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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 戦(そよ)ぐ春景
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四   三鼓国郡楽郷・黒葛寛貴 兄弟

 丈夫はせべ国の生明あざみ(ごう)を出てから馬の背に三日半揺られ続けて三鼓みつづみ国に入り、さらに国境くにざかいから五日あまりの旅を経て、黒葛つづら寛貴(ひろたか)は夕闇深まる中ようやく郡楽ごうら城の麓御殿ふもとごてんに辿り着いた。道中の大半を雨に降られたため、下着にまでじっとりと水が染み通っている。だが、温暖で雨の多い土地に生まれ育った南部人は、濡れることをあまり気にしない。

 表の一室を借りて手早く衣服を整えた彼は、主君である兄の黒葛禎俊(さだとし)に会うため、近習きんじゅう鳥谷部とりやべ直恒(なおつね)を伴って中奥なかおく御座所ござしょへ向かった。

「郡楽城は久しぶりだ」

 中庭に面した回廊を歩く寛貴のつぶやきに、微かな郷愁の響きがにじむ。青年期になるまでここで過ごした彼にとって、郡楽は今もかけがえのない実家だった。

「表の様子が、以前と少し違っていたなあ」

「大広間のふすま絵が、当世風の華やかなものに変わったようです」

 寛貴のうしろを歩きながら、持ち前の穏やかな声で直恒が答える。彼も十代のなかばまで郡楽にいたため、この城のことはよく知っているのだ。

「それから書院の入側いりかわが板敷きになっていました」

「前は畳だったか」

「はい」

 寛貴は感心しながら唸った。「細かいことまでよう覚えとるもんだ」

 中奥の殿舎に入ったふたりは、御座所に続く長い廊下の先で、禎俊の正室富久(ふく)に出くわした。彼女は、兄の最初の妻だったてるが病死した翌年、支族の玉県たまかね家から輿入こしいれした後妻だ。寛貴自身がその同じ年に迎えた三度目の妻、喜多きたの実姉でもある。

 廊下の脇へ控える寛貴と直恒の傍へ、侍女を三人引き連れた富久が着物の裾を引きながら、れったくなるほど勿体もったいぶった足取りでやって来た。初夏のこととあって、艶のある白い綸子りんず間着あいぎをまとい、藤紋の刺繍が施された打掛を腰巻に着ている。鬱金うこんの地に朽葉くちば色で麻の葉文様を染め抜いた細帯の端を、前に長く垂らしているのがいきだ。

義姉上あねうえ

 軽く会釈をしながら、寛貴は二重の意味で〝義姉〟である富久の顔をじっくりと見た。五年前に兄の元へ輿入れした当初と、それほど変わってはいないようだ。相変わらず、尊大でふてぶてしい面構えをしている。

「寛貴どの」富久は鮮やかな紅をいた唇の端をわずかに上げて、少しも親しみのこもらない笑みを作った。「ご健勝のようで何よりです。喜多はどうしていますか」

「元気ですが、日々忙しゅうしております。なにしろ、子が育ち盛りゆえ」

 満面の笑顔で言ってやると、富久の目がすっと険しさを帯びた。嫁いで五年も経つのにまだ子を産めずにいる彼女にとって、ふたつ下の妹がすでに寛貴に息子を与えている事実は受けれがたい屈辱なのだ。

「まあ。乳母をつけておられぬのですか」木で鼻をくくるように言う。

「我が手で子を育てる喜びは、何物にも代え難いもの。どれほど多忙であっても、それをつらいとは感じぬのですよ」

 おまえにはわからぬだろう、と言外に匂わせた寛貴に、富久は冷たい視線を浴びせた。

「いくらでも人を使えるお立場ですのに。気前のよいところをお見せになって、少しは妹に楽をさせてやってくださいませ。子供の世話に慣れている女中の心当たりがありますから、ご紹介しましょうか」

 富久は人の言うことを素直に取らず、いつも何かと混ぜ返しては論点をずらそうとする。そういうあま邪鬼じゃくな人間に我慢がならないたちの寛貴は、人を小馬鹿にしたような物言いをする彼女を一発ひっぱたいてやりたくなった。が、ぐっと自分を抑える。たとえどれほど腹が立とうと、兄の正室を兄の御殿で殴ることなどできない。

