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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 しのび寄る影
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六十四 王生国天山・石動元博 白昼の凶行

 (いわい)城の二の曲輪(くるわ)御殿は、本曲輪御殿よりも繊細かつ優美な設えが特徴的で、どこか女性的な雰囲気を(たた)えていた。

 部屋ごとに異なる題材で描かれた襖絵、(とこ)の間絵。柱から床板、雨戸、障子の桟に至るまで贅沢に使われた、木肌の美しいヒノキ材。化粧漆喰で仕上げられた、目に眩しいほどの白壁。さまざまな意匠を凝らした透かし欄間。そして引手や(つま)みなどの金具類は、すべて黄金色に輝いている。

 初めてここを訪れた石動(いするぎ)元博(もとひろ)は、その壮麗さにただ圧倒されるばかりだった。離宮のような位置づけなので本曲輪御殿に比べるとかなり小さめだが、設えの贅沢さではむしろ上回っているように思える。

 そして、建物以上に素晴らしいのが庭だった。総面積三万四千坪の途轍もなく広大な回遊式庭園で、その中に大小七つの池、ふたつの丘と山、三つの森、梅林と桜林、楓林、弓場と馬場、釣殿(つりどの)、能舞台と見所(けんしょ)、八つの亭舎、ふたつの館が配されている。

 御殿の前庭にある舟付場から舟に乗ると、園内に張りめぐらされた水路を通って、それらを順繰りに訪ねることができた。これを〝舟遊び〟と称し、天山(てんざん)では毎年観月(かんげつ)の中ごろになると、大皇妃三廻部(みくるべ)真名(まな)が夏の催しとして主催する習わしになっている。

 招待されるのは厳選された四百人のみ。たとえ有力武家の当主や奥方でも、毎回必ず招かれるとは限らない。

 黒葛(つづら)貴昌(たかまさ)と七人の随員は、その名誉きわまりない招待に(あずか)っただけでなく、寄寓先である桔流(きりゅう)家の人々と同格の賓客としてもてなされた。人質という立場がら、そんなことは期待していなかったので、元博は内心かなり驚いている。

 御殿の大広間で三献の儀が行われたあと、大皇妃と客たちは一斉に外へ出て、快晴の青空の下で爽やかな夏の風を浴びた。

 舟付場はすでに準備が整い、大きさも形もさまざまな舟が三十艘ほど集められている。もっとも目立っているのは、金銀の豪華な飾りがついた大型の屋形舟だ。全長四十尺、幅十二尺ほどの十六畳敷きで、中は三間に仕切られている。

 横につけられている六艘は、それよりもやや小型の十二畳敷き。(ひさし)の下に一艘ずつ異なる色の幕をめぐらせている。そのほかの舟はみな屋根なしで細長い。

「貴昌どの」

 侍女らを従えて舟のほうへ向かっていた真名が、気に入りの少年を人垣の中に見つけて声をかけた。

「こちらへいらっしゃい」

「陛下、お招きいただき光栄です」

 黒葛貴昌は小走りに駆けて行き、声を弾ませて謝辞を述べた。大皇妃が優しく微笑んで手を伸ばし、白い指の背で彼の頬を愛おしげになでる。

「あなたは、わたくしの舟にお乗りなさい。叔父上もご一緒にね」

 実際は父親のまたいとこだが、煩雑さを避けるため叔父で通している黒葛禎貴(さだたか)が、前に進み出て低頭した。

「ありがたき幸せ」

 真名は脇に控える侍女のひとりに目をやり、てきぱきと命じた。

「家来衆は青の幕をかけた舟へ。庭をひとめぐりしたら、中之島(なかのしま)の〈翠松庵(すいしょうあん)〉へご案内なさい」

 今日の彼女は純白の内着の上に、薄く透ける桑の実色の小袖をまとっていた。裾と袖口には優美な唐花文様が、瑠璃色と白で大きく大胆に描かれている。

 豊かな黒髪は片側に寄せてゆったりと結い、蒔絵と螺鈿が施された櫛を飾っていた。

 いつもながら人の目を引きつけずにはおかない、華やかで現代的な装いだ。特に小袖の色柄は素晴らしくよく似合い、彼女の美貌と気品をより際立たせている。

 魅入られたような元博の視線に気づいたのか、真名は彼に小さく笑みを投げてから、貴昌と禎貴を伴って舟に乗り込んでいった。

 天山の有力武家の面々は芝生に列をなし、大皇妃の屋形舟に誘われたふたりの南部人を羨ましげに見ている。席数が決まっているので仕方ないが、その恩典に浴することができなかったのを残念がっているのがありありと顔に表れていた。

