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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 別れゆく夏
51/161

五十  天勝国東沿岸部・伊都 離郷

 野術師(のじゅつし)の老婆は名を冬木(ふゆぎ)といった。かつて祭宜(さいぎ)になる修行をしていた時に、御山(みやま)でもらった名前だそうだ。普通、降山(こうざん)した者は名を返上するが、彼女は今も勝手にそれを名乗り続けている。野術師の世界では御山ふうに名乗ると、それだけで箔がつくらしい。

 伊都(いと)はあれから、あまり気は進まないながらも冬木と行動を共にしていた。自分も湊へ行くという彼女から、道々仕事の手伝いをすれば小遣いをやると持ちかけられたからだ。

 湊へ着いても、金を持っていなければ船には乗れない。伊都はここまで来るあいだに、はじめに多恵(たえ)が持たせてくれた銭貨をほぼ使い切ってしまったので、何かしら金儲けの算段をしなければならなかった。

 冬木のほうもまた、伊都をつれていると大いに得をするのだという。

「同じ呪符でも、あたしみたいな汚い婆さんからじゃなく、神の使いかと思うようなきれいな娘から渡されれば、よりありがたみが増すってものさ。いつもの二倍ふっかけたって、みんな喜んで払うだろうよ」

 そんな商売の仕方がいいとは思わないが、他人が口出しすることではない。だから伊都はただ言われるままに儀式を手伝い、毎回いくらかの銅銭を受け取った。それが貯まって、今では十五枚になっている。

 老婆は術や儀式を頼んだ百姓たちから情け容赦なく徴収し、その一方で気前よく彼女に分け前を渡した。

 これほど惜しみなく金をよこすのは、あとで取り返せる目算があるからではないだろうか。伊都は何となく、そんな風に感じ始めていた。

 出会った日に(いだ)いた、油断のならない人だという印象は今も消えていない。だから彼女は充分に用心していた。もう、不意打ちで痛い目を見るのはごめんだ。

「そろそろ湊が近いよ」

 同行し始めてから四日目の朝、川沿いの雑木林を歩きながら冬木がそう教えた。

(ひる)になる前には、道の先に海が見えてくるはずさ」

 海――どんなだろう、海って。伊都は胸がわくわくするのを感じた。海についての話を聞いたことはあるが、この目で実際に見るのは初めてだ。

「湊からは、いろんなところへ船が出ているのでしょう?」

「そうだよ。別役(わかえ)国へ行く船。曽良(かつら)国へ行く船。北のほうにある五百(いよ)島や喜友名(きうな)島へ行く船。()つ国へ行く船だって出ているよ」

「外つ国……」

 伊都は低くつぶやいた。海の向こうには、どんな国があるのだろう。どれくらい遠いのだろう。興味はあるが、自分がそんなところまで行けるとはとても思えない。

 現実的に考えるなら、逃亡先には別役国か曽良国を選ぶべきだ。少なくとも言葉は通じるし、風俗や習慣にもそれほど違いはないはずだから。

「そういえば、夕べ夢を見たよ」

 老婆がふいに言って、意味ありげにこちらを見た。

「あの占いの時には見えなかったものが、いくつか夢の中に出てきた。近くに寝ていたから、嬢ちゃんの影響を受けたみたいだね」

「どんなものが見えたんですか?」

戦場(いくさば)。旗印を掲げた船。御山の西の大門。それから前に見たふたりの男が、もう少しだけはっきりと見えたよ。ふたりともまだ若そうで、ひとりは刀を持っていた。もうひとりは持っていなかった」

 藪をかき分けていた伊都はどきりとして、その拍子に手の甲を棘で引っ掻いてしまった。皮膚に浅くついた赤い傷を舐めながら、いま聞いたことについてじっくり考える。

 ひとりは刀を持っていた。もうひとりは持っていなかった。

 前者は武士ということだろうか。だったら、きっとその男が〝望みが叶うほうの人〟に違いない。仇討ちが望みなのに、刀を持たない身分の人が力を貸してくれるとは思えなかった。

