五十二 江蒲国百武郷・六車兵庫 形見
いっそ城へ潜り込むか。
薄暗い板間に瞑目して端座し、六車兵庫は静かに考えた。戸も窓もすべて閉め切った室内には熱い空気がこもっており、じっとしていても汗が噴き出してくる。
百武城下の宿を引き払って以来、彼は引退した剣客花畔光嘉の旧道場で寝起きしていた。空き家になって半年以上経つらしいが、塀で囲まれた敷地内にある井戸水はまだ濁っておらず、充分に使うことができる。
用を足す時には近隣の辻便所まで行き、食事はもっぱら、老剣客の帰郷を教えてくれた町外れの茶屋で簡単にすませていた。
茶屋の娘は毎日顔を見せるようになった兵庫にかなり好意的だったが、媚態を示しても口説いてこないのが不満らしく、だんだん態度が素っ気なくなってきている。兵庫自身は、師匠から与えられた女色の戒めがなかったとしても、今はとてもそんな気にはなれなかった。
頭を占めているのはただひとつ。百武城に囚われたままの儲口守恒の安否だ。彼が無事でいるのか、どんな処遇を受けることになるのか、江蒲国を去る前にそれだけは知りたかった。
本当はこんなところでぐずぐずせず、すぐにも江州を出て行くべきだ。
別人が代わりに死んだおかげで、今のところ身の安全は保たれている。だが、いつまでも留まっていると、いずれは人目に立ち口の端に上り、最後には生きていることがばれてしまうだろう。その前に姿を消すのが得策だった。
わかっているが、動けない。
仰々しい迎えに伴われて登城したあと、守恒に関する話は一切もれ聞こえてこなかった。城内に伝手でもあれば情報を集められるだろうが、あいにくそんなものはない。
何か掴めるだろうという期待を込めて訪ねた、儲口家の遠縁の家では肩すかしをくらった。表門が固く閉ざされ、太竹の突っ支いが渡されていたのだ。いわゆる閉門の封印だが、屋内に人の気配はまったくなかった。住人は家から出され、どこかへ移されたらしい。
もうひとつ、守恒と共に訪ねた武士の屋敷を覚えており、最終的にはあそこで話を聞くことになるだろうと思っているが、それは本当に最後の手段だった。
やはり城へ潜り込むしか――再び思うが、それが馬鹿げた考えだということは重々承知している。
内堀をひそかに泳ぎ渡り、塀を乗り越えてうまく城内に入れても、その先どこへ行けばいいのかが皆目わからない。絵図面でも手に入れないかぎり、数千坪もある敷地内をただ徒に走り回ることになるのが落ちだった。警備の目をかいくぐって殿舎に侵入を果たしたとしても、すぐさま大勢の番士に追われて捕縛されるだろう。
捕まるのが嫌なら剣を抜いて抵抗するしかないが、城を相手にひとりで合戦などできるはずもない。
かつてないほど、兵庫は手詰まりを感じていた。これほど自分が無力に思えたことはない。
日が落ちると、彼は菅笠をかぶって外へ出た。行ったところでどうなるものでもないが、とりあえず毎日一度は百武城の傍まで行ってみている。
屋敷町を抜けて南へ下り、東口御門から大手曲輪に入った。夜五つの鐘が鳴る前なら、ここまでは誰でも自由に足を踏み入れることができる。
御殿の中枢殿舎が建ち並ぶ本曲輪のほうへ向かうと、小さな人だかりができていることに気づいた。表御門手前の内堀にかかる橋のたもとに、高札が揚げられているようだ。すぐ近くに番士が数名立って、周囲に目を配っている。
彼らの視線を避けて野次馬に潜り込んだ兵庫は、上背を隠すため少し猫背気味にして、笠の庇の下から上目づかいに高札を見た。
右者主君之命に背き奉り
立身国主代之御役目放棄致し候
剰へ居城捨て逐電致す等種々悪行相働き
其罪数ふるに暇あらず
之に依て磔刑に処し誅戮せしめること
遍く諸人に知らしむるもの也
本文を読んでいても、「右者」の横に大きくはっきりしたためられた名前が、否応なく目に飛び込んでくる。
儲口守恒
わずかのあいだだが、兵庫は完全に自失してその場に立ち尽くした。
誅戮。磔刑――まさか。
しかし何度読み直しても、その衝撃的な文言に変化はない。
なぜだ。
勃然と胸に怒りが湧き起こった。
