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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 しのび寄る影
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六十二 江蒲国永妻郷・六車兵庫 跡継ぎ

 最後に追っ手の姿を見てから三日経つ。どうやら、ついに追撃隊を振り切ったようだ。

 どことも知れぬ山裾の、一夜の宿りを求めた樹上で、六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)は朝露に湿った髪を無造作に()きながら考えをめぐらせた。

 もうそろそろ地元の衆に接触して、現在地を把握しなければならない。江蒲(つくも)国から脱出すべく南の方角へ来てはいるが、いまいる場所が立身(たつみ)国に近いのか、それとも三鼓(みつづみ)国寄りなのかを正確に知りたかった。

 もし三州(さんしゅう)に近づいているなら、立州(りっしゅう)のほうへ戻る必要がある。

 いや、必要はない。そこまでする義理はない。わかっているが、それでもやはり、このまま国境(くにざかい)を越えるわけにはいかないという思いがあった。

 江州(こうしゅう)を出る前に、ただひとり残った親族に儲口(まぶぐち)守恒(もりつね)の最期を伝える。

 そのことは、百武(ひゃくたけ)の城兵と犬に追い立てられているあいだも、ずっと彼の頭の中にあった。

 親族の存在など知らなければ面倒がなかったのにとも思うが、すでに聞いてしまったのだから仕方がない。近々家督を譲るつもりだったという孫に、守恒老は事の顛末を知らせたいと願っていたはずだ。

 今となっては、それができるのは兵庫しかいない。損な役回りだが、あの老人への最後の奉公と思って引き受けるつもりだった。

 しかし、ひとつ問題がある。

 守恒が話していた、嫡孫を(かくま)っていると思われる漆職人が住む(さと)の名前を、どうしても思い出せない。立州との国境近くと言っていたのは間違いないが、たしかに聞いたはずなのに、郷の名はほとんど記憶に残っていなかった。

 ただ、それについて考えていると、〝老夫婦〟という言葉がぼんやり浮かんでくる。きっと、これが郷の名前を暗示しているのだろう。近隣の住民に話せば、何か思い当たる者がいるかもしれない。

 よし、行くか。

 兵庫は枝から飛び降り、夜のあいだに強張(こわば)った体を念入りにほぐしてから、丈高い草木に囲まれた細道を歩き出した。

 木立が切れる手前で一度立ち止まり、慎重にあたりの様子を窺ったが、特に気になる人影は見当たらない。馬に乗った武者もおらず、犬の声も聞こえない。

 安心して森から出た彼は、早起きの百姓たちが農作業をしているところへゆっくり近づき、人の好さそうな丸顔の農婦に声をかけた。

「道を訊ねたい」

 畑の土を掘り起こしていた三十女は、腰を伸ばしてこちらを見た。顔、着物、腰の物へと視線を移し、うさん臭いと言いたげにすっと目を細める。

 せめて顔だけでも洗ってからにすればよかった。兵庫は失敗を悟ったが、今から言ってももう遅い。

 それ以上警戒させないよう笑顔を浮かべ、努めて愛想良く話しかけた。

「仕事の手を止めさせてすまん。道に迷ってしまったのだ。ここは何という郷だろう」

飯野(いいの)(ごう)」女はぶっきらぼうな口調で答えた。「どこへ行きなさるの」

「立州との国境に近い、ある郷を目指していたんだが、友人から一度名前を聞いただけなのでど忘れしてしまった」

 農婦がぷっと吹き出す。

「それじゃあ行きつけっこないよう」

 間抜けな若造だと思われたようだが、それがかえって功を奏したらしい。彼女は警戒心を解き、青菜が育っている畝のあいだを歩いて来た。

「覚えてることは? 郷の名前の、はじめの字とか」

「いや皆目(かいもく)。ただ、思い出そうとすると、なぜか老夫婦が浮かぶ。長く連れ添い、年老いた夫と妻……といった」

「ああ」女の顔がぱっと輝いた。「わかった気がする。永妻(ながつま)(ごう)。違う?」

 兵庫は思わず膝を打ち、「それだ!」と声を上げた。農婦が得意げに、にんまり笑う。

「簡単だったね」

「ほんとうに助かった」

「お武家さん、運がいいよ。迷いながらも、ちゃあんと近くまで来てた。永妻郷なら、ここから西へほんの一里半ってとこだ」

「そうだったのか」

「そら、あっちに見える川沿いに歩いていけば、ほっといても永妻まで行き着けるよ」

「かたじけない」

 農婦に会釈して背を向け、兵庫は農地の中を縫って流れている川に近づいた。河原には夏草が伸び放題なので、土手道のほうが歩きやすいだろう。

 教えられたとおり川に沿って半刻ほど行くと、ゆるく曲がった道の先に小高い丘が現れた。頂上に木柵で囲まれた砦と(やぐら)があるが、門前に番士の姿がないところを見ると、今は使われていないのかもしれない。