 二度目の妻に不祥事があって離縁したあと、ほどなく寛貴は三人目の妻として喜多をめとったが、それは兄禎俊に対する富久の強力な口添えによって実現したことだった。彼女は姉妹揃って黒葛家にとつぐことに、なぜか異様なまでの執着を見せたのだ。

 そんな経緯で迎えた喜多に、当初寛貴はなかなか愛情を感じることができずにいた。しかし今は違う。三年前に嫡子の俊紀としのりが産まれたのを機に、彼は妻を心から愛おしく思うようになり、ふたりの絆もおのずから深まった。〝子はかすがい〟とはよく言ったものだ。

 だが、兄はどうだろう。はたして、この妙に底知れないところのある女に、少しでも愛情を抱いているのだろうか。

 そんな寛貴の思いを読んだように、富久が皮肉っぽく微笑んだ。

「御座所で殿がお待ちです。いろいろとお悩みごとが多いようなので、どうぞ胸の内を聞いてさしあげてください」

「及ばずながら」

 最後まで冷たい慇懃いんぎんさを保ったまま、ふたりは挨拶を交わして別れた。富久が去ったあとも、辺りには濃厚な香の匂いが残っている。近ごろ女たちが〝天山てんざんふう〟などと言って熱中している、贅沢で手の込んだ装束や化粧は、素朴で自然なものこそ美しいと感じる寛貴の趣味には合わなかった。

「何もかも気に食わん女だ」

 歩き出しながらぼそりと呟いた寛貴のうしろで、直恒が眉をひそめる気配がする。

「ああ、わかっとる。ほかでは言わん」

 近習を安心させてやり、寛貴は廊下をの先を折れて、中御座之間なかござのまの前へ進み出た。入り口に控える若い侍臣が、先触れを受けていたとみえて心得顔で彼の来訪を告げる。

 部屋にひとり通された寛貴は、上段の間に座る黒葛家宗主禎俊(さだとし)の正面に腰を下ろすと、深く頭を下げて礼を取った。

御屋形おやかたさま」

「よせ、よせ、水くさい」兄が鼻を鳴らす。「もっと近くへ寄れ。すぐに酒肴の支度もさせるからな」

 寛貴は彼と顔を合わせてにんまり笑い、畳の上を膝行いざって前へ進んだ。

「兄上、お久しぶりです」

「息災だったか。俊紀はいくつになった」

「三つになりました。すっかり腕白になって、手に余っとります」

「会いたいな。次の年改めにでも連れてきてくれ」

「はい。ぜひ顔を見てやってくだされ」

 言葉を交わしながら、寛貴は禎俊の様子を慎重に窺った。普段と変わりなく振る舞ってはいるが、どことなく顔色が冴えない。しばらく会わずにいたあいだに、なにやら急に老け込んでしまったようだ。細身だが筋骨たくましく大柄なはずの兄が、ひと回り小さくなったように思えた。よく見ると、低めにった頭髪に幾筋か白いものが混じっている。前に会った時には、たしかにあんなものはなかったはずだ。

 そして何より、ほがらかな口調の中にも、隠しきれない内心の懊悩おうのうが滲み出ている。

「兄上」寛貴は少し表情を引き締め、背筋を伸ばしてまっすぐに兄を見つめた。「この度は急なお呼び出し、驚きました」

 禎俊の目に暗い陰りがよぎる。

「家老たちや評定ひょうじょう衆に伝えるよりも先に……おまえに内々で話したい、と思ってな」彼は噛みしめるように言って、深いため息をついた。「七草さえくさ貴昭たかあきも呼びたかったが、移封いほうしたばかりで所領を空けさせるのは、さすがにはばかられるのでやめにした」

 本当は兄弟三人で話し合いたかったとなると、これはよほどのことだ。寛貴の全身に緊張が走る。

「何が起こったのですか」

 禎俊はうつむいたまましばらく沈黙していたが、やがて懐から一通の書状を取り出して寛貴に差し出した。

「まずは、これを」

 沈痛な面持ちの兄から書状を受け取り、さっと開いた寛貴の目に〝ちょく〟のひと文字が飛び込んできた。黒々とした墨書の末尾には差出人の署名も花押かおうもなく、日付の横に大判の角朱印がされている。

 大皇たいこう勅書だ。そう悟った瞬間、両腕の肌がぞくりと粟立あわだった。くそ、なんてこった、これはたぶん、おれが考えていた以上の厄介事だ。

 寛貴は唇を噛んで、書面に二度、目を通した。一度目はゆっくり。二度目はさらにゆっくりと、舐めるように。読み終えてようやく顔を上げた時、頬に血をのぼらせた彼の口許は抑えようのない憤怒に歪んでいた。

