四十七 御守国御山・街風一眞 紅と藍
「失礼。すみません」
ぞろぞろと列をなして歩く人々に声をかけ、一眞はわずかにできた隙間にすかさず体をねじ込んだ。先ほどからそうやって少しずつ前に進んではいるものの、なかなか思うように足を運べない。
夏の大祭礼が行われるこの日、大祭堂へ続く参道は早朝から参拝者で溢れかえっていた。深夜までさまざまな儀式が続くので、大半の信徒はこのあとも下山せず山頂付近に留まるだろう。いきおい奉職者は、山内での移動にすら不便を強いられることになる。
普段なら、参道が混み合っていれば山腹の獣道を利用して上り下りをするが、今日は祭礼用の法衣を着ているのでその手は使えなかった。裾が長く動きづらい装いなので悪路にはむいていないし、汚すとあとが厄介でもある。
「通ります」また声をかけ、少し前に進む。
参拝者は法衣を見れば道を譲ってくれるが、人がひしめき合っている状態では、数人に気をつかってもらったところで焼け石に水といった感じだ。
小半刻あまりの奮闘を経て、一眞はようやく山頂の門をくぐった。しかし大祭堂正面の大扉まで、さらに目眩をおぼえるほどの人波が続いている。それでも悪戦苦闘しながら参道を逸れ、木柵で隔てられた苑地にどうにか辿り着くことができた。この先は神域とされており、入り口を立哨が守っているので、普通の参拝者は立ち入ることができない。
木戸を通り抜け、ものすごい人いきれから開放された彼は、木柵の内側にしばし佇んで大きく深呼吸をした。木々をわたる涼やかな風が法衣の袖を膨らませながら入り込み、汗ばんだ肌を心地よく冷ましてくれる。御山の夏は下界に比べればずっと過ごしやすいが、今日のように雲ひとつなく晴れていると、昼間のうちはさすがに暑い。
日差しを避けて竹林を抜ける苑路を歩いていると、向こうから来た背の高い男に声をかけられた。
「おい、一眞じゃないか?」
誰かと思えば、以前衛士の行堂にいた又市だ。彼はひと月ほど前に転堂を願い出て、唱士の行堂へ移っていた。
「又市か」久しぶりに会う仲間の、目鼻立ちの整った顔をまじまじと見つめる。「転堂以来だな。どうしてる」
「一から修行のやり直しで、毎日へろへろになってるよ。でもやっぱり、思い切って移ってよかった」
嬉しそうに話す彼の声は、記憶にあるよりも少し低くなって深みを増していた。
「おまえ、声が変わったな」
「そりゃもう明けても暮れても、いい声を出すための訓練と体作りばっかりだからさ。はじめのころは、がらがらに嗄れて大変だったんだぜ」
「だいぶ唱士らしい声になってるよ。大祭堂で独唱する日も遠くないんじゃないか」
「まだまだ」又市は肩をすくめ、苦笑をもらした。「そんなのはずっと先のことだ。まあ、そうなれるように頑張るけどな。おまえも会ったばかりのころに比べると、ずいぶん逞しくなったじゃないか」
「そうかな」
「肩のあたりがごつくなってるぞ。背もちょっと伸びたように見える」
「技だけじゃだめだと言われて、筋力と体力をつけようとしてるとこだ」
「堂長――景英さまか」
目を細め、ひどく懐かしそうにその名前を口にする。
「〝堂長〟と言うと、真っ先にあの人の顔が浮かぶよ。唱士の行堂にも堂長はいるし、今はそっちがおれの上役だけどさ」
彼は額をこすり、少し照れたように笑った。
「もっとあの人の下で教えを受けたかったけど、武芸はおれには荷が重くてだめだった。腕っ節には自信があるから、最初はいけると思ったんだけどな」
残念そうに言いつつも、表情はさっぱりしている。自分で転堂を決めたからには、心の整理はついているということなのだろう。
「今日はおまえ、何やってんだ?」
「使い走りだ」一眞は懐から覗いている書き付けを、ちょっと引っ張って見せた。「そっちは?」
「おれも同じだ。今朝から行堂と大祭堂を行ったり来たりしてるよ。祭祓ったって、おれら下っ端には出番なんてないも同然だし、ちっともおもしろかねえよな」
「そう腐るなよ。晩には行堂に水菓子の振る舞いがあるって聞いたぞ」