 丘の麓はこぢんまりした農村で、五十戸ほどの人家が集まっている。その外に広がる農地との境には、浅く細い空堀がめぐらされていた。旧時代によく見られたという、いわゆる環濠(かんごう)集落の形を今に残している土地のようだ。かつて堀はもっと広く、有事の際には川の水を引き込んでいたのだろう。

 兵庫は道なりに進んで堀を越え、集落の中へ入っていった。まだ(ひる)前の涼しい時間帯なので、住民の大半は農作業に出ているようだ。

 様子を窺いながら少し行ったところで、彼はふと視線を感じて足を止めた。とある家の前庭に植えられたキョウチクトウの陰から、十歳ぐらいの少年がじっとこちらを見ている。

 彼は気づかれたことを悟ると、庭木のうしろから顔だけひょいと覗かせた。

「あんた、お侍かあ?」

 兵庫の刀をじろじろ見て、疑心もあらわな声で訊く。

「いや、旅の武芸者だ」

「ふうん」

「ここはもう永妻郷か?」

「そうだよ。飛世(とびせ)村」

「この集落に、漆職人がいるだろうか」

 少年は上目づかいに兵庫を睨んだ。

「知らね」

 言い捨てるなり、彼はさっと植木のうしろに引っ込んだ。土を踏む軽い足音が、向こうへ遠ざかっていく。

 ずいぶん警戒されているようだ。あるいは、外から来た者を嫌う土地柄なのだろうか。

 少年がいなくなったあと、集落の中はさらに閑散とした雰囲気になった。人影もなければ話し声もなく、聞こえるのはキジバトのさえずりとセミの鳴き声ぐらいだ。

 兵庫はどこを目指すという当てもないまま、砦のある丘のほうへ歩いていった。永妻郷にこういう村がいくつあるのかはわからないが、漆職人がそう何人もいるとは思えない。大人を二、三人つかまえて訊けば、何か手がかりを得られるだろう。

 じりじりと暑さが増していく中、彼は丘をぐるりと回り込んで、集落の西側へ行ってみた。こちらにも五十戸ほどの家があるが、やはり道に人の姿は見当たらない。

 脇道の突き当たりに共同井戸を見つけた兵庫は、新しい水を水筒に詰め替え、さらにもう一杯汲み上げてたっぷりと飲んだ。井戸はよく管理されているようで、水は冷たく澄んでいる。

 残り水で顔を洗いながら、彼は少し集中して周囲の様子を探った。

 家々の中に気配がある。こちらを見ている視線も感じる。姿を見せないだけで、人がいないわけではないらしい。屋内でじっと息をひそめ、よそ者の動きを見張っている。今のところ敵意はないようだが、おかしな真似をすればたちまち襲われそうだ。

 兵庫は不測の事態に備えるためほんの少し気を張り、しかしそんなことは気振(けぶ)りにも見せず、ゆっくりと汗をぬぐった。些細な動作の一つひとつにも、用心深い視線が粘りついてくる。

 元の道へ戻ると、少し先であの少年が待っていた。そっぽを向いて小石を蹴っているが、待っていたのは間違いない。兵庫が近づくと、彼は横目にこちらを見て、さも興味なさそうに訊いた。

