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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 別れゆく夏
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四十二 立身国射手矢郷・真境名燎 飛翔

 鉢呂(はちろ)山に着いた当日、翌朝には天隼(てんしゅん)を見られると聞いて楽しみにしていた真境名(まきな)(りょう)は、その約束が果たされなかったので腹を立てていた。天翔(てんしょう)隊士候補の第二陣が、定められた期日までに全員揃わず、予定されていた試験――初騎乗が延期になったのだ。

 遅れた連中など放っておいて、先に進めてしまえばいいものを。そう思ったが、砦を統括する真栄城(まえしろ)康資(やすすけ)が延期すると決めた以上はどうしようもない。あらかじめ考えていた通りに物事が進まないといらいらする性分の燎は、不機嫌面を膨らませたまま砦での二日目を所在なく過ごした。

 先に来ていた第一陣が、すでに訓練に入っていることも不満の種だ。一日遅れれば、それだけ彼らに先を行かれてしまう。

 おまけに、その夕刻になってようやく揃った隊士候補たちの中に、以前から苦手としている人物がひとりいた。玉県(たまかね)分家の次男で、七草(さえくさ)城中奥の番方を務めている綱正(つなまさ)だ。燎よりもふたつ年上の十九歳で、風采のいい優男の彼は、女にだらしないことで有名だった。

 最近は燎に狙いを定めているらしく、城内で顔を合わせると、必ず馴れ馴れしく声をかけてくる。奥番方の女衆は男顔負けの硬派揃いだが、なに、そこがいいのだよ、などと仲間内では(うそぶ)いているらしい。

 まさか彼が、自分と同じく〈隼人(はやと)〉になりたがっているとは思ってもみなかった。これから寝食を共にする仲間に、ああいう人物が混じっているとは幸先が悪い。

 そうした諸々の不服要素が重なったため、待ち望んでいた三日目の朝を迎えても、まだ燎は機嫌が悪いままだった。

 だが、ともかくあと少し経てば、ずっと憧れていた天隼を間近で見られる。傍に行って手を触れ、拒絶されなければ乗ることもできる。

 石動(いするぎ)博武(ひろたけ)から事前に聞かされたので、すでに覚悟は出来上がっていた。(とり)がどれほど獰猛に見えても、わたしを忌避する様子を見せても、決して怯むまい。気迫でねじ伏せて、なにがなんでも騎乗してやる。

 具足なしの斬り込み支度で、と事前に通達されていたので、燎は練兵場へ行く前に(たすき)掛けをして袴の股立(ももだ)ちを取り、脛巾(はばき)をつけて草鞋(わらじ)を履いた。刀は不要とも聞いているので部屋に残したが、腰に二刀がないと何か落ち着かない気分だ。

 宿舎を出ると、同じくこれから試験に臨む仲間たちがいた。みな、どことなくそわそわしながら、練兵場になっている西側の副郭へ向かっている。それに続いて歩いていると、玉県綱正が目ざとく見つけて近寄ってきた。

「やあ、燎どの」

「綱正どの」

 堅苦しく会釈を返した燎の横に並び、綱正はでれでれと笑いかけた。

「今朝の参集について、康資どのは何も教えてくれなかったが、実はわたしはこのあと何が行われるか知っているんだ」もったいぶった様子で囁き、首を伸ばして顔を近づける。「もし聞きたいなら、燎どのにだけそっと教えるよ」

 燎はさっと横にかわし、彼とのあいだに少し距離を空けた。

「いや結構。わたしも、何があるかは知っている」

 当てが外れたというように、綱正が顔を曇らせる。

「ええ? 誰に聞いた?」

「石動博武どのだ」

 その名を聞くと、彼は眉をぴくりとさせてため息をもらした。

「ああ、なるほど。口が軽いからな、彼は」

 燎は何も言わなかった。若手の出世頭である博武に対して、綱正がひそかに対抗心を抱いていることは知っている。だが自分にはかかわりのないことだし、そこに巻き込まれるつもりもなかった。

 端的に言えば、燎は綱正にまったく関心がない。彼がこのあと、ふっと世の中から消えてしまったとしても、自分が何か感じることはないとわかっていた。いっそ本当に消えてくれたほうが、面倒が減っていいかもしれない。

