五十七 江蒲国南部・六車兵庫 好敵手
追うなと言った。
だから追われないだろう、などと高をくくっていたわけではない。だが、こうまで激しい追撃を受けるとは予想していなかった。
執拗に追い迫る敵を、どうしても振り切ることができない。
六車兵庫は百武郷を離れてから四日後、守笹貫家が差し向けたと思われる一団に追いつかれた。それ以来ずっと、土地勘のない山野の中を逃げ回っている。
追っ手は百武城の番手衆らしい。
九割ほどの者は歩行で、胴鎧や籠手をつけて武装し、刀のほかに槍なども携えている。残る一割は騎馬武者だ。
彼らは二班に分かれ、交替で休息を取りながら追尾を続けていた。
一方の兵庫は、もちろん不眠不休だ。体力には自信があるが、炎暑の中、さすがに疲労が溜まってきていることは否定できない。
さらに、追っ手が引き連れている二頭の猟犬にも悩まされていた。
獰猛そうな顔をした大きな黒毛の牡犬で、どちらも恐ろしいほど鼻が利く。灌木の中や岩棚に姿を隠して人はやり過ごせても、犬たちを騙すことはできなかった。
道を逆戻りしたり流水を渡ったりして、何度かその獣たちを迷わせようと仕向けたが、一度は違うほうへ行ったとしても彼らはすぐに正しい方向を見つけ出す。そして猛然と追ってきて、けたたましく吠え立てるのだった。
犬の声を目印にして、追跡隊は悠々と着実にあとをついてくる。兵庫はこれまでに三度追いつかれ、そのたびに戦って撃退していた。
百武城下で江渡長総に警告した通り、立ちふさがる相手にはいっさい容赦をせず、ことごとく斬り伏せて押し通っている。追跡隊ははじめ総勢五十人ほどいたが、今では三分の二に数を減らしていた。
しかし彼らはその気になれば、途中の郷でいくらでも人員を補充することができる。長引くほど、兵庫には不利になる一方だった。
といって、いい打開策があるわけでもない。
山越えの途中で岩壁に行き当たった兵庫は、壁面に生い茂る羊歯と蔦の中に身を潜めて、しばし呼吸を整えながら考えた。
犬。何より厄介なのは犬だ。
まず片づけるべきなのはあいつらだとわかっている。だがやつらは賢くて、獲物を見つけたと吠えはするが、決して刃圏に飛び込んではこない。しかし焦れてこちらから深追いすると、その隙に人間の追っ手に囲まれてしまうだろう。
何かないか、犬を撒く方法。壁を上るか、地に潜るか。それとも……。
はっと我に返ると、顎が胸についていた。考えごとをしながら、立ったままで居眠りをしていたのだ。
兵庫は頭を振って眠気を追い払い、竹水筒のぬるい水を少し飲んだ。あとふた口ぶんほどしか残っていない。どこか水場を探して、早めに補充する必要がある。
食糧も疾うになくなっており、もう丸三日なにも口にしていなかった。この上、水まで切らしてしまうとまずいことになるだろう。
彼は身を起こして顔を上げ、あたりの様子をじっと窺った。
犬であれ人であれ、とりあえず今は何の声も聞こえない。先刻、たまたま行き当たった低い崖を飛び降りた時に、少しだけ追っ手を引き離せたようだ。
今のうちに先を急ごう。
歩き出しかけてふと足元に目をやると、草鞋がすり切れて原形を留めなくなっていた。普段の旅なら三日に一度は宿場町か街道沿いの茶屋で新しいものに買い換えるが、そんな機会が次にめぐってくるのは、かなり先のことになりそうだ。
ここまで強行軍を続けてきたので、藁緒にこすれて皮膚にいくつも傷ができ、流れた血が草鞋にもしみ通っている。
兵庫はぼろぼろになったそれを脱ぐと、手にぶら下げたまま木立の中へ入った。何本かの木を右に左に迂回しながら、北東の方角へ十間ほど進んでいく。やがて行く手に現れた灌木の茂みを這いくぐると、眼前に立つ大木のうしろへと回り込んだ。