「ぶげいしゃって、なんだ」

「武芸にはいろいろ種類がある。剣、槍、弓、ほかにもたくさんな。おれは剣術使いだ」

「やっとうかい」

「そうだ」

「ふうん」

 少年は石を蹴りながら小走りに駆けて行き、また立ち止まって振り返った。

「やっとうの鞘、塗らせるのかい」

 唐突な問いかけに面食らったが、彼が漆職人の話を蒸し返していると悟り、兵庫は慎重に返答した。

「そんなところだ」

 知らないと言ったのは嘘で、少年はこの郷に住む漆職人の心当たりがあるに違いない。

「職人を知っているなら、家を教えてくれないか」

 少年は片脚を大きく降り、石を草むらにぽんと蹴り込んだ。そのまま黙って遠くまで走っていき、十字路でぴたりと足を止める。

 肩ごしに視線をよこし、()れたように首をくいくいと動かすのを見て、兵庫は足早にあとを追った。何も言わないが、案内するつもりになったらしい。

 少年は細い路地に入り、子鼠のようにちょろちょろと奧のほうへ走っていく。見失わずにいるのはなかなか難しい。

 導かれるまま歩き続けて辿り着いたのは、四つ目垣で囲まれた藁葺き屋根の家だった。

「ここか?」

 訊くと、少年は黙ってうなずき、案内も請わずにずかずか玄関へ入っていく。

小父(おじ)さん、客」

 大声で呼ぶと、奧から四十代半ばの痩せた男が現れた。股引(ももひき)をはき、薄い単衣(ひとえ)の裾を端折(はしょ)った身形(みなり)はいかにも職人ふうだが、目つきにはただ者とは思えない鋭さがある。

 武士だ。少なくとも、元はそうだ。

 兵庫はそう推し量り、目指していた人物を捜し当てたことを確信した。

 どう話を切り出すべきか――考えながらふと見ると、少年の姿が消えている。礼を言う間も与えずに、出て行ってしまったようだ。

「あの子は?」

「近所の子です。遊び場へ戻ったんでしょう」

 職人は兵庫を板間へ通し、藁編みの円座をすすめた。

「それで、今日はどういうご用で」

 静かに訊く声は落ち着いている。だが兵庫は彼の眼差しに、隠しきれない緊張感を見て取った。

 もうひとつ気づいたことがある。閉め切られた襖の向こうで、息を殺している人間の存在だ。おそらくふたり。どちらも武器を帯び、戦いに備えている。空気がぴんと張り詰めて、手で触れられそうなほどだ。

「この郷に、ほかに漆職人は?」

「小さいとこなんで、あっしだけでさ」

「そうか」兵庫は心を決め、ずばりと言った。「では、儲口(まぶぐち)家の御曹司を(かくま)っているな」

 姿を見せていないふたりが、襖の陰で息を呑んだ。しかし目の前にいる男は微動だにしない。

「なんのお話やら」

「おれは守笹貫(かみささぬき)家とも黒葛(つづら)家ともかかわりのない、ただの武芸者だ。だが縁あって旅の途中で儲口家のご当主と交情を結び、図らずもさまざまな事情を知る身となった。ここへ来たのは、守恒(もりつね)公とご家族の消息を伝えるためだ」

 職人はじっと兵庫を見つめ、嘆息して首を振った。

「何か勘違いをしておいでじゃありませんか。あっしは、ただの職人ですよ」

「儲口守義(もりよし)さまが、もっとも信頼を寄せる竹馬の友」

 斬り込むように言うと、彼はうっと言葉を飲んだ。

「守恒公から、そう伺っている。ご子息が御曹司を託す相手は、ほかには考えられぬと」

 しばし沈黙が続いたあと、右手の襖がするすると開いた。隣の座敷に隠れていたふたりの男が、沈痛な面持ちを兵庫の前に晒す。

「もうよい、信賢(のぶかた)

 若いほうが職人を手で制しながら、物やわらかく言った。年は十八、九。小柄で色が白く、品のいい顔立ちをしている。小さめのつぶらな目と先細りの顎が儲口守恒を思い出させた。

 その脇に控える仏頂面の男は三十歳ぐらいで、刀の柄に手をかけたまま油断なく身構えている。

 若者は板間に膝行(いざ)り入り、兵庫と向き合った。

「わたしが儲口守計(もりかず)だ。これは側仕えの長楽(ながら)正幸(まさゆき)。そちらの信賢は、今は職人をしているが、元は父守義の旧友で家臣でもあった。その(よし)みで、わたしたちを匿ってくれている」

 兵庫は膝に拳を置き、軽く頭を下げた。

「六車兵庫と申します」

「祖父と交情を結んだ、ということだが」

「はい。追い剥ぎに狙われておられたところにたまたま居合わせ、お助けしたのがご縁となって、そのまま旅の道連れに」

「それで、祖父の消息を伝えに来たと?」

「守恒公と、お父君。お母君」

「聞かせて欲しい」

 兵庫が事の始まりから順序立てて話していくあいだ、守計はひと言も差し挟まずに黙って聞いていた。半ば目を閉じ、身じろぎひとつすることなく、うつむき加減にじっと耳を傾ける。