なだめるように言い、又市の腕をぽんと叩く。
「そろそろ行く。油を売ってると、左近あたりに見つかってどやされそうだ」
「あいつ、相変わらず嫌なやつなんだろうな」又市は片眼をしかめ、皮肉っぽく笑った。「おれも行かなきゃ。またな」
彼と別れて歩き出しながら、一眞はこれまでに衛士の行堂を去った者たちのことを思い起こしていた。
又市のように祭職を選び直し、途中で別の行堂へ移る例はさほど珍しくはない。祭職ごとの修行期間は四百日の長きにわたるため、修了を迎えるまでのあいだにはどんなことでも起こり得た。百日目を超えるあたりがもっとも危ない時期であり、修行そのものに迷いを感じ始めて脱落する者も出やすいという。
かつて又市らとつるんでいた面皰づらの輝盛も、そうした脱落者のひとりになった。一眞が衛士の行堂へ来て間もないある日、彼は突然降山を願い出て山を下りてしまったが、その理由は仲間の誰にも知らされていない。
一眞はふと、伊之介も降山の可能性を口にしていたことを思い出した。彼は下界で戦が始まったら祭職を辞し、気に入った陣営に与力して軍働きをするという。その時にはおまえも一緒に来いと誘われたが、はっきりとは答えずにはぐらかしておいた。
決して、戦に行くのが嫌なわけではない。奉職者という立場にこだわりがあるわけでもない。
実際、御山へ来た当初は、一年ほど我慢すれば真っ新な身元が手に入るので、適当な時期を見て降山すればいいと思っていた。だが衛士の行堂に入ってからは、山に留まって修行を続けていきたいという気持ちが強くなっている。
自分の中でどんな変化があったのかは、正直よくわからなかった。ただ、あの父親が支配する家で十三年間も耐えたのだから、ここでだって十年やそこらは持ちこたえられるとは思っている。
道なりに曲がって竹林から出ると、大祭堂の南側面に出た。砕石を敷いた小道の向こうに堂へ入る脇扉と石段があり、その下に数人の祭宜がたむろしている。おそらく、堂内で参拝者に対応している者たちの交代要員だろう。
一眞は近づいていって、そのうちのひとりに話しかけた。
「行堂から堂長の使いでまいりました。空木宗司は中にいらっしゃいますか」
御山の高位奉職者で、祭主の補佐と大祭宜以下のまとめ役を務める宗司は全部で十二人いる。その中で序列二位の空木は衛士寮とのつながりが何かと強く、今日も立哨と歩哨の差配を担当していた。
「空木宗司は、今は蓮水宮においでです」
二十代半ばの女祭宜はそう答え、御殿を囲う塀に目をやった。
「あとでまた、こちらに戻られるとは思うけど」
困った。いつ戻るかわからないものを待ってはいられない。一眞が眉をひそめると、彼女は石段の上に張り出した屋根の下から出てきた。
「急ぎの用なら、宮へお行きなさい」
「はい」そう答えはしたが、蓮水宮に立ち入ることを考えると、何となく気後れを感じた。「でも、おれなんかが入れるのですか」
「もちろん入れますよ。あの向こうに見える塀に沿って、左へ行けば通用門があります」
祭宜に礼を言って、教えられた通りに歩いて行くと、竹と柴を組んだだけの素朴な通用門に辿り着いた。脇にいる立哨に会釈すると、黙って扉を開けてくれる。
門を通り抜けた先には、生け垣に囲まれた白玉石敷きの苑路があった。前方には、目にしみるほど鮮やかな緑色の松林が広がっている。高く低く絡み合う大ぶりの枝に隠され、その向こうがどうなっているのか見通すことはできなかった。
苑路自体もまっすぐではなく、少し行くとすぐに右か左へ屈曲する。直線的にしないのは自然を模しているとも思われるが、おそらく警備上の理由でわざとそのような造りにしてあるのだろう。
ほとんど何も見えないまま、くねくねとした道を歩き続けていると、最後の角を曲がったところで突然視界がぱっと開けた。複雑な形をした池を中心に、雑木林や築山、雄々しい岩組みなどを配した広大で優美な庭園が広がっている。
一眞は思わず息を呑んだ――ここを設計した造園師が意図したであろう通り、ふいに現れた全景に否応なく目を奪われて。