 そんな彼らを置き去りにして、主客を乗せた舟はしずしずと桟橋を離れて行く。屋形の障子戸が開け放されているので、中に座っている人々が岸からもよく見えた。

 真名自身の両親である桔流和智(かずとも)と妻波津(はつ)奈津(なつ)智克(ともかつ)香那(かな)の三弟妹。普段から親しく交流している白須(しらす)夫妻。久留馬(くるま)家の若い兄弟。元博が見分けられるのはそれぐらいだが、残りも錚々たる顔ぶれに違いない。

「若君はだいじょうぶかな」舟を見送りながら、由解(ゆげ)宣親(のりちか)がつぶやく。「別の舟じゃ、お守りしようがない」

 それを聞きつけ、真栄城(まえしろ)忠資(ただすけ)が薄く笑った。

「陛下のおそばで、めったなことは起こるまいよ。それに禎貴さまがついておられる。心配いらんさ」

 横で会話を聞きながら、元博は心の中でうなずいていた。貴昌(ぎみ)に好意を持っている大皇妃の傍以上に、彼にとって安全な場所などあるだろうか。

 棹を操っているのも舳先で進路を見ているのも軽武装した番士だし、護衛三人乗りの小舟二艘がぴったりとうしろにくっついている。もし何か不穏な動きがあれば、彼らがいち早く対処するだろう。

「黒葛家の皆さま、舟へどうぞ」

 大皇妃から案内を申しつけられた吊り目の侍女が、元博らに声をかけて桟橋へいざなった。夏空のような青色の幕で飾られた屋形船が、澄んだ水の上でゆらゆらと揺れている。

 屋形の中には青畳が敷かれ、その上に錦の座布団が並べられていた。二十五人ほど乗船できる勘定のようだ。どこに座るか考えていると、先に乗っていた客の中から、誰かが腰を浮かせて元博たちに微笑みかけた。

「こちらが空いておりますよ」

 それは椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)だった。渋い鉄紺の地に蝶文様と唐草の刺繍をあしらった、洒落っ気たっぷりな小袖を着ている。

 彼の近くの空いた場所に座ると、水面の照り返しが眩しく目を射た。睫毛をしばたたかせる元博を見て、彰久が上品に笑う。

「漕ぎ出したら、照り返しは気にならなくなりますよ」

 ほどなく棹が差され、舟は桟橋を離れてゆるゆると流れの中ほどへ漕ぎ出した。水の上をわたってくる風がひんやりと気持ちいい。

「おぬしも来ていたとは知らなかったな」

 元博の隣に座る宣親が、彰久のほうを見ながら言った。

「真名さまのおはからいで」彼は言葉少なに答え、南部衆を見渡した。「みなさま、このお庭をご覧になるのは初めてでしょう。よろしければご説明いたしますが」

「ぜひ、お願いします」

 元博はにっこりして、左前方に見える円錐形の小山を指差した。

「あの山は天山に形がよく似ていますね」

「〈雅山(がざん)〉という名ですが、おっしゃるとおり天山そっくりなので〝小天山(しょうてんざん)〟と呼ばれることもあります。山腹に見える建物からは、お庭が一望できますよ」

 舟が水路を進み、瓢箪型をした池の中に漕ぎ入れると、岸辺に青々と葉の茂る木立が現れた。

「いちばん手前が紅白の梅林、その次が桜林、最後に見えてきたのが楓林です。今はどれも見ごろの時期でないのが残念ですね。でも、この先にある〈英華(えいか)の池〉では、ちょうどハスの花が満開になっていますよ」