 やがて話は磔刑(たっけい)のくだりに差しかかったが、兵庫は何も省略しなかった。儲口家を継ぐ者として、守計には父母や祖父の死にざまを正確に知る権利がある。

 どういう思いが胸中に渦巻いているにしろ、守計はそれをいっさい表に出すことなく、最後まで話を聞き終えた。

 しかし傍で聞いていた信賢は、頬に血を上らせて怒りに震えている。

「なんたる非道。世に隠れなき名家の宗主と後嗣を、卑賤の罪人のように(はりつけ)にかけるとは」

 彼はすっかり侍に戻って、吐き捨てるように言った。

「しかも守義さまは、道房公の血を分けた御外孫であられるというのに」

「立州で別れた祖父からも――」守計が遠い目をしながら、つぶやくように言う。「日角(ひずみ)(ごう)に残った父からも何も知らせがこないので、もしやとは思っていた」

 彼は大きく肩を落としながらも、兵庫のほうに膝を進めて丁寧に頭を下げた。さすがに名家の子息だけあって、こんな場合でも見事に自己を制している。

「祖父を助け、その最期と我が家の終焉を見届けてくれたこと、まことにかたじけなく思う」

 そう言って顔を上げた守計の目は、どこか異様な輝きを帯びていた。

「この上、さらに面倒をかけるのも心苦しいが、祖父が信じたそなたの腕を見込んで、ひとつ頼みたいことがある」

「おれにできることであれば」

 戸惑いながらもうなずくと、守計は微笑みを浮かべてうなずき返し、信賢に目をやった。

「信賢、この板間を借りるぞ」

「は? 何にお使いに――」

 みなまで言わせず、守計はさっと腰を上げて部屋の中央に座り直した。小袖の胸元に両手を差し込み、おもむろにかき分けて肌を露わにする。

「正幸、短刀!」

 片手を差し伸べて側仕えに鋭く命じ、彼は決然とした目で兵庫を見た。

「介錯を頼む」

 兵庫も驚いたが、正幸と信賢の驚愕はその比ではない。ふたりともすぐさま守計に飛びつき、遠慮も忘れて左右から強く押さえつけた。

「と、とんでもない」

「なりません、若殿!」

 必死の面持ちで(いさ)める彼らを、守計は邪険に振り払おうとする。

「離せ。死出の旅路にひとり後れては、父母に申し訳がたたぬ」

「そのようなことを、お父君は望んではおられませぬぞ。むろんのこと、守恒公も」

 信賢は彼を抱きすくめるようにしながら懇々(こんこん)と説き、なだめ、叱り、諭し、ついには立ち上がらせて優しく縁側へいざなった。

「さ、若殿、外で少し風に当たられるとよい。お気持ちが落ち着きましょう」

 ふたりが障子戸を開けて出て行くと、大汗をかいて髪を乱した正幸が腰を落とし、がくりと首をうなだれた。

「まったく……」忌々(いまいま)しげに唸り、鼻を鳴らす。

 唖然としてこの場面を見守っていた兵庫は、そこでようやく我に返って深く息をついた。

「守計どのは、だいじょうぶか?」

「一度熱が冷めたら問題ない。信賢どのが心得ている」

 ずいぶん素っ気ない口調だ。

「まさか、いきなり切腹なさろうとするとは思わなかった。いつもああなのか、あのかたは」

「普段は穏やかだが、時折、急に熱くなるんだ。かっと燃え上がると、どうにも手がつけられん」

 もしや彼は、あの若い(あるじ)を嫌っているのか――兵庫がそう疑うほど、正幸の言い方は辛辣だった。

「一途なのだ。よくも悪くも」ため息混じりに言い添える。

「側仕えは、もう長いのか」

「いや。本来ならおれは、御屋形さまや若さまがたにお目見えのかなうような身分じゃない。だが立州から逃げてくるあいだにどんどん人が減って……気づいたらおれと、ほんの数人しか残っていなかったんだ。それで、なし崩しに若殿の側仕えということになった」

 それでも、この男は逃げずに残ったんだな。兵庫は心の中でつぶやき、むすっと不満げなその顔を覗き込んだ。

「一途な殿に、律儀者の側仕え。なかなか似合いと思うが」

 正幸は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべ、頭をがりがり()いた。

「よしてくれ。ずいぶん辛抱してきたから、中途半端にやめたくないだけだ。とりあえず、何か少しでもいい目を見られるまではな。だが、己の命が危なくなったら話は別だ」

 それは本気で言っているのだとわかった。彼は我が身が危ういと感じたら、躊躇なく守計を切り捨てるだろう。簡単に雇い主を取り替える足軽に、譜代の家臣のような忠節心など求めても無駄だ。