 ただ(ねんごろ)ろになりたがっているだけならまだしも、どうも綱正は、燎に求婚したいと考え始めているようだった。同じ黒葛(つづら)家支族同士で、家柄の釣り合いは確かに悪くはない。燎は真境名家の嫡女なので、結婚するとなると婿を取ることになるが、彼は次男なのでそこも支障はなかった。

 問題があるのは、気持ちの部分だ。燎は綱正のことを、臥所(ふしど)を共にしたいと思うほど好ましく思ってはいない。といって、殺したいほど嫌いでもない。普段は空気のように意識せずにいられる存在であり、視界に入ると少々うざったく感じる類いの相手だった。

 いっそ実際に言い寄ってくれば、きっぱりと振ってやるものを。もし親戚などを通して申し入れをされると、かえって話が面倒になる。

 横目にちらりと見ると、綱正と目が合った。微笑みかけてくる顔は二枚目だが、役者絵のように薄っぺらに感じられる。

「おぬしが〈隼人〉になりたかったとは知らなかった」

 副郭への階段を下りながら言うと、綱正は肩をすくめてみせた。

「実のところ、つい最近まで考えてもいなかったんだ。だが、やはりこれからは天翔隊だよ。きっと、(きた)る戦の花形になるだろう。どうせなら、その一員でいたいじゃないか」

 おぬしはそうだろうな――と思ったが、口には出さなかった。まったく、見た目も考え方もぺらぺらした男だ。

 だがふと、自分も大して変わらないかもしれないと気づいた。幼いころから、時折見かける天隼の雄姿に胸をときめかせていたのは事実だが、天翔隊の隊士になりたいと思い立った動機は、結局のところその憧れ以上のものではなかった気がする。

 戦に貢献したい、己の能力を活かしたいという以前に、燎はただひたすら天隼に乗って地上の(くびき)から解き放たれ、自由に大空を舞いたかった。案外それを実現できさえしたら、もう〈隼人〉になどなれなくてもいいのかもしれない。

 わたしも浅い。人のことを、とやかく言える立場ではない。

 そう思うと急に恥ずかしくなり、燎は足を速めた。

「少し急ぐ。遅れたくない」

 無愛想に言い置いて先へ行くと、うしろから綱正の呑気そうな声が追ってくる。

「もうすぐそこなのに、遅れるものか。せっかちだな、燎どのは」

 構わずさっさと階段を下りきると、木々のざわめきに混じって水音が聞こえてきた。どこか近くに沢があるらしい。おそらく、麓の射手矢(いてや)(ごう)を流れている引馬(ひくま)川の源流だろう。音の大きさからすると、かなりの水量がありそうだ。一帯に広がる群峰の中から、この鉢呂山が禽籠(とりかご)山に選ばれたのは、水の手の確保が容易だったからかもしれない。

 しばらく歩いて森が切れると、目の前に土を剥き出しにした平地が広がった。中央付近に三十人ほどが集まり、大きな輪を描いている。

 その遠巻きな人垣の内側に、禽――天隼がいた。

 これまでに見たもっとも大きな馬よりもさらに巨大で、今は畳んでいるが、翼を広げれば四間以上にはなりそうだ。頭を高く持ち上げた立ち姿は精悍そのもので、思わずため息が出るほど美しい。

 燎は小走りに近づいていき、人をかき分けて前に出た。

「すごい……」

 食い入るように見つめながら、口の中で小さくつぶやく。

 天隼は、ハヤブサをそのまま大きくしたような生き物だろうと思っていた。だがこうしてよく見ると、いろいろと異なっているところがある。

 体との対比で判断するかぎりでは、頭部はハヤブサよりもやや小ぶりな印象だ。耳のうしろあたりに、コノハズクの羽角(うかく)に似た小さい飾り羽根がついている。それは純白で、外耳のようというよりは、文字どおり洒落た装飾に見えた。

 首はハヤブサと比べると少し細めで長い。一方、脚は異様に太かった。人の足首にあたる、羽毛に覆われていない部分は大柄な男の太股ほどもある。足指は五本で、うち三本は前方に出ていた。すべての指先に、ぞっとするような鉤爪がついている。しかしその先端は、明らかに人の手で削り整えられていた。きっと籠番(ろうばん)が手入れをしているのだろう。