「ちらほら見える葦簀(よしず)張りの小屋は?」

 窓(べり)に肘を置き、首を半分外へ出した真栄城忠資が訊く。

「あれは茶屋で、この催しのために造られました。園内の七か所にあり、お客さまがたのご休憩所として使われます」

 設営にかかわったわけでもないだろうに、なぜこうも詳しいのだろう。元博はふとそう思ったが、日ごろの彼の事情通ぶりを思い出すと、特に不思議はない気がしてきた。

 なにより、あらゆる疑問に答えをくれる案内役がついていると、庭園見物のおもしろさが倍増する。

 話し上手な彰久の声に耳を傾けながら、次々と移り変わる園内の景色を楽しんでいるうちに、舟は水路を一周して元の場所に戻ってきた。桟橋はまだ客を乗せている最中のようで、かなり混み合っている。船頭はそこを素通りしてさらに半周し、園内でもっとも大きな池の中に漕ぎ入れると、中央にある小島の舟付場に舟を滑り込ませた。

 大皇妃の侍女が、屋形の外の板床から声をかける。

「黒葛家の皆さまは、こちらでお降りください」

 いち早く外へ出た元博は、桟橋脇の砂浜に飛び降りて波打ち際を見渡した。規模は小さいものの、白砂青松(はくさせいしょう)の海岸を模した美しい風景だ。松林の向こうには、(こけら)葺き屋根の(ひな)びた建物が見えている。

「あの亭舎は〈翠松庵〉といいます」

 いつの間にか近くに来ていた彰久がそう教えた。ほかの客はそのまま舟に乗っていくようだが、彼は元博らと一緒に降りてきたらしい。

「中は一間と水屋だけですが、なかなか風情のある居心地のいい(いおり)ですよ。今日は真名さまのご休憩所になっているので、特別に招かれたお客さましか近寄れません」

 彼は微笑みながら言って、ゆるやかな波の寄せる砂浜をぶらぶら歩き出した。

「おい元博」うしろから宣親の呼ぶ声がする。「置いていくぞ」

「すぐ行きます」

 大声で返事をしてから、元博は彰久を見た。もうだいぶ先まで行っている。

「彰久どのは行かれないのですか?」

「わたしは庵には招かれていませんから」

 彼は肩ごしに答え、湾曲した水際に沿って松林の向こうへ姿を消した。奧のほうに太鼓橋が見えるので、あそこから対岸へ渡るつもりなのかもしれない。

 招かれていないのに、どうしてここで降りたんだろう。なぜ、彼は招かれないんだろう。血のつながりは薄いとはいえ、いちおう桔流家の縁者なのに。でも立場的には家来なので、やはりそこは一線引かれてしまうのだろうか。

 考えながら歩いて行くと、島の中央へ向かう小道の先に〈翠松庵〉の入り口が見えてきた。田舎家ふうの素朴な造りで、周囲を囲うのも背の低い竹の四つ目垣だけだ。開かれた木戸の左右に、番士がひとりずつ立っている。

 戸口で待っていたあの吊り目の侍女が、元博を土間にいざなって座敷へ上げた。一間きりとはいっても二十畳近くあり、(とこ)の間も備えた立派な設えだ。

 すべての障子戸が開け放された室内からは、西側に美しい松林、南側に広々とした水の景色、東側に緑なす〈雅山〉の姿を望むことができた。

 招かれているのは、大皇妃の屋形船に席を与えられた人々と黒葛家の家臣、合わせて三十五人ほどのようだ。あらためてよく見ると、(いわい)城大広間の上席で目にする顔が多くいる。

