしまった。
「あの子が、長五郎ちゃんが話してた佐吉っちゃん?」
「うん。わかんないことがあったら、なんでも教えてくれるよ。佐吉っちゃんは、あのう――おせわ焼きでねえ、りこうな子なんだ」
「そうなの」
「おれ、湊いくからまたね」
長五郎は手を振り、握り飯をぱくつきながら玄関へ歩いていった。取り残された伊都は一瞬戸惑ったが、まさかついて行くわけにもいかない。
気を取り直して、包丁を使う音が聞こえるほうへ向かうと、やはりそこは台所だった。六畳間に三畳ほどの土間がついていて、若い男がひとり、竈の焚き口に屈み込んでいる。
近づく足音に気づいたのか、その青年は立ち上がって振り返った。一段高い板間に立っている伊都と目線が合うほど背が高い。無駄な肉のない引き締まった体つきで、頭はつるつるに剃り上げている。
固く引き結んだ口元が厳しそうな印象だが、目はとても穏やかだった。
「おはようございます。伊都といいます」
挨拶をすると、彼は丁寧に会釈を返したが、自分は名乗ろうとせずに再び竈のほうを向いた。
「あの、鉄次さんは?」
遠慮がちに訊くと、肩ごしにこちらを見て、小さく首を振ってみせる。
いまのは〝いない〟という意味? それとも〝知らない〟?
「鉄次さんなら、ここにはいないぜ」
ふいに声がした。いつの間にか佐吉が来て、囲炉裏の傍に座っている。顔を洗ってきたらしく、前髪がまだ濡れていた。
「そいつは千太郎っていうんだ。返事しなくても気にすんな。耳は聞こえるけど喋れないんだよ。でっかい見世で修行した腕っこきの庖丁人で、暇がある時には飯を作ってくれる」
「長五郎ちゃんが、千太さんのご飯は美味しいって」
思い出しながらつぶやくと、千太郎がちらりと視線をよこして微笑んだ。笑った顔は優しそうだ。
「台所に置いてある食い物は、誰でも食っていいことになってる。千太が作ったのも、そうでないのも」佐吉が囲炉裏に鉄瓶を掛けながら説明してくれる。「ほっとくとすぐなくなるから、人に食われたくないものは自分の部屋にしまっときな」
伊都は少しのあいだ所在なく立っていたが、忙しそうに立ち働いている青年におそるおそる近づいた。
「あのう……千太郎さん、なにかお手伝いさせてください」
千太郎は驚いたような顔をしたが、目を伏せてちょっと考えてから、手刀で何かを切るような仕草をしてみせた。それから、問いかけるような眼差しを向けてくる。
「包丁?」察しをつけて言ってみた。「あんまり上手じゃないけど、使えます」
すると彼は木桶の中から浅漬けの胡瓜を二本取り出し、流しでぎゅっと絞ってから、板間に置かれたまな板に載せた。
座るよう手真似で彼女を促し、よく磨がれた短い包丁を差し出す。食べやすいように切ってくれということらしい。
仕事をもらえたのでほっとしながら、伊都は桶の水で軽く手をすすぎ、漬物を厚めの斜め切りにした。ふと横を見ると、ふちがちょっと欠けた浅い角皿が出されている。それに盛りつけをして、ちょうどこちらを向いた千太郎に見せると、彼は満足げに短くうなずいた。
まだ何か切りましょうか、というつもりで包丁を指差すと、今度は首を振り、佐吉が座っているほうへ顎をしゃくる。もう手伝いはいいから、向こうで待っていろと言っているようだ。
囲炉裏端へ行くと、佐吉が大仰に目をぐるりと回してみせた。
「おっどろいたなあ。おまえ、お侍の家の子か? 〝お手伝いさせてください〟だなんて、この塒でそんな口の利きかたするやつ見たのは初めてだ」
「おかしい?」
「もっと気楽でいいよ」
ふわりと、いいにおいが漂ってきた。佐吉も鼻をひくつかせている。
「千太、卵焼いてんの? 新顔がかわいいから特別扱いかい」