「若君を——貴昌たかまさどのをしちに出せ、と?」

 食いしばった歯のあいだから、きしむような声がもれた。虚ろな目を向けた禎俊が、忌々《いまいま》しげにうなずく。

 黒葛家はこの春、守笹貫かみささぬき家の領国のひとつである立身たつみ国に攻め入った。事の発端は、先年の冬に守笹貫家が三州さんしゅう侵攻を画策し、支族を差し向けて国境くにざかいの周辺を荒らしたことにある。黒葛家はその報復として立州りっしゅうに兵を進め、国主代行の儲口まぶぐち守恒(もりつね)を撤退させて、本拠の七草をはじめとする全域を手中に収めた。

 こうした名家同士の私闘は、表向きには禁じられている。だが干戈かんか時代以降も絶えたことはなく、阻止する有効な手立てもないため、そのほとんどは黙認されている形だ。

 だが今回、大皇三廻部(みくるべ)勝元(かつもと)は例外的に、勅書をもってこの一件を厳しく糾弾きゅうだんしてきた。それもただ非難し、叱責しただけではない。守笹貫家への立州の即時返還、他家との私闘を繰り返さないという誓紙の提出、さらにその保証となるものを差し出すよう求めている。

 勅書で名指しされた黒葛貴昌は、禎俊と最初の妻(てる)との間に産まれた次子で、現在七歳。夫妻の長子だった実俊さねとし疱瘡(ほうそう)のためわずか四歳で世を去ったあと、正式に黒葛宗家の後継者と定められた。その大切な跡取り息子を人質に出せと、大皇が——天山てんざんが要求しているのだ。


 全ての人の記憶にある限り昔から、西峽せいかい北部に高々とそびえ立っていた大陸最高峰が、いつから〝天山てんざん〟と呼ばれ始めたのかは記録に残っていない。だが約四百年前に干戈時代が終わり、武家の序列の頂点たる大皇位が創設されて初代門廻(せど)有嗣(ありつぐ)った時には、もうその呼び名が浸透していたことはたしかだ。

 大陸全土ならびに周辺の島々を領土として建国を宣言した有嗣は、大皇の権威にふさわしい巨城を天山の頂上に築き、それにちなんで国号を〈聳城国たかしろのくに〉と定めた。以来〝天山〟は単なる山の呼び名ではなく、大皇とその朝廷にまつわるさまざまなものを表す言葉となって広く使われている。

 昔気質(かたぎ)の庶民や年寄りたちは、往々にして大皇を〝天山さま〟と呼んだ。誰かが〝天山のすること〟と言えば、それは朝廷の行いや決めごとを指している。

 そして今、寛貴ひろたかは怒りに震えながらその言葉を口にした。

「いくら〝天山のすること〟とはいえ——」頭に血がのぼりすぎて、軽い目眩すら感じる。「こんな暴虐非道な下知げちに従えるか!」

 吐き出すように言った彼に、禎俊さだとし静謐せいひつだが強い眼差しを向けた。

「たしかに非道……だが、従わざるを得ん」

「兄上」

 憤然として腰を浮かしかけた寛貴を、兄がすっと手を上げて押し留める。

「まあ、待て。今これに逆らって、天山と事を構えるわけにはいかんのだ」

 おまえも承知しているだろう、とその目が言っていた。寛貴としては黙るしかない。黒葛(つづら)家にとって千年の悲願であった南部統一の達成まで、あとほんの一歩と迫っている今、たしかに天山に大軍おおいくさを仕掛ける余裕などあるわけがなかった。

 だが——と思う。たった七歳の子を、黒葛家を継ぐべき男子を、覇業のための生けにえにしていいのだろうか。

「この下知の背後には、守笹貫かみささぬき家からの働きかけがあったに違いない」禎俊は低く声を落として言った。「それはつまり、自力での立州りっしゅう奪還は荷が重いと感じている……ということなのだろう」

 寛貴が、はっと目を見開く。

「そういえば先日、当主の代替わりが近いという噂を耳にしました」

 守笹貫家は先代のころまで、南部の名家の中では比較的目立たない存在だった。それをわずか一代で二州を支配する勢家へと変貌させたのが、現在の当主道房(みちふさ)だ。

 彼は若いころから剛毅ごうき果断(かだん)の武将で、四十を過ぎても戦に出れば自ら強力な一隊を率いて前戦に立つのが常だった。その一方で慎重さや辛抱強さも持ち合わせており、長期間にわたる攻城戦をもっとも得意としている。