仮にも名家の当主を、そこいらの罪人のように磔にかけるなどあり得ない。身分にふさわしい切腹の場を設け、腕のいい介錯人をつけてしかるべきだ。
よしんば罪の重さゆえに切腹を許さないのだとしても、なぜ牢屋敷で斬首にしないのか。命を奪う上に刑場で恥を晒させて、誇りまで踏みにじる必要がどこにあるというのだ。
兵庫は老人が死ぬことではなく、その死にざまを軽んじられることに抑えがたい怒りをおぼえていた。
彼が生き存えられないであろうことは、半ばわかっていたような気がする。だが本人があまりにも呑気にかまえており、義父守笹貫道房との絆を信じ切っていたので、あるいはうまく転ぶかもしれないとも思っていた。
高札は横にもうひとつあり、そこには守恒の息子守義の名が記されている。親子を縁座させるつもりらしい。これについても、いささか尋常ならざるものを感じた。
立州を捨てて逃げた張本人の守恒が処刑されるのは、まだわからなくもない。だが、息子も一緒に磔刑というのは度が過ぎているのではないだろうか。ましてその息子は、道房公の血を分けた外孫なのだ。
茶屋の娘が言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎった。
〝このごろ、お殿さまが変だってみんな言ってるよ〟
気まぐれに税を上げ下げし、無意味な作事を命じ、忠孝の士や自身の類縁すらも情け容赦なく処刑する。それらの行いは、兵庫が守恒から聞いていた厳しくも正善な人となりとは合致しなかった。
今の道房公は、老人が知っていた彼とは違っているのだろうか。
高札の前に佇んだまま思案に沈んでいた兵庫は、周囲に人けがなくなったことに、かなり経ってからようやく気づいた。大手曲輪を取り巻く門の施錠刻限が近づいているのだ。急がなければ、曲輪を出られなくなってしまう。
あまりに長く居座っていたせいか、番士の中には訝しげな視線をよこす者もいた。詮議立てされる前に消えるのが賢明だ。
菅笠の庇をぐいと引き下ろし、彼は足早に曲輪を後にした。
刑場へは行きたくない。だが行かねばならない。
旅寓を分かち合い、杯を交わして語り尽くし、守恒の真実に触れた者として、その末期を見届ける責務がある。
まんじりともせず夜明けを迎えた兵庫は、朝から午へじりじりと時が移るのを待ち、午後になると隠れ家に使わせてもらった道場を丹念に清掃して旅支度を調えた。
しばらく草鞋を脱ぐことはないので、藁緒を長く取って脚絆の上から念入りに縛りつけ、結び目もきつくする。守恒の最期に立ち合い、その後ひとつだけすべきことをすませたら、疾風怒濤の勢いで郷を後にする心づもりだ。
外に出てみると、空はどんよりと曇って暑かった。そのうち雨が落ちてくるかもしれない。
高札の添え書きで仕置場の在処はわかっていたので、脇目もふらずに歩いてまっすぐに向かった。花畔道場からほど近い、百武郷の北の入り口付近に設置されているらしい。
竹矢来で囲まれた間口五十間ほどの敷地に近づくと、同じく磔刑を見に来た人々がすでに集まっていた。中には若い娘や子供の姿も混じっている。
人垣を縫って木柵の傍まで行くと、地面に置かれた〈キ字架〉と〈十字架〉が見えた。キ字架は男性用、十字架は女性用の磔柱だ。ということは守恒の息子の妻や、一緒に日角郷へ逃亡していた妹らも縁座となるのだろう。ますます常軌を逸しているように思える。
ほどなく囚人たちが引き連れられてきた。全員が白装束で、両側から挟むように番士ふたりに付き添われている。
先頭はかなり老齢の小柄な男で、そのうしろには妻女らしき老婆、さらに五十代半ばの丸顔の婦人、細身でおちょぼ口の四十男、同じ年ごろの婦人と続き、最後に儲口守恒が現れた。
老人は蒼白な顔をしており、視点がどこにも定まっていないように見える。だが歩く足元は意外にもしっかりしていた。息子の守義と思われる人物が、番士に抱えられるようにして歩いているのとは対照的だ。
彼らは磔柱の上に寝かされ、縄で厳重に縛りつけられた。屈強な男たちが数人がかりで、その柱を架台に立てていく。