千太郎は肩ごしに彼をちょっと睨み、出来上がった料理を床に並べた。炊きたての米に味噌汁、青菜のごま和え、昆布の炒め煮、伊都が切った胡瓜の浅漬け、そしてつやつやとした厚焼き卵。
彼は卵焼きをひと切れ、ぽんと口に放り込み、立ったまま咀嚼しながら納得したようにうなずいた。それから伊都と佐吉に、さあおあがり、というような手振りをして、自分は食事の席につくことなく勝手口から出て行く。
「食っちまおうぜ」
待ちかねたように皿を引き寄せる佐吉に、伊都は当惑の視線を投げた。
「千太郎さんを待たないの?」
「あいつ、もう仕事へ行ったよ。朝は仕入れとか、いろいろ忙しいんだ。飯は、作りながらちょこちょこつまんで食ってる」
自分の知っている生活とは違うことばかりなので、戸惑わずにはいられない。
「ご飯、よそいましょうか?」
お櫃の蓋を開けながら訊くと、佐吉は妙におどおどした素振りを見せた。
「え? う、うん」
飯椀を差し出しながら、ちょっと顔を赤くしている。
「うへえ、なんか女房でももらったみたいだ」
そんなことを言われると、こちらもおままごとをしているような気分になる。伊都は小さいころにそういう遊びをしたのを懐かしく思い出しながら、それぞれの椀にご飯と味噌汁をよそった。
「いつも、こんな朝ご飯を食べているの?」
「普段は飯と汁と漬物ぐらいだよ」佐吉が飯をかき込みながら笑う。「今日は、おまえが来たばっかりだからさ。惜しかったなあ、いることが夕べからわかってたら煮魚とか、もっと凝った料理も出てたかも」
気をつかってくれたのに、お礼を言いそびれてしまった。伊都は残念に思いながら、千太郎がわざわざ作ってくれた卵焼きを口に運んだ。
ふっくらとやわらかく焼き上がっていて、噛むと出汁のいい香りが広がる。味つけは薄めで、とても上品だ。さすがに本職が作っただけあって形も美しい。
「美味しい」
思わずつぶやくと、口いっぱいに飯を頬張りながら、佐吉がうんうんとうなずいた。
「千太が作ると、なんでも旨いんだ」どこか自慢げに言う。「あいつ今、嘉手川沿いの舟宿で働いてるんだけど、ずいぶん評判取ってるよ」
「舟宿……」
そういえば鉄次が、何かそういう見世のことを話していなかっただろうか。
「鉄次さんが持っているところ?」
「うん。鉄次さんと、色っぽい女将さんが半々で持ってる見世だ」
おかみさん、という言葉に伊都ははっとなった。そういえば、彼に家族があるのかどうか――面倒を見ている孤児は別として――これまで一度も考えなかった。妻子がいるようには見えないが、いてもおかしくはないだろう。
「その人、鉄次さんの奥さん?」
「鉄次さんに女房なんて、おっかしいや」
佐吉は床を叩きながらけらけら笑った。
「そんなのいないよ。舟宿の女将さんは別嬪だけど年増だし、こないだ旦那が死んだばっかりだし」
「さっき、鉄次さんはここにはいないって言ってたけど――」ふと思い出して訊く。「じゃあ、どこにいるの?」
「さあね。あの人がどこで寝起きしてるかなんて、誰も知らないんじゃないか」
伊都は驚いて言葉を失った。てっきり、彼もここで一緒に暮らしているものと思っていたのだ。では〝塒〟と呼ばれるこうした家には、拾われた孤児たちしか住んでいないのだろうか。
昨夜遅くこの家へ着いた時は、すっかり旅疲れしていて、細かい話など訊く余裕はなかった。鉄次に「空いてる部屋なら、どこでも好きに使いな」と言われ、手ごろな四畳半を見つけてすぐ布団に潜り込んでしまったが、いま思うと失敗だったかもしれない。
「鉄次さん、おまえになんにも教えてないの?」
「うん」急に不安になってくる。
「あの人に拾われたんだったら、おまえも何か取り柄があるんだろ? 長五郎が力持ちで、千太が料理上手なのみたいにさ」
「わたしは用心棒に雇われたの」
佐吉があんぐり口を開けるのを見て、あわてて言い添える。