だが心は奪われなかった。素晴らしいのはわかるが、彼にとっては何の意味も持たないただの風景だ。こういうものが見たければ――ここまですべてが完璧ではないにしても――ちょっと人里離れた谷間にでも行けば、いくらでも見ることができる。
無駄だ。贅沢で美しくて、そして無駄だ。
一眞は心の中でつぶやきながら、苑路の先の橋を歩いて築山へ渡った。池の中に造られた人工の小さな丘だが、枝ぶりのいい松を植え、青々とした苔をびっしり生え育たせて、長閑な山の風景を再現している。その苔を踏んで木々のあいだを抜けると、対岸へ渡るふたつ目の橋が現れた。先ほどのは白い板石橋だったが、こちらは欄干がついた木造の太鼓橋だ。厚みのある材を使って堅牢に組み上げられており、上を歩く足音がほとんど響かない。
その弓形の橋のもっとも高いところで、彼はしばし足を止めた。顔を上げて首を伸ばし、視線を右から左へゆっくりと流す。背後には今歩いてきた地泉庭園があり、前方には蓮水宮の要である建造物群があった。
壮観――そのひと言に尽きる。
やがて彼の頭に、ひとつの理解がじわりとしみ込んできた。
御山には想像を絶する富がある。おそらく天山に匹敵、あるいは凌駕するほどの途方もない財力を有しているに違いない。
「宗教ってのは……」口の中でつぶやき、あとの言葉――そんなに儲かるのか――は呑み込む。
半年以上も御山で暮らしていて、そこに思い至ったのはこれが初めてだった。蓮水宮の内部を目の当たりにしなければ、ずっと意識にのぼらないままだったかもしれない。
橋を渡りきって白書院に向かいながら、一眞は御山の権威と財力の強大さに思いを馳せた。天山や下界の名家は、どこまで実情を把握しているのだろう。御山が政治の表舞台から遠ざけられて数百年が経ち、最近では誰もがその力を忘れかけているように思える。
まったく不用心なことだ。祭主がひとたびその気になれば国の経済を狂わせることも、神権政治の復活を懸けて大皇に挑み、百年にわたって戦い続けることもできるだろうに。
伊之介は、戦をしない御山に居続けるつもりはないと言った。だがいくつかの条件さえ揃えば、彼の望む戦乱は案外簡単に実現するのかもしれない。御山の実権を握れるほど上層にいる誰かの野心と、それを支える者の強い意志さえあれば。
不穏な想像を弄びながら、一眞は幅の広い石段を上って白書院の内玄関に足を踏み入れた。上がり框の手前に、蒲鉾のような形の沓脱石が据えられている。そこで草履を脱いでいると、すぐ横にある控えの間から年配の祭宜がひとり出てきた。宗司を捜している旨を伝えると、外廊下を通って黒書院に入り、三ノ間を見に行けという。
「中の院と奥の院に立ち入ってはならない。内扉を立哨が守っているので迷い込むことはないだろうが、いちおう気をつけなさい」
「わかりました。ほかには何か」
「宮殿内の通路では無言を心がけるように。内勤めの者に話しかけられれば答えてもいいが、それ以外は口を閉じておくこと」
ひととおり注意を聞いたあと外廊下へ回ると、いくらも歩かないうちに、前方から内宮衛士らしき人物がせかせかと近づいてきた。
「衛士か」
開口一番、厳しい声で問いかけてくる。
「修行者です」
「では手伝え。若巫女さまのお姿が見えなくなった。だが宮殿内のどこかにはいらっしゃるはずだ。見つけたら、ひとまず白書院の広間へお連れしろ」
立て板に水を流すような口調で命じ、そのまま先へ行こうとする彼を、一眞は急いで引き留めた。
「お待ちください。宮殿の中のことは何も知りません」
「そうだろうが、みな大祭堂に出払っていて人手が足りぬのだ。いいから、どこでも手当たり次第に覗いてお捜ししろ。まだお小さいから、長くひとりにしておくと危ない目に遭われるやもしれぬ。早く行け」
それきり振り返らず、彼は廊下を曲がって姿を消した。取り残された一眞は途方に暮れたが、言われた通りにするしかない。
まだ小さいと言ったな――衛士の言葉を思い出しながら、考えをめぐらせる。ならば、大人が思いもつかないようなところに潜り込んでいるかもしれない。