持っていた草鞋の片方を木の幹に押しつけ、根元からごしごし擦り上げる。においと、できれば血もつくようにゆっくりと。それから藁緒を伸ばして、頭の高さの枝にくくりつけた。
来た道を正確に辿って戻り、今度は西へ向かって行って同じことを繰り返す。
仕掛けを終えると、出発点のすぐ傍にある大きな常緑樹の枝に飛びついた。腕の力を最大限に使って、疲労で重い体をなんとか引き揚げる。
枝の上でひと息つきながら、隣の木との距離を目測した。
少し遠いか。
だが低い山とはいえ、多少は浮昇力が働いている。なんとかいけるだろう。
心を決めると、枝にぐっと体重をかけ、反発する力を利用して大きく跳んだ。狙い違わず、目指した枝に到達する。
再び足場を確保すると、兵庫はさらに隣の木の枝に跳び移った。同じ手順で三本目。四本目。
このまま樹上を移動して、地面に痕跡を残さず遠くまで行くことができれば、仕掛けをしたあの場所で犬を立ち往生させられるかもしれない。
兵庫はそこから、さらに十本ほど木を伝い渡っていった。これで二十間ぐらいは距離を稼いだことになる。
だが犬たちの嗅覚は侮れない。
体に残ったなけなしの力を総動員して、彼は次の木へ跳んだ。さらに次。またその次。
やがて、行く手にかすかな水音が聞こえた。木立の中を沢が流れ下っているのかもしれない。
俄然元気が出てくるのを感じた。力を奮い起こし、その方向へとまっしぐらに向かっていく。
はたして、眼下に細流が見えた。幅八尺あまりで、水深は浅そうだ。両岸は羊歯に覆われ、長く伸びた緑の藻が流れの中で揺れている。
沢辺に生えている木まで辿り着くと、彼は水の上に張り出している枝にぶら下がった。慎重に少しずつ、流れのほうへと近づく。
枝がたわみだしたところでぱっと手を離し、小さな飛沫を上げて沢の中に飛び降りた。
清冽な水が素足を包み込み、傷と汚れを洗っていく。
快さのあまり嘆声をもらし、兵庫はしばし流れの中に佇んだ。水かさがないのが、心底残念だった。できるものなら、汗まみれの体を丸ごと中に浸したい。
せめて頭だけでもと、首を水に突っ込んでばしゃばしゃ洗い、そのあとで気の済むまでたっぷり飲んでから、竹水筒にも汲み入れた。
来た道を振り返ってみても、追っ手の気配はない。うまく置き去りにできたのだろうか。
いや、油断するのはまだ早い。
兵庫は水の誘惑を振り切って岸に上がり、腰まで届く深い下生えの中を足早に歩き出した。
夕暮れが近づき、木々の天蓋が影絵のように見え始めるころ、兵庫は尾根から半里ほど下ったところで朽ちかけた小屋を見つけた。薄い板壁にはところどころ穴が空き、藁葺き屋根からは雑草が伸び放題に伸びている。
周辺には、何か独特のにおいが漂っていた。長く嗅いでいると目と喉がひりひりするような、ある種の刺激臭だ。
一見うち捨てられた廃屋のようだが、草むらの中に戸口の前まで続く細い踏み分け道があった。足音を忍ばせて近づけば、中にかすかな人の気配もある。
兵庫は少し考えてから、戸口に下がっている古い筵を慎重にかき分けた。
小屋の中は薄暗く、妙に薬くさい空気がこもっている。土間二畳、板間六畳ほどのこぢんまりとした造りだ。
板間には地炉が切ってあり、その横に小柄な老婆がちょこんと座っていた。
「ご免」
声をかけると、彼女は顔を上げて兵庫をじっと見つめた。
「何のご用かね」
問う声は落ち着いており、恐れている様子はまったくない。それでも、兵庫は努めて穏やかに話しかけた。
「旅の者だが、食べ物を分けてもらえぬだろうか」
老婆は目を細め、皺の寄った口元をひくひくさせながら彼を上から下まで眺め回したあと、つと手を上げて差し招いた。