 それとも老婆が言う〝運命の男〟は、復讐を直接手助けしてくれるわけではないのだろうか。

 占いなんて、あやふやでちっとも頼りにならない――伊都はひそかに嘆息した。だが、そう思いつつも、やはり気にはなってしまう。こんなに心を乱されるなら、いっそ何も聞かずにいたほうがよかった。

 そもそも、どうして〝男〟なのだろう。今わたしは男の人が怖いし、信用できるとも思えないし、できればいっさいかかわらずにいたいぐらいなのに。

「ほら、風のにおいが変わったよ」

 冬木が声をかけ、伊都の注意を引いた。顔を上げて、木々のあいだを渡ってくる風を大きく吸い込むと、これまで嗅いだことのない不思議なにおいがたしかに感じ取れる。

「海のにおい……?」

「汐のにおいだね。そろそろ波の音も聞こえてくるだろう」

 その時、木立の向こうで何かがきらめいた。戸板の上に砂を流すような音が、遠く微かに聞こえている。これが波の音だろうか。

 伊都は足を速めた。雑木林の切れ目まで一気に行き、木々のあいだから顔を覗かせる。たちまち目の前に、息を呑むほど広々とした明るい景色が開けた。

 見渡す限りどこまでも続く青また青。その色は沖へ行くほど深く濃くなっていく。海面には小さな波がいくつも立ち、日差しを反射してきらきらと輝いていた。

 星が落ちてきて、水の上で跳ね回っているみたい――伊都はため息をつき、その光景に心奪われて立ち尽くした。

「湊は左のほうだよ」

 冬木が追いつき、うしろから言った。そちらに目をやると、静かな入り江のほぼ中央に少し突き出した土地があり、たくさんの船が集まっているのが見える。海岸には板葺き屋根の家屋や小屋が、肩を寄せ合うように軒を連ねていた。船を待つ旅人のための旅籠(はたご)か、あるいは湊で働く人々の住まいだろうか。

「浜を歩いていこう」

 老婆は砂浜に下りていき、波打ち際をゆっくりと歩き始めた。黙ってついて行く伊都の視線は、次から次へと寄せて砂を洗い、また戻っていく波の動きに釘づけだ。

「海は気に入ったかい」

 肩ごしに視線をよこし、冬木がにやりと笑う。

「ええ。とっても大きくて、とってもきれい……あっ」

 砂をもこもこと押し上げ、何かが這い出てきた。今まさに、そこに足を下ろそうとしていた伊都が声を上げて固まる。その小さな蟹は砂を頭に載せたままちょっと動きを止めたあと、猛然と横ばいで波打ち際に向かっていった。波が寄せ、それをすぐに沖へとさらっていく。

 ちっぽけな生き物に本気で驚かされたことが可笑(おか)しくて、伊都は思わず笑みをこぼした。

「嬢ちゃん、湊から先のことはもう決めたの」

 前を行く冬木が訊き、歩きながら足を振って砂を払った。

「船に乗るなら、知り合いの船頭を紹介してあげるよ」

「船頭?」

 小走りに横に行くと、老婆は彼女を見てうなずいた。

「湊には知り合いが大勢いる。行きたいところが決まっているなら、そこへ行く船に乗れるよう話をつけてあげてもい」

 彼女は真面目な表情をしていた。誠実そうな。伊都はその顔をじっと見つめ、それから湊のほうに目をやった。

「夢の中に、御山の門が出てきたのでしょう? それは、わたしが昇山するということだと思いますか」

「そうかもしれないね。そして、そこにあの男たちのひとりがいるのかも」

 伊都もまた、真剣な顔で考え込んだ。

 御山は祈りの場だ。戦いの場ではない。だから、そこに刀を持つ男がいるとは思えない。占いで告げられたうちのひとりがいるとしても、それはきっと刀を持たない男のほうだろう。