「今すぐじゃなくて、剣の修練を積んで……もっと大きくなってからよ」
「なんだい、そんな先のことか。ずいぶん気が長いんだなあ。ま、鉄次さんらしいや」
彼は沸いた鉄瓶を下ろして、伊都の茶碗にお茶を注いでくれた。
「じゃあさ、それまで何してることになってるんだ? 大きくなるまでってことだけど」
「わからない……」ますます心細さが増した。旅のあいだ、彼とあんなにたくさん会話をしたのに、肝心なことは何ひとつ話さなかったように思えてくる。「何をしていればいいのかしら」
佐吉はくりくりした目でしばらく黙って伊都を見つめていたが、やがて心を決めたようにぽんと膝を叩いた。
「よし、そんじゃさ、訊きに行こうぜ。何してればいいかって、直に訊くのがいちばん手っ取り早いだろ」
「でも、鉄次さんがどこにいるか知らないんでしょう?」
「そう言ったけど、ぜんぜんわかんないってわけでもないんだ。おれは、なんていうか――あの人の立ち回り先を知ってるからさ。よく行く見世とか、賭場とか、なじみの女のとことか」
なじみの女、という俗な表現にどきりとする。佐吉は伊都が知っている同じ年ごろの男の子たちよりも、ずっとませた物言いをするように思えた。
「当たりをつけて、回ってみようぜ。きっと、どっかで見つかるよ」
お世話焼き。長五郎の言葉が脳裏に蘇り、伊都は小さく笑みをもらした。たしかに、その表現はぴったりだ。
「そうと決まったら、早く行こう」
「片づけてから」
彼女が空の器を集め始めると、佐吉は水を差されたと言いたげな顔をした。
「そんなの、あとでいいよ」
「駄目、すぐ洗わないと。井戸は裏?」
「そうだよ」
「お鍋とお櫃、運んでね」
頼んでおいて土間へ下りると、佐吉は「ちぇっ」と不満そうな声をもらしながらも、伊都が持ち切れなかったものを抱えてついてきた。
別役国の湊町龍康殿は主要な水陸交通の結節点であり、あらゆる娯楽が集まった、聳城国随一にして最大の遊興地だ。しかし、立地の良さに目をつけた海商によって大規模な港湾施設が建設される前は、特に見るところもない寂れた漁村だったという。
伊都は鉄次からさらりと概要だけは聞いていたが、この町についてはまだ何も知らないも同然だった。
「夕べ、この川を舟で下って町に入ったの」
水辺の道を歩きながら、彼女は佐吉にそう話した。
「北のほうにある瑠璃川の支流が町の中を三本流れてて、全部海までつながってる。この嘉手川は、三つの中で二番目に太いんだ」
「この町、水路だらけね」
「うん。どこへでも舟で行ける。水の上で遊びたがる客も多いから、屋形舟は年じゅう大忙しだ」
「舟で何をして遊ぶの?」
「春の桜や夏の花火を見物して、一杯やりながら騒ぐのさ。そういう遊び舟に、酒や水菓子なんかを売って回る舟もある」
「〝はなび〟って何?」
「見たことないのか」佐吉が少し驚いた顔になる。「火の玉を空に打ち上げて、でっかい花を咲かせるんだ」
火の玉が花になると言われても、ちょっと想像がつかなかった。空に咲いたあと、花はどうなるのだろう。散りぎわの桜のように、ひらひらと舞って落ちるのだろうか。
「夜になったら見られるよ。夏のあいだは毎晩打ち上げるから」
「毎晩? 誰が打ち上げるの?」
「大店とか、川沿いで水茶屋をやってる旦那衆が、花火師に金を出してやらせるのさ。宣伝と人集めのためだよ。花火目当てで人がたくさん寄ってきたら見世は繁盛するし、酒や食べ物もいっぱい売れるだろ」
人を集めるために空に花を咲かせるなんて、なんてすごい思いつきだろう。伊都は圧倒されるものを感じて、思わずため息をついた。
「商人の力が強い町なのね」
「いちばん強いのは、金を持ってるやつさ。でも、どこでもそうだろ?」