「お入り、お入り」
いやここで、と言いかけた時、遠くで犬の声が聞こえた気がした。眉のあたりに緊張が走り、それを見とがめた老婆が怪訝な表情になる。
「じつは追われているんだ。だから、すぐに行く」
兵庫は正直に言った。意外にも、老婆は動揺を見せない。
「顔に疚しさがない」彼女は独り言のようにつぶやいた。「鉄面皮の大悪党か、謂われなき咎を負わされた善人か」
あまりにも平然としているので、逆に兵庫のほうが落ち着かない気分になってきた。いったいこの老婆は何者だろう。
「そなたは、いずれかえ」
ふいに問われ、一瞬言葉に詰まった。大悪党ではないつもりだが、善人とも言いがたい気がする。
「城下で少々荒っぽい真似をしたのはたしかだが、これほど躍起になって追い回されるほどの悪事は働いていない」
江渡家の郎党を打ちのめし、主人の長総を拉して連れ回したことを咎められるなら、それは是非もないと思う。だが守笹貫道房が追っ手を差し向けてきたのは、百武城下の宿で討ちもらしたことを知ったからだ。
一度逃したのだからあきらめればいいようなものだが、彼なりに何か思うところあって、どうしても生かしておきたくないらしい。
今は亡き儲口守恒を助け、立州から同道してきたことが、いったいどれほどの罪だというのだろうか。そこが釈然としないので、兵庫はおめおめと捕まるつもりはなかった。
それに、すでに追っ手を十人以上も斬っているので、捕らわれたら最後、その場で寄ってたかって斬り刻まれるだろう。
個人的な事情なので多くは語らなかったが、それでも老婆は何か彼女なりに納得したようだった。
「ならばよし。お入りなされ。入って、お座り」
飄々とした調子で言って、またも気安げに手招く。兵庫は意が通じず、いささか途方に暮れる思いだった。
「いや、ほんとうに追われているんだ。連中は鼻の利く犬も連れている。迷惑をかけたくない」
「だいじょうぶ、犬はここへは近寄らぬよ」
思いがけず、自信ありげな言葉が返ってくる。
「なぜ」
「周りに熊よけをしてある。来る時に気づかなんだかえ? 犬も熊と同じぐらいそれを嫌うよ」
「しかし、人間は追い払えまい」
「やって来る気配がしたら、そら――」彼女は喋りながら、奥に立ててある枕衝立を少し動かして見せた。その陰に隠れていた壁の大穴が露わになる。「ここの破れ目からそっと出て、すぐ裏にある崖を下りて逃げればよい。そなたのように壮健な若者には易いこと」
どうも底意をはかりかねるが、悪心を抱いているようには思えない。兵庫は気持ちがもやもやするのを感じながらも、ついに筵の合わせ目から体を滑り込ませた。
「では、少しだけ休ませてもらえるとありがたい」
「よしよし。汁を温めてあげよう」
老婆が地炉の炭火を熾し、次いで行灯に火を入れると、初めて小屋の中の様子がはっきり見えた。
天井といわず壁といわず、どこもかしこもびっしりと草に覆われている。といっても、ただの草ではない。さまざまな薬草を、種類ごとに束ねて吊り下げているのだ。おそらく乾燥させている最中なのだろう。よく見れば、秤や乳鉢といった道具類も置いてある。
なるほど、薬くさいわけだ。
兵庫はようやく得心して、腰を下ろしながら訊いた。
「婆さまは薬師か」
老婆はこくりとうなずき、湯気の立つ椀に箸を添えて差し出した。
冷や飯に、青菜と茸の入った熱い汁がたっぷりかけてある。
兵庫は礼を述べると、三日ぶりのまともな食事を一心不乱にかき込んだ。米の甘さと味噌の滋味が、胃の腑にしみわたっていくように感じられる。
「おかわりしなされ」
椀が空になったところを見計らって、老婆は再び惜しげもなくよそってくれた。ありがたいが、ふと心配になる。
