五十四 御守国御山・街風一眞 挑発
何度も肌を合わせると、いつしか呼吸も合うようになってくるものらしい。
一眞は最近、玖実と打ち合い稽古をする際に、時折そんなことを感じるようになった。
こうと思ったところへ、いつも相手の剣がぴたりとくる。体に馴染んだ振り付けをなぞるように、互いの刀身をきれいに噛み合わせながら、何合でも際限なく打ち続けることができた。
「おまえらのは、なんだか芝居の殺陣みたいだぞ」とは伊之介の言だ。
気持ちよく打ち合えるのはいいが、それでは鍛錬にならない気がする。だから一眞はふたり組を作る指示が飛ぶと、意識して玖実から離れることにしていた。
申し合わせたわけではないが、向こうもそうしているような気がする。
だが濡れごとはまた別だ。ふたりは互いを相方と決めて満足しており、すっかり逢い引き場所として定着した山腹のくぼ地に、ほかの相手を誘うことはなかった。
「おまえ、あんまり上達しないな」
星明かりの下、そのくぼ地で抱き合いながら、一眞は玖実の顔を覗き込んで言った。下になっている彼女が、剣呑な目つきで睨め上げてくる。
「あたしが下手だって言いたいの」
意趣返しとばかりに、巻きつけた腕でぐっと首を絞められた。
「誰がいろいろ教えてあげたと思ってるのよ」
「剣術のことだぞ」
誤解を正し、ゆったりと浅く突いて、相手の反応を見ながら速度を上げる。
「こんな時に剣術な――あっ……」
珍しく玖実が小さく嬌声を上げた。
睦み合っている時、彼女はあまり声を出さない。口を開けても吐息がもれるだけで、昂奮が言葉になって出てくることはほとんどなかった。
最初のころは、人目をはばかる必要があるからだと思っていたが、今ではそれが彼女の流儀なのだとわかっている。
そんな玖実が、ごくまれに耐えきれなくなってもらす声は、一眞を柄にもなく昂ぶらせた。
「鉄砲や弓はどんどんうまくなるくせに、剣の腕はいつまで経ってもいまいちだ」
喋りながら、ぐっと深く腰を入れる。玖実が目をつぶり、眉間に皺を寄せて息を呑んだ。
「じつは苦手なのか?」
問いかけても返事はなく、背中に回された腕にいっそう力が入り、肩の付け根に爪が食い込んだだけだった。痛いが、必ずしも不快な痛みではない。
少し遅れて自らも絶頂に達すると、一眞は大きく息を吐いて力を抜き、前のめりに体を倒した。
下敷きにされた玖実が、やや焦り気味に抗議する。
「やだ、重い。重いったら」
彼女は一眞を押しのけ、上半身だけ少し横に逃れた。
「あんた肥った?」
「毎日鍛錬三昧で、しかも粗食だぞ。どうやって肥るんだ」
草の上にうつ伏せたまま、顔だけ横に向けて反論すると、玖実は神妙な表情になった。
「そっか、筋肉がついたせいね」
感心したように言いながら手を伸ばし、汗の浮いた背中に触れてくる。
「このへんの触り心地が、前とは違ってきてる」
肩胛骨の周囲をひとしきりなで回したあと、彼女は急に不機嫌になって皮膚を容赦なくつねり上げた。火を押しつけられたように痛い。
一眞は思わず跳ね起き、手の届かないところまで体を引いた。
「なんだよ」
「最中にぺらぺら喋らないで、もっと集中してよ」
「喋ってたって集中してるさ」
嘘ではなかった。
一眞にとって房事は斬り合いと同様、一種の勝負のようなものだ。たとえのめり込んでも完全に我を忘れることはなく、いつも精神を研ぎ澄ませて相手の表情や体の反応をつぶさに窺っている。
気持ちいいのか、痛がっているのか。物足りないのか、あるいは満足しているのか。冷静によく観察することで、それらを的確に判断していた。