話をしながらさらに少し歩くと、川にかかる大きな橋が見えてきた。中央部分が少し高くなった構造で、桁を支える四列の橋杭は人ひとりでは抱えきれないほど太い。
橋のたもと近くには舟付場がいくつかあり、長く突き出した桟橋に小舟がたくさん集まっていた。川面を行き来しているのは、人を乗せている舟、米俵や薪を載せた舟などさまざまだ。
石積みの土手の上には葦簀張りの茶屋が並び、道を挟んだ向かい側には薦掛けの大きな小屋がいくつも軒を連ねていた。
「あの背の高い小屋は、なにをするところ?」
「芝居小屋と見世物小屋だよ」
芝居はわかるが、〝みせもの〟はわからない。
「みせものって、何を見せるの」
「おっかないもの」佐吉は脅すように、声を低くして言った。「体じゅうに鱗が生えた蛇女とか、首だけの女とか、頭がふたつある子供とかがいるんだ」
ぞっとするような話だが、なんとなく真実味は薄く感じられる。
「それ、みんな本物?」
「もちろんさ」
佐吉は威張るように言ったあとで、肩をすくめて舌を出した。
「へへ、嘘。ほんとは知らないんだ。おれ怖くて、あんなとこ入れないからさ」
「なあんだ」
伊都がくすくす笑うと、彼は照れたように頭を搔いた。
「でもさあ、一度だけ、虎を見に入ったことはあるよ」
「わたし、虎は屏風絵でしか見たことない。どんなだった?」
「図体が子馬ぐらいあって、頭がでっかい猫みたいだった。目が金色なんだ。それは本物だし、ちゃんと生きてたよ。だって檻の中をうろうろ歩き回ってたもん」
「すごい――いつか、わたしも見られるかしら」
「たぶん、そのうちまた来るよ。珍しい生き物の見世物があったら、おれがつれてってやる」
「ありがとう」
鉄次を捜しに来たつもりが、いつの間にか物見遊山になってしまったようにも思えるが、町のことをいろいろ教えてもらえるのは楽しい。
その後も伊都は佐吉に導かれるまま、川縁の盛り場、目抜き通りに賭場旅籠が建ち並ぶ五番町、娼楼が軒を連ねる三番町と、さまざまな場所を見て回った。
ところどころで足を止め、佐吉が見世や家の中を窺ってきたが、どこにも鉄次の姿はないという。そうこうするうちに、いつしか午を回ってしまった。
「まいったな、ぜんぜんいないや」佐吉がくたびれた声を出す。「おまえ、腹減っただろう」
「少し。戻って、ご飯を作る?」
「塒に戻るなんて、めんどくさいよ。そこいらの茶屋か屋台で食おう。おれがおごるからさ」
「お金、持ってるの?」
「ないよ。でも、手に入れる」
おかしなことを言う。伊都は小首を傾げて佐吉を見つめた。
「ちょっと手伝ってくれ。おれの先を歩くんだ。顔を上げて、まっすぐ前を向いてな。それで、誰かおまえをじっと見るやつがいたら、目を合わせてにっこりしろ」
さっきまでの気のいい少年が、急に老獪な男の目になった。
「おれは離れて歩くけど、何か聞こえてもうしろを見るなよ」彼は念押しして、伊都の背をそっと押した。「よし、行け」
よくわからないまま、伊都は言われたとおりに歩き出した。
今いるのは三番町と四番町のあいだの広い道で、五番町の本通りほどではないものの人通りは多い。人々が歩く流れに乗り、少し遠くを見るように首を上げて歩いていくと、なるほど何人かが視線を向けてきた。たいていは男で、若者もいれば中年もいる。孫を見るような眼差しで微笑みかけてきた、優しそうな老人もいた。
見知らぬ人と視線を合わせてにっこりするのは、思ったよりも難しい。唇の端を無理に上げて笑みをつくると、みぞおちのあたりがむずむずするのを感じた。
こんなことをさせて、彼はいったいどういうつもりだろう。
何人かとすれ違ったあと、うしろのほうで「どこ見て歩いてんだい」と怒鳴る佐吉の声が聞こえた。しかし、あらかじめ警告されていたので振り向かない。