 名家の当主とその仲間への復讐を、後押しする力などない人。でも、穏やかな祈りの日々に導いてくれるかもしれない人。その人を捜しに、御山へ行ってみることはできる。別役国で船を下りて、地元の堂司(どうし)昇山(しょうざん)を願い出れば、御山への行き方を教えてくれるはずだ。

 でも、だめ。そんなのはだめ。

 伊都は眉間に皺を寄せ、決然と首を振った。

 刀を持つ人――戦場(いくさば)へ導いてくれるほうの人に出会わないと。その人を見つければ、今すぐは無理でも、いつかこの手で志鷹(したか)頼英(よりひで)を討てる日が来るかもしれない。

 そこまで考えたところで、すべては不確かな占いが元になっているのだと再び思い出し、うんざりした気分になった。わかっているのに、どうしてこんなにも振り回されてしまうのだろう。ほかに何も頼るものがないから、当てにならないと知っていても、すがらずにいられないのかもしれない。

 こんな自分は嫌だった。占いを聞いてから、前よりも心が弱くなってしまった気がする。

 湊に着いて野術師と別れたら、彼女が話したことはきっぱり忘れよう、と思った。そして元の自分に戻り、あらためてきちんと先のことを考えるのだ。

「ここからふたつの湊を経由して、曽良国まで行く船があるよ」老婆が伊都の迷いを見て取り、優しく言った。「沖合にある百千(もち)島と別州(べっしゅう)に寄港して、最後に曽州(そしゅう)の湊に着く。どこで降りるかは、乗ってみてから決めても遅くはないんじゃないかね」

 それはいいかもしれない。頭の中の霧が少し晴れたように感じた。

「そうします。船に乗って――それから、ゆっくり考えます」

「じゃあ、船頭に会わせてあげよう。あたしの口利きがあれば、船賃をまけてもらえるよ」

 話をしながら足を踏み入れた湊の中は、多くの人でごった返していた。市が立つ日の大通りのようだ。湊で働く人足や船の関係者らしき人が多く目につくが、旅姿の人も少なくはなかった。伊都と同じく、これから船に乗ってどこかへ行くのだろう。

 冬木はほんとうに知り合いが多いらしく、歩きながら何人かの男と目くばせを交わしていた。その中のひとりが伊都をじろじろ見てにたりと笑い、妙に落ち着かない気持ちにさせる。

 突堤の手前の開けた場所へ来ると、冬木はそこに建ち並ぶ小屋のひとつに近づき、ようやく足を止めて振り返った。

「あたしはこれから、船頭と話をつけてくるよ。嬢ちゃんは、そら、あっちに見える見世(みせ)を覗いて、船に持っていくおやつでも買っておいで」

 そう言って、袂から取り出した銅銭を三枚、素早く伊都の手に握らせる。

「いいえ、もらえません」

 あわてて返そうとしたが、彼女は受け取らなかった。

「いいんだよ。これでお別れだし、あたしからの餞別だと思っておくれ。嬢ちゃんと一緒に旅ができて、楽しかったからね」

 丸顔の皺をさらに深めて微笑み、冬木は伊都の背中をやんわりと押した。

「さあ行った、行った。話がついたら、すぐ呼びにいくよ」

 伊都はぺこりと頭を下げ、言われたほうへ歩き出した。行く先には、酒や食べ物を商う見世がいくつも並んでいる。しかし彼女はそちらへは行かず、人波に紛れるとすぐに方向を変えて、小屋のほうへ戻っていった。裏手からぐるりと回り込み、冬木の背後にそっと近づく。

 船頭に会うと言ったのに、老婆はまだ同じところに立ったままだった。誰かを待っているように見える。

 伊都は小屋の外壁にぴったり寄り添い、片眼だけ覗かせて彼女の様子を窺った。

「よう、業突(ごうつ)くばばあ。あくどく稼いでるかい」

 少し経って姿を現したのは、先ほど伊都に嫌な視線を投げかけたあの男だった。六尺近い大男で、顔の下半分は真っ黒な髭に覆われている。単衣(ひとえ)の胸元からも、濃い胸毛が覗いていた。