検使による形ばかりの本人検め、罪状読み上げが続く中、兵庫はただ守恒だけを見つめていた。
遠目にも、がたがたと五体が震えているのがわかる。虚ろな瞳はゆっくりと左右に振れ、群衆をぼんやり見渡しているようだ。
体を縮めて周囲に溶け込んでいた兵庫は、彼の視線が近づいたのを感じると、背筋と膝のうしろをまっすぐに伸ばした。
目立つ。危険だ。
心の声が警鐘を鳴らしたが、敢えて無視する。
人垣から頭ひとつぶん以上飛び出た彼に、すぐに守恒が気づいた。笠の庇を少しだけ上げると、申し合わせたように視線がぶつかる。
老人の体の震えがぴたりと止まった。
表情がやわらいで安堵の面持ちになり、不安も恐怖もすべて忘れたかのような微笑が広がる。
無事でよかった――言葉にせずとも、その思いがはっきりと伝わってきた。
おれの身を案じていたのですか。
兵庫はぐっと胸に迫るものを感じたが、顔を上げたまま目は逸らさなかった。見守るその先で、守恒が番士のひとりに声をかける。
呼ばれた男は腰を低くして彼に近づいた。その顔に、わずかに罪の意識が見て取れる。世に隠れもない名家の当主であり、主君道房の親戚でもある彼を、こんな場所でごろつきのように殺すのは抵抗があるのだろう。
守恒は首を少し傾けて、彼に何かひと言ふたこと話しかけた。番士は真剣な表情で、小さくうなずきながら聞いている。
ややあって、老人が再びこちらを見た。晴ればれとした顔だ。双眸は美しく澄みきっていて明るい。
脇に控えていた執行人たちが、ゆっくりと前に進み出た。架台ごとにふたりずつき、槍を構えて交差させる。
惜別の時は尽きた。いよいよ処刑が始まる。
検使が合図を送ると、甲高い掛け声と共に勢いよく槍が突き出された。その穂先が囚人の体を二度、三度と突き通すたびに、見物人から悲鳴とも歓声ともつかないものが上がる。興奮して囃したてる男。呻き声をもらす女。けたたましく泣き出す子供。
それらの喧噪から、兵庫は自分を切り離していた。身じろぎひとつせず、最後の瞬間までつぶさに見届ける。
守恒に槍をつけた執行人のひとりは本来の手順に従わず、一の槍で老人の頸動脈を素早く深く搔き切った。大量の血が噴出したが、それによりほぼ一瞬で絶命した彼は、その後の執拗な刺突による衝撃や苦痛を味わうことはなかったに違いない。
すべてが終わった時、守恒の死顔はどこまでも穏やかだった。わずかに開いた口元は笑っているようにさえ見える。
ほどなく小雨が落ち始めた。
見世物を堪能した人々が、三々五々と散っていく。しかし兵庫はすぐには動かなかった。その場にじっと佇み、笠を叩く雨粒の音を聞き続ける。
そんな彼に、そっと近づく者があった。少し離れて立ち、存在を知らせるように小さく咳払いをする。
見ると、それは守恒が最後に会話したあの番士だった。
「お手前は、渡壁義康どのか」
違う、と言いかけて止めた。その名前には聞き覚えがある。たしか守恒が偽名として使っていた。
「いかにも」
短く答えると、番士は慎重な足取りで傍に寄ってきた。
「言伝を頼まれた。あの――」肩ごしに架台を顎で指す。「ご老人に」
「聞こう」
「その前に、あの人物とどういう縁故がおありなのか伺いたい」
「縁故など……。ご城下の飲み屋で、たまたま相席しただけのこと」
適当に言ったが、番士はすぐに信じたようだった。
「なるほど。ご当人もそのようなことをおっしゃっておられた。持ち合わせが少なかったのでいささか借銭したが、まだ返しておらぬのが気がかりだ、と。見世に返済金を預けておいたので、ご足労だが受け取りに行って欲しいとのことだった。律儀なおかただ」
「そうだな」
「ありがとう――と」番士がさらに言う。「くれぐれもそう伝えてくれ、とおっしゃられた」
「たしかに承った。かたじけない」
会釈したあと、兵庫は最後に一度だけ守恒に目をやった。
おさらば、と心の中で告げて踵を返す。
歩き去る彼の背後では慈雨が遺骸を包み込み、その顔に散った血飛沫を優しく洗い流していた。
同宿した宿に、守恒が預け物などしていないことはわかっている。では、老人が言い遺した言葉は何を意味しているのだろう。