和合の技巧などろくに知らないが、少なくとも、相手をよく見て同調するこのやり方は間違ってはいないし、玖実の要求を満たすこともできていると思っている。
もし不満を感じていれば、彼女はすぐにでも一眞を切り捨ててほかの相手を見つけるはずだ。嫌なことを我慢してまで続けるような性格ではない。
それがわかっているから、近ごろ剣術の稽古に身が入っておらず、あまり進歩も見られないことが少し気になっていた。彼女は剣が性に合わず、適当なところで修行を投げだそうとしているのではないだろうか。
「それで、どうなんだ。剣は苦手なのか」
「もう、あんたたちって、ほんと剣術馬鹿なんだから」
玖実はため息混じりに言い、寝返りを打って一眞に背中を向けた。〝あんたたち〟には、伊之介や信光も含まれていると思われる。
彼らと一緒にいると、熱のこもった剣術談義になることがしばしばあるのは事実だった。利達はそういう時、いつも傍で黙って楽しそうに聞いている。そして玖実は「また始まった」と言わんばかりに、鼻を鳴らして離れて行くのが常だった。
「どうして苦手なんだ」
背中に這い寄ってしつこく訊くと、肩ごしに冷たく睨まれた。
「うるさいわね。苦手だなんて言ってないでしょ」
「違うなら、もっと上達していいはずだ。稽古自体、堂長が指南役じゃない時には、たまに適当に流してるのがわかるぞ」
「おもしろくないのよ。なかなかうまくならないし」
「真面目に取り組まないからだ」
「やってても差がついちゃうから、だんだんつまんなくなってきたの。あたしはあんたたちと違って、下界でも剣を振り回してたわけじゃないんだからね」
「関係あるもんか。砲術はみんな横並びで始めたが、おまえがいちばんうまくなった。要は素質があるかどうかだ。おまえには武芸をやる素質がある」
玖実が起き上がって振り向いた。妙に物思わしげな目をしている。ややあって彼女は一眞を仰向けに押し倒し、肩口に頭を載せた。
「あんた、ずっと御山にいるの」
「たぶんな」
「あたしと一緒に降山しない?」
「修行に飽きたから逃げるのか」
「そうじゃないけど……また下界に降りるのもいいかなあって」
伊之介といい、なぜ寄ってたかっておれを降山させようとするんだろう。一眞はそう思い、憮然とした面持ちになった。
「だいたい、降山して何をするんだ」
「おもしろそうなことなら、なんでも。たとえば、そうね――盗賊になるってのは、どう」
無邪気そのものの口調で楽しげに言う。
「貧乏人を苦しめてあくどく稼いでる商人や、無茶な税を搾り取ってる小領主なんかを狙うのよ。で、困ってる人にお金を分けてあげるの。男女ふたり組の義賊なんて珍しいから、名が売れたら芝居のねたになったりするかも」
「夢物語だ、そんなの」
かつて下界で盗賊の真似事をしていたことは、玖実にも誰にも話していなかった。義賊などではなく正真の悪党だ。
実家から放り出されたあと、一眞は隣国へ流れていき、街道沿いで旅人を襲っては金品を奪い取って暮らしていた。それが確実に食べていける、もっとも手っ取り早い方法だったのだ。
伊佐や虎熊たちと知り合ってからは、集落や武家屋敷への大規模な襲撃に加わるようになった。手向かいする者は片っ端から殺し、あらいざらい奪い取り、しばしば家に火をかけもした。
あのころ手を染めなかった悪事といえば、襲撃先の女を陵辱することぐらいだ。虎熊や赤猿などは女に目がなく、見つけると手当たり次第に犯したがったが、自分はその仲間には加わらなかった。
といっても、別に高潔なわけでも情け心があったわけでもない。単に、嫌がって泣きわめく女を相手にして、楽しめる気がしなかっただけのことだ。