「見たぜ、さっきの。上玉じゃねえか。どこからさらって来た?」

「馬鹿をお言いでないよ。一緒に仲良く旅してきたのさ」

 老婆は口をゆがめ、木で鼻をくくるように言った。

龍康殿(りゅうこうでん)あたりに連れて行きゃ、あの子はうんと高く売れるよ。器量だけじゃなく頭もいい。作法を叩き込まれてるし、礼儀正しい。元は武家娘か、大(だな)のご令嬢に違いないよ」

「だがなあ、まだ小さすぎるぜ」

 大男が(ずる)そうに言って、舌を鳴らす。

「あれじゃ、客前に出せるまで何年もかかっちまう」

「難癖つけるなら、行っちまいな。買い手はあんただけじゃないんだからね」

 冬木はあくまで強気の口調だ。すると大男は根負けしたように両手を挙げた。

「わかった、わかった。食えねえばばあだぜ、まったく。いくらで渡す?」

「金銭二枚。それ以下じゃだめだね」

「この野郎、吹っかけやがって」男は威嚇するように肩をそびやかした。だが顔は半分笑っている。「一金八銀でどうだ」

「一金二十銀」

「もうひと声」

「一金十八銀。もう負からないよ」

 そこまで聞いて、伊都は小屋から離れた。目立たない程度に足を速めて人のあいだをすり抜け、まっすぐに突堤へ向かう。

 係留されている大型船は五隻だった。人の出入りが(せわ)しなく、すぐにも帆を揚げそうな船がその中に二隻ある。伊都は双方をじっと見比べ、船体の手入れが行き届いて見えるほうに近づいた。

 渡り板のすぐ傍で、荷揚げの様子を見守っている男がいる。気難しそうな顔をした、短軀ながらもがっしりとした体つきの壮年だ。人夫たちに時折大声で指示を飛ばしているので、おそらく船の責任者だろう。

 伊都は胸をどきどきさせながら、彼のすぐ傍まで行った。とても怖そうで、話しかけるのには勇気がいったが、ぐずぐずしてはいられない。

「あの、この船の船頭さんですか?」

 男は驚いたように伊都を見て、眉根に深く皺を寄せた。きっと、こんな風に子供に話しかけられることなど、めったにないのだろう。それでも彼はすぐに気を取り直し、堅苦しい口調で答えた。

「そうだ。船主で船頭の甚八(じんぱち)だ」

「もう、すぐに湊を出るのでしょう?」

「見ての通りだよ」

「どこへ行く船ですか」

「別州の土門(どもん)湊に寄って、そのあと曽州の押尾(おび)湊へ向かう。なんだい、乗りたいのかい」

「はい」

 甚八は怪訝顔で、伊都の背後に目をやった。しかし、そこに彼が見いだせるものは何もない。

「お()っつぁんや、おっ()さんは?」

「いません。わたしひとりです」

 彼はあらためて、伊都を上から下まで眺め回した。だが、先ほどの大男のような嫌な視線ではない。

「小さいのに、ひとり旅かい」声が少しだけやわらいだ。

「そうです」

「金は持ってるのか」

「少し。曽州まで行くのに、いくらかかりますか」

「銀三」

 足りない。伊都は気が沈むのを感じた。だが、ここまで来て簡単にあきらめるわけにはいかない。

「手持ちは銅銭十八枚だけです」

「ちいっと、足りねえな……」甚八は用心深く言い、ふっとため息をついた。「残念だが」

「これで乗せてもらえませんか。足りない分は、船の中で働きます」

 そのとたん、船頭の顔に鋭い怒気がひらめいた。

「おい、ふざけるな。おまえみてえなちびっ子に、おれの船の中でいかがわしい商売をさせるつもりはねえ!」

 頭ごなしに怒鳴りつけられ、稲妻に打たれたようなしびれが背筋を走り抜ける。荷を運んでいる屈強そうな人夫たちまでもが、思わず足を止めたほどの凄まじい怒声だ。

 伊都は棒を呑んだように硬直しながら、なぜ怒鳴られたのかを必死に考えた。船の中で商売……いかがわしい……ややあってその意味に思い至り、たちまち体の中で憤りが膨れ上がる。