一眞は腹を決めて、建物の中を捜し始めた。といっても間取りも何もわからないので、目についた戸があれば開け、隙間があれば覗いてみるぐらいしかできない。時折、同じく捜索中の祭宜や衛士と出会ったが、誰もが張り詰めた表情をしており、何かを訊ねられる雰囲気ではなかった。
子供ひとりに大げさなことだとは思うが、若巫女や若巫子は次代の祭主になり得る特別な存在なので、めったなことがあってはならないのだろう。
白書院をひと回りしてから黒書院に入った一眞は、途中覗いた部屋で空木宗司を見つけた。六十代半ばと思われる矍鑠とした老人で、色が白く、宗司の中でも格段に品のいい顔立ちをしている。
千手景英から託されていた書き付けを渡すと、彼はさっと目を通してうなずいた。
「午後から修行者十名を西の参道、十五名を南の参道へ行かせて、参拝者の整理と誘導を手伝わせるよう景英に伝えよ」
「承りました」
すぐに下がろうとした一眞を、空木が穏やかに引き留める。
「待て。一眞――だったな」
「はい」
足を止めた一眞は、怪訝に思いながら彼を見つめた。この老人には昇山した際に〈門迎えの儀〉を施してもらったが、次々とやってくる新参のひとりに過ぎない自分の名前を覚えていたとは意外だ。
「祭祓のあいだ、おまえに大祭堂の居敷を与える話があったのだが」
「堂長から伺っています。ありがたいことですが、修行中の身なのでお断りしました」
一眞は昇山するにあたり、街風家の全財産を御山に献納した。そういう大口の寄進者には、約一年にわたっていくつかの恩典が与えられることになっている。祭祓の日、大祭堂で祭主が祈唱を行う際に、祭殿に近い居敷を割り振られるのもそのひとつだ。しかし彼は、景英から話を聞いてすぐに辞退した。
特別扱いは、厄介ごとを引き寄せる元だ。それにどうせ、祭主の祈唱をありがたがるような信仰心は持ち合わせていない。
そんな本音など知る由もない空木宗司は、彼の言葉を聞いて満足げな顔をした。
「謙虚だな。よいことだ」
その評価にふさわしい、精一杯慎ましやかな態度で辞去したあと、一眞は迷子の若巫女の捜索を再開した。
こんな忙しい日に、迷惑な餓鬼だ。
内心で誹りながら、広大で入り組んだ宮殿の中を歩き回る。奥へ進むほど豪奢になっていく設えには目を引きつけられるが、子供にとってはおもしろくも何ともないだろう。小さい女の子が、うるさく世話を焼く大人の手から逃れたら、こんな場所でうろうろしているとは思えない。もっと楽しそうなところへ行こうとするはずだ。
一眞はふと思いついて、黒書院の外廊下へ回ってみた。涼しい風が吹き抜ける濡れ縁に立ち、表の庭園よりはずっとこぢんまりしている中庭を見渡す。
楡の木立に囲まれた芝生を横切るように、平らで不揃いな形の飛び石が打たれていた。それを伝っていき、途中で小さな川を渡ると、庭の奥に建つ茶亭に行き着くようになっている。茅葺き屋根の鄙びた田舎家には、どことなく隠れ家めいた雰囲気が感じられた。
距離的にはすぐそこだが、小川を越えてあそこまで足を伸ばせば、子供にとっては大冒険に違いない。見に行くだけの価値はありそうだ。
沓脱ぎまで戻るのは面倒なので、裸足のまま地面に飛び下りた。きれいに刈られた芝生が、足の裏にくすぐったく感じられる。
茶亭まで続く飛び石は、美的にも実用的にも完璧に配置されていた。人の手で打ったとは思えないほど自然でありながら、まったく歩調を乱すことなく楽々と渡っていくことができる。だが子供にとっては、石と石のあいだが少し広すぎるかもしれない。若巫女がここを通ったとしたら、きっと兎のように跳ねながら行ったことだろう。
一眞は浅い川を渡り、あたりに動くものがないか目を凝らしながら、ゆっくりと田舎家に近づいた。戸板を開け放してあるので、畳敷きの室内とその向こうの鬱蒼とした木立がよく見える。
中には入らず、縁側に沿って半周すると、ふと視界に鮮やかな色彩が飛び込んできた。先ほどまで柱の陰になっていたところに、ぱっと目を引く梅紫色がある。