 この顔ぶれに混じるのか――と思うと、元博は少し気後れするものを感じた。黒葛の名を持つふたりはともかく、その家来などが紛れ込んでいい場ではないような気がする。

 しかも大皇妃は貴昌への思い入れゆえか、黒葛家の君臣一同に桔流家の面々の向かい側という晴れがましい席次を与えていた。まさに破格の待遇だ。

「驚いたな」左隣に座っている由解宣親が体を寄せ、やや硬い表情で元博に囁きかけた。「これは、大皇妃の貴昌(ぎみ)へのご執心は相当なものだぞ」

「わたしもいま、同じことを考えていました」

 小声で返し、元博は胸に溜まった息をそっと吐いた。逆上(のぼ)せたように頭がぼうっとしている。

 やがて茶菓がふるまわれ、それを機に打ち解けた歓談の流れになった。天山の人々はこういう趣向に慣れているらしく、すっかりくつろいで会話に興じている。

 繊細な花細工の生菓子を、品よく作法通りに食べようと苦心していた元博に、ふいに大皇妃が目を向けた。

「元博」

「はい!」

 あわてて返事をした拍子に、懐紙ごと菓子を取り落としそうになってひやりとする。

「舟での遊覧はどうでした」

「屋形舟から景色を眺めるのは初めてでしたが、歩いて見回るのとはまた違った楽しさがありました」

「そう、よかったこと。どこがいちばん気に入りましたか」

「白いハスの群れ咲いている池です。夢のような美しさで、一日じゅうでも眺めていたい気持ちになりました」

 ちょっと考えてからつけ加える。

「椹木彰久どのは、〈英華の池〉だとおっしゃっていました」

 彰久の名を聞いても、大皇妃の表情に変化はなかった。反応を示したのはその弟の桔流智克(ともかつ)だ。

「へえ、彰久も来ていたのか」

「屋形舟でご一緒して、お庭のことをいろいろ教えていただきました。先ほど、この島で下船なさっておられましたよ」

「こんなところで降りたって、つまらないだろうに」智克があっけらかんと言う。「この席に加わりたかったのかな」

「これ、智克」

 母親の波津(はつ)が、横から小声でたしなめた。彼はたいして悪びれもせず、苦笑を浮かべている。それを見ながら、真名も小さく笑みをもらした。年若い弟に向ける彼女の眼差しはとても優しい。

 その時、座敷の入り口あたりで何か動きがあり、幼い女の子が室内に駆け込んできた。それを追って乳母らしき女性も姿を現し、一同の視線を浴びながら急いで平伏する。

 幼女は彼女を置き去りにして元博のうしろを通り過ぎ、貴昌の近くまできたところで、足をもつれさせて転倒した。泣き出しはしないが、うつ伏せになったままびっくりしたような顔をしている。

 貴昌はさっと腰を浮かせて向きを変え、彼女に手を差し出した。

「姫君、お怪我はありませんか?」

 穏やかに声をかけて助け起こすと、幼女はにっこりして彼の指をぎゅっと握った。

「まあ、沙弥(さや)姫は黒葛の若さまがお気に入りですね」

 ほのぼのと言ったのは、大皇妃と親しい白須(しらす)志摩(しま)だ。

 この子が話に聞いていた三廻部(みくるべ)家の二の姫かと思いながら、元博は彼女をしげしげと眺めた。

 なるほど、貴昌が言っていた通り、母親に目がよく似ている。うるんだ輝きを放つ、吸い込まれそうな黒い瞳。その周りを縁取(ふちど)る、たっぷりした長い睫毛。透き通るような肌も、きっと母親譲りだろう。

 可愛い闖入者はそのまま、貴昌の隣にちょこんと座り込んでしまった。焦る乳母が入り口から「姫さま」と声をかけても、母親が「こちらへおいで」と呼んでも、「いや、いや」と首を振って動かない。しかし、拒否された大皇妃の顔に不興の色はなかった。むしろ口元には、どことなく嬉しげな微笑みすら浮かんでいる。

 元博は幼いふたりを見つめる彼女の目の中に、何かを期待するような強い光が(またた)くのを見た気がした。


 休憩を終えて外へ出ると、空は雲ひとつなく晴れわたり、暑さが厳しさを増していた。天山(てんざん)にもようやく本格的な夏がやって来たようだ。

 たいていの南部人はこれしきの気温ではへこたれないが、玉県(たまかね)吉綱(よしつな)は人より肥えているぶん(こた)えるのか、じっとり脂汗をにじませてふうふう息をしている。