 今度は彼女が怒る番だった。

「いかがわしい商売などしません!」

 毅然と頭を上げて斬りつけるように言うと、甚八は眼窩からこぼれそうなほど目を丸く見開いた。

「船の雑用を手伝わせてもらえたらと思っただけです」

 完全に気勢を削がれた甚八は、何も言葉を紡ぎ出せないまま鯉のように口をぱくぱくさせている。それを見て、船の上にいる水夫(かこ)たちがほのぼのと笑った。すぐさま彼らの(あるじ)が、船頭の威厳を取り戻して大声を張り上げる。

「てめえら何さぼってやがる。とっとと荷揚げをすませろ。楫子(かじこ)は持ち場につけ。帆を揚げる支度はできてるんだろうな。どいつもこいつも、ぼやぼやしてんじゃねえぞ!」

 部下たちを追い散らし、甚八は再び伊都のほうを見た。意外にも、その目に罪悪感がにじんでいる。

「なあ、さっきは悪かったな。おまえさんがあんまり別嬪だったんで早合点して、つまんねえ言いがかりをつけちまった。だが航海中に水夫をたぶらかして、ひと商売する身持ちの悪い女がよくいるんだ。中には、まさかと思うような若い……小さい娘もな」

 まっすぐな人だ――そう感じた。曲がったことや嘘が嫌いな人。少し短気だけど、自分の欲のために他人を傷つけたりはしない。

「いいんです。わたしも、怒鳴ってごめんなさい」

 謝ってから顔を上げると、自然に視線が合った。そのまま甚八が真剣な面持ちで考え込む。

 やがて彼は小さくうなずいてみせ、その瞬間、伊都は自分が船に迎え入れられたことを悟った。

「急いで乗りな。すぐ板を外して帆を揚げるぞ」

「ありがとう」

 渡り板を駆け上がる彼女を、水夫たちが興味深げに見ている。出会い頭に船頭とひと合戦やった、おもしろい女の子だと思っているのだろう。

 荷揚げ人夫たちが全員船を下り、最後に甚八が上がってくると、すぐに錨が引き上げられた。太い帆柱に(むしろ)帆が張られ、風を受けて大きく膨らむ。

 船がゆっくり動き出すと、伊都は船(べり)に頬杖を突いて、遠ざかっていく湊を眺めた。

 これでついに、生まれ故郷の天勝(ちよし)国とはお別れだ。次に天州(てんしゅう)に戻れるのは、はたしていつになるだろう。きっと、何年もかかるに違いない。

 でも必ず戻ってくる。もっと大きく、ずっと強くなって。

 しばしのあいだ感慨に浸っていた彼女は、何か叫びながら突堤を走ってくる人影があることに気づいた。

「お待ち! 逃がさないよ!」

 冬木だ。あの大男もすぐうしろから駆けてくる。だが船は滑るように水の上を進んでおり、ふたりがどんなに必死に走ったところで追いつくはずもない。

 伊都は老婆が自分を売ろうとしたことは、恥ずべき背信行為だったと思っている。だが、うまく裏をかいたので、腹立ちはもう収まっていた。それに船に乗ることができたのは、彼女が太っ腹に手間賃を払ってくれたお陰だ。たとえ、あとで取り返すつもりであったとしても。