 磨き上げられた黒水晶のような目は、はっと息を呑むほど大きくて丸く、優美な銀色の縁取りがあった。その目がじっと、周囲の人間たちを観察している。底知れない獰猛さと、人をも超越する叡智を感じさせる眼差しだ。

 燎はぞくりとして、思わず一歩退いた。

 ハヤブサに似てはいるが、やはりまったく違う。これは人の世界に属する生き物とは思えない。津波を起こすという海竜帝や、山で旅人を襲って食い殺す御岳(おたけ)姫などと同じ、伝承と神話の中に生きている何かだ。

 そうした存在が現実の世界に立ち現れ、こうして人とかかわりを持っているとは、なんと不可思議なのだろう。

「可愛い顔をしている」

 ふいに傍で声がした。あわててそちらを見ると、いつの間にか石動(いするぎ)博武(ひろたけ)が隣に立っている。

「タカやワシよりも、顔の中で目の占める割合が大きいからだな」

「そうですね」

 適当に相槌を打ってあたりを見回すと、先着組の候補者たちも集まってきているのがわかった。朝の鍛錬を終えて、新参の試験を覗きに来たのだろう。

「どうだ、乗れそうか」

 少し笑みを含んだ声で博武が訊く。

「乗ります」

「気構えはできているようだな。見物させてもらおう」

「どうぞご随意に」

 素っ気なく言って視線を天隼に戻すと、ちょうど真栄城(まえしろ)康資(やすすけ)が歩み出てくるところだった。痘痕(あばた)顔をした厳しい目の男を伴っている。

 康資は天隼の横に立つと、一同を見渡して口を開いた。

「ではこれより、隊士候補を選ぶための試験を始める」

 人垣がざわめいた。平然としている者も中にはいるが、試験について知らなかった者が大半のようだ。

「試験といっても、別に難しいことをするわけではない。禽に近づいて跨がるだけだ。この禽はよく訓練されているし、籠長(ろうちょう)榧野(かやの)孫兵衛(まごべえ)が付き添うので心配はいらん」

 紹介された孫兵衛が軽く頭を下げ、天隼のすぐ傍まで行って、喉のあたりを優しくなでた。巨大な禽が心地よさげに首を伸ばし、ゆっくりと前傾姿勢になる。

 それを横目に見ながら、康資が続けた。

「ただし、禽は誰でも乗せるわけではない。どういう基準かは知らぬが、決して受け入れようとしない人間もいる。そして、それは最初の出会いで決定し、以後二度と覆ることはない」

「では――」人垣から声が上がった。「今ここで乗ることができなかったら、隊士にはなれないということですか?」

「遺憾ながら、その通りだ」

 彼の答えを聞いて、ざわめきが大きくなった。燎が博武から話を聞かされた時とまったく同じ反応だ。誰の顔にも、「そんな理不尽があるものか」と書いてある。

「〈隼人〉は単なる御役ではない。運命(さだめ)だ」

 康資はよく通る声で、朗々と言い放った。

「そうなるべく、生まれながらにして定められているものと心得よ」

 燎の胸が早鐘を打ちはじめた。血が上って顔が熱くなる。

 わたしはどうだ。〝なるべき者〟として定められているのか。もう待てない。早く確かめたい。

 その思いが届いたかのように、康資が手を上げて一同を促した。

「よし、やろう。我こそはと思う者から進み出ろ」

 先陣を切ろうと思ったが、別の者に先を越された。燎よりも一日早く砦に来ていた、由解(ゆげ)分家の長男虎嗣(とらつぐ)だ。太く濃い眉の下で、栃の実のような丸い目をぎらぎらと光らせながら、彼は大股に前へ出て行った。

「まず、ゆっくりと近づいて来い」

 康資の指示に従って、虎嗣が慎重に足を進める。あと三歩で左の翼に触れるという位置までくると、天隼がいきなり彼のほうへ首を向けた。見物人がうっと息詰まり、虎嗣も蒼白な顔で足を止める。

