五十九 曽良国鳴釜宿・伊都 舟
ふたつ目の山を越えて下る途中、伊都はつづら折りになった街道の脇に小さな祭堂を見つけた。登り途中でも神祠を二度見たおぼえがある。
どこもかしこもお社だらけ。
東峽へ渡ってから、彼女がもっとも驚かされたのはそれだった。御山の権威が強い土地なので当然ともいえるが、それにしても数が多いと思う。
西峽では、各郷に祭堂と神祠がひとつずつある程度だった。城郭がある大きな郷の祭堂は規模もそれなりだが、ほかは堂司がひとりいるだけのこぢんまりしたものがほとんどだ。人々は気軽にそこを訪れるが、天門神教に厚い信仰を寄せているというわけではない。
伊都自身も、あまり信心深くはなかった。
武門の出なので生家に祭壇はあったし、両親が朝夕に香を焚いて灯明を上げるのも常日頃見てはいたが、それに特別な意味を感じたことはない。実のところ、父母も単なる習慣として行っていただけではないかと思う。
だから伊都は、社を見かけても一度も立ち寄らなかった。灯火を供えたぐらいで、奇跡のようにいいことが起きるとも思えない。
彼女は祭堂には近づかず、そのまま黙々と道を下って行った。
最初に登った山に比べると、ふたつ目の山はかなり険しい。尾根を越える前に一度日が暮れ、ようやく麓が近づいてきた今、また登山道は黄昏を迎えようとしていた。だが、残る道はゆるやかな下り坂だけだ。暗くなる前に山を下りきって、野宿の場所を探すことができるだろう。
麓に宿場町が見えているが、足を止めずに通り過ぎるつもりだった。まとまった額の銭貨を持っていても、ひとり旅の子供を詮索なしに泊めてくれる宿があるとは思えない。
登山道を下りきるころには、燃えるような入り日が空を金色に染めていた。集落の家々や道を行き交う人々の姿は、すでに影の中に沈んでいる。
にもかかわらず、鳴釜という宿場町に入った伊都は即座に彼を見つけた。
街道沿いに建つ大きな宿屋の連子格子を背に、竹の床几に腰かけて煙管をくわえている男。
三日前に、ひとつ目の山で出会った鉄次だ。
彼は最初からまっすぐに彼女を見ており、目が合うと感じよく微笑んだ。
しかし伊都のほうは笑顔になれない。急に口の中がからからに乾いてしまい、ちょっとした挨拶の言葉すら出て来そうになかった。
戸惑い。嬉しさ。ためらい。警戒心。さまざまな感情が、胸の中で複雑にもつれ合っている。
息を呑んだまま、小さく会釈だけして通り過ぎようとした彼女に、ふいに鉄次が声をかけた。
「そりゃあんまり、つれないじゃねえか」
がっかりしたように言われ、それ以上前へ進めなくなる。
「山を下ってくるのが見えたから、待ってたんだぜ」
「ご、ごめんなさい」
足を止めると、彼は目元をなごませて差し招いた。
「べつに謝るこたない。ちょいと、こっち来て座んな。話があるんだ」
「でも、わたし……」
「泊まりそびれたら、この宿に部屋を取ってやるよ」
断りの言葉に先手を打たれ、伊都はなすすべなく彼の横に腰を下ろした。
並んで座るふたりの前を、ほろ酔い加減の一団や、仲睦まじげな男女が通り過ぎていく。しばらくそれを眺めていたが、話があると言ったくせに、鉄次はなかなか口を開かなかった。
言い出せずにいるわけではなく、単に彼は沈黙が苦にならず、何をするにも事を急がない質なのだろう。
「長五郎ちゃんは?」
連れの少年について訊くと、鉄次は喉の奥で低く笑った。
「部屋でひっくり返ってるよ。長湯して逆上せたんだ」
それで気づいたが、彼もこざっぱりした洗い髪だ。旅汚れている上に、すっかり汗臭くなっている自分が急に恥ずかしくなり、伊都はさり気なく尻を横にずらして距離を空けた。
「あれ以来、長五郎がおかんむりでな」
鉄次はそう言って、細く煙を吐いた。
「おまえさんが一緒に来なかったのは、おれの誘いかたが悪かったからだと」
「どうしてそんなに、わたしのことを?」