どこまで歩けばいいの、と思った時、背後から足早に近づいてきた佐吉が横をすり抜けながら、「右の路地に入れ」と囁いた。彼自身は伊都を追い越し、さっさと角を曲がっていく。
少し後れてあとに続くと、路地裏に置かれている天水桶の陰で佐吉が待っていた。袂から巾着を出し、左右に振って見せる。中からは銭貨がちゃらちゃら鳴る音が聞こえた。
「これ、誰のかわかる?」無邪気な目をして問いかけてくる。「おまえのことを頭から食っちまいたいって目で見てた、絣の着物のおっさんのだ」
その男はすぐに思い出せた。粘つくような視線に、とりわけ不快感をおぼえたからだ。
「それ、どうしたの」
「あいつ、すれ違ったあとも振り向いてずっとおまえを見てたから、その隙にわざとぶつかって懐からいただいたのさ」
まったく悪びれもせず、堂々と言ってのける。
「盗んだの? わたしを歩かせたのは、そのため?」
「そうだよ。何かに気を取られてるやつは、財布のことなんかそっち退けになるから摺りやすいんだ」
泥棒をするために利用されたことよりも、伊都にとっては彼と鉄次の関係のほうが気になった。
「それが佐吉っちゃんの得意なこと?」
「そうさ。餓鬼のころからずっと、掏摸の腕一本で食ってたんだ。指技には自信がある」
「その技――を使って、鉄次さんのために仕事をしたりするの」
「ときどきするよ」彼はあっさり答えたあとで、ぴくりと片眉を上げた。「ああ、わかった。おまえ、鉄次さんが悪党を仲間にしてると思って、なんかすっきりしないんだろ」
ずばり言い当てられてしまった。たしかに気持ちがもやもやする。勝手な思い込みと言われればそれまでだが、鉄次が見込んだ孤児たちの特技に、不道徳なものもあるなどとは考えもしなかった。
彼がどういう人なのか、またわからなくなった気がする。
「なあ、おれのこといやになった?」
はっと顔を上げると、佐吉がみじめそうな表情を浮かべていた。
「ううん」急いで首を振る。「そんなことない。ただ、ちょっとびっくりしただけ」
盗みがいいことだとは言えないが、だからといって彼を悪人とは思えない。それに悪事というなら、わたしのほうがもっと悪いことをしている。人を殺したんだもの。
いつか、鉄次にはそのことを打ち明けなければならないと思っている。だが、勇気が出るまでには、しばらくかかりそうだった。
その時がきたら、きっと自分も彼に「わたしのことが嫌いになった?」と訊くだろう。それにどんな答えが返ってくるのか、想像するだけで怖くて身がすくんでしまう。
だから佐吉を非難する気になど、とてもなれなかった。
「どうやって、気づかれずに巾着を抜き取るの?」
気まずい雰囲気を変えようとして、掏摸の技に興味を示すと、佐吉はようやく緊張を解いて微笑んだ。
「手が動いたのが見えないぐらい、素早くやるんだ。その前に、何かで相手の気を逸らせて――おい、おまえ、肩に鳥の糞が落ちてるぞ」
ふいに指差され、伊都はあわてて自分の肩を見た。だが、別に何もついていない。
「どこ?」
佐吉が得意げな顔で顎をしゃくる。
「左の袂、さわってみな」
言われるまま袂を探ると、先ほどの巾着が出てきた。いつやったのかはわからないが、彼が入れたのは間違いないだろう。
伊都はぽかんとして、手の中の巾着をまじまじと見つめた。
「……いつの間に?」
「おまえがよそ見した隙に、右手ですべり込ませたんだ。ちっとも感じなかっただろ? 抜き取るときも同じ要領さ」
目の前にいてもわからなかったのだから、稲妻のような素早さだったに違いない。自信があると豪語するだけあって、たしかにすごい技だ。
伊都の顔に率直な賞賛の色を見て取り、佐吉は満足そうに破顔した。
「よし、飯を食おう。団子でも蕎麦でも、何でもいいぜ」
人から盗んだ金でものを食べると思うと気が引けたが、それを言えば佐吉の気持ちを傷つけてしまう。だから伊都は心の葛藤を押し隠すことにした。