 だから伊都は船の上から冬木に頭を下げ、大きな声で言った。

「お世話になりました。さようなら」

 それはここへ来るまでに出会い、恩義を受けたすべての人々への感謝と惜別の挨拶だった。


 船の中に客用の個室はない。後部にある船室は、広いが何もないただの板間で、船員と客はそこに(むしろ)を敷いて雑魚寝することになっている。男女の区別もないが、いちおう女は女だけで固まり、目隠し代わりの網を天井から下げて男たちとのあいだを仕切っていた。

 明かり取りの窓すらない船室は暗く、油が燃えるにおいと汗臭さが常に充満していて、あまり居心地がいいとは言えない。だから伊都は、昼間はなるべく外で過ごすようにしていた。

 海はいくら見ていても飽きないし、潮風に吹かれていると船の揺れもあまり気にしないでいられる。

 ひどい船酔いに苦しんでいる客もいるが、彼女はそこまでつらい思いはせずにすんでいた。甚八の話では、船に酔うか酔わないかは、もともとの体質と経験による慣れで決まるという。

「よう、小さいお姫さん」

 海に出て四日目の晴れやかな朝、いつものように甲板で水平線を眺めていた伊都は、右舷側にある居室から出てきた甚八に声をかけられた。もうすっかり懇意になった彼は、ときどきふざけて彼女を〝小さいお姫さん〟と呼ぶ。近ごろは水夫(かこ)たちまで、その真似をするようになっていた。

「朝飯は食ったのかい」

「はい」

「じゃあ、知工(ちく)を手伝ってやってくれ」

 知工とは船頭を補佐する事務方のことで、甚八は誠史郎(せいしろう)という三十代前半の男にその役目を任せていた。彼は見た目はひょろひょろと頼りないが、事務仕事には()けており頭が切れる。しかし経費の計算や積み荷の管理、出入港の書類作りなどを一手に引き受けているため、いつも多忙で目が回るような思いをしていた。

 そこで、伊都が読み書きも算術もできることを知った甚八が、彼の助手につけることを思いついたのだ。

 もともと彼女は、足りない船賃の代わりに力仕事でも何でもするつもりだったので、これは願ってもない話だった。

 少し立ち話をしてから甚八と別れ、すぐに左舷側の居室へ向かう。この船では船頭と知工だけが個別の居室を持っていた。誠史郎の部屋は甚八のそれよりも狭いが、整理が行き届いていて居心地がいい。

 左舷には航海の安全を司る濤神(おおなみのかみ)を祀った祭壇があり、その横が知工の居室になっていた。

「誠史郎さん、おはよう。お手伝いにきました」

 扉を開けると、船箪笥(ふなだんす)の上に屈み込んで何か書いていた誠史郎が微笑んだ。

「ああ、千絵(ちえ)さん」

 乗船以来、伊都は〝千絵〟と名乗っていた。かつてのお稽古仲間の名前も、もうそろそろ品切れだ。だが他国へ到着してしまえば、何の遠慮もなく本名を名乗れるようになる。それまで、あと少しの辛抱だった。

「助かった。入費の記帳をお願いしていいですか。次の湊へ入る前にすませておかないと」

 誠史郎は物腰がやわらかく、誰に対しても常に丁寧な口調を崩さない男だ。しかしこれで、怒るとけっこう怖いのだという。(かしき)と呼ばれる水夫見習いの少年与助(よすけ)などは、親方の甚八よりも彼と話すほうが緊張すると言っていた。