考えながら裏道を歩いていた兵庫は、商人町に近づいたところで、はたと思い当たった。一緒に足を運んだ見世がもうひとつだけある。衣類を買い調えた呉服商だ。
そのまま件の見世に向かったが、用心のため中には入らなかった。少し離れた場所から、店内の様子をしばらく窺う。そして、ほかの客が誰もいなくなったのを見計らって大戸をくぐった。
あの日接客してくれた番頭が気づき、商売っ気たっぷりな笑顔を見せる。
「いらっしゃいませ」
「渡壁義康と申す」
「はい。お待ちしておりました」
打てば響くようだ。やはり守恒は、ここに何かを預けているらしい。
「先日ご一緒に見えられたお客さまから、次においでになられたらお渡しするようにと――」番頭は喋りながら奥の箪笥を開け、畳紙に包まれた着物を持ち出してきた。「こちらでございます」
彼が畳に広げたのは、白鼠の地に極小の鮫小紋を白く染め抜いた縮緬地の小袖と、細い白黒縞が入った正絹の紺袴。まとうだけで身も心も引き締まりそうな、格調高く気品に満ちた見事なひと揃いだった。
「ちかぢか仕官の運びとなるよう推挙する心づもりなので、殿へのお目見えにふさわしい衣装を友人に、とおっしゃっておられました」
「この衣装を……おれに」
「はい。情に厚いご友人をお持ちでいらっしゃいますね」
番頭はにこやかに言って、小袖を持ち上げた。
「じつによいお見立てで、きっとお似合いになるはずです。どうぞ、お当てになってみてください」
しばし茫然としていた兵庫は、はっと我に返って首を振った。
「いや、少し急ぐので、そのままもらおう」
「そうですか……」番頭の顔が曇る。「目測りでお仕立てしておりますので、細かい直しをさせていただこうと思ったのですが」
「それには及ばん。手数をかけるが、小さめの包みにしてもらえるだろうか」
番頭は、その時初めて兵庫の旅装に気づいた様子で、愛想よくうなずいた。
「はい。承知いたしました。しばしお待ちを」
彼は丁寧に畳んだ着物の上に畳紙と油紙を重ね、風呂敷包みにしてくれた。それを背負い、見送りを受けて見世を出ると、雨が少し強くなっている。
兵庫は目立たない裏道を選んで下町のほうへ行き、あまりはやっていなさそうな裏路地の飯屋に入った。向かい合わせの小上がりふたつに、仕切りを六枚置いただけの簡素な見世だ。今は、客はそのひとつにしか入っていない。
冷や酒と簡単なつまみを頼み、盃をちびちびとなめながら、日が暮れるのをじっと待った。
このまま雨が降り続けば、暗くなるのは早いだろう。文目もわからぬほどになったら、薬医門を構えたあの武家屋敷へ行く。そこで聞けるだけのことを聞き出したら、あとはもう逃げるのみだ。
時が経つと少しずつ客が入ってきたが、兵庫は誰とも話さず、音も立てず、ただ身の内で苛烈な感情を沸々とわきあがらせていた。
夕刻。さらに激しくなった雨の中を、兵庫は屋敷町まで出向いていった。普段でも人通りの少ない道は、天気のせいもあってさらに閑散としている。
堀を渡って昨夜と同じ大手曲輪に入ると、彼は裏通りに逸れて目当ての屋敷に背後から近づいた。敷地を囲む板塀に沿って回り込み、中の様子をそっと窺う。
家に人の気配はあるが、あまり動きはないようだった。城勤めの侍たちはそろそろ下城してくる刻限だが、主人はまだ帰宅していないらしい。
半周して再び表に回ると、辻角まで行って他家の長屋門の出っ張りの陰に陣取った。ここからなら、例の屋敷の表門に向かう者がよく見える。
闇が深まりゆく中、それから半刻ほども待っただろうか。
馬に乗った侍が、城の方角からゆっくりやって来た。屋敷を訪問した時に見た家紋が馬具についている。供回りは若党三人と槍持ち、馬の口取り、草履取りの計六人だ。
兵庫は彼らが目の前を通り過ぎるのを待ち、隠れ場所から滑り出た。雨音に紛れて背後に近づき、槍持ちが腰に差している短めの木刀を引き抜く。
相手が振り向いたところへ合わせて、正面から胸に一撃。肋が折れたのが手応えでわかる。
