五 立身国七草郷・刀祢匡七郎 風斬り
道場にやって来た見知らぬ客に、刀祢匡七郎は興味津々だった。彼に助言を受けてから、それまで三度取っ組み合って三度とも負けることが多かった相手に、確実に一度以上の割合で勝てるようになったのだ。
以前は、自分が相手よりも素早く動き回って、捕まらないようにするのがいちばんだと思っていた。それでうまくいくこともあったが、運動量が多ければそのぶん消耗するので、勝負が長引くと必ず体力負けする。だが力の流れを利用することを教えられ、それを積極的に実践し始めてから、少ない運動量で効率よく戦うことができるようになった。
遊んでいる様子をほんの少し見ただけで、欠点を見抜いて的確な指導ができるのだから、きっとあの人は剣をとって戦ったらすごく強いに違いない。そう匡七郎は思っている。といっても、ただ勝手に思っているだけで、実のところはまったくわかっていない。
六車兵庫という名の寡黙で控え目な客人は、椙野家へ逗留し始めてからまだ一度も剣を振るう姿を見せていなかった。道場へは毎日出てくるが、組太刀稽古に参加するでもなく、たいていは板間にただじっと座って、門人たちの打ち合いを半刻でも一刻でも倦みもせず見物しているだけだ。
熱心ではあるが、考えが読めず得体が知れない。それが、門人たちが漠然と抱いている彼の印象だった。
ある時、若い門人のひとりが「見ているだけで何がわかる? 何かおもしろいのか」と訊ねたところ、兵庫は「この流儀を見るのは初めてだから、術技の癖や型を見極めようとしているところだ」と答えた。意外な返答に相手は面食らったが、本人はいたって真剣そのものだ。その話は当然すぐにほかの門人にも伝わり、数日見学したぐらいでうちの流儀を理解なぞできるものか、と密かな嘲笑を買った。
しかし匡七郎は、門人たちの所作を微動だにせず見つめる兵庫の目に、ただならぬ鋭さと奥深さを感じていた。彼がそうすると言うなら、実際に見極められるのではないかという気がする。
そうして数日が経つうちに、気づけば自分の稽古の合間にも、つい兵庫の様子を盗み見る癖がついてしまった。それに気づき始めた年少の道場仲間が、さっそく寄ってたかって匡七郎を揶揄する。
「おい、匡。あんな祭堂の像みたいに動かない人をずっと見てて、何が楽しいんだ?」
「おまえ、あの人に惚れてんのか」
武家の子息だけでなく、町人も百姓も混じる仲間たちは、みな揃って口が悪い。匡七郎は憤然として言い返した。
「強そうだから興味があるんだ」
「あんまし強そうには見えねえがな。身体はでっかいけど、あれはきっと動きが鈍いぞ」
ひとりの意見に、周りの者が揃って同意する。
「うちの若先生と打ち合ったら、あっという間に一本取られるな」
「若先生はツバメみたいに速いからなあ」
「いや、若先生が相手するまでもないだろ。師範代だって手玉に取れるよ」
みんなの勝手な言いぐさをじっと黙って聞いていた匡七郎だったが、ここでついに堪忍袋の緒が切れた。
「うるせえな、てめえら!」
道場の窓格子をびりびり震わすほどの大声を張り上げて怒鳴れば、ほれきたとばかりに仲間たちがにやにや笑う。道場でいちばん幼いくせにいちばん短気な彼をからかって怒らせるのが、みんな楽しくて仕方がないのだ。それがわかっているだけに、できるだけ乗せられないようにと気をつけてはいるのだが、時々どうしても抑えが効かなくなる。
「来たばっかりの道場だから、遠慮してんのかもしれないだろ!」
「いいや、自信がないのさ。だからおとなしくしてんだよ」
さらにかっとなるようなことを言った仲間に、匡七郎は思わず詰め寄った。眉を怒らせ、胸を突き合わせて、鼻息も荒く言い放つ。「若先生と試合ったら、絶対あの人が勝つ」
「お、じゃあ賭けるか? 賭け代はおやつ三日分な」
「よしっ、受けた!」
売り言葉に買い言葉で、つい賭けに引き込まれてしまった。勝ち目のなさそうな勝負に誘い込まれ、負けて後悔するのは彼の場合そう珍しいことではない。しかし今回、匡七郎は妙な自信を抱いていた。若先生に勝つ、とまで言ったのは少し言い過ぎだったかと思わなくもないが、少なくとも無様な試合にはならないだろうと考えている。食客としての遠慮をひとまず置いて本気で立ち合ったなら、彼はその腕できっとみんなを黙らせてしまうに違いない。