「婆さまの食うぶんがなくなるのでは」
「いらぬ気づかいはせぬでよい」と、彼女はどこまでも鷹揚だ。
腹が満たされると、たちまち全身に力がみなぎるのがわかった。と同時に、急速に眠気もさしてくる。
のんびりしているとそのまま眠り込んでしまいそうなので、兵庫はすぐに立ち上がった。
「馳走になった」
銭貨をいくらか渡そうとしたが、老婆は受け取らない。反対に小さな古紙包みと、手首から先ぐらいの大きさの竹筒を手渡された。
「その包みは岩塩じゃ。疲れを感じたら舐めなされ」
「この筒は?」
「犬に困らされたら、鼻づらに振りかけてやるとよい。ただし己が浴びぬよう、くれぐれも――」
警告を聞き終える前に、好奇心に負けて栓を抜いた兵庫の鼻を、強烈なにおいが直撃した。小屋の周囲で嗅いだものをさらに濃縮したような、凶悪至極な激臭だ。
思わずのけぞった彼を見ながら、老婆がくつくつ笑う。
「中身は主に酢と唐辛子で……ま、鼻の利く獣などが、これを浴びたらひとたまりもない」
兵庫は目尻ににじみ出た涙をぬぐって苦笑し、あらためてそれらの品を押し戴いた。
「かたじけない。ご恩は忘れません」
深く低頭すると、老婆もまた手をついて丁寧に頭を下げた。
「お命、お大切に」
外へ出ると、すでにとっぷりと暮れていた。昼間の暑さはやわらぎ、涼やかな夜風が木々の葉を揺らしている。
目を閉じて耳を澄ましても、警戒心をかき立てるような気配や音は感じられなかった。仕掛けが功を奏したかどうかはわからないが、今のところ追っ手はこちらを見失っているらしい。
食物と休息のお陰で、体力気力ともに回復した。
あの激臭で眠気も吹っ飛んだ。
これなら、へこたれずに夜通し歩けそうだ。
兵庫は小屋に向かってもう一度頭を下げてから、闇に包まれた木立の中へ入っていった。
翌日はひどく暑くなり、日の当たらない場所にいてさえ全身を茹でられているようだった。ここぞとばかりに大合唱する蝉の声が、なおさら暑苦しい気分にさせる。
兵庫は午過ぎごろまで脇目もふらず歩き続け、百武郷から南に二十五里ほど下ったところにある山間の渓谷に辿り着いた。
谷底を流れる川は、両側に迫る山裾の緑を水面に映してのんびりと蛇行している。川幅は五間あまりで、河原には大小さまざまな石がごろごろしていた。
見える範囲に人影はない。
主要な街道から遠く離れているので、このあたりに立ち入る者があるとしても、近隣の集落に住む木こりか猟師ぐらいなのだろう。
彼は森の際で辺りの様子を窺ってから、用心深く川に近づいていった。
眠気を誘うような音を立てながら、澄んだ水が岸辺の岩を洗っている。その岩と岩のあいだにしゃがみ込み、顔と手を丹念に洗ってから、手ぬぐいを湿して首筋と胸元をぬぐった。
まさに生き返る心地だ。
目を閉じ、川面をなでてくるひんやりした微風を顔に受けていると、ふと首筋に視線を感じた。
うしろだ。森の中。
振り返ることはせず、膝の横にあったこぶし大の石をさり気なく拾って手ぬぐいで包み、端を掴んでぶら下げた。
視線の主はじりじりと近づいてきている。気取られぬよう息を殺しているが、砂利を踏む音は消せていなかった。
つたない足運び。たいした使い手ではなさそうだ。
気配が増えた。ふたり。三人。まだいる。全部で五人ほどか。いや、森からさらに出てくるかもしれない。
もっとも近くに来ていた人物が、鋭く息を呑んで振りかぶった。
間合いが遠い――得物は槍か。
兵庫は勢いをつけてうしろに倒れ、背中で一回転して一気に距離を詰めると、振り向きながら手ぬぐいを振って相手の臑を打ち据えた。