「お蕎麦がいい」
「旨い屋台を知ってる。行こう」
彼に連れられて行った五番町本通りの辻売りは、本当に旨い屋台だった。
やや太めの蕎麦は香り高く、鰹出汁と味噌を合わせたたれ汁とよくからむ。佐吉に勧められて薬味の海苔をたっぷり振りかけ、七味唐辛子を少し利かせると、さらに絶妙な味わいになった。
「本当に美味しい……」
「だろ? ここいらじゃ、この屋台がいちばんさ。なんたって、たれ汁の味が違うよ」
講釈を垂れながら椀の中を掻き回していた佐吉が、最後に残った数本の蕎麦をつまみ上げたまま、ふと動きを止めた。
「あ、そうだ。鉄次さんがいそうなとこが、もうひとつあった」
「どこ?」
「湊。用がない時でも、ちょくちょく行ってるみたいなんだ。ていうのも、あの人――」
「――船が好きだから」言葉の先を読んで言う。
「うん。知ってた?」
「旅をしている時に、そう聞いたの」
「そっか。見に行ってみようぜ。それ、早く食っちまいなよ」
急かされ、伊都はあわてて蕎麦をすすり込んだ。汁を飲み干すのもそこそこに、屋台を離れて歩き出す。
本通りを南へ下っていくと、すぐに海が見えてきた。
「岬と物揚場と、どっちかなあ」
佐吉は独り言をつぶやき、少し考えてから道を左へ折れた。その先は湊の入り口につながっている。
埠頭へ向かう幅の広い道は、人でごった返していた。湊で働いているらしい屈強そうな男たちが多いが、商人や武士の姿もある。
「今日は船がいっぱい入ってるから、人が多いな」佐吉がぶつぶつ言う。「歩きにくいったらないや」
彼は人波を巧みにすり抜け、船が近くに見える開けた場所へ伊都をいざなった。
「おっと、当たりだ」
混雑から抜け出たとたん、嬉しげな声を上げる。
「鉄次さんがいたよ」
彼が指差す方向に、鉄次の後ろ姿が見えた。野積みされた大きな木箱に肩をもたれさせ、突堤に係留された帆船をのんびり眺めている。
「じゃ、おれはここで」
ふいに佐吉が言い、すでに鉄次のほうへ歩き出しかけていた伊都は急いで足を止めた。
「え?」
「邪魔したくないから行くよ。ゆっくり話したいだろ」
彼はにっこりすると、伊都が何か言う前に身を翻して駆けて行った。その姿が、あっという間に人群れの中へ消える。背中にかけた「ありがとう」の声が届いたかどうかはわからなかった。
次に会ったら、あらためてお礼を言おう。
伊都はそう思いながら踵を返し、湊の風景の一部のように佇んでいる鉄次に近づいた。
今日は黒に近いほど濃い紺地の、絽の単衣を着ている。白く染め抜かれた露草の小紋柄が小粋で、彼によく似合っていた。
「鉄次さん」
声をかけると、彼は懐手したまま振り返り、ほんの少し驚いた顔を見せた。
「おれを捜したのかい」
「はい」
「あとで様子を見に寄ろうと思ってたんだ。どうやってここまで来た?」
「佐吉っちゃんが連れてきてくれました」
「あいつ、人なつこくて世話焼きだろう」目を細め、ふっと笑みをこぼす。「それに、せっかちでな」
伊都も思わず微笑んだ。長五郎も佐吉を〝お世話焼き〟と評していたが、あれはきっと鉄次の受け売りだったに違いない。
「何か急ぎの用でもあったのか」
そう問われて、彼女は一瞬言葉に詰まった。落ち着いて考えると、町じゅうを歩き回って捜すほどのことではなかった気がする。
「朝、起きたら鉄次さんがいなくて……びっくりしました」こんなことを言うのは子供じみていて恥ずかしいが、偽らざる気持ちだ。「わたし、あの家で一緒に暮らすと思っていたんです」
「いないから、心細くなったのか」
鉄次が意外そうに眉を上げる。
「そりゃ悪かった。言っとけばよかったな。おれは普段、一所で三晩とは寝ないんだ」