「儲口家はもうおしまいか?」口元をゆがめながら正幸が訊いた。「どう思う」

「終わりに近いが、まだ跡継ぎが残っている」

 兵庫の返答は、彼の気に入らなかったようだった。

「しかし、あの世間知らずの若さまに何ができる。さっき聞いた話からすると、守笹貫家は彼を見つけたらすぐさま殺すだろう。立州へ戻れば黒葛家に捕らえられて、やっぱり殺される。といって、ここに残ったところでどうしようもない。金もない。家臣もいない」

「おぬしがいるだろう」

「おれひとりいたって、何の足しにもならん。自慢じゃないがおれにできるのは、あの人を若殿と呼んで、黙って話を聞いてやることぐらいだぞ」

「それで充分じゃないか」兵庫は微笑み、腰を上げた。「守計どのと話してくる」

 部屋を出て家の西側へ回ると、縁側に座った守計が庭を眺めていた。

 脇に信賢が端然と控えている。彼は兵庫を見上げ、視線でうなずき交わすと、音もなく立ち上がって室内へ消えた。

「少し、よろしいですか」

 声をかけたが、守計は黙っている。兵庫はかまわず傍へ行って、板張りの縁側に胡座(あぐら)をかいた。

「もう落ち着かれましたか」

「うむ。とんだ醜態を見せてしまった」つぶやく声が沈んでいる。

「醜態などとは思いません。たいそう驚きはしましたが」

「早く父母の後を追わねばと、あの時はそれしか考えられなかったのだ」

「今は、別のことを考えておられますか?」

 守計は首を傾けて兵庫を見た。その目の中で、さまざまな思いがもつれ合っている。

「何を考えればいいのか、正直わからない」

「では、その一助となることを願って、守恒公のお言葉を伝えます。ご遺言というわけではありませんが、公はおれにこうおっしゃいました。ご子息の守義さま以上に、孫であるあなたに期待をかけている。何ごともなければ、この夏にも家督を継がせる心算であった、と」

 喘ぐような声をもらし、彼は兵庫を凝視した。膝に置いた手に力が入り、関節が白く浮き出ている。

「父を飛ばして、わたしに?」

「そうです」

「祖父がそんなことを考えていたとは……」

「先ほど、儲口家の終焉とおっしゃいましたが、本当にこれで終わりになさるおつもりですか」

 守計が蒼白になり、押し黙ったままうつむく。

 兵庫も口をつぐみ、強い日差しが照りつける庭に顔を向けた。

 強い芳香に誘われたのか、咲き残りのニオイバンマツリの花から花へと、一羽の蝶がひらひら舞っている。その様子をしばらく眺めたあと、彼は静かに言った。

「この集落は、まるで小さな城のようですね」

 物思いに沈んでいた守計が、怪訝そうにこちらを見る。

「丘の上の砦を城に見立て、外に堀をめぐらせた小規模な総構えに見えます」

「実際、そのように考えて作られたらしい。旧時代には、敵襲を受けると堀に水を入れ、あの砦に立てこもって戦ったとか」

「やはりそうでしたか」

「このあたりは儲口家の旧領で、祖父が立州を拝領する前に家臣だった者たちが、今なお多く住んでいる。信賢もそういうひとりだ」

「なるほど、それを聞いて得心がいきました」兵庫はにやりと笑った。「村人はみな、あなたがこの家にいるのを知っていて、追っ手を警戒しているのですね。おれは集落へ入ってからずっと、どこへ行っても見張られているのを感じていました」

 あの少年は、今にして思うと物見役だったに違いない。外から来た者をいち早く見つけ、この家へ知らせに走る役割を担っていたのだ。一度去ったあとで戻って来たのは、連れてくるよう命じられたからだろう。