ぎゃっと悲鳴を上げて男が槍を取り落とし、膝を抱えてうずくまる。立ち上がりざま、鼻柱を狙ってもう一撃加えると、彼はそのまま前のめりに崩れて動かなくなった。
すかさず第二陣が襲いかかってくる。今度はふたり同時だ。
兵庫は手ぬぐいを捨てると、倒した男の槍を爪先ですくい上げ、腰の前で横に構えた。突進してきた右の男を石突きであしらい、左の男の腹に穂先を突き込む。
その間に、新手が森から出てきた。
「囲め!」
「一気にいくぞ」
声を掛け合いながら、兵庫を中心に六人がいびつな円を描く。
多勢に無勢はもともとなので、彼はあわてなかった。数を恃んでいる集団はそれほど怖くはない。肝要なのは、もっとも腕の立つ者を真っ先に倒すことだ。そうすれば、残りは動揺して勝手に崩れてくれることが多い。
油断なく槍を構えたまま、彼は目だけを動かして一人ひとりの力量を量った。
闘気みなぎっている者がふたり。
揺るぎない意志を感じさせるのは、そのうちひとり。
二十代半ばのがっしりした男で、腕が棍棒のように太い。きっと、日ごろたっぷり稽古をやっているのだろう。
狙いを定めるや否や、兵庫はその男に向かって槍をぶん投げた。敵もさるもの、意表を突かれながらもとっさに打ち払う。その隙にするすると近づき、相手の脇差しを抜き取って腹を突いた。
男が声も上げずに倒れ、その体の周りにみるみる血溜まりが広がっていく。
囲みの一角を破って出た兵庫は、森を背後にして残りの五人と対峙した。
最初に倒した男は、やはりこの集団の要だったようだ。それを失った仲間たちは、見るからに威勢を失っている。
「命が惜しい者は去れ」
兵庫は初めて口を開き、静かに言った。
「誰にもばれないぞ。残った者はみなここで死ぬ」
ひとりでも及び腰になってくれたら物怪の幸い。その程度に考えて言ってみたまでだが、意外にもこれが効いた。
にわかに、ふたりの男がそわそわし始める。仲間もそれに気づき、口々に責め立てた。
「乗せられるな」
「腹を据えんか!」
しかし一度弱気がきざしたら、もうそれまでだ。ふたりは後ろめたそうにしながらも、仲間たちの視線を避けるように顔を背けて、こそこそと河原から逃げ去った。
残り三人。これでずいぶん楽になった。
「えいくそ、こんな若造、わしらだけで充分だ!」
自らを励ますように雄叫びを上げて、ひとりが打ちかかってきた。半身を開いてその切っ先をかわし、逆袈裟に斬り上げる。
血煙が舞う中、さっと振り返った兵庫は、背後から迫っていたふたり目に横一文字の片手斬りを見舞った。しかし、少し浅い。
脇差しなので半歩遠かった。さらに踏み込んで胸板を正面から突き、相手の襟を掴んで刃を沈めながらぐっと引き寄せる。
男を抱えたまま横を向くと、残ったひとりが今まさに打ちかからんとしているところだった。
かわしきれない。
彼はそう判断して、腕の中の男を盾にした。勢い余って仲間に刃を入れてしまった相手が、あからさまに動揺を見せる。
兵庫は死体の脇差しを抜きながら、重い体を突き放した。
三人目の男がぱっと横へ避け、憤激の唸りを上げて大上段に構える。
白刃が振り下ろされる瞬間、兵庫は伸ばした左手で相手の柄を掴み止め、がら空きの脇腹に剣先を沈めた。
男がはっと息を呑み、のろのろと視線を下げる。
自らの体に深々と入った刃を見て、彼は「まさか?」と言いたげな顔をした。しかし声に出すことなく、氷が溶けるようにくずおれる。
頸動脈をはね斬って止めを刺すと、兵庫はしばし瞑目してその場に佇んだ。
こめかみがずきずき痛む。炎天下で動き回りすぎたようだ。
勝つには勝ったが、さすがに疲労困憊だった。あのふたりが去っていなかったら、もっと微妙な勝負になっていたかもしれない。