どうして、と訊きかけて伊都は躊躇した。何か複雑な事情がありそうに思える。余計な詮索をするべきではないかもしれない。
「佐吉っちゃんも言っていました。鉄次さんがどこで寝起きしているかは、誰も知らないって」
「そうだ」
「でも、わたしは知っていたいんです」予期していなかった言葉が、唐突に口から滑り出てしまった。はっとなったが、言ったものは仕方がない。「だって、鉄次さんはわたしを用心棒に雇ってくれたんでしょう。なのに一緒にいられなくて、どこにいるのかもわからなかったら、守りたくてもできません」
鉄次が口をつぐんだままだったので、伊都は胸苦しいほどどきどきした。馬鹿なことを言う子供だと笑われるだろうか。
だが彼は嘲るようなことはせず、噛んで含めるように言った。
「前にも話したが、用心棒役を頼むのはずっと先のことだぜ。今はまだ、おれを守ろうなんて考えなくていいんだ」
「はい……」
うなずきはしたが、心は晴れない。これは拒絶とは違うのだとわかっていても、なんとなく気持ちが沈んでしまう。
それを感じ取ったかのように、鉄次が表情をやわらげて手招きした。
「こっち来な。そら、ここに座るといい」
腰をふわりと持ち上げられて木箱に座らされると、頭の高さが彼とほぼ同じになった。鉄次は隣のもっと大きな木箱に寄りかかり、顔を海のほうへ向けている。
「あれ、どこの船か言い当てられるか?」
彼が指差したのは、三角形をした大きな帆が三つついている帆船だった。
「シェクランの船」
「その通りだ」嬉しそうに微笑む。「おれが教えたのを覚えてたんだな」
旅をしているあいだに彼が教えてくれたことは、みんな覚えている。つい昨日まで鉄次はいつも傍にいて、何かに興味を示せばすぐに説明してくれた。だがこの先は違うのだと思うと、寄る辺を失ったような頼りない心持ちにさせられる。
いつの間に、こんなにも彼の存在を恃みとするようになったのだろう。
「落ち着いたころを見計らって、剣術の師匠を塒へ行かせる」
鉄次はシェクランの商船を見つめたまま言った。
「いつもこの界隈をぶらぶらして、釣りばかりやってる遊び人だが、おれが知るかぎりでは腕はかなり立つ。よく教えてもらうといい」
「はい。それ以外の時は、何をしていたらいいですか?」
予想外の問いだったらしく、彼は珍しく返答に詰まった。
「何をって……何かしたいのか?」
「長五郎ちゃんや千太郎さんが働いているのに、わたしだけ遊んでいるのは嫌なんです。仕事を――できたら、何か鉄次さんの役に立てることをさせてください」
こんなことを言うのはわがままだろうか。だが正直な気持ちだった。大人になるまで何も役に立てないなら、ここにいていいのかどうかをずっと悩み続けることになるだろう。
その切実な思いを、鉄次は汲んでくれたようだった。
「わかった。何か考えておく」
真面目な顔で請け合い、小さく笑みを浮かべる。
「おまえはほんとうに、よくできた娘だな。たまには馬鹿のひとつもやって、おれに小言を言わせろよ」
「はい。近いうちに」
この答えは鉄次の気に入ったらしい。思いきり首を反らし、天を仰いで笑っている。そんな彼の隣にいるだけで、朝から感じていた不安感がすうっと薄れていくのがわかった。
夕暮れが近づくと、伊都は鉄次に連れられて嘉手川のほとりへ行った。毎晩打ち上がる花火を、いちばんいい場所で見せてくれるという。
日がすっかり落ちても、町は昼間と変わらないほど明るかった。どこの見世先にも灯が点り、賭場旅籠や大店の軒下は色とりどりの提灯で飾られている。まるで、ここにだけは夜が来ないかのようだ。
道を行き交う人の数も、日が暮れ始めてから数倍に増えたように感じられた。酔客の吠えるような話し声と、それに追従する艶やかな女性たちの笑い声、三味線や琴の調べ、呼び込みの賑やかな口上などが入り混じって、すさまじい喧噪を呈している。