「吉綱どの、だいじょうぶですか?」

 心配になった元博(もとひろ)が訊くと、彼は懐から手ぬぐいを出しながら、冴えない顔をしてうなずいた。

「なに、暑いだけだよ」

 木戸を出て砂浜まで歩いたところで、黒葛(つづら)禎貴(さだたか)が一同を呼び集めた。

「これより一刻のちに、庭園内の館で大皇妃の午餐会が開かれる。そこにも我らの席が用意されているそうだ」

「全員ですか」

 少し驚いた顔で朴木(ふのき)直祐(なおすけ)が訊く。それに答えたのは、一同の案内役につけられている大皇妃の侍女だった。

貴昌(たかまさ)(ぎみ)とご随員の皆さま、お揃いでお運びいただくようにと陛下から申しつけられております」

「そういうことだ」禎貴は簡単にまとめ、腰を屈めて貴昌と向き合った。「若君、このあとどうなさりたいですか」

「また舟に乗りたいな。でもその前に、あの橋を渡ってお庭の中をちょっと歩きたいです」

「では、そうしましょう」

 小島と対岸を結ぶ橋のほうへ行きかけた時、柳浦(なぎうら)重晴(しげはる)が元博の袖を引いた。

「おい、元博」

 小声で言って顎をしゃくった先に、白須(しらす)美緒(みお)がいた。〈翠松庵(すいしょうあん)〉の前の小道に立ち、控え目な微笑みを浮かべてこちらを見ている。

 どぎまぎする元博の背を、重晴がそっと押した。

「挨拶してこい。だが、はぐれないうちに追いつくんだぞ」

 彼はにやりと笑い、ほかの仲間と一緒に歩いていった。先を行く真栄城(まえしろ)忠資(ただすけ)由解(ゆげ)宣親(のりちか)が、ちらちらと訝しげな視線を送ってくる。

 元博は気恥ずかしく感じながら、それでも精いっぱいしっかりと顔を上げて、美緒の傍へ大股に近づいた。

「美緒どの」

「元博さま」

 互いに会釈し合ったあと、少し沈黙が落ちる。元博は奇妙な息苦しさをおぼえながら、必死に次の言葉を探した。

「お座敷には、おられませんでしたね」

「水屋のご用を務めていたのです。でも、元博さまが陛下とお言葉を交わされていたのは、わたしのところにも聞こえていました」

「すごく緊張していたので、どんなふうにお話ししたか忘れてしまいました。何か変なことを言ったかもしれません」

 頭を()きながら言うと、美緒は袖を口元にあててくすくす笑った。

「ご立派に受け答えなさっていらっしゃいましたよ」

 今日の彼女の笑顔は、なんだか眩しすぎる。元博は思わず目を伏せ、そこでふと思い出して左袖に手を入れた。

「そうだ、これ――」一輪の花を取り出し、遠慮がちに差し出す。「もしお会いできたら、お渡ししようと思っていました」

 八割がた開いた花を受け取り、美緒が戸惑いの表情を浮かべて小首を傾げた。

「まあ、タチアオイ」

 鮮やかな紅色の花を目の前に掲げ、ためつすがめつして見つめる。

「とてもきれいですね。それに、花びらがこんなに生き生きとして。でも、たしか園内にこのお花は植えられていないはず……」

「お庭の花を手折(たお)ったんじゃありません」

 元博は急いで説明した。

桔流(きりゅう)さまからお借りしている土地があって、そこで少しばかり野菜や花などを育てているんです。このタチアオイはわたしが天山(てんざん)へ来てから種を植えて、初めて咲かせた花で……美緒どのにお見せしようと思って持ってきました。今朝、開きかけのところを摘んで、根元を濡れ綿でくるんできたんですが、暑くなったのでだいぶ開いてしまいましたね」

 美緒は目を輝かせ、両手で優しく花を包むようにして唇をほころばせた。言葉で表さずとも、彼女の嬉しさが伝わってくる。

「水盆にでも浮かべておけば、たぶん日暮れまではもつと思います」

「はい、そうします。ありがとうございます、元博さま」

 こんなものをとも思ったが、持ってきてみてよかった。元博はほっとしながら頭を下げた。

「じゃあ、もう行きます。なんだか(せわ)しなくてすみません」

「いいえ、少しでもお会いできてよかったです」

 松林に入る手前で、元博はふと足を止めて振り返った。きっと彼女が見送っていると思ったのだ。予想に(たが)わず、美緒は(いおり)の小道にまだ佇んでいた。右手を上げ、小さく振っている。