 十五年ほど前に故三廻部義勝(よしかつ)前大皇の知遇を得てからは、天山という強力な後ろ盾を持った強みを活かして、さらなる勢力拡大を図ってきた。

 だが、そんな傑物もすでによわい八十。守笹貫家がここ五、六年南部で大軍を起こしていないのは、道房が健康上の不安を抱えているせいだというのが大方の見方だった。老齢のため、日によっては明瞭な思考ができなくなっているとも言われている。

 そもそも以前の道房なら、立州をあれほどすんなりと黒葛家に渡すはずがないのだ。守恒もりつねの失態を知ってもすぐに挙兵しなかったことが、彼の老いの、あるいは衰弱の何よりもたしかなあかしと思えた。

「代替わりの噂がまことならば重畳ちょうじょう」寛貴はそう言いながら、兄と目を見交わした。「次の当主は——信靖のぶやすですな」

「鈍物だ」禎俊がぴしゃりと決めつける。

「〝鷹がとんびを産んだ〟などと陰口を叩く者もあるとか」

「五年前に矮松にじりまつの砦で一戦交えたことがあったが、あの父親の息子とは思えぬ雑な采配ぶりに驚かされた。何もかもが凡庸ぼんようの極みで、将たる器ではない」

「それが統領となるなら……」

 寛貴は言葉尻をわざと濁した。はっきりと言うまでもない。

 長年の宿敵だった守笹貫家は、もはやくたされた果実も同然。頃合いを見てひと息吹きかけてやれば、あえなく落ちて潰れるだろう。

 禎俊は今、その頃合いを計っている。寛貴は、兄がいよいよ南部統一戦の総仕上げにかかろうとしているのを感じ、熱い興奮に身を震わせた。膝に置いた両の拳に、ぐっと力が入る。

「今後は、そなえをよりいっそう強化せねばなりませんな」

「うむ」禎俊はうなずき、まっすぐに寛貴を見た。「郡楽ごうら生明あざみ七草さえくさ、それぞれの備をさらに強く、厚くする。鍛冶を集めて密かに鉄砲を量産させ、同時に兵の徴募と調練を進めるのだ。天翔てんしょう隊も増やすぞ。今は郡楽に二隊あるだけだが、最終的には三国全てに五隊ずつ置くのが目標だ。天山を上回る、新式の備に仕上げたい。おまえも、生明へ戻ったらさっそく取りかかれ」

 天翔隊を五隊。兄の展望を初めて知った寛貴は、その予想外の大きさに息を呑んだ。だがたしかに、これを実現させれば、この時代の戦の先端を行くことができる。

「しかし、たいそう金がかかりますなあ」

「いざとなれば、借銭もやむを得んと思うている」

 どこから、とは問うまでもなかった。南部でもっとも金を持っているのは、永穂なんごう国を支配する樹神こだま家だ。所領自体は決して大きくないものの、その中にふたつの深く広大な金鉱を擁している。彼らは黄金の取り引きが生み出す莫大な資金力を武器に、緻密な外交と調略ちょうりゃくを展開し、いくつもの大戦をしたたかに生き抜いてきた。

 黒葛家とは長年敵対関係にあるが、借銭と同盟を同時に持ちかければ受けれる公算が高い。守笹貫家が倒れたあと一国で黒葛家に対抗するよりは、その前に金を貸して恩を売り、勝ち馬に乗るほうを選ぶだろう。

「機は熟した」静かだが、強靱な意志を感じさせる口調で禎俊が言う。「南部を取るぞ。そのために、今は天山に従う。立州を手放すつもりはないが、空言そらごとで納得するなら誓紙ぐらい、いくらでも書いてやろう。そして、貴昌たかまさを質として送る。数年間は寂しい思いをさせることになるが、我慢してもらうほかない」

 寛貴はごくりと唾を呑んだ。今、どうしても言わねばならないことがある。言わずにすむものなら決して言いたくはないが、それは立場上許されない。もしここに弟貴昭(たかあき)がいたら、必ず同じように言うだろう。