「親切にしてもらったからさ。長五郎は純なやつで、恩を受けた相手には絶対的な忠誠心を抱くんだ」
伊都が眉間に皺を寄せているのを見て、彼はふっと笑みをもらした。
「要するに、あいつはおまえさんが気に入ったから、仲間になって欲しいんだよ」
仲間って、なんだろう。
彼女はさらに困惑を深めた。鉄次が商売を始める予定だと言ったことを覚えているが、仲間になるというのは店の奉公人になることだろうか。それとも、もっと別の意味があるのか。
「たしかにこないだは、ちょいと説明が足りなかったかもしれねえな」鉄次はそう言って、煙管を灰吹きにコンと打ちつけた。「何でも話すぜ。訊きたいことがあったら訊いてくれ」
伊都は黙って、しばらくじっくり考えた。焦らずとも、鉄次が急かさないのはわかっている。
仲間になるかどうかは置いておくとしても、訊いてみたいことはいろいろあった。
「長五郎ちゃんが、鉄次さんは〝おやかた〟だって言っていました」やはり最初はこのことだろう。「職人の棟梁なんですか?」
「いや、違う。あいつが言う親方ってのは、親代わりのことだ。ちょいと思うところあって、見どころのありそうな孤児を何人か面倒みてるのさ」
さすがにこれは意外すぎる答えだった。
「孤児を……育ててる?」
「寝る場所を与えて、飯を食わせてるだけだ。弟子入り先や働き口を世話してやることもある。たとえ孤児でも、おれが〝うちの者だ〟と言えば身元の保証になるからな」
身元は大切だ。伊都にもそれはわかる。
農家の下働きとして短期雇いしてもらう程度なら、雇い主の心ひとつでどうにでもなるだろう。だが、ある程度しっかりした店や武家などに勤めたいと思うなら、身元は絶対に確かである必要がある。
大光明城下の生家で働いていた奉公人も、身分は低いが出自の明らかな者たちばかりだった。
「みんな一緒に住んでいるんですか?」
「ひとつ屋根の下ってわけじゃない」
鉄次はつぶやくように言い、彼女を横目に見た。
「別州の南の海沿いに、龍康殿って街がある。聞いたことがあるかい」
どこかで聞いた気がする。でも思い出せない。伊都は少し考えてから、小さく首を振った。
「龍康殿は聳城国随一の歓楽地だ。世の中の愉快なことと悪いことが、全部集まってるようなところだよ。おれは街の中に家をいくつか借りてて、孤児どもに塒として使わせてるんだ。みんな何かしら得意技があって、大方はその稼ぎで飯を食ってる。長五郎もそのひとりだ。だが稼ぎが上がらないこともあるから、そういう時はおれが食わせてやるのさ」
今の話だけ聞けば、この上なくいい人に思える。だが、それだけではないはずだ。
伊都は必死に頭を働かせた。
ただ他人のために尽くし、自分は何も得をしなくていいと考える人は、そうめったにいない。彼だって孤児とかかわるのは、それで得られる利益がきっと何かあるからだ。
「孤児の面倒をみて、あなたには何かいいことがあるんですか?」
ずばり訊いてみることにした。もし適当にはぐらかそうとしたら、話はここまでだ。
彼女のそんな思いを知ってか知らずか、鉄次はほとんど間を置くことなく答えた。
「もちろん、あるさ。おれは損をするのが嫌いでね。必要に応じて、あいつらの得意技を都合よく使ってるよ。たとえば、帰りに重くなる旅荷を誰かに運ばせたい時なんかにな」
例え話は長五郎のことだと、すぐにわかった。同時に、もうひとつ別のことにも気づく。
「でも、仕事をさせたらお金を払うんでしょう」
彼は前に会った時、働かせたら手間賃を払うのが流儀だと言っていた。
「だったら、やっぱり最後にはあなたが損をすることになると思います」
「おれの損得は、銭金の多寡で決まるわけじゃねえんだ」鉄次は噛んで含めるように言った。「やつらの稼ぎを搾り取ったり、ただ働きさせたりしなきゃならないほど、金に困ってもいない。おれにとって大事なのは、何かして欲しいと思った時に、喜んでそれをしてくれるやつがいるってことのほうなのさ」