 だが、禽はそれ以上の動きをしなかった。おまえが乗るのか、と言いたげに虎嗣を見つめ、ただじっと待っている。

「いけそうだな」康資が力強くうなずいた。「首の付け根に触れてみろ。羽毛の下に革帯がある。それを掴んで一気に飛び乗るんだ。浮昇(ふしょう)力があるから、地面を軽く蹴るだけで高く跳び上がれる」

 虎嗣は少しためらってから腕を伸ばし、首のうしろの黒い羽毛の中に手を差し入れた。教えられた通りに革帯を探り当て、ぐっと握る。それから弾みをつけて飛び上がると、勢い余って反対側へ落ちそうになりながら、何とか禽の背に跨がることに成功した。

 見物衆からわっと歓声が上がる。思わず手を叩いている者もいた。

 かなり乱暴な乗り方だったので、見ていた燎は少しひやりとしたが、禽はなんら痛痒を感じていない様子だ。背に乗った男を、さほど意識している風ですらなかった。よく訓練されているという言葉に嘘はないらしい。

「いいぞ。合格だ」

 康資が声をかけ、虎嗣は禽の背から滑り降りた。興奮でのぼせたように、少し頬を上気させている。

 ひとり目が成功したことでみな一気に奮い立ち、その後は積極的に進み出て次々に騎乗していった。思ったよりも合格者は多かったが、やはり中には()ねられる者もいる。

 拒む場合、禽は燎の予想以上に厳然と拒絶した。羽根に触れるどころか、一間以内の距離に入ることすら許さない。無理にでも近づこうとすると、禽は頭を振り立て、恐るべき(くちばし)を噛み鳴らして激しく威嚇した。

 籠長の孫兵衛がなだめ方を心得ているのでこの場では問題なかったが、もし野生の天隼に出くわして嫌われたら、もう命はないものと思ったほうがよさそうだ。

 最初に不合格になった者はあきらめきれず、「ほかの禽で試したい」と申し出たが、孫兵衛に「一羽に嫌われたら、ほかもどの禽でも同じです」と説明され、気の毒なほどしょげかえって引き下がった。

 ここまでで合格者は六人。七人目の玉県綱正は燎のひそかな期待に反し、怖がる様子もなく近づいていってあっさりと騎乗した。

 二枚目面が醜態をさらすところを見てやろうと思ったのに、とんだ肩すかしだ。日ごろ女の尻ばかり追いかけているくせに、あれでなかなか腕も立つと聞いている。

 ぼんやりとそんなことを考えていたが、彼が戻ってくるのを見てはっと我に返った。先陣を切るどころか、いつの間にか見物に回ってしまっている。まったく、何をぐずぐずしているんだ。燎は自分自身を叱咤し、綱正と入れ替わりに勢いよく前へ飛び出した。

「次はわたしが!」

 声を張り上げて言うと、康資が莞爾(かんじ)として手招いた。

「よし、来い。ゆっくりとだぞ」

 合格者たちのやり方を見ていたので、もうこつはわかっている。燎は禽の左斜めうしろから慎重に近づいていった。少し緊張しているが、踏み出す足はしっかりしている。

 分水嶺となる幅一間の境まで、残すところあと半歩。

 禽がこちらを見た。まじろぎもしない、漆黒の瞳に吸い込まれそうだ。皮膚を透かし、骨を突き抜け、魂の内側までもを覗き見られている気がする。

 身の内から沸き上がる震えを抑えながら、燎は受容と拒絶の境目を一気に踏破した。

 何も起こらない――思わず脱力するほどの安堵感に包まれる。

 雲を踏むようなふわふわとした気分で歩み寄り、彼女は禽に手を伸ばした。後頭部の黒く短い羽根は、近くで見ると鋼のような青みを帯びており、びっしりと密接して生えている。内側に指を差し込むと、やわらかい羽毛に触れた。その感触を楽しみながら、さらに深く潜らせる。

 人の体温よりも温かい肌の近くに、一寸半ほどの幅の革帯が巻かれていた。それをぎゅっと掴み、馬に乗る時の要領で反動をつけながら右脚を振り上げる。

 足をかける鐙もないにも関わらず、燎は軸足のひと蹴りで一間以上も軽々と跳躍し、厚く綿を敷き詰めたように弾力のある禽の背中に飛び乗った。正確には背中ではなく、首の付け根の部分に跨がった形だ。馬よりも体幅が広いので、思いきり股を開かなければ体を安定させられない。