血に濡れた脇差しを足元に放ると、彼は途中で手ぬぐいを拾い上げてから、元いた岸辺に戻った。また汗まみれになってしまった体をぬぐい、水をたっぷりと飲む。それから、あの山家で老婆にもらった岩塩を少しかじった。
空腹なのは変わらないが、いくらか活力は戻った気がする。
水筒に水を汲み足したあと、彼は乾いた岩に腰を下ろして少し休んだ。
夜じゅう姿を見なかったので、あるいは振り切ったかもしれないと思っていたが、やはり追っ手はあきらめていないようだ。
まさかこのまま、江州を出るまでずっと追われ続けるのだろうか。そう考えると、ついため息がもれる。
しかし、まだ絶望はしていなかった。
こちらと同じように、向こうも疲弊している。ちょっと揺さぶっただけで戦いを放棄する者が出たのを見ても、それは明らかだ。彼らのほうも、こんな追いかけっこにはもううんざりしているに違いない。
とはいえ、このまま完全に体力が尽きてしまったら、追っ手との根比べに勝つことはできない。是が非でも睡眠を取り、力のつくものを食べる必要がある。
まずは森へ入って、塒になる場所を探そうと思った。最低二刻、できれば日暮れまで眠ることができれば、体も頭もしゃっきりするはずだ。
その時、かすかに馬のいななきが聞こえた。
川を挟んだ向こうの山から、上手に手綱をさばいて騎馬武者が河原へ下りてくるのが見える。その先導を務めていた歩行の男が、目ざとく兵庫を見つけて声を上げた。
「あ、おりました! あそこです!」
さらに騎馬武者のうしろから、もうひとり別の男が藪をかき分けて姿を現した。
兵庫自身も六尺ゆたかの長身だが、その男はさらに大きい。巌のように逞しい体躯の持ち主で、着けている胴鎧がはち切れんばかりだ。だが極端ななで肩のせいで、ちょっと見には細身に見えた。
年は二十歳前後だろうか。
顔は色白で目が細く、鼻筋が奇妙に長い。耳は大きく、不格好なほど横に突き出ている。
彼は「待て待て、おれに行かせろ」と大声で吠えると、騎馬武者と先導役をうしろに残してひとりだけずかずかと前に出てきた。
水際に立ち、川のこちら側とあちら側で向かい合うことしばし。
しかし視線はまだ合わせない。
これだけの距離が空いていても、相手が発散するどこか禍々しい闘気を感じ取ることができた。それに呼応するように、兵庫の中に棲まう鬼も蠢き出す。
目が合ったとたん、男が抜刀した。
浅い川に躊躇なく飛び込み、盛大に水飛沫を上げて駆け寄ってくる。
兵庫は腰を沈め、当たる寸前で抜き打った。その一撃を男ががっちりと受け止める。胸をつき合わせ、足を踏ん張って押してもびくともしない。
互いにぱっと跳び退り、間合いを計りながら睨み合う。
男がふいに、細い目をさらに細めてにたりと笑った。
「鷹啄寅三郎」つぶやくように名乗りを上げる。
怪訝な顔をする兵庫に向かって、彼はさらに笑みを広げた。
「己を殺す男の名を知っておきたいだろう」
傲岸に言い放ち、上段から打ちかかってきた。鐔元で受けた斬撃は、肘までしびれるほど重い。途轍もない豪腕だ。
だが、速さはこちらのほうがある。
兵庫は相手を突き放し、左下から逆袈裟に斬り上げた。それを寅三郎が鎬で弾く。相手もかなり反応がいい。
河原で、あるいは水の中で、刻々と場所を変えて激しく打ち合いながら、兵庫は少し圧され気味なのを感じていた。にもかかわらず心が弾んでいる。触れたら骨まで断たれそうな斬撃をすれすれでかわすたびに、自然と笑みがこぼれそうになった。
強い者と戦うのは楽しい。その感覚を、ひさびさに思い出している。
疲れで濁っていた思考が、にわかに澄んでめまぐるしく動き出した。必勝を期すると、彼はいつも狡猾になる。