 いや、あいつならおれのように躊躇ためらったりはせず、もうすでに言っている。

「御屋形さま」寛貴は居住まいを正し、畳に両手をついた。「若君の代わりに、我がせがれ俊紀としのりを天山へお送りくだされ。宗家嫡子は体にさわりがあるゆえ、甥を送る——と。せがれも生明黒葛家の嫡男なれば、よもや〝いらぬ〟と突っ返されることもありますまい」

 自らの発する一言ひとことが、鋭い剣となって胸を貫くようだ。かわいい盛りの一粒種を敵地同然の場所へ送ることになるかと思うと、身が引き裂かれる心地だった。我ながら女々しいとあきれもするが、身内への情が深すぎるのは昔からの泣きどころで、今さら変わりようもない。

 目ににじんだ涙を見られないよう、うつむいたまま畳をにらんでいる寛貴に、禎俊が穏やかに声をかけた。

「よく言ってくれた。その気持ち、嬉しいぞ寛貴」いたわるように言う。「だが、身代わりには及ばぬ。天山へは、貴昌を行かせると決めた」

「しかし兄上」

「もう決めたのだ。この黒葛の家の嫡子として、避けては通れぬ務めと心得させる。それに、天山で気心の知れぬ者たちに混じってまれれば、あれにも多少は気骨が備わるだろう」

 最後の言葉には苦笑がわずかに混じっていた。たしかに貴昌は、剛胆無比、百折不撓ひゃくせつふとうの家柄として知られる黒葛家の者にしては、おっとりとして頼りなげなところが目立つ。

 だがそれゆえに、寛貴には遠い地へ送られる甥がなおさら痛々しく不憫ふびんに思えた。にもかかわらず、心の片隅では我が子が救われたことに安堵あんどの息を吐いている。そんな矛盾を抱える自分がいとわしかった。

 この上はせめて、甥がの地で心安く暮らせるよう、できる限りのことをしてやりたい。

「随行者は何名許されるのでしょう。もう選ばれましたか」

「うむ、それをな、おまえに相談したかったのだ」禎俊は懐からもう一通の書状を取り出した。そちらは勅書よりもずっと厚い。「添え状は三廻部家の筆頭家老桔流(きりゅう)和智(かずとも)からで、諸々の決めごとについて詳細に書かれている。人質は便宜上、和智とその妻波津(はつ)の預かりとなるらしい」

 寛貴は書状にざっと目を通した。随行者は家臣七人、奉公人十五人、雑兵二十人を許すとある。これは予想よりもかなり少ない数だ。

「たったの七人とは」

 寛貴は腹を立てたが、怒ってどうなるものでもない。禎俊はすでに腹立ちを通り越しているようで、落ち着き払っている。

「我らを不安にさせておきたいのだ」

「七人の顔ぶれは、慎重の上にも慎重を期して考えねばなりませんな」

「もっとも肝要なのは随行のおさだが……玉県たまかね家の息子らをどう思う? 富久ふくと、おぬしの妻の兄たち——つまり我らにとっても彼らは義兄弟にあたるが」

「玉県家、ですか」

 寛貴は廊下で会った富久の顔を思い出し、複雑な気分になった。玉県家の当主英綱(ひでつな)は古武士の趣を感じさせる質実な好人物だし、妻の喜多きたのことも今はかわいく思っているが、その兄弟らには実のところあまりいい印象を抱いていない。富久とは初対面から互いに嫌忌し合っているし、その上の兄綱保(つなやす)は威勢がいいだけの臆病者、次兄の吉綱よしつなは鷹揚というよりはむしろ愚鈍だ。

「綱保どのか吉綱どののいずれかを随行に加えるのはよいと思いますが、頭に据えるのはいかがなものかと。少し荷が重いでしょうな」

「そうか」

「やはり長には、黒葛家の者をてるべきでは」

「たしかにそれが望ましいが、あまり直系に近いと、人質をふたり送ることになってしまう。傍系の中に、誰ぞ思い当たる者はあるか?」

 寛貴は目を伏せてしばらく考え、やがてひとつの名前を思いついた。

三貫納さながしの黒葛禎貴(さだたか)——はいかがでしょう」

 禎貴は宗家の先々代当主貴茂(たかしげ)の大甥で、寛貴らにとってはまたいとこにあたる。

「三貫納はたしか史俊ふみとし大叔父の所領だな。禎貴はその孫、だったか」禎俊は微かな記憶を探るように、視線を宙にさまよわせながら言った。「ほどほどに遠い続柄で悪くないが、どのような人物だ」