嵐にでもなりそうな大風が吹き荒れた日、匡七郎はいつもより少し早く道場へ行った。習字の師匠が風邪をひいて寝込んだため、稽古が休みになって暇を持て余したからだ。同年代の仲間はまだあまり来ていないが、年上の門人たちはすでに大勢集まっていた。しかし、普段なら木刀をとって稽古に励む彼らで賑わっているはずの道場内が、奇妙に静まりかえっている。
不思議に思いながら入っていくと、兄弟子たちは縁側に集まって庭先を眺めていた。外で風が荒ぶっているにもかかわらず、板戸を何枚か開け放している。彼らの足元から土埃が舞い込むのを見て、こりゃ稽古の前に掃除だな、と匡七郎はぼんやり思った。
稽古もせずに、いったい何を見ているんだろう。好奇心にかられた彼は近づいていって、人垣の隙間から外を覗いてみた。
中庭は十坪ほどあり、塀に沿ってエゴノキが何株か植えられている。緑色の小さな葉を繁らせた細い幹が風になぶられ、ざわざわと音を立てながら前後左右にしなっていた。ちょうど花の時期で、先端が広がった形の白い小花をたくさんつけているが、このまま嵐になったら明日までに全部落ちてしまいそうだ。
庭の奥には、かなり育ったヤマモモの木が一本立っている。その太い幹の脇に、抜き身を引っ提げた兵庫の姿を見つけて、匡七郎は息を呑んだ。
いくつもの目が見つめる中、兵庫がしなやかに身をひねり、片膝をやや落として逆袈裟に斬り上げた。振り上げられた切っ先が、曇天の下で鈍く光る。
彼は刀身を背後に倒して左肩に峰を負い、素早く身体を半回転させた。その勢いのままに、まず右、次に左へと袈裟に斬り、右足を大きく出して左から右へ水平に打ち払う。くるりと剣を返して一歩進み、片手持ちのまま前方へ一打。さらに返してもう一打。左手を添えて頭上で廻刀しながら流れるように後方へ下がり、上段に振りかぶって鋭く斬り下ろす。その足さばきは終始なめらかで淀みなく、剣術というよりはむしろ舞踊を思わせた。
型をやっているにしては、あまりにも奔放すぎる動きだ。長めの打刀を使っているにもかかわらず、小太刀のように片手使いをしたり、廻刀したりする場面も多い。一瞬も静止することなく、次から次へと手数を繰り出し続けるところも奇妙で、まさに〝型破り〟だった。
「あんな型を見たことがあるか?」兄弟子のひとりが小声で問いかける。
「いや、ない」誰かが答えた。「そもそも、型ならどこかに切れ目があるだろう。こんなに何十手も連続するはずはない」
匡七郎も同感だった。ただ型をなぞっているのではなく、まるで四方八方を見えない敵に囲まれて戦っているようだ。稽古のはずなのに、見ていると胸がどきどきする。
「しかし速い」「体軸がぶれないな」などとひそひそ囁き交わす声を片耳で聞きながら、瞬きをするのも忘れて兵庫の動きに見入っていた匡七郎が、あっと小さく声を上げた。
今、風を斬った。
ともかく、彼の目にはそう見えた。そのあとすぐ、実際に斬ったのは風に舞っていたエゴノキの葉だったことに気づいた。兵庫の振るう切っ先は一か所に留まることなく、刻々と変わる風向きと常に相対している。そうして、たまに木の葉が刃圏に入ると、次の一手で捉えて瞬時に斬り断っていた。その連続する動きが、ちょっと見には風変わりな型をやっているように見えるのだ。
正しくは、風を対手と想定したひとり稽古と言うべきだろう。だが匡七郎にはやはり〝風を斬っている〟と表現するのが、いちばんしっくりくるように思えた。
風はあまりにも気まぐれで、その向きが次にどう変わるかは予測できない。だが兵庫の剣は常にぴたりと合わせていて、まったく後れを取ることがなかった。それはエゴノキの揺れと、彼の動きを見比べていればわかる。
どうやって先を読んでいるんだろう。食い入るように見ていても、匡七郎にはその秘密を解き明かすことができなかった。
これは果たして稽古か、それとも遊びなのか。判然とはしないものの、見る者の心をざわつかせることは確かで、門人たちはいつしかすっかり静まりかえってしまった。
兵庫自身はというと、固唾を呑んでいる門人たちの視線など少しも気にならないらしく、無心で剣を振るい続けている。匡七郎の目には、彼はこれを心底楽しんでいるように見えた。
そのうちに、急に風が凪いだ。兵庫もまた、ぴたりと動きを止める。彼は左手を柄からするりと離して鞘の鯉口を握り、滑らかに納刀した。この道場の門人は匡七郎も含め、みな鞘を横向きに寝かせて納刀するが、彼のは鞘を立てた形だ。
顔を上げた兵庫は、そこでようやく見物人に気づいた様子を見せた。その額に、うっすらと汗がにじんでいる。