 彼は手を振り返してから、新鮮な松葉がにおう木立の中に入っていった。少し鼓動が速くなっている胸に、甘やかな幸福感がさざ波のように寄せてくるのを感じる。

 やっぱり、そうなのかな。あの(ひと)を好きになりかけているんだろうか。重晴どのは、そうしてもいいと言ってくれたけど、自分ではまだ確信が持てない。

 林を抜けて小島の対岸へ渡ると、芝生の中を通る苑路に仲間たちの姿が見えた。ちょうど貴昌が禎貴に手を引かれて、曲水にかけられた八つ折れの木橋を渡っているところだ。流れの向こうには緑の丘とこんもりした森があり、少し先で苑路が三方に分かれている。

 元博は小走りに駆けて行き、見映えはいいが危なっかしい橋を渡って、分かれ道の手前でみなに追いついた。

 右手の道の先には茶屋があり、葦簀(よしず)の日陰に置かれた床几(しょうぎ)で客たちがくつろいでいる。色鮮やかな花房をつけたサルスベリの木の向こうには、高床のこぢんまりした亭舎があり、そこも客に開放されているようだ。

 朴木直祐が建物のほうを伺い、「ちょっと手水(ちょうず)へ」と断りを入れた。そのあとすぐに、柳浦重晴が「おれも」と声を上げる。彼は誰かが(かわや)へ行くと言うと、なぜか必ずつられてしまう癖があった。

「行ってくるといい。あの森の(きわ)で待つ」

 禎貴に言われてふたりが去ると、残った者は三叉路の中央を進んで、森へ入る手前のところで足を止めた。ますます暑くなってきているが、木陰にいれば過ごしやすい。

 そこへ、〈翠松庵〉で同席した久留馬(くるま)家の若い兄弟、輝朗(てるあき)久輝(ひさてる)がやって来た。森の中を散策してきたところらしい。

 ふたりは年子で仲がよく、いつも一緒に行動している。顔はあまり似ていないが背格好はそっくりで、うしろからだと見分けがつかないほどだ。

 先ごろ貴昌を表敬訪問した際、彼らは「黒葛家の兄弟統治は、我らの手本になると思っている」と話していた。ゆくゆくは兄と弟で役割を分担して、久留馬家の所領を治めていく考えのようだ。

「これは貴昌さま。やあ皆さんも」厳つい鷲鼻の輝朗が、一同に向かって朗らかに声をかけた。「人待ちかな」

「そんなところですよ」

 真栄城忠資が答え、愛想良く微笑む。

「おふたりは、このあとどちらへ?」

「南へぐるっと回って、馬場のあたりでも歩こうかと。桜並木の長い道で、いい風が通るんです。今日はちょっと暑すぎますからね」

「園内に馬場があるんですか」乗馬が巧みな由解宣親が、興味をそそられた様子で訊く。「どれぐらいの長さが?」

「かなりありますよ。二町には満たないぐらいかな」

 会話に入るでもなく、話の輪の外でぼんやりしていた玉県(たまかね)吉綱(よしつな)が、その時ふいにつぶやきをもらした。

「おや、栗鼠(りす)だ」

 話しかけられもしないのに、彼が自分から声を発するのは非常に珍しい。元博はそのことに驚いたが、動物好きな貴昌は〝栗鼠〟という言葉に気を引かれたようだった。

「え、どこに?」

「いま、そこの木を駆け下りて、向こうへ行きました」吉綱が林の奥を指差しながら教える。「そら、あちらの木の根元にいますよ」

「見に行こう」

 貴昌は目をきらきらさせながら、吉綱の手を引っ張った。

「若君、脅かすと逃げてしまいます。そっと行きましょう」

 ふたりが道を逸れ、木立の中へ慎重に入っていく。それを見ていた元博に、黒葛禎貴が声をかけた。

「元博、一緒にゆけ」

「はい」

 すぐに追おうとした時、横手の小道から突然人が出てきて、彼の前に立ちはだかった。

 亜矢(あや)姫だ。すぐうしろに傅役(もりやく)一来(いちらい)将明(まさあき)と、護衛役の月下部(かすかべ)知恒(ともつね)もいる。舟にも亭舎にも姿がなかったので、大皇の長女は舟遊びに加わっていないのかと思っていたが、やはり来てはいたらしい。