「二十代のころの話ですが、永州えいしゅう攻めに加わった時、同じ陣で半月ほど共に過ごしました。外柔内剛という言葉がぴったりの男で、当たりは柔らかいが、内に一本芯が通っています。剣の腕はそこそこなれど、敵を目前にして怯まぬ勇猛さがありました」

霊祭れいさいや年改めの祝いで見かけたことぐらいはあるはずだが、どうもわしは覚えておらん。だが、おまえの話を聞くかぎりでは、随行の長に相応しいようだ。書状を送って、意向を聞いてみよう」

「書状はわしがお預かりして、帰りにでも三貫納へ寄りましょう。なにしろ最後に会ったのがもうだいぶ前なので、人となりをもう一度たしかめて参ります」

「そうか。手間をかけるな」

 軽く頭を下げる兄の目が優しかった。それだけで報われる気がする。

「なんのこれしき。それと兄上、ひとつ思いついたことが」

「なんだ」

「供回りが大人だけでは、あまりにも若君がかわいそうです。遊び相手になるような年少の者を、せめてひとりだけでも加えてはいかがでしょう」

 禎俊は寛貴の胸の内を見透かすように笑み、ずばりと言い当てた。「意中の者がおるのだな」

「実は、わしの小姓を務めている石動元博いするぎもとひろが、今ふと頭に浮かびました。気働きのある明朗快活な子供で、年はたしか十二、三歳だったと」

「石動の——末子か」禎俊の目が大きく見開かれた。なぜ自分はそれを思いつかなかったのかと、不思議がっているような表情をしている。「それは……まことに、よい考えやもしれぬ。石動家はもともと譜代の家臣だが、先年長女を貴昭の嫁にもらって姻戚となり、我が家との絆はさらに強まった。国境くにざかいの守りを任せている当主博嗣(ひろつぐ)狩集かりづめ城で抜かりなく北方ににらみを利かせているし、長男孝博(たかひろ)はここ郡楽で、次男の博武ひろたけは七草で、それぞれよく仕えている。あの家の者なら、たとえ年は若くとも決して役目をおろそかにはせぬだろう」

「はい。一年ほど傍に置いておりますが、その点は疑いありません。それに、周りを自然と和ますようなところがあり、誰からも好かれています。貴昌どのも傍にああいう者がいれば、いささかなりとも心安まるでしょう」

「明日にでも、孝博に話をしてみよう」

 寛貴は意見がれられたことに気をよくしながらうなずいた。「これで二人。若君の傅役もりやくは、随行に入れるのですか」

朴木ふのき直祐(なおすけ)か」禎俊がにやりとする。「あれは行くなと言われてもついて行く。もし外したら憤慨するだろう」

「そういう人物なら安心ですな。ではそれでひとまず三人。残りの四人については、兄上と郡楽の評定ひょうじょう衆とで後日話し合われるのがよいでしょう」

 兄弟の内々の相談ですべて決めてしまったのでは、宿老しゅくろうたちがないがしろにされたと不満を抱きかねない。自分が口を出すのは、このあたりまでにしておくべきだ。禎俊も寛貴の気配りをすぐに悟った。

「うむ、そうしよう」

 そこで寛貴はちょっと息をつき、いつの間にか前のめりになっていた上体を元に戻した。

 残りの顔ぶれがどうなるかはわからんが——胸の中でそっとつぶやく。おれに思いつけるかぎり、最善の人材を薦めることができた。たとえ玉県家ののろまが随行に加わったとしても、ほかの者たちがしっかりしていれば何とかなるだろう。

 しかしそう思う傍から、また別の気がかりが頭をもたげる。出さないつもりが顔に出てしまったらしく、兄が目ざとく見つけて眉を上げた。

「ほかにも何かあるか」

「は、その——我らが水面下で動いているうちはいいとしても、守笹貫かみささぬきに攻めかかれば誓約を反故ほごにしたことが露呈します。その時、若君に危害が及ばねばよいのですが」

「天山がこちらの動きを悟り、何か手立てを講じねばと考え始めた時には、我らはすでに南部の盟主となっている」禎俊の口調には、強い決意と自信がみなぎっていた。「もはや貴昌に手出しはできまい」