匡七郎は、にわかにそわそわし始めた兄弟子たちをちらりと見上げた。大言を吐く若造と内心で兵庫を侮っていた彼らの意識が、今のを見てかなり変わったらしい。結局のところ、ここにいるのはみな程度の差こそあれ、剣術が好きでたまらない男たちだ。見るに値する腕前には、素直に敬服することも知っている。
だが、質問攻めにされそうな気配を感じ取ったのか、兵庫は道場の中へは戻らずに井戸のほうへ行ってしまった。兄弟子たちがちょっとがっかりしたように呻き、とりあえず砂まみれになった床の掃除にかかる。
匡七郎は彼らの目を盗んで、こっそり中庭へと下りた。さっきほど強くはないが、風がまた戻ってきたようだ。あまり長く外にいると、髪も着物も砂をかぶってじゃりじゃりになってしまうだろう。
兵庫は井戸端で釣瓶を手繰り上げ、水を飲んでいるところだった。額の汗はもうひいている。近くであらためて見ると、思っていた以上に背が高いことがわかった。肌は浅黒く、たっぷりと量のある頭髪はゆるく波打っている。彫りの深い顔立ちは、港でたまに見かける渡来人を連想させた。野性味あふれる印象的な風貌だ。
匡七郎は彼が懐から手拭いを取り出したところを見計らって、思い切って声をかけた。
「兵庫さま」
手拭いで首筋を拭きながら彼が視線をよこし、困惑したように眉をひそめる。
「よせ。そんなご大層な呼び方をされるほど、おれは偉くない」
「はい」一応うなずいたものの、他にどんな呼び方をすればいいのか思いつかず、匡七郎はその問題をひとまず棚上げした。「さっき、風を斬っていらっしゃるところを見ていました」
兵庫は少し驚いた様子で、わずかに目を見開いた。
「風を斬っているとわかったのか」
「はい。エゴノキがしなるのと、必ず反対の方向へ剣先を向けられていたので、たぶんそうだろうと思いました。あれは、いつもなさっている稽古ですか?」
「半分稽古、半分遊びだ」兵庫が苦笑しながら言う。「師匠の目が届かないところで、たまにやっている。見つかると、型をやれと叱られるからな。型をやるのもいいが、所作の一つひとつまで厳密に決められていて窮屈だし、あまりそればかりやっていると、おれは飽きる」
端正な人物と見えて、意外に放埒なところもあるらしい。匡七郎は親しみをおぼえ、嬉しくなった。
「剣速がすごくて驚きました。あんなに速いのは見たことがありません」
率直な賛辞に、兵庫の目元が和む。
「そうか」
「剣の修練を始めたのはおいくつの時ですか」
「初めて師事したのは六つの時だ」
「わたしも同じです」
「ここはいい道場だな」兵庫は手拭いを懐に戻しながら、道場の建物の高い軒を見上げてつぶやいた。「門人の数も多い。おれの師匠の道場には、門人はおれを含めても四人だけだ」
匡七郎は驚きに目を瞠った。それで道場と言えるのだろうか。
「たった四人ですか」
「辺鄙な山の中の道場だからな。全員が住み込みで、門人というよりは家族のようだ」
わずか四人の門人が、師匠を囲んで家族のように暮らす道場を想像し、匡七郎は心に温かいものを感じた。
「楽しそうですね」
「楽しくないとは言わんが、男所帯でひどくむさ苦しいぞ」
苦笑いを浮かべる兵庫を見上げて、匡七郎も笑う。
「皆さん、お強いかたばかりですか?」
「ああ、強い。おまけに遠慮というものがない。稽古とはいっても、気を抜いていると殺されそうになる」
冗談を言っているふうではない。匡七郎は目を大きく見開いて兵庫を凝視した。
「そんな恐ろしい稽古を? 普段は家族のように暮らしているのに?」
「だから、ちっとも門人が増えないのかもしれんな」にやりと笑い、兵庫は腕を伸ばして匡七郎の頭を軽くなでた。「それに比べると、この道場は至極まっとうだ。よく教えてもらって、しっかり修練しろ」
まっとう、と言われれば確かにそうだろうが、匡七郎には辺鄙な山奥でたった四人の門人を教えている道場のほうが、ずっとおもしろく興味深いように思えた。しかし、その思いを呑み込んで、素直にうなずく。
「はい。兵庫さまは、ここにどれぐらいのあいだご滞在ですか?」
「〝兵庫さま〟はよせと言うのに」居心地悪そうに言い、彼はちょっと天を仰いで考えた。「そうだな——およそひと月といったところか」
「たったひと月ですか……」
思った以上に短いことを知って、匡七郎はがっくりと肩を落とした。最低でも数か月は滞在するだろうと期待していたのだ。
「おれは来年から軍役に就くつもりだ。その前に諸国を回って、世間の広さを見てこいと師匠に言われてな。要するに、今は武者修行の真っ最中というわけだ。紹介状を書いてもらった道場が、まだほかに三つもあるので、ひとところにあまり長居をするわけにはいかん」