ならず者稼業からは足を洗ったつもりだが、いま下界へ降りたら、馴染んだ古い着物に袖を通すように、なんら抵抗なく再びあのころの生活に戻れるだろう。
次は女と手を組んでみるというのも、なるほど気分が変わっておもしろいかもしれない。夫婦者を装っていると疑われにくいので、街道や関所の行き来にも便利なはずだ。
相方を選ぶとしたら、そういう偽装を平然とこなせる、冷静で頭の切れる女にする。腕が立つのはもちろんだが、体の相性もよければなおいい。
だが、玖実ではだめだ。彼女とは肌が合うし、それなりにいい関係を築いてもいるが、斬った張ったの修羅場で背中を預けられるとは思えなかった。
「おまえ、人を殺せるのか」
訊くと、肩の上で玖実の頭がぴくりと動いた。
「殺さなくていいのよ。義賊だもの」
「押し入った家の住人が、盗まれるのをただ黙って見てると思うか?」
一眞は少し強い口調で言った。
「それに金がたんまりある家には、たいてい用心棒や番士がいる。連中はそれが仕事だから、迷わず得物を取って向かってくるぞ。中には強いのもいるから、死にたくないならこっちも刀を抜くしかない。そして抜けば必ず、殺すか殺されることになるんだ」
「まるで見てきたように言うじゃない」
玖実が上体を起こし、探るような目つきでじっと見る。
「そんなわけあるか」
少し喋りすぎた。
一眞は口をつぐみ、起き上がって草の上を手探った。脱ぎ散らかしたふたり分の衣類がからみ合っている。
言動にはいつも注意していたのに、なぜ口を滑らせてしまったのだろう。御山に馴染みすぎ、警戒心が薄れて無頓着になりつつあるのかもしれない。
一度、気を引き締め直す必要がありそうだ。
引きはがした万事衣の一方を羽織りながら、彼は漠然とした不安が胸にわだかまるのを感じていた。
奇数日の朝調練は、饗庭左近が指南役を務めることになっている。彼はまれに見るほど嫌な男だが、御山で十年過ごした古参の衛士であり、武芸の腕前はたしかだった。
特に砲術に秀でており、鉄砲の扱いに関しては右に出る者がいない。おそらく前身はどこかの武家の鉄砲足軽あたりだろう、と一眞は看ていた。
剣術は常に力押しで、火のように攻めて攻めて攻めまくる。反撃の隙をいっさい与えず、相手を防戦一方に追い込むのが得意だった。どちらかというと不器用な剣といえるが、強いことは強い。
しかし教え子を打ち負かして悦に入る卑小な性根の持ち主であり、敗者をあざ笑うような真似をするので、誰からも尊敬や憧れの念を抱かれることはなかった。彼はその事実を知っており、へとも思わず、同時に憤っている。
左近の顔にはいつも〝どいつもこいつも糞だ〟と書いてあった。
当然ながら修行者はみな、そんな彼を嫌い、彼の調練も嫌っている。だが一眞は剣術に限っていえば、必ずしも左近に教えを受けるのを嫌ってはいなかった。
三人いる指南役の中で、彼はもっとも遠慮会釈もなく打ち込んでくる。その膂力にものをいわせた猛烈な打ち込みに対抗し、押されてからの切り返しを試行錯誤するのはなかなか楽しいものだ。
剣術というよりは喧嘩に近いが、実際の修羅場で相手にするのは大半が左近のような輩だった。剣の技にも精神にも興味はなく、また知りもしないが、馬鹿力や糞度胸、加虐心は旺盛という連中。つまり彼の調練は、ある意味ではもっとも実戦的であるといえた。
「あの野郎、もろに鎖骨に当てやがった」
練兵場の中央に出て左近と打ち合っていた伊之介が、呻きながら戻って来た。左肩を押さえ、痛そうに顔をしかめている。