 伊都は誠史郎に対して緊張は感じない。むしろ、彼と一緒にいると気が休まった。穏やかで落ち着いた話しぶりが、亡き父を少し思い出させるからかもしれない。

「次は別州(べっしゅう)土門(どもん)湊でしょう?」帳面を床に置き、数字だらけの書き付けを束ねながら訊く。「いつ着くんですか」

「風がいいので、明日の(ひる)過ぎには。沖待ちで手間取らなければ、明日中には湊に入れるでしょうね」

「明日……」

 伊都は小さくつぶやき、数字を書き写し始めた。さほど集中を要する仕事ではないので、頭の片隅ではそのまま考え事を続ける。

 とうとう最初の湊が近づいてしまった。どこで船を降りるか、今日のうちには決めなければならない。

 別州か、それとも曽州(そしゅう)か。

 難しい選択だった。どちらにも知り合いはいない。頼っていく先もない。つまり、どちらに行くのも自由だ。しかし同時に、どちらを選ぶにも決め手に欠ける。

「千絵さんは曽州まで乗るんですよね?」

 記帳し終えた書き付けを整理していると、ふいに誠史郎が訊いた。

「あの――まだ決めていないんです。別州で降りるかも」

「当てのない旅ですか」彼は訳知り顔でうなずいた。「この先、何をしたいと思っているんです?」

「それも、まだよくわからない……。どこかで働き口を見つけて、もう少し大きくなるまで安全に暮らせるようにしたいとは思っています」

「じゃあ別州で降りて御守(みもり)国へ行き、御山(みやま)昇山(しょうざん)してもいいかもしれませんね。女性や子供にとっては、これ以上ないほど安全な場所ですから。衣食住が保証されますし、修行しながら働くことができますよ」

 またしても御山が出てきた。やはり、あそこへ行く運命なのだろうか。

「でもわたし、ちっとも信心深くないから」

「そんなのかまいませんよ。信仰心のない人だって、たくさん昇山します。時には下界で罪を犯した人が、その刑罰から逃れるために御山へ逃げ込むことも」

 誠史郎は言葉を切って、内緒話をするように少し顔を寄せた。

「実は、わたしの昔の知り合いに、そういう経緯で昇山した男がいるんです」

「ほんとうに?」

「ほんとうです。でも彼は修行の中で信仰に目覚めて、のちに立派な祭宜(さいぎ)になりました。今は伝道の仕事に従事して、国から国へと歩き回っています」

 話しながら、誠史郎はぬる茶を汲んですすめてくれた。

「まあ、わたしの本音を言えば、千絵さんが曽州まで乗っていってくれたほうが嬉しいですけどね」

「猫の手も借りたいから――でしょう?」

 伊都は彼と顔を見合わせ、声を揃えて笑った。


 翌日も快晴で順風だった。船は白波を立てて快走している。

 船(べり)にもたれた伊都が眠そうな顔をしているのを見て、水夫(かこ)たちが次々にからかいの言葉をかけてきた。

「目が半分しか開いてないぜ」

「海に落っこちるなよ、小さいお姫さん」

 眠気に苛まれているのは、ひと晩じゅう寝床の中でまんじりともせずに、行き先について考え続けたせいだ。だが、その甲斐あって、ようやく心を決めることができた。

「おお、眠そうだ」

 舳先(へさき)で伝馬船を点検してから甲板に下りてきた甚八が、炊の与助をつれて通りすがりに顔を覗き込む。

「迷ってるらしいな。どこまで乗ってくか、もう決めたかい」

「はい」

 伊都はうなずき、きっぱりと言った。

「曽州まで行きます」

「そうか」

 甚八が(いか)めしい顔を少しなごませる。

「誠史郎が大喜びするな。おまえさんが、よく手伝ってくれるって言ってたぜ。うちの船がもうちょいでかかったら、いっそ雇い入れてふたりめの知工にしちまうんだがなあ」

 彼は自分の冗談に笑い、伊都の頭を軽くなでてから、梶取(かじとり)の様子を見に行った。そのあとを、与助が子犬のように追っていく。

 甲板に残った伊都は、手すりに両腕を載せて遠い水平線に目をやった。

 ずいぶん悩んだが、よくよく考えて決めたので後悔はない。御山での安全な暮らしには少し心惹かれたが、今は縁がなかったものと思っている。

 どうせなら遠くまで行こう。せっかく船に乗ったのだから、行けるところまで。曽州へ。そして――そこで運命を切り開こう。

 伊都は潮風の中で微笑み、大きく伸びをして眠気を払ってから、入港の準備に追われているはずの誠史郎を手伝いに行った。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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