なかなかつかない決着に焦れたように、寅三郎が溜をつくってから猛然と突進してきた。川を背に、それを敢えて真正面で受ける。
落石に当たったような衝撃があり、吹っ飛ばされて水の中に落ちた。起き上がると、相手はすでに肉薄して次の手を繰り出そうとしている。
兵庫は自ら近づいて刀を合わせると、口に含んでいた水を寅三郎の顔に吹きかけた。それをまともに浴びた相手がまばたきをした隙に、踏み込んで横に薙ぎ払う。
寅三郎の胸元に裂け目が走り、ややあって血が流れ出した。しかし深手ではない。彼は斬られる寸前に、獣のような俊敏さで上体を引いていた。
再び距離を空けた兵庫に向かって、寅三郎が訳知り顔でうなずいてみせる。
「水に落ちたのはわざとか」嬉しそうに言った。「いいぞ。おもしろいやつだ」
彼は脇構えを取ると、水を蹴立てて駆けてきた。耳まで裂けそうなほど口を開き、にやにや笑っている。
兵庫は彼が三間まで近づいたところを見計らい、川底で拾って左手に隠していた礫を打った。
目つぶしは前芸、こちらが本芸だ。
ひとつは膝、ひとつは喉、少し間を外して三つ目は頭を狙う。
寅三郎はぎょっと目を見開きながらも、はじめのふたつは見事に避けた。しかし三つ目は避けきれない。
硬い小石が彼の額を直撃し、赤い霧のような血飛沫が散った。
「むっ……」
低く呻き、わずかに足をよろめかせる。
その隙を逃さず、兵庫は一気に仕掛けた。
間合いを詰め、右上段から渾身の力で垂直に斬り下ろす。
左肩を断ち落とすはずだった斬撃を、またしても寅三郎は紙一重で避けた。なで肩も幸いしてか、刃は腕にかすってもいない。
だが体が先に逃げた反動で頭部が残り、兵庫の一撃は彼の左側頭をなでるように通り過ぎた。
付け根から削がれた耳介が、ぽちゃんと間抜けな音を立てて水に落ちる。
はっと耳を押さえた寅三郎の指の間から、たちまち鮮血があふれ出した。だらだらと流れ続け、みるみるうちに首から胸まで血まみれになる。信じられないほどの出血量だ。
兵庫はここを勝負所と見て、間を置かずに激しく斬り込んだ。火のように攻めかかり、蒼白な顔に脂汗を浮かべた相手を追い詰める。
寅三郎も負けじと反撃に出るが、振りがやや雑だ。それを待ち受けていた兵庫は手元できゅっと刃を返し、狙い澄ました一撃を彼の刀のひらに叩き込んだ。
ぱん、と音を発して、刀身が中ほどから折れる。
止めのひと太刀を繰り出そうとした兵庫に向かって、寅三郎は手に残った柄を投げつけ、脱兎のごとく逃げ出した。あっという間に対岸へ渡り、非難顔で迎えた仲間に躊躇なく脇差しで斬りつける。
さらに彼は、うしろに控えていた騎馬武者にも襲いかかり、馬から引きずり下ろして突き殺した。
兵庫はただ唖然として見守るばかりだ。
寅三郎は馬にまたがろうとし、失敗してどさりと落ちた。甚だしい出血のせいで、意識が朦朧としかけているのかもしれない。
再度試みてどうにか馬の背によじ登ると、彼は鬣にしがみつき、後も見ずにそのまま駆け去っていった。
じつに鮮やかな逃げっぷりだ。
生き残る術を知っていると言うべきか。
兵庫は刀をぬぐって鞘に収めると、水から出て河原に戻った。
岸辺に置いていた荷物を拾い上げ、森へ歩いていく道すがら、先ほど倒した男たちの持ち物を漁る。
ありがたいことに、ほとんどの者が腰兵糧を携帯していた。干飯、味噌玉、塩昆布、梅干し。今朝どこかの集落で調達してきたのか、まだ手つかずの握り飯を持っている者までいる。
「運が向いてきたらしい」
彼はにっこりすると、大口を開けてそれにかぶりついた。
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