一眞は見物の人垣の外へ彼を連れて行き、衣をはだけさせて肩の具合を診た。打たれた箇所が痣になり、少し熱を持っているようだが腫れはない。
「折れてはいないみたいだな」
「嘘だろ。こんなに痛いのにか」伊之介は歯を食いしばりながら肌を入れ、大きく息をついた。「あいつ、寸止めってものを知らないのか、それともできないのか、どっちだと思う」
「できるが、したくないのさ」
一眞は笑って言った。
筆頭指南役の千手景英も、敢えて寸止めをせずに当てることがある。だが打つ場所を選んで急所は避けるし、力を加減することも忘れなかった。
左近のほうはというと、折れやすい尺骨や鎖骨などをわざと狙い、思いきり振ってくるようなところがあるので油断がならない。
「午前の調練が終わったら、いちおう薬療院に顔を出しておけよ」
「そうする。連れもできそうだしな」
伊之介が、左近のほうを見ながら皮肉っぽく言った。嫌われ者の指南役は次に選んだ犠牲者を練兵場の隅まで追い詰め、豪快な音を立てて打ち込みまくっている。相手はほとんど戦意を喪失しているが、そんなことにはおかまいなしだった。
「今日はまた、ずいぶんと気が乗ってるようじゃないか」
一眞がつぶやくと、横で伊之介がうなずいた。
「そんな感じだな。例の砲術調練以来ちょっとおとなしくなったと思ってたが、またぞろ調子が戻って来たみたいだ」
実際におとなしくなったのは、修行者と情交していた現場を一眞と利達に押さえられた時からだった。
その瞬間は開き直って威圧的に出ていたが、さすがにまずいとあとで思ったらしい。修行者を必要以上に痛めつけるような行動は少し慎むようになり、しばらくは一眞らの顔色を窺うような態度も見せていた。
だが告発される恐怖も、そろそろ薄れ始めているようだ。あの場で激しく糾弾したにもかかわらず、利達がその後なにも行動を起こさないのだから無理もない。
気弱な利達は一度怒りが静まると、またすぐに元の意気地なしに戻ってしまった。千手景英に左近の破戒を報告すると息巻いていたのに、その勇気がなかなか湧いてこないようだ。
思えば、先日この洞窟で景英と三人だけになった時などまさに絶好の機会だったが、彼はそのことに気づきもしなかったようだった。
口には出さないものの、利達が内心、堂長への報告を肩代わりして欲しがっていることに一眞は気づいている。しかし自らそれを買って出ることはしないし、もし頼まれても断るつもりでいた。
証人になって告発する気があるなら、そもそも利達を巻き込んだりしていない。
左近の弱みを探り出したのは、手下を送り込んで寝込みを襲わせるような真似を二度とさせないため、そしてこの先自分が何かしくじった時の備えにするためだ。衛士寮で力を持つ古参の弱点を掴んで首根っこを押さえておけば、いざという時にきっと役に立つに違いない。
だから、利達がこのままあの件をうやむやにしたとしても一向にかまわなかった。ただ本人は、すっきりしない思いと後悔を抱えていくことになるだろう。
さんざんいたぶった修行者を開放したあと、左近はふたり組での打ち合い稽古を指示した。
「一眞、やろうぜ」
声をかけてきたのは信光だった。技の切れこそいまひとつだが、彼は仲間内でもっともしぶとい男だ。痩せっぽちのくせに無尽蔵の体力があり、どれほど追い込まれても萎えることのない闘志も持っている。
「よし、こい」
木太刀を取って練兵場の中央付近へ出て行き、互いに向かい合った。
「洞窟の中は涼しいといっても、やっぱり夏だなあ」信光が額をぬぐい、ため息をつく。「さっきちょっと素振りをやっただけで、もう汗まみれだよ」
「もっとかかせてやる」