くずおれる仲間に驚いた草履取りが、「ひっ」と声を上げて足を止めた。その背中に素早く迫り、首筋に木刀を叩き込む。彼もまた白目を剥いてへたり込んだ。
若党たちがそこでようやく襲撃に気づき、一斉に抜刀する。
兵庫は白刃をかいくぐり、右に左に木刀を振るって、またたく間にふたりを打ち倒した。誰にも致命傷は与えていないが、手加減なしに打ち込んでいるので、一度倒れた者は簡単には起き上がれない。
三人目の若党とは二度打ち合い、相手の獲物を弾き飛ばしたところでみぞおちに痛撃を加えてうずくまらせた。
馬上の武士は、この期に及んでもまだ差し料に手すらかけていない。どうやら武芸の心得はあまりないようだ。
兵庫は木刀を捨てて近寄り、着物を掴んで彼を馬の背から引きずり下ろした。濡れた地面にどさりと落ちた男が、痛みと屈辱に唸り声を上げる。その襟首をひっ捕まえて立たせると、腰から大小を抜き取った。
「歩け」
鋭く命じ、首のうしろを掴んだ手でぐいと押して、無理やり歩き出させる。
奇禍から守ろうとするように馬の首を抱いている口取りの横を通り過ぎざま、兵庫は少しだけ足を止めた。
「これより半刻、誰にも追わせるな。追っ手の姿が見えたら、すぐさま主人を殺す。わかったか」
口取りは、馬と主人と狼藉者のあいだで視線をうろうろさせるばかりだ。兵庫は眦に力を込めて睨めつけた。
「わかったのか」
「は、はい。はい。おっしゃるとおりに……」
歯の根も合わないほど震えている男に、取り上げた差し料を押しつけると、彼は主人と連れ立って裏道へ入った。
「もっと速く歩いてもらおう」
注文をつけると、男は必死の面持ちで足を動かし始めた。混乱しきった様子で、しきりに兵庫のほうをちらちら窺っている。
「それがしを江渡長総と知っての狼藉か。おぬし、いったい何者だ。名を名乗れ」
「六車兵庫」
とたんに、長総の目に認識と理解の光が点った。
「では守恒さまの……」
愕然とつぶやき、彼は少し足をもつれさせた。転ばないよう背中に手を回して支えてやり、その腕で押してなおもぐんぐん歩かせる。
「おれが誰かわかったなら、何のためにこんなことをしているかもわかるはず」
兵庫は静かに言い、さらに細い道へ彼をいざなった。
「公が登城されたあと何が起きたのか、すべて話してもらいたい」
「おぬしは死んだものと思っていた。番士が宿屋で斬ったはずだ」
「あれは別人だ」
「なんと……」
「それより守恒公だ。あのかたが、なぜ刑場で磔にかけられることになったのかを知りたい。あの仕置きは、道房公の沙汰によるものか」
意外にも長総は逆らわなかった。半ば引きずられるようにして城下町を歩き、苦しそうに顔を歪めながらも、弾む息の合間にぽつりぽつりと答える。
「そうだ――いや、はじめはもっと穏当な……逼塞や蟄居といった仕置きを考えておられたようだった。だが突然気が変わられ、磔にかけよとおおせられてな」
「道理に悖ると諫める者はなかったのか」
「無理だ」長総は唇を噛み、顔を伏せた。「そのようなことが、できるはずもない」
大手曲輪を出て屋敷町を通り抜け、商人町から職人町にさしかかるまでのあいだに、兵庫は彼からおおよそのことを聞き取った。
曰く、守恒を城へ迎え入れた時点では、道房公は激怒してはいたものの、義理の息子との再会を喜んでいたようでもあったそうだ。
「本陣備を貸してやる。半月で立州を黒葛の若造から奪還してみせよ」などと無理難題を吹っかけ、守恒を大いに焦らせて楽しむような様子すら見せた。
いかにして追っ手を振り切ったかという話や江州入りまでの経緯にも熱心に耳を傾け、「危難を救ってくれた凄腕の若き剣客」について彼が語ると、身を乗り出すようにして聞いていたという。
そして「いかなるご処分も、甘んじて受ける所存にございます」と平身低頭する守恒に、「当然だ」と冷たく吐き捨てながらも、「数年は陽の下に出られぬものと覚悟せよ」と謹慎刑を匂わせた。
「ところが、そのうち……にわかに気色悪しくなられたかと思うと、いきなり脇息を守恒さまに向かって投げつけられたのだ」