 革帯を握ったまま少し腰を前に寄せ、さらに座りよくしてから、腿で肩口をぎゅっと締めつける。馬に乗る感覚で、無意識に同じようにしただけだが、これに突然禽が反応した。

 前傾しながら足で地面を蹴り、巨大な両翼を一気に広げて短く二度打ち下ろす。燎の体に、下から突き上げるような衝撃が伝わった。周囲の空気が猛烈な渦を巻いて翼の下に吸い込まれ、うしろへ流れていくのがわかる。

 次の瞬間、燎はもう大空を舞っていた。少し冷たい風が頬を打ち、(たすき)の端を激しくはためかせる。

 彼女を乗せたまま、禽は副郭の北側に広がる森の上を滑空した。

「おま、おまえ……そ、そうか」恐怖と感動で舌がうまく回らない。「あれが〝飛べ〟という合図なんだな。そうだろう?」

 禽はほとんど羽ばたくことなく、気流に乗って悠々と飛び続けている。遠くへ離れていく様子はないが、いつ下りるつもりかはわからない。

 燎は唯一の手がかりである革帯に必死でしがみつきながら、大声で禽に話しかけた。

「おまえ、言葉はわかるのか? どうすれば地面に下りてくれる?」

 もちろん禽が答えるはずはなかった。言葉が通じている風でもない。何か着陸させる方法はあるはずだが、それを教わる前に飛んでしまったのは、一種の事故とはいえあまりに軽率だった。余計な動きなどせず、ただ騎乗してすぐに降りればよかったものを。

 痛恨の思いに唇を噛んだ時、はるか遠くから鋭い指笛が響いてきた。長く尾を引く吹き方で、二段階に音色が変化する。それが二度繰り返されると、禽はふいに方向転換して下降を始め、元いた広場にあっけなく着陸した。

「無事か」

 康資が駆け寄るなり、真剣そのものの面持ちで訊く。

「はい」

 燎は短く答え、急いで地面に降り立った。まだ少し足が震えている。孫兵衛も近寄ってきて、「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。痘痕顔から完全に血の気が引いている。

「禽を押さえておけず……」

「いや、わたしが悪かった」燎は彼の言葉を遮って言い、すぐに自分も頭を下げた。「馬に跨がった気分になって、つい脚に力を入れてしまったんだ。あれが離陸の合図なのだろう?」

「さようです」

 孫兵衛がきらりと目を光らせる。

「乗馬に慣れたかたがたが、馬と同様に扱えるようにと」

「よくわかった。今後は操りかたを覚えるまで、いらぬことをせぬように気をつける」

 隣に立っている康資が、あらためてほっとしたように大きく息を吐いた。

「ともかく、落ちなくてよかった。こちらの肝が冷えたぞ」

「わたしも一瞬、死を覚悟しかけました」

 ふたりのやり取りを聞いて、取り巻いている仲間たちから遠慮がちな笑いがもれる。

 まだ体が(こわ)ばっているのを感じながら、燎は精一杯平静を装って人垣の中へと戻った。そんな彼女を、博武が唇の端に笑みを張りつかせて迎える。

「恐れ入った」

「からかわないでください」

 ぶっきらぼうに言い、燎は片手で顔をなでた。

「どうだった、飛んだ気分は」

「それは――」言いさして、少し迷う。どんな気分だったのだろう。あまりに突然で、あまりに短くて、何も感じる暇などなかったように思う。だが、強いて言うなら……「それはもう、最高でした」

 博武が快活な笑い声を上げる。それを、少し向こうから綱正が怪訝そうに見ていた。こちらへ来て燎に声をかけたがっているようだが、博武が傍にいるので逡巡しているのがありありとわかる。

 その後は予想外の事態が起こることもなく、最後のひとりまで試験は無事に進み、最終的に十九人が合格、八人が不合格となった。

 希望を抱いてはるばるここまでやって来たのに、禽に拒絶された者たちはもう帰らなければならない。そのみじめさを思い、燎は合格できたことにあらためて安堵した。これでどうにか両親にも顔向けできる。