 少女は道をふさぐようにして、元博を傲然と()めつけた。こんなところで何をしているのだ、とでも言いたげだ。

 放っておいて貴昌を追いたいが、ここは礼を取らざるを得ない。それはほかの者たちも同じだ。

 その場に居合わせた全員が、みな道の脇によけて立礼をしているところへ、さらに三叉路の左の道から別の一団が姿を現した。こちらは大皇妃とその取り巻きたちだ。

 三廻部(みくるべ)真名(まな)の美しい瞳が一同の上をさっと掃き、その中に娘を見つけてわずかに眉を曇らせる。彼女も、亜矢が来ているとは思っていなかったようだ。

 真名はゆっくり歩いてくると、自分の娘ではなく黒葛禎貴のほうを見た。

「貴昌どのは?」

「ちょうどいま、そこの林へ――」

 彼が答え終わる前に、林の奧まったところで突如刺すような悲鳴が上がった。「くせ者!」という怒声がそれに続く。

 玉県吉綱の声だ、と認識するよりも前に、もう元博は駆け出していた。

「誰か……」呻き声が切れ切れに聞こえてくる。「頼む……早く……」

 あの場にいた全員、大皇妃や亜矢姫までもが走っていたが、真っ先に現場に辿り着いたのは元博だった。

 立ち木を回り込んだとたん、悪夢のような光景が目に飛び込んでくる。

 まばらな木立の中、踏み散らされた落ち葉の上に黒葛貴昌が横たわっていた。

 力なく投げ出された四肢。

 閉じられた青い瞼。

 顔の右半分は血まみれだ。

 その一つひとつを認識するたびに、頭を強く殴られたような衝撃が走る。

 貴昌のすぐ脇に、玉県吉綱も横倒しになっていた。丸く膨らんだ大きな腹を両手で抱え、苦痛に顔を歪めて喉から細い声をもらしている。

 そしてもうひとり、見知らぬ男がいた。格好は番士のように見える。貴昌の足元に仁王立ちして、今まさに脇差しを振り下ろさんとしていた。凶刃を振るう刹那、彼の血走った目が一瞬こちらに向けられる。

 元博は憤然と雄叫びを上げ、全身で男にぶつかっていった。肩で当たって、もつれながら共に倒れ込む。地面でしたたか膝を打ったが、かまわずすぐに起き上がり、貴昌に覆い被さって抱きかかえた。次の斬撃は自分の体で受ける心づもりだ。

 刺客もまたすかさず跳ね起き、手から飛んだ脇差しを拾った。仕事をやり遂げるまで、退()くつもりはないらしい。

 ふた呼吸ほど後れてそこへ到着した者たちが驚きに息を呑み、一斉に動き出そうとしたところへ、大皇妃の絹針のように鋭い叫喚(さけび)が響いた。

「知恒!」

 呼ばれた月下部知恒が、間髪を入れず一団の中から飛び出す。

 彼はほんの三歩で刺客に肉薄すると、繰り出された斬撃をかいくぐって喉に手刀を叩き込んだ。痛烈な一撃をまともに受けた男が、体をふたつに折って激しく咳き込む。知恒は彼のゆるんだ手から瞬時に脇差しを奪い取り、片手持ちのままで一気に突き上げた。

「待て――殺すな!」

 黒葛禎貴の声が届く前に、刃は刺客の胸を貫いて背中へ抜けていた。喘いだ口から、赤い霧のような血飛沫(しぶき)がぱっと噴き出す。

 元博は腕の中の小さな体を力いっぱい抱きしめながら、事切れた男が横にどさりと落ちるのをただ茫然と見つめていた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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