「昼間見せている顔はよそ行き」鉄次は人混みの中をのんびりと歩きながら、伊都にそう教えた。「龍康殿の素顔は、夜になって初めて現れるんだ」
彼女はその〝夜の素顔〟に、ただ圧倒されるばかりだった。生まれ育った大光明城下の賑わいなど、この町とは比べものにもならないと思う。
大通り沿いの見世はすべて開いており、どの辻も、裏路地すらも人で混み合っていた。身を取り巻く空気は熱気に満ちていて、楽しげで猥雑だ。
鉄次が一緒だからまだいいが、ひとりではこんな場所はとても歩けないだろう。ぴったり彼の背中を追っている今でさえ、ともすると人波に呑まれてしまいそうになる。
ふと鉄次が振り向き、手をうしろに伸ばした。
「はぐれるな」
うなずき、すがるようにそれを握る。前に「手をつないでやろう」と言われた時は恥ずかしくて断ったが、とてもそんなことは言っていられない。
鉄次の手は肌がさらりと乾き、長くまっすぐな指がきれいだった。剣を持たず、力仕事をすることもない人の手だと感じる。
「打ち上げ場所に近い川縁で花火を見るのは、町の外から来た連中だ」
彼はそう説明しながら、伊都を川の上流まで連れて行った。そのあたりも明るく賑やかなのは同じだが、下流の舟付場あたりほど人は多くない。
「地元の通は、ちょいと離れた上流から見物する」
鉄次が案内したのは、昼間に佐吉と見たものよりもずっと細い橋だった。橋名板には〈俤橋〉と書かれている。彼は中ほどまで進んで行き、下流のほうを向いて欄干に片肘をついた。
「もうじき始まるぞ」
その言葉が終わらないうちに、どん、という腹に響く音が聞こえた。
真正面に細い火柱が短く立ちのぼり、すっと消える。少し間を置いて、朱とも赤ともつかない炭火のような色合いの光が、暗い夜空でぱっと弾けた。それが大きく広がり、幾本もの細長い光の筋になってしだれ落ちながら消えていく。
唖然と空を見つめながら、伊都は彼岸花を思い浮かべていた。
「ほんとうに、空に花が咲いたみたい……」
「気に入ったかい」
「とってもきれいです」
「打ち上げは夏のあいだだけだから、今年はあと四日ほどで終わっちまうんだ。その前に見られてよかったな」
次の花火が打ち上がった。人々の歓声と拍手が遠くに聞こえる。あの人混みでむせかえるような一角はますます賑わい、大いに盛り上がっているようだ。だが伊都はこの静かな橋の上で、鉄次と一緒に見られたことが嬉しかった。
そこでようやく、まだ彼の手を握っていたことを思い出したが、なんとなく放す気にはなれない。
九つ目の花が開いたところで、ふいに鉄次が言った。
「明日から毎日、午に会おう。この橋の上でだ」
予想外の申し出に驚き、伊都は彼の端正な横顔をまじまじと見つめた。
「日に一度でも顔を合わせれば、用心棒役としてはとりあえず安心できるだろう。だから会って、おれがその日どこにいるか、何をするか、言える範囲でよければ教える」
まばたき二回分の間を置いて、伊都はこれが、湊でした話の続きなのだと気づいた。彼の動向を把握していたいと打ち明け、やんわり拒まれたと思っていたが、早合点だったようだ。鉄次は彼女があきらめたあともずっと、どう要求を満たすか考えてくれていたらしい。
十発目の花火が、ひときわ高く上がった。
「今日はこれで打ち止めだな」大きく開いた赤い花を見上げながら、鉄次が低くつぶやいた。「それで、さっきの件は承知か?」
返事をする代わりに、彼の手をぎゅっと握る。そこから言葉を超えたものが温かく通い合うのを感じながら、伊都は最後の花火が消え去ったあとの余韻に心地よく浸っていた。
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