長五郎の言葉が脳裏をよぎった。〝鉄次さんの荷はぜんぶおれが運ぶんだよ〟。そう言った時の、彼のきらきらした目。誇らしげな声。
ようやく、少し腑に落ちた。だが、まだわからないことはある。
「どうして孤児――子供なんですか? あなたが〝して欲しいこと〟は、大人のほうがうまくできるはずでしょう? わたし……不思議に思っていました。わたしを雇って、用心棒をこなせるようになるまで何年も待つよりも、最初から大人を雇うほうが早いのにって」
「いかにも用心棒でございってつらをした厳つい大男より、腕の立つ別嬪な娘を連れて歩くほうがずっと楽しそうだからだよ」
面食らうほどあっけらかんと言われ、伊都は思わず黙り込んだ。ふざけているようだが、これは彼の本音かもしれない。実用性よりも、おもしろさや好みを重んじる人はいるものだ。
しかし、まだ質問にぜんぶ答えてもらっていない。
「強くて美人の大人もいるでしょう?」
鉄次は表情を改め、じっと伊都を見つめた。
「おまえさんは、孤児の暮らしを知ってるな」
どきりとして、にわかに呼吸が浅くなった。うまく声が出ず、ただうなずくしかできない。
「そこから脱け出すのが、簡単じゃないことはわかるだろう」
「わかり――ます」
「だからだよ」彼は静かに言った。「大人なら手前で何とかするが、子供はひとりじゃそうそう浮かび上がれない。だから、放っとくと沈みそうなやつらを、ほんの何人かでも舟にすくい上げてやりたいんだ」
ほろ苦い微笑み。優しくて、悲しげで、見ているとなぜだか泣きたい気持ちになる。
「どうして……あなたがそれをするの?」
「飯が食えず、頼る人も居場所もない子供がどんな気持ちか、おれも知ってるからさ」
胸が詰まり、何も言えなくなった。
あなたも孤児だったの、と訊きたかったが、敢えて問う必要はないと思い直す。
みじめに腹を空かせて、当てもなくさまよう毎日のこと。この先どうすればいいのかを繰り返し考えて眠れず、暗闇の中で目をぎらつかせている長い夜のこと。少しでも胃袋を満たしたくてかじる草の苦さ。世の中から取り残されている感じ。どうしようもないほどの孤独。
彼がそれらすべてを知っているのだと、なんら疑いを挟むことなく信じられた。
「わたし、あなたの舟に乗りたい」
唐突に、言葉が口からこぼれ出た。それを言った自分に少し怯んだが、取り消したいとは思わない。
「乗せてもらえますか?」
おずおず訊くと、鉄次は笑みを浮かべてうなずいた。
「好きなだけ乗っていきな」
その顔には驚きもなければ、ためらいもない。はじめからこうなるとわかっていたかのようだ。
「もう暗いな。宿に入ろうぜ」
話は決まったとばかりに腰を上げ、藍色の暖簾がかかった戸口へすたすた歩いて行く。伊都は彼について行きながら、今回は占いを一度も思い出さなかったことにふと気づいた。
そして、それでよかったのだと思った。
「連れがひとり増えた。あとで宿帳を持ってきてくれ」
鉄次は帳場に声をかけてから、伊都を二階に連れて行った。彼が泊まっているのは南奥の角部屋だ。
襖を開けると、十畳間の真ん中に長五郎が寝転がっていた。
「逆上せはさめたかい」
「遅いよう。どこ行ってたの」
文句を言いながら頭を起こした長五郎は、鉄次のうしろから伊都が顔を覗かせると、弾かれたように起き上がった。
「うわあ! どうしたの? うわああ」
目をいっぱいに見開き、そわそわとふたりを見比べる。
「おれたちと一緒に来るとさ」
鉄次が教えると、彼は満面の笑顔になった。
「ほんとに? ほんとに?」
「ほんとよ」
伊都がうなずくのを見て、彼は大きな歓声を上げた。嬉しくてたまらないというように、畳の上をぴょんぴょん跳びはねる。
「下の部屋のやつが怒鳴り込んでくるぞ」