さらに少し移動すると、それが家の傍に植えられた百日紅の花房であることがわかった。縁側の上を覆った葦すだれに少しかぶさり、夏風に吹かれてゆらゆらと重たげに揺れている。
そしてその花枝が落とす影の下に、人形と見紛うような小さな人影があった。縁側の端に立ち、背伸びをして花房に手を伸ばしている。
ほんとうにいた――一眞は驚き、急いで家の裏手に回り込んだ。
若巫女は百日紅の花に夢中で、人の気配にはまるで気づいていない。
彼女は柘榴色の紗の上衣と白衣白袴をまとい、祭祓の日らしく華やかに装っていた。だが、そんなことはお構いなしに藪を通り抜けるか何かしたらしく、左の袖に大きなかぎ裂きを作っている。きっと世話役の祭宜が、あとで上役からこっぴどく叱られるだろう。
残り数歩というところで、若巫女がさっと首を振ってこちらを見た。幼い顔には似合わない賢しげで大人びた視線が、矢のように飛んできて一眞のみぞおちを貫く。
思わず足を止めた彼をじろじろと眺め回しながら、少女は桃色の小さな唇を開いた。
「祭宜?」
問いかける声はやけに落ち着いている。一眞は少し間を置き、一瞬とはいえ子供に睨まれて怯んでしまった自分を心の中で叱咤してから、静かに答えた。
「衛士だ」
「あのお花」頭上で揺れている百日紅を指差し、懇願というよりは命令するように言う。「取って」
「だめだ」
言下に拒否され、若巫女は不愉快そうに眉をひそめた。
「取って」頑固に繰り返す。
「だめだと言っただろう」
一眞は縁側に近づき、片手を差し出した。
「みんなが捜してる。早く戻ろう」
少女は彼の手も言葉も完全に無視して、その場にすとんと腰を下ろした。動かせるものならやってみろ、と言わんばかりの態度だ。一眞は苛立ちがつのるのを感じ、それを何とか抑えようと大きく息を吐いた。
「来るんだ。歩きたくないなら抱いていってやる」
「いや。お花を取ってくれなきゃ、行かない」
若巫女はそっぽを向き、偉そうに腕組みをしてふんぞり返った。
「いい加減にしろ」
一眞は低く唸るように言い、さらに二歩前に出た。これがそこいらの子供なら、首根っこを掴んで吊してやるところだが、さすがにそれは許されないだろう。だから彼女には触れず、傍の床に片手をついて顔を覗き込んだ。
「祭祓で忙しい中、おまえを捜すために大勢駆り出されてるんだ。今日が特別な日だってわかってるよな?」
少し威圧しすぎだろうか。だが若巫女は怖じける様子もなく、むしろ挑戦的に睨み上げてくる。口でどれほど厳しいことを言おうと、身体的な危害は加えられないと知っていて、なめているのだ。
一眞はあきらめて体を起こすと、低い枝に飛びついて花房の先端をむしり取った。こうして一輪だけ分けてみると、縮れた花弁が妙に弱々しく、房になっている時ほどきれいには見えない。
少女もそう思ったようで、あれほど欲しがったくせに、手渡してやってもにこりともしなかった。それでも言うことを聞いてやったのだから、今度はあちらが我を折る番だ。
「気が済んだだろう。行くぞ」
「歩くの、いや」
あくまで逆らうつもりらしい。一眞はため息をつき、着飾った少女を用心深く抱き上げた。彼女の頭に巻かれた輪冠から、銀の透かし飾りが長く垂れて、歩を進めるたびにしゃらしゃらと音を立てる。
腕の中に収めて間近で見ると、若巫女は切れ長の大きな目とサクランボのような唇を持った美形だった。だが、あまり表情を変えないためか、その美しさは金属のように硬質で親しみが感じられない。成長したら、さぞかし近寄りがたい雰囲気の麗人になるだろう。
あまりにも長々と見つめすぎたせいか、少女が居心地悪そうに身じろぎした。
「名前は?」平坦な声で、ぶっきらぼうに訊いてくる。
「一眞。おまえは」
「紅」
どこか威張るように言って、彼女はふっと小さく笑みをもらした。昇山後にもらった、その祝名が気に入っているのだろう。