「では誓紙と人質はひとまず渡すとして……しかしそれで、どれほど時が稼げるものでしょうな。すぐにも立州の返還がなければ、守笹貫は再び天山に泣きつくのでは?」

「この戦はな、寛貴——」禎俊は上段の間から身を乗り出して、重々しく言った。「焦らず、じっくりとやるのだ。守笹貫と天山は立州を返せと、何度も言ってくるだろう。こちらはその度に、今返す、すぐにも返すと誓約する。だが同時に、立州は広大な土地ゆえ、そこからすべての家臣団を撤退させるのには時がかかると言い訳もする。そのために、立州をかつてないほど細かく知行ちぎょう割りして、三州と丈州から大勢を異動させたのだ。我らと心をひとつにして動く、信頼の置ける者たちを各所に満遍まんべんなく配置するためにな」

「なるほど……」立州侵攻の直後に、兄がそこまで先を見据えていたと知って、寛貴は思わず唸った。「いざとなれば端のほうからちまちまと返して、恭順を装うこともできますな」

「そうだ。立州をめぐる空々(そらぞら)しいやり取りを繰り返して、できるだけ長く、最低でも数年間は時を稼ぐ。そのあいだに三国の軍備を調え、永州えいしゅう樹神こだま家とよしみを通じるのだ。さらに——」

 禎俊はいったん言葉を切り、弟の目をじっと覗き込んだ。

「さらに?」

 れて問いかけた寛貴に、兄はとっておきの秘密を明かすように微笑んで見せた。

「もうひとつの同盟国を東峽とうかいに見つける」

 寛貴はあんぐりと口を開き、きっと今おれは兄が期待した通りの間抜けづらをさらしているんだろうな、と人ごとのようにぼんやり思った。

「——東峽?」ようやく絞り出した声が、喉に引っかかってかすれる。「東峽の国と……同盟を結ぶ?」

 聳城国たかしろのくにの国土は、東西ふたつの大陸が地峡でつながってできている。七国八島を擁する東側は〈東峽〉、十国七島から成る西側は〈西峽せいかい〉と古来より呼び習わされていた。

 西峽では建国以来、武門の名家や旧家が国主となって一国を支配する〝一家領国制〟がられている。それに対し、東峽の各国には今もなお、大小の領主たちが干戈かんか時代さながらにひしめき合っていた。

 そうした領主たちも、表向きは大皇の臣民とされている。だが彼らの大半は、聳城国最大宗教である天門神教てんもんしんきょうが中央政権を握っていた時代に、その本拠の御山みやまがある東峽に根を張った者たちだ。彼らは今も神の代理人である祭主さいしゅを自らの真の君主と見なしており、大皇や天山をさほど重要な存在とは考えていなかった。

 宗教色の濃い土地である東峽に住む者たちと、武家が強い力を持つ西峽で暮らす者たちは、普段からあまり交流しない。実際、この四百年間に西峽で行われた領土紛争のいずれにも、東峽の領主たちは決してかかわろうとしなかった。

 その長年にわたる不文律ふぶんりつを、兄が崩そうとしている。

「いやはや、今宵は……」寛貴は衝撃に伴う強い虚脱感をおぼえながら、腑抜ふぬけたような声を出した。懐から藍染めの手拭いを引っ張り出し、額に浮いた汗を乱暴にぬぐう。「思いがけぬ話を次から次へと聞かされ、もうほとほと参りました。これ以上はどうかご勘弁を」

「なんだ、情けないな」

 禎俊が明るく笑った。彼のほうは、最初に顔を合わせたときの打ちしおれた様子から一転、生気を取り戻している。

「腹の中に抱えていたことを、おまえにすべて打ち明けることができ、わしはようやく心が静まった。これより先も、たのみとしているぞ。おまえと、貴昭をな。我ら兄弟の結束が揺るがぬかぎり、決して黒葛家が倒れることはない」

「はい」

 兄の率直な言葉に心を打たれた寛貴は、座り直して深く頭を下げた。

「どうぞ兄上の思うままに、わしを使うてくだされ。父祖の果たせなかった夢を我らの代でうつつにできるならば、たとえ命果てたとしても本望です」

「いや——」言葉を宙に浮かせたまま、禎俊はゆっくりと立ち上がった。弟に近づいて傍らに片膝をつき、その力強い指で彼の肩をしっかりと掴む。「必ずや命(ながら)らえて、黒葛家の全盛を極めた喜びを兄弟みなで分かち合おう」

 寛貴の顔を間近で見据える彼の目に、決然たる輝きがひらめいた。

「それこそが、わしの夢だ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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