鉄次がそう言ったところへ、宿の番頭がやって来た。叱られるのかと思った長五郎がぴたりと静まり、しおしおと座り込む。
「お連れさまのご記帳をお願いいたします」
番頭が広げた宿帳には、それぞれ異なる手蹟で〝鉄次〟〝ちょうごろう〟と書いてある。横の空いたところに、伊都は慎重に自分の名前を書き加えた。
新たに記された文字を、鉄次が上からちらりと覗く。
「〝伊都〟」彼は読み上げ、音の響きを味わい直すように、もう一度つぶやいた。「伊都か」
それを聞いて、伊都は肌が粟立つほどの感動をおぼえた。
瞼をそっと伏せながら、爺や――と胸の中で呼びかける。
わたし、名前を隠し通したわ。爺やに言われたように遠くまで、安全なところまで来た。そしてやっと、また本当の名前を呼んでもらえたの。
ふいに目頭が熱くなった。なんて長い旅だったのだろう。でも、ひとまずそれも終わった。居場所をみつけた。迎え入れられ、名前を呼んでくれる人がいる場所を。
「いとちゃんていうの?」
横から顔を覗き込んだ長五郎に涙目を隠すため、伊都は急いで瞬きをした。
「うん、そうよ」
「かわいいねえ。ねえ鉄次さん」
「いい名だ。やわらかいが、どこかきりっとしててな」鉄次はそう言って、立ち去りかけている番頭のほうを見た。「半刻ほどしたら、晩めしを運んでくれ」
それから彼は、並んで座っているふたりに目をやった。
「ちょいと出て、用をすませてくる」
「どこ行くの」少年がすかさず腰を浮かせる。「おれも行く。伊都ちゃんも」
「すぐ戻るから、ここで待ってな」
彼が行ってしまうと、長五郎はしょんぼり肩を落とした。まるで親のあとをついてまわる子ガモのようだ。
「この宿、とっても大きいのね」
気を逸らしてやろうと思って話しかけると、たちまち彼は元気を取り戻した。
「うん、大きいよ。庭に、あのう……はなれもあるって言ってたよ。鉄次さんはそこがよかったけど、今日は空いてないんだって」
「わたしね、宿に泊まるのは初めてなの」
打ち明けると、彼は勇気づけるように言った。
「平気だよ。こわくないよ」
「ここに来るまでに、いくつの宿に泊まったの?」
「ええとね……はじめのほうは船で寝た」
「わたしも、曽州まで船で来たの」短いが楽しかった航海の思い出が蘇り、親切にしてくれた甚八や誠史郎の顔が浮かぶ。「長五郎ちゃんが乗ったのは、どんな船?」
「川の船。鉄次さんが、歩くよりも川の船で行くほうが早く着くからって。あのね、お侍がいて、馬も一緒に乗ってたんだよ。船の下のほうに、あのう――うまやがあったよ」
「馬にさわった?」
「さわれないよう。だって、おっきくてこわいもん」
「馬は怖がりだし、優しいのよ」
「ほんと?」
ふたりで他愛ない話をしているうちに、鉄次が戻ってきた。座敷に腰を下ろし、持っていた風呂敷包みを伊都にぽんと手渡す。
「着替えだ。それ持って、風呂へ行ってきな」
彼が自分の着物を調達に出ていたのだと知り、伊都は包みを抱えて恐縮した。
「すみません」
「安い古着さ。だが、いま着てるやつよりは、ずっと似合うと思うぜ」
帳場で教えてもらって行った浴場は、宿の裏手を流れる渓流沿いの露天風呂だった。奥庭から続く入り口に簡単な脱衣場があり、岩組みの湯船には引き込み口から絶え間なく湯が流れ落ちている。
湯船の横が洗い場になっており、三方を板塀で囲って屋根をつけてあった。谷川を挟んだ向こうは急峻な山裾なので、通りかかるものがいるとしても、せいぜい鹿か兎ぐらいだろう。
混み合う時間帯はもう過ぎたのか、今は親子と思える年輩の女性ふたりが、小さな声で語り合いながら湯船に浸かっているだけだ。
伊都は彼女らと会釈を交わし、洗い場で桶に汲んだ湯を二杯かぶった。
池や川で水浴びをするか、盥で行水をできれば御の字という生活を続けてきただけに、たっぷりした熱い湯のありがたさはひとしおだ。