御山には古来から伝わる伝統的な名がいくつかあり、若巫女や若巫子はその中から名づけられることになっていた。祭主が自ら大祭堂で尋聴を行い、神告を受けて定めるという。そして祝名は、当人の本性や行く末を暗示すると言われていた。
〝紅〟という祝名から一眞が想起するのは、鮮烈さや熱さといったものだ。そしてこの少女からは、たしかに何か烈しいもの、燃え立つ炎のようなものが感じられた。
それが神なのか何なのかは知らないが、彼女にぴったりの名前を選んだことは間違いなさそうだ。
黒書院まであと少しというところで、奥の間から出てきた内宮衛士が一眞たちを見つけた。報を聞いて、たちまち人が集まってくる。その中のひとりが、紅よりももっと小さな若巫女を抱いていた。
生後半年にもならない赤ん坊だが、やはり祭祓の装束をきちんと着せられている。どことなく頼りなげなのは、まだ完全には首がすわっていないからだろう。しかし好奇心はもうかなり旺盛らしく、動くものをしきりに目で追っている。
彼女は一眞に気づくと、黒目がちの大きな目をいっぱいに開いてじっと見つめてきた。その透明でまっすぐな眼差しにからめ取られたように、こちらも視線を逸らせなくなる。
赤ん坊のくせに、なんて目をしているんだ……。
たまらないほど心がざわつき、無意識にうしろへ下がりかけると、それを察したように若巫女が手を伸ばしてにっこり笑った。深い海の底のように穏やかで、はっと胸を衝かれるほど天真爛漫な笑顔だ。
ふと、いつか聞いた名前が頭をよぎった――青藍。たしか伊之介がそう言っていた。御山でもっとも幼い若巫女の祝名は〝青藍〟だと。
若巫女と若巫子の破戒によって生を受け、開山以来初めて蓮水宮で生まれた赤子。彼女は母親の胎内に宿ったその瞬間から、自分ではどうにもできない罪業を背負わされていた。
いつかそれを知った時、この眼差しと笑顔は変わるのだろうか。
気を呑まれたようになって立ち尽くしていた一眞は、ぴりっと痛みが走ったことで我に返った。見下ろすと、口を尖らせた紅が小さな指で二の腕をつねっている。自分の存在が忘れられているのを感じ、機嫌を損ねたようだ。
「おい、よせ」
たしなめると、眦に力を込めてじろりと睨まれた。
「下ろして」
高飛車に命令して濡れ縁に下りた紅は、これ見よがしに一眞に背を向けた。そんな彼女をすぐさま宮仕えの者たちが取り囲み、宮殿の奥へと連れていく。青藍を抱いた小祭宜も、その一団と共にこの場を去った。
あっさり取り残された一眞に、内宮衛士がねぎらいの言葉をかける。
「よく見つけた。どこにおられた?」
「あそこに見える茶亭に。衣装が少し裂けていましたが、お怪我をはなさっていないようです」
「そうか。ご苦労だったな」
「足が汚れているので、ここから表へ回ります」
会釈して踵を返し、一眞はさっさと中庭の木戸を出た。白書院の表で履き物をつっかけ、足早に苑路を戻る。
書き付けを持ってきただけなのに、一銭の儲けにもならない、とんだ道草を食わされてしまった。とはいえ蓮水宮の内部をつぶさに見て、本来なら間近に接する機会などない若巫女に会ったことは、僥倖だったと言えなくもない。
土産代わりにこの話をしてやったら、利達などはきっと興奮するだろう。
これまで一眞は、蓮水宮に住まう子供たちのことを半ば侮っていた。若巫女、若巫子などとご大層に呼ばれ、神の祝福を受けた者と崇められていても、しょせんは寄せ集めの餓鬼どもに過ぎないのだろうと。
だが今日会った娘たちに、神性とは言わないまでも、何か尋常ならざるものを感じてしまったことは否定できない。
紅と青藍。紅と藍――その名のように対照的なふたり。
それぞれから受けた印象はまったく異なるが、どちらも同じくらい強烈だった。彼女らのことは、当分のあいだ頭から消えないだろう。
出口に辿り着いて通用門をくぐる前に、一眞は広大な庭を見返ってにやりと笑った。
いろいろわかってくると、御山も案外おもしろい。
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