「軍役……どちらの家の備に入られるのですか」
「まだ決めていない。それを決めるためにも、いろいろ見て回っているんだ」
剣客として市井にあるなら、またいずれ道が交わることもあるだろうが、入軍してしまえばおそらくは二度と巡り会うこともないに違いない。そう思った途端、匡七郎の心に抑えきれない衝動が湧き上がり、気づいた時には言葉が口をついて出てしまっていた。
「ご滞在中に、わたしに剣を教えていただけますか?」
稽古を再開した道場内では、門人たちが気合声を発しながら激しく打ち合っている。その甲高い音を背後に聞きながら、兵庫は突然思いがけないことを言い出した匡七郎を、半ばあきれた様子でじっと見つめた。
「なにを言っている。おまえはここの師範に教えを受ける身だろう」
「はい」指摘されるまでもなく、とんでもないことを言った自覚のある匡七郎は真っ赤になり、思わずうつむいた。しかし一度外に出てしまった思いは止まらない。「でも先生にはこの先何年でも教えてもらえますが、兵庫さまに習えるのは今だけです」
「おれは修行中の半端者だ。人に教えることなどできん」
厳しい声で、びしりと言い放つ。しかし、匡七郎がしょんぼりうなだれると、兵庫は腰を折って同じ目線に屈み込んだ。
「おまえ、名はなんという?」
彼の声が元の優しさを取り戻したことに勇気づけられ、匡七郎は顔を上げた。
「刀祢匡七郎と申します」
「よし、匡七郎、よく聞け。おまえの目にどんなふうに映っているのかは知らんが、おれはそんな大した人間じゃない。年だって、この道場の大半の門人よりも若いんだぞ。おまえがおれから学べることなど、ほとんどない」
「でも、さっきのを見ていて、本当にどきどきしたんです」匡七郎は思いの丈をなんとか言葉で表そうと、必死になって言いつのった。「うちの若先生や師範代の剣だって、あんなにすごくありません。わたしもいつか、あんな風に剣を振るえるようになりたいんです」
「そうまで見込んでもらってありがたくは思うが、いくら請われようと、できんものはできん」
「はい……」匡七郎はがっかりして視線を落としたものの、すぐにまた顔を上げて兵庫を見た。「わがままを言いましたこと、お許しください」
落胆を精一杯押し隠し、ぺこりと頭を下げる。その様子に同情心を誘われたように、兵庫は少し態度を和らげた。
「同じ剣術修行をする者同士だ。教えるのどうのといった堅苦しいことは抜きにして、ここにいるあいだは共に修練に励もう。どうだ?」
匡七郎はぱっと顔を上げ、勢いよくうなずいた。
「はい! よろしくお願いします!」
共に、と言質を得たことに意を強くした匡七郎は、それ以降は遠慮を捨てて兵庫の後をついて回った。傍にいられるあいだに、できるだけ多くのことを彼から学び取るつもりだ。
あの日、その卓抜した技量の一端を垣間見せたことで、兵庫は門人たちにある種の畏怖と敬意をもって迎えられるようになった。道場の中核を担う高弟や師範代から、今では同格の剣士として軽い手合わせや剣術談義に誘われたりもする。そんな彼のことを侮る者は、もはや誰もいない。しかし、だからといって皆が気安く接するようになったかというと、そういうわけでもなかった。兵庫にはもともと、どことなく近寄りがたい雰囲気がある。真剣を握っての手並みを見た後では、一部の者たちにはそれがなおのこと強く感じられるようになっていたのだ。
だが、匡七郎はそんなことには一切頓着せず、毎日稽古にやって来るとすぐに兵庫のところへ行き、状況が許す限りその傍から離れなかった。兵庫のほうも、決して彼を邪険に扱うことはしない。人なつっこく好奇心旺盛な少年があれこれと投げかける質問にもいちいち真面目に返答し、きちんと相手をする彼の意外な我慢強さは、周囲の者たちを驚かせると同時に感心させた。
うるさくつきまとうな、といつか言われるかもしれないと、匡七郎の現実的な部分は理解している。なんと言っても相手はずっと年上で、もうほとんど大人だ。小さい子供のお守りなど、内心では面倒臭く思っているに違いない。とはいえ、本当にそう言われたら、きっと深く傷つくだろう。
だが彼の夢見がちで楽天的な部分は、兵庫は他人をそんなふうに傷つけることはしない人間だという、絶対的な確信を抱いていた。
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