着替えと一緒に入っていたぬか袋を湯に浸して軽くもみ、そのやわらかい感触を楽しみながら、顔から足の先までじっくり丁寧にこすり上げた。こびりついていた頑固な汚れが少しずつ落ち、肌が本来の滑らかさを取り戻していく。
最後に髪を洗い、頭から湯をかけていると、先客のふたりが脱衣場へ向かった。ついにこれで貸し切りだ。
伊都は湯船をひとり占めにして、何の気兼ねもなく存分に手足を伸ばした。湯は少し熱いぐらいで、それがたまらなく気持ちいい。
すぐ傍を流れる川の水音に耳を傾けながら、彼女はうっとり目をつぶって、初体験の露天風呂を心ゆくまで楽しんだ。少し冷えてきた夜気が頬に清々しく、いつまでもこうしていたくなる。
そのうち頭の芯がぼんやりしてきて、半分逆上せかけていることに気づき、あわてて湯船から上がった。長五郎に続いて自分まで逆上せたと言ったら、きっと鉄次はおもしろがるに違いない。
もし話して聞かせたら、彼がどんなふうに笑うか想像できる。その様子を思い浮かべると、胸に温かな思いが満ちてきた。
このままずっとひとりぼっちかもしれないと思った時期もあったのに、今では、ちょっとした出来事をすぐに告げられる相手がいる。失敗談に笑ってくれる人がいる。
こんなに幸せなことってあるかしら。
湯上がりの火照った肌に着物をまとい、どこかふわふわした気分で宿の廊下を歩いていた伊都は、二階へ上がる階段の脇に闢神と闔神の絵像が祀ってあるのを見つけて足を止めた。
小さいながらも、清浄な雰囲気を湛えた白木の祭壇が設えられている。
いつもなら素通りするが、何となく無視できないものを感じて薫台に額ずいた。香に火を移して香り立たせ、細い蝋燭を一本取って灯明を上げる。
その時初めて彼女は、人々が祭堂や神祠で祈りを捧げるのは何かを願うためだけではなく、感謝をするためでもあるのだと気づいた。
わたしはたぶん信徒にはならないけど――ゆらめく蝋燭の明かりを見つめながら、心の中でそっとつぶやく。これからは、嬉しいことがあったらお参りするようにしよう。
身も心もすっきりして部屋へ戻ると、ちょうど夕餉の膳が運び込まれているところだった。
着替えて様変わりした伊都を見て、長五郎がびっくりしたような顔になる。
「うわあ……うわあ、とっても――」
うまい褒め言葉が見つからないのか、そこまで言って口を開けたまま固まってしまった。
鉄次が選んだ単衣は白に近い灰桜の地で、その上に竜胆色と暗紅色の二色を使った大きめの楓模様が散らされている。小袋帯は、花唐草の地紋が入った黄支子色。片方の端にだけ濃い赤の縞模様がある。
柄は子供にも合うが、色は少し大人っぽい組み合わせだ。
「まあ、いいお着物。お嬢さんによくお似合い」
膳を並べていた女中が褒め、にこにこしながら部屋を出て行った。鉄次は何も言わないが、自分の見立てには満足している様子だ。
「あの、鉄次さん、ありがとうございました」
脚付膳の前に座った伊都は、向かいにいる彼にあらためて礼を言った。
「お風呂で包みを開けたら、何もかも入っていたからびっくりしました。ぬか袋や手ぬぐいや――櫛まで」
「持ってなかったかい」
「はい」
「ならよかった」鉄次の反応はあっさりしたものだ。「飯を食いな。ここは海が近いから、魚がいけるぜ」
そう促されて大きな膳の上を見た伊都は、少し頭がくらくらするのを感じた。飯椀と汁椀のほかに五皿もある。こんなにたくさんの料理を一度に目にするのは久しぶりだ。
だが、見ただけでは何なのかわからないものもあった。それを察して、鉄次が教えてくれる。
「青い小皿は、鹿の子切りにして焼いた蛸だ。上に梅肉を載せて焙ってあるな」
「蛸って、あの足が八本あるやつ?」
絵で見たことはあるが、これまで一度も食べたことはなかった。どちらかというと不気味な姿に思えるが、味はどうなのだろう。
「蛸を食うのは初めてかい」