「もう君臣の間柄ではないが、今も彼らはわたしを――儲口の者を守ろうとしてくれているのだ」

 守計は苦笑を浮かべ、深いため息をついた。

「短慮だったな……。そうやって惜しんでくれる者たちがいるのに、ひとりで勝手に命を終わらせようとするなど」

「だが、思い留まられた」

「信賢と正幸が止めてくれたお陰だ。――そうだ、正幸にも、まだ何も報いてやっていない。逃避行のあいだずっと付き従って、わたしを助けてくれたのに」

「そう思われるなら、お命を大切になさってください。生きていれば、いずれまた浮かぶ瀬も得られるでしょう」

 守計はじっと兵庫を見つめ、小さくうなずいた。その目にうっすら涙がにじんでいる。

「今の言葉、身にしみた」

 しんみり言った表情が、驚くほど守恒に似ている。

「兵庫どの」彼はまばたきをすると、にわかに居住まいを正し、頬にかすかな緊張を浮かべて低く囁いた。「わたしは儲口家を継ぐことに決めた」

「はい」

「祖父のみならず、父や母にまで屈辱的な死を与えた守笹貫道房は、もはや曾祖父――血縁に(あら)ず」

 語気を強めて言い、毅然と(こうべ)を上げる。

「これよりわたしは守笹貫家を我が仇敵と見なし、報復の道を歩もうと思う」

 なるほど、熱い。

 兵庫はつい笑みをもらしそうになり、急いでそれを引っ込めた。これほどの悲壮な決意を笑ったりしてはならない。

 しかし志は買うが、彼はどうやって守笹貫家という巨人と戦うつもりだろう。正幸の言葉ではないが、今の守計には城もなければ兵もない。残っているのは名門儲口の名前だけだ。

 兵庫の心をよぎった疑問を、彼は敏感に感じ取ったようだった。

「むろん、今のわたしには何の力もない。だから力を得るために、自分にできる唯一のことをするつもりだ」

「唯一のこととは」

黒葛(つづら)家に膝を折る」

 守計の目を覗き込んだ兵庫は、その瞳に決然たる思いを見て取った。

 守笹貫家を倒すために、その最大の敵である黒葛家に帰順する。たしかにそれは、彼の報復を実現に近づけるただひとつの道かもしれない。

「では、立州へ戻って投降されるのですか」

「いや……三州(さんしゅう)へ行こうと思う。元の領地へ戻れば、旧臣を煽動する意図ありと取られかねない。それよりは、黒葛家の本領である三鼓(みつづみ)国へ赴いて宗主禎俊(さだとし)に拝謁を請い、直々(じきじき)に恭順の意を表するのが得策だろう」

「しかし、賭けでもありますね」

「財力も兵力も持たぬ儲口家の新米当主になど用はないと言われたら、それはその時のことだ」

 守計が少し自嘲気味に笑う。

「だが我々には共通の敵がいる。打倒守笹貫家を誓う禎俊公と、()の家に深い怨恨を(いだ)くわたしは心を合わせることができるはずだ」

「たしかに、そうかもしれません」

「そしてもうひとつ、わたしは己を売り込む切り札を持っている」

 自信に満ちた声だ。その表情に軽薄さは微塵もなく、口元は厳しく引き締まり、目は明るく澄み切っている。

 はったりではない――と兵庫は見た。彼は本当に、ここぞというところで切れる強い手札を何か持っているらしい。

 生前、守恒は孫を〝よくできた子〟と評したが、あながち贔屓(ひいき)目だけではなかったようだ。かつて道房公の寵愛を受け、一国の国主代にまでのし上がった祖父の才気を、彼はひそかに受け継いでいるのかもしれない。

「ところで」守計がふと思い出したように訊いた。「兵庫どのはこのあとどこへ? 訃報をもたらすために、わざわざ寄り道をしてくれたのだろう」

 一瞬、兵庫は嘘をつこうと思った。三州に行くと正直に言えば、では一緒にという流れになりかねない。これ以上、面倒ごとに巻き込まれるのはご免だ。

 適当に答えようとしたところで、ふいに守恒の顔が脳裏に浮かんだ。

 耳の奧で、彼の少し(しわが)れた声が響く。〝わしの家来にならぬか〟。そう言った時のすがるような目。江州への同道を承知した時に見せた、輝くような笑顔。〝そなたは人が悪い〟と責める、愛嬌のあるふくれっ面。次々と蘇ってきて、口から出かけた言葉をたちまち埋もれさせる。

 ご隠居――今は亡き人に胸の中で語りかけ、兵庫はそっと嘆息した。ほんとうに厄介な人だ、あなたは。おれの心に勝手に住み着いて。

「兵庫どの?」

 訝しげな問いかけで我に返り、兵庫は守計のほうを見た。

「修行のために各地の道場を訪ねて回っているところで、次は三州へ向かうつもりです」

 守計が意外そうに、だが嬉しそうに微笑む。

「関所を避けて裏道を行きますが、それでもよければご一緒なさいますか」

「そうさせてもらえれば心強い」

 間髪を入れず応えた彼に、兵庫は苦笑しながらうなずいた。

「どうもおれは、儲口家と掛かり合わずにはいられぬ宿縁(さだめ)のようです」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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