一眞は笑って、右八双上段から打ちかかった。信光がさっと右へかわし、大きく半歩踏み込んで横薙ぎに剣を振る。速さはないが、重い斬撃だ。
切っ先を寸前でかわし、一眞は自分も前へ踏み込んだ。腰を落とし、下から掬い上げるように斬り上げる。信光はそれを物打ちのあたりで受け止め、押し切られないようぐっと踏ん張った。
噛み合った刀身が、胸つき合わせるふたりのあいだでぎちぎちと鳴る。
「おまえは腰が強いな」
いくら押してもびくともしない信光に感心しながら言うと、彼は歯を食いしばったままにやりとした。
「粘り腰だとよく言われるよ。足が短いからだって言った無礼千万なやつもいる」
ふたりはぱっと離れ、構え直して再び肉薄した。信光が正面から突き込み、一眞は低く沈んで片手斬りを繰り出す。突きは空を斬り、一眞の剣は信光の足首を捉えた。
打つ直前に力を抜いたので、さほど痛くはなかったはずだが、飛び退った信光は顔をゆがめている。
「くそっ、やられた。伊之介も言ってたけど、おまえの低い斬撃はくせ者だなあ。どうやったらかわせるんだ」
「堂長は先読みして足を引く」
上に下に打ち合いながら言うと、信光は困ったように眉尻を下げた。
「おれに堂長の真似ができると思うか?」
「片足を失いたくないなら、できるようになれ」
ふたりは気楽に、だが真剣に、猛烈な打ち合いを続けた。信光はやはり、少々打たれたぐらいでは参らない。きつめの一撃を見舞っても、ほとんど怯むことなくすぐに向かってくる。
一眞は彼との稽古に集中し、木太刀のぶつかる感触を楽しんだ。互いにもう汗みずくだが、それすらも気持ちいい。
だが、ふと相手が集中を切らした。かわしそこねた一撃を脇腹で受け、「いてっ」と叫んで咳き込む。
「おい、だいじょうぶか」
声をかけて腕を取り、体を折った彼を引き起こしてやった。信光は打たれたところをさすりながら、一眞の背後に目をやっている。
「やばいぞ、あれ」
そちらを見ると、利達が左近と打ち合っていた。
いや、実際には打っているのは左近だけで、利達は防御もほとんどできず、棒立ちになってただ打たれているだけだ。手の中の木太刀は持ち上げられることもなく、だらんと垂れ下がっている。
「いつもうまく逃げるのに、どうして捕まったんだ……」
信光が同情のこもった声でつぶやいた。
彼が言う通り、剣術調練で左近が指南役を務める時には、利達は目につかないようひたすら身を縮め、人陰に隠れて逃げ回っている。その穏形の技はなかなかのもので、終了の刻限までまんまと逃げ切ることも多かった。
しかし、今日は失敗したようだ。
左近は嵩にかかり、ここぞとばかりに彼をいたぶっていた。肉を打つ音を聞けば、いっさい手加減をしていないのがわかる。
こんなものは稽古でも何でもない。ただの虐待だ。
目を血走らせて木太刀を振るい続ける左近の顔には、胸が悪くなるような獰猛な笑みが浮かんでいた。ひとつ打つたびに、口の中でぶつぶつと悪態を唱えている。
「この、屑め。虫けら。どうだ、思い知れ。屑の、虫けら……」
いつしか修行者たちの剣戟はやみ、洞窟の中は奇妙に静まりかえっていた。左近の不気味なつぶやきと、打たれるたびにもれる利達の嗚咽だけが岩壁に響いている。
打ち返せ。一眞は心の中で言った。
その剣は飾り物か。悔しくないのか。持ち上げて、振りかぶって、思いきり叩き込め。あの時に見せた怒りを、もう一度燃え立たせろ。
だが利達は打たれるたびにすくみ上がり、凶刃から少しでも守ろうとするように体を丸めるばかりだ。
永劫とも思えるほど経ってから、左近はようやく打ちやめると、足元に木太刀を投げ出した。激しく息を乱し、顔は上気し、額にも首筋にも川のような汗が流れている。