 だが、ひとまず試験に合格したというだけで、まだ何も終わったわけではない。訓練はまさにこれから始まるのだ。


 不合格の八人が副郭を去ったあと、康資(やすすけ)は隊士候補の面々を森の中へいざなった。博武(ひろたけ)も含め、先着組の候補者たちも何人かついてきている。彼らはこのあとに起こることを知っているらしく、何かを期待する素振りを見せていた。

「おぬしらに、〈隼人〉になれる素質があることはわかった」

 うっそうとした木立の中を歩きながら、康資がうしろに続く者たちに語りかける。

「すでにひとり、(とり)を操る〈乗り手〉としての実力を垣間見せた者もいるな」

 ははは、と笑い声が上がった。みなが燎を見て、訳知りげに目くばせする。

「だが〈隼人〉は乗り手だけではない。禽を操る乗り手と、空中で敵と刃を交える〈斬り手〉は常にふたりひと組だ」

 話を聞きながら歩いて行くと、例の水音がさらに大きくなった。どこか近くに湧水地があり、そこから小川が流れているのだろう。

 ややあって、予想通り林の中に水の流れが現れた。木々を縫ってゆるやかに流れ下りながら、少しずつ川幅が広がっている。その先に目をやると、光が差し込んで水面をきらきらと輝かせているのが見えた。あのあたりで森が途切れているらしい。

「乗り手と斬り手の役割は、具体的にはどう違うのですか」

 明るくなっている場所に向かって歩きながら、綱正(つなまさ)が訊いた。先頭を行く康資が、少し考えてから口を開く。

「飛行の際に乗り手は鞍に跨がるが、斬り手はそのうしろに立つ。敵と遭遇したら、乗り手は禽に留まり、斬り手は(くう)を跳んで斬り結ぶ。両軍入り乱れていれば、別の足がかりを見つけて跳びながらさらに戦うこともできるが、ひとたび足場を失うと当然斬り手は落下するので、乗り手はそれを見計らって拾いに行く」

 一同がざわついた。それは怖いな、というように顔を見合わせる。

「乗り手が拾い損ねたら?」誰かが訊いた。

「もちろん斬り手は落ちる。だが、浮昇力が強く働いている高空域では落下速度は遅い。乗り手が素早く反応すれば、もう一度拾いに行くだけの時間はある」

「つまり斬り手の命は、相方となる乗り手の才覚や技術にかかっているのですね。そして乗り手の存在意義は、斬り手と共にあることで生まれる」

 燎が呻くように言うと、康資は肩ごしにこちらを見て、にやりと笑った。

「その通りだ。一蓮托生の間柄というわけだな」

 そんなにも強いつながりを、誰かとのあいだに築けるだろうか。燎は眉間に皺を寄せて考え込んだ。そもそも、人づきあいはあまり得意なほうではない。それに軍備(いくさぞなえ)は、本来は男たちの世界だ。女として史上初めて天翔(てんしょう)隊に志願することを許された自分を、内心おもしろく思わない者も多いだろう。

 必死に努力して、他に抜きん出る技を習得したとしても、このわたしと組んでくれる仲間はいないかもしれない。そう思うと少し気が滅入った。

 だが、まだ訓練も始まっていないうちから、あれこれ考えても仕方がない。ともかく正式な隊士になれるよう精一杯やるだけだ。

 ふと気づくと、もう森が切れるところまで来ていた。川はこのあたりから早瀬となり、水の勢いも増している。燎はまず耳に届く音で、次に鼻先に漂うひんやりと湿った空気で、川の行き着く先が滝であることを悟った。山の北側にあるという大手道からは、おそらく登り途中にその流身を仰ぎ見ることができるのだろう。

 ()の下闇を出ると視界がぱっと開け、切り立った崖と緑したたる深い谷が現れた。川の水は白く泡立ちながら、崖の端から轟々と流れ落ちている。地面の際まで行って見下ろすと、はるか下に透明な翡翠色の水を(たた)えた滝壺が見えた。