幸い狙いは外れて当たらなかったが、その場にいた誰もがぎょっと息を呑んだ。守恒自身ははじめ、それも何かの戯れかと思っている様子だったが、道房が凄まじい形相で近づいて行くと顔色が変わった。
「御屋形さまは、悍馬のように猛って守恒さまに駆け寄ると、いきなりお顔を足蹴にされた」
彼は横倒しになった守恒になおも迫り、大声で悪罵を浴びせながら二度、三度と蹴りを見舞った。重臣たちが取りついて必死に引き離すまで、その容赦ない暴行は続いたという。
「まさしく狂態――と、おれには思えるが」兵庫は長総を、板塀と悪臭ただよう溝に挟まれた細道に連れ込み、しばし足を止めて顔を突き合わせた。「道房公は、本来そういう人物なのか」
「いや、違う」
かぶりを振った長総の目は真剣だった。
「決して、あのような無体をなさるおかたではなかった。かつて……かつては……」
ぎゅっと引き結んだ口元に、悔しさがにじんでいる。
「御屋形さまは、変わってしまわれたのだ」
「病なのでは」
「そうやもしれぬ」
「では、なぜ療師に診せない」
「嫌がられるのだ。近ごろひどく疑り深くなられてな。宿屋でおぬしを誅殺せんとしたのも、守恒さまが腕利きを雇って何か企てていると勘ぐられたからだ」
彼は首をうなだれ、大きくため息をついた。
「常に刺客に狙われていると思い込まれ、見慣れぬ者は頑としてお傍に寄せつけようとなさらぬ。その怯えようは、樹木の影に妖怪の姿を見る子供さながらだ。かと思えば、かつてのように威風堂々たる主君に戻られることもある。とにかく、おかしい――としか言いようがない」
「それでは、政などとても行えまい。代替わりすべき時が来ているのではないのか」
「なにを無礼な。口を慎め」
長総はふいに激昂し、声を荒らげた。
「他国者に、当家のやり方についてとやかく言われる筋合いはない」
たしかにその通りだが、今は相手の心情など慮る気分ではない。兵庫は眉を逆立て、長総の胸ぐらを鷲掴みにした。
「おれは腹を立てているんだ」
噛みつくように言うと、長総がうっと息を詰まらせる。
「おかしいとわかっていながら、なぜ放っておく。病であれなんであれ、明らかにまともではない振る舞いをしている者に、人の生き死ににかかわる裁定を任せておくなど愚の骨頂だ」
これはただの八つ当たりだとわかっている。だが言わずにはいられなかった。
「守恒さまの――」気を呑まれたように固まっていた長総が、悄然と肩を落としてつぶやく。「あのかたのために、怒っているのだな……」
兵庫は締め上げていた手を少しゆるめた。
「磔刑を申し渡された時、公はどんなご様子だった」
「驚いておられた。いや、むしろ呆気にとられておられたやに思う。だが、すぐに気を取り直され……ただ黙って平伏なされた」
その様子がまざまざと目に浮かんでくる。臆病なくせに、あの人にはそういう、どこか恬淡としたところがあった。
「おぬし、処刑を見届けたのか」
ふいに長総が訊いた。張り詰めた表情だ。
思えば、老人はこの人物のことを〝旧知〟と表現していた。道房公との仲立ちを依頼したのは彼に信を置き、心を許していたからだろう。
尽力した結果があんなことになってしまい、長総もまた痛恨の思いを噛みしめているのかもしれない。
「見届けた」
「どのような……ご最期であられた。苦しまれたのか」
「いや。一の槍でこと切れたように見受けられた」
兵庫は彼の胸ぐらから手を放し、静かに言った。
「穏やかなお顔をなさっておられた」
長総が唇をぐっと噛んで瞑目する。吹き降りになった雨がその顔を濡らし、目尻からこぼれた涙と混ざり合った。
「おれは行く」
低く告げると、長総は黙ってうなずいた。
「言っても無駄とは思うが、追うな」
はっと顔を上げた彼を、まっすぐに見据える。
「誰も邪魔をしなければ、おれはすぐに江州を出て行く。だが行く手を阻む者あらば敵と見なし、ことごとく斬り伏せてまかり通る」
ゆっくり下がって道の角までくると、兵庫は再度「追うな」と囁き、雨の巷に身を溶け込ませた。
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