「この腰抜けが」
彼は荒い息の合間に言い、まだかろうじて立っていた利達の膝を足蹴にして転ばせた。
「打ち合いのひとつもできんくせに、このおれに向かって大口叩きやがって」
聞いている修行者たちは、みなぽかんとしている。利達が左近に逆らうところを見たことがあるのは一眞だけだ。
「おまえなんかが、衛士としてやっていけると思ったら大間違いだ。荷物をまとめて、とっとと山を下りちまえ」
岩の地面にうずくまる利達に向かって、左近は吐き捨てるように言った。
「衛士寮に弱虫の屑はいらん。おまえのえせ信仰心も、御山には必要ない」
その瞬間、ついに利達が爆発した。
「おれの信仰心を馬鹿にするな!」
一眞も含めて、誰もが初めて彼が怒鳴るところを目の当たりにした。
「おれは……おれは、あなたよりずっとまともな信徒だ。神を信じ、祭主さまを敬い、掟戒を守っている。だが、あなたはどうだ」
顔を涙でぐちゃぐちゃにしながらも、挑むように睨み上げる。
破戒者――彼の目がそう糾弾していた。
だが左近は利達を完全になめており、まったく意に介する様子がない。
「好きに吠えてろ、蛆虫」
せせら笑って背を向ける。
「調練はこれまで。片づけろ」
戸惑い顔の修行者たちがのろのろと動き出す中、一眞はまっすぐに利達の傍へ行った。手を貸してゆっくりと立ち上がらせ、腰に腕を回して体を支えてやる。
それから彼は顔を上げ、左近の後頭部をじっと見つめた。射るような視線で、じわりと圧力を加える。
左近は鈍感ではなかった。首筋に力が入り、肩がぴくりと動く。彼は慎重に左右を窺ったあと、ぎこちなくこちらを振り返った。表情が少しこわばっている。
目が合った瞬間、一眞はにたりと笑いかけ、すぐ真顔に戻った。だが視線は外さない。
言葉は必要なかった。
恫喝も嘲弄も、言いたいことはすべて伝わったのが、はっきりとわかる。
きつく握り締めた左近の拳が、ぶるぶると震えだした。顔は窒息寸前のように赤黒くなっている。
「貴様……」
地を這うような唸り声に驚き、みながあわてて彼のほうを見た。
「いいか、よく覚えておけ。つまらん考えを起こしたら、すぐさま後悔させてやるぞ!」
周囲の者は、怒鳴っている相手は利達だと思ったに違いない。だが実際に左近が威嚇しているのは一眞だった。
「もし――誰かに、何かちょっとでも余計なことを喋ったら殺してやる。体じゅう切り刻んで、這いつくばらせて、みじめに命乞いさせてからぶち殺してやるからな!」
頭の中を突風が吹き抜けていくように感じるほどの凄まじい怒声だ。彼が〝殺してやる〟と言うたびに、腕の中で利達の体がびくりと跳ねる。
しかし、一眞は平然と左近の激情を受け止めた。
しょせんは負け犬の遠吠えだ。
ひとしきりわめき散らしたあと、彼が鼻息も荒く洞窟を出て行くと、伊之介と信光が近寄ってきた。
「おい、驚いたな利達」
伊之介が曖昧な笑顔で言う。
「あいつを挑発するなんて、気が変になったのかと思ったぞ」
利達は一眞に目をやり、それから伊之介を見て、絶望的な表情でふるふると首を振った。何か言おうにも、言葉が出て来ない様子だ。
信光がその横に行き、よれよれの体を一眞と一緒になって支えた。
「まあいいじゃないか。できるものなら、おれも一度くらいはあんな見せ場を作って目立ちたいよ」
彼はふっと嘆息して、いつもの微苦笑を浮かべた。
「さあ、薬療院へ行こうぜ」
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