「さて、ここまで連れてきたのは、滝見物をさせるためではない」

 康資が大声で言い、一同を見渡した。

「その崖から、ひとりずつ飛び降りてもらおう。なに、下の滝壺は相当深いし、幅もあるので心配はいらん。端まで駆けて、思いきり遠くへ跳べば、自ずとうまく着水できる」

 驚愕の面持ちで動揺する新参たちを、博武らがうしろで愉快そうに見物している。彼らもまた、試験のあとに同じことをさせられたのだろう。

「これは、訓練というより度胸試しだ。斬り手は合戦のさなかに、幾度も足場となる鞍を離れて宙を跳ぶ。むろん、下に受け止めてくれる滝壺はない。ここですら跳べないような者が、斬り手になれると思うか?」

 そう言われては引き下がれない。だが、やろうという意志はあっても、体はなかなか動かなかった。燎も子供のころの川遊びで、高飛び込みをしたことぐらいはある。だが、ここまでの落差はさすがに経験がなかった。それはほかの者たちも同じだろう。

「滝壺まで、およそどれぐらいですか」

 綱正が訊いた。珍しく神妙な顔をしている。

「まあ、一町はない。多く見積もって、五十間ほどだろう。普通はその高さを落下したら、たとえ下に水があっても死ぬ可能性がある。だが、ここでは浮昇力が働くから、落ち方は思う以上にゆるやかだ。それを体感してもらいたい」

 説明をされ、なるほどと思ったが、それでも燎は心が決まらなかった。理屈ではわかっても、感情ではまだ納得しきれていない。

 動きだす者がないのを見て、康資は苦笑をもらし、先着組に目を向けた。

「誰か、臆病者どもに手本を見せてやれ」

 その要請にすかさず応じたのは博武だった。

(しか)らば、それがしが参る!」

 おどけた調子で言うと、彼は崖に向かってまっすぐに駆け出した。燎の横を風のように通り過ぎ、またたく間に先端へ到達する。

 最後のひと蹴りで、博武は誰もがあっと息を呑むほど高く跳躍した。大きく空中へ飛び出したところで器用に宙返りを決め、さらに錐をもむように半回転してから、体を伸ばして垂直に落ちていく。

 全員が思わず崖の際に駆け寄った。いくつもの目が凝然と見守る中、博武の体が滝壺に吸い込まれる。小さく水しぶきが上がったあと、ややあって彼はゆっくりと浮かび上がり、水面に顔を出した。片手を上げて大きく振り、余裕綽々で歓声に応えてみせる。

 燎の体を武者震いが走った。よし、わたしもやってやる。

 決心が鈍る前に実行すべく、彼女は崖に背を向けて森のほうへ十歩ほど戻った。そこでいったん足を止め、康資に宣言する。

「やります」

「よし、行け!」

 彼の声を合図に、深く息を吸って駆け出した。何を考える間もなく、地面の端が見えてくる。速度を保ったまま一気に近づき、博武がしたように高く跳躍した。両腕を水平に広げ、前傾して空中に身を投げる。

 目の前の景色が半回転したあと、頭から落下していくのがわかった。岩に飛沫を飛ばしながら、白々と流れ落ちる水が逆さまに見える。断崖にびっしり生えた草や灌木も見える。なるほど、たしかに落ち方は、思った以上にゆっくりしているようだ。そんなことをのんびり考えるだけの暇があった。

 しかし高度が下がるにつれて浮昇力は弱くなる。水面が近づくころには、かなり勢いが増しており、頭から滝壺に突っ込んだ時にはそれなりの衝撃に襲われた。だが、あれだけの距離を落下してきたと実感できるほどではない。

 燎は体の力を抜き、水の懐に抱かれたまま、しばらく漂っていた。たまらなく爽快だ。今日は二回も空を飛んだ。そして、それは想像していたよりも、ずっとずっと素晴らしかった。

 康資が言った、運命(さだめ)という言葉が頭をよぎる。

 わたしは定められた者だった――その思いがじわりと胸にしみ込み、温かく心を満たした。もう、ただの憧れではない。この先何があろうと決してくじけず、最後まで訓練をやり遂げて、必ず天翔隊の一員になろう。

 息が続かなくなって水面に浮かび上がると、少し離れたところで博武が待っていた。

「おれに続いて飛ぶのは、きっとおぬしだと思った」

 彼はそう言って、笑みを(たた)えた目を陽光に輝かせた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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