「はい」
「ひとつやってみて、嫌ならやめりゃいい」
どうやら彼は、子供が好き嫌いを言っても何とも思わないらしい。伊都は気が楽になり、試してみようという気持ちになった。
おそるおそる口に入れた蛸は、なんだか奇妙な食感だ。ちょっと噛んだだけだと、ぎゅっと押し返してくる。力を入れて噛み切り咀嚼していると、貝のような旨味がほんのり感じられた。
「おいしい」
「塩で茹でただけのやつも、取れ立てなら刺身もいけるぜ。龍康殿に戻ったら、生の蛸を食わせてやろう」
「生ダコ、うまいよねえ」
夢中になって飯をかき込んでいた長五郎が、そう言って幸せそうにため息をついた。
「千太さんが、うすーく切ったやつを食わせてくれたことあるよ」
伊都は蛸の料理が気に入り、あっという間に全部平らげてしまった。弾力のある身と甘めの梅肉が口の中で絡み、何とも言えない味わいだ。
刺身の皿には、四種類の異なる魚が盛ってあった。
「左からイシガレイ、ヒラマサ、キジハタ、アジの酢締めだ」
これもまた、どれも馴染みのない魚ばかりだ。内陸に住んでいたので、考えてみれば海の魚はほとんど口にしたことがない。
キジハタという魚は真っ白でくせがなく、美味のひと言だった。アジはきゅっと身が締まり、さっぱりしている。
「こんなにいろんな種類のお刺身を、一度に食べたのは初めて。とても味を覚えきれない」
半ば圧倒されながら感想を述べると、鉄次はいたずらっぽい目をして笑った。
「これから何度も食って、少しずつ覚えていきゃいいさ」
残りの料理は、飯椀に盛られたご飯のおかずにして食べた。
深めの小鉢は唐辛子の利いた蓮根のきんぴら。丸い皿は針牛蒡と鶏ささみの塩雲丹合え。四角い皿はカサゴの旨煮。椀ものは、みょうがと豆腐の吸い物。
粗食に馴れていたので、しまいには舌が混乱してしまったが、内容も量も充実した最高の食事だったことは間違いない。
食べ終えたとたんに、長五郎は目をしょぼしょぼさせ始めた。ふわあ、と大きな欠伸をして、座ったまま船をこぎだす。
「長五郎ちゃん、眠そう」
「こいつは早寝が習い性になってるんだ。いつも朝早くから湊で働いてるからな」
鉄次は廊下を通りかかった女中に声をかけ、三人分の膳を下げさせた。
「こっちへふたつ、そっちへひとつ、ちょいと離して床をとってくれ」
細かく注文をつけ、離して敷いた寝床のあいだに、さらに二つ折りの枕屏風を立てさせる。
「手間かけたな。ありがとよ」
女中に心づけを渡して下がらせたところで、長五郎がはっと目を覚ました。寝ぼけ眼をこすり、部屋の中を不思議そうに見回す。
「あれえ? 誰があっちに寝るの」
「おれとおまえはこっち、伊都はあっちだ」
「なんで一緒にしないの?」
「女の子だからだよ」
彼が笑いながら言った言葉を耳にして、伊都はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「ありがとう、鉄次さん」
初めて彼らと枕を並べるこの夜、自分が眠れるとは正直あまり思っていなかった。だが何も言わなくとも鉄次がそれを察し、少しでも安心できるようにと気づかってくれたことがわかって、心身に張り詰めていたものがほぐれた気がする。
それでも、寝床に入って明かりが消えると、伊都はふと心細くなった。
誰かの近くで寝る時は、いつも武器を手元に置いていたが、今は少し離れた場所にある。
どうしよう。山刀を取ってきて、夜着の下に入れて寝る? それとも枕上に置いて、すぐ手が届くようにしておく? わたしがそうしていると知ったら、鉄次さんは気を悪くするかしら。
彼女はあれこれ思案していたが、結論を出す前に気持ちよく意識がさまよいだし、ことんと眠りに落ちてしまった。
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