三 御守国御山・若菜 追放の日
山を下りる。
夜明けに目覚めてから、もう何十回唱えたかもわからない言葉を、若菜はまた口の中でつぶやいた。ほかのことに意識を向けようとしても、いつの間にか考えがそこに戻ってしまう。
山を下りる。今日、御山を——下りる。長春とふたりで。ううん、違った。三人で。あたしと、長春と、娘も一緒に。
若菜はごろりと寝返りを打って、すぐ隣に寝かせている赤ん坊のほうを向いた。妊娠中から使っていた小さな部屋の中はまだ薄暗いが、障子紙を透かしてわずかに入ってくる外庭の明かりで、子供の寝顔をぼんやりと見ることができる。
まだ名前のない赤ん坊は、若菜が感じているような苦悩とも恐怖とも無縁の、どこまでも深く、ひたすら健やかな子供の眠りを眠っていた。
あたしもこんな風に眠りたい。何もかも忘れて。今日、山を下りることも、その先に起こることも少しも考えずに。一年前の、ほんとうに怖いものなんか何も知らなかったあのころに戻って。
伸ばした片腕に頭を載せ、口をぽかりと開いた赤ん坊の無心な顔をうっとり見つめながら、若菜は囁くように言った。
「でも、戻れないよね……」
目の縁から静かに涙がこぼれて頬を濡らし、頭の下に敷いている腕を伝って、敷布にゆっくりとしみ込んでいく。この寝台に横たわって涙を流すのもこれが最後だ。もう二度と、ここへ戻ってくることはない。二度と、山へ戻ってくることはできない。
こんなはずじゃなかったのに。涙でしみる目をきつく閉じ、唇を噛みながら思った。父さんに手を引かれて御山へ来た日、ここでの暮らしがこんな風に終わるなんて考えてもみなかった。あたしは、祭主さまにはなれないとしても、ずっとここで神さまにお仕えしていられるはずだったのに。
六歳を迎えた年の端月九日、かつて〝みつ〟という名で呼ばれていた少女は両親と共に、住んでいた村の祭堂へ参拝した。その時に何があったのか、当時はまるでわかっていなかったが、今は知っている。堂司が六年子の行く末を神に問う〈尋聴〉を行い、〝若巫女となるべく、疾く昇山すべし〟という神告を授かったのだ。
家族の中でもっとも信心深かった父親は、降って湧いた慶事に狂喜した。若巫女に選ばれたということは、将来、天門神教の祭主になる可能性があるということだ。そして、彼らの村から若巫女が出たのは、それが初めてのことだった。
若巫女になったら、大祭堂がある御山に住んで、十七歳になるまで修行をしなければならない。家にはもう帰れないし、親や兄弟とも二度と会えない。名前すら奪われ、毎日泥んこになって畑仕事を手伝ったり、兄弟と喧嘩をしたり、友達と遊んだりしていた女の子はこの世から消えてしまう。誰かがそう教えて、おまえはどうしたいかと訊いてくれたら、きっと〝いやだ〟と言っただろう。でも、誰からも何も訊かれることのないまま、〝みつ〟は堂司から渡された証札を携え、天にも昇らんばかりの父親と共に、御山がある御州まで長い旅をした。
山の麓から二日がかりで頂上へ登っていくあいだも、大祭堂で宗司による証札検めを受け、御山の最奥に建つ蓮水宮へいよいよ通されることになった時も、まだ〝みつ〟には事の次第がよくわかっていなかったように思う。蓮水宮の入り口で、未だ興奮冷めやらぬ様子の父に、これが永遠の別れになるなどとは思いもせずに手を振ったその時でさえ。
それでも、〝みつ〟はすぐに御山に馴染んだ。祭主から与えられた、新しい〝若菜〟という祝名をあっさりと受け容れ、自分と同じように神告によって選ばれた若巫女や若巫子たちの仲間入りをして、御殿のような蓮水宮と荘厳を極める大祭堂だけが全世界となったような暮らしを続けるうちに、親兄弟に会えない寂しさもいつしか忘れた。
下位の奉職者である小祭宜に身の回りの世話をされ、天門神教の教義や掟戒、読み書き、作法を教わる日々。小さな村の小作人の家に産まれた娘が、本来なら決して味わうことのなかった、神の膝元でおくる静かで豊かで洗練された明け暮れ。
途中で次代の祭主として指名されないかぎり、十七歳の年改めを迎えるまで、それは続くはずだった。そして、何ごともなく修行期間を終えれば、若巫女と若巫子にはふたつの道が提示される。ひとつは、降山して在野の信徒となり、普通の生活を営むこと。ひとつは、そのまま御山に残って祭宜や唱士、衛士などになり、生涯神への奉仕を続けること。
若菜は十七歳を迎えても、降山するつもりなどなかった。御山で十年の月日を過ごした身には、もはや下界での暮らしのほうが夢の中のことのように思える。家族を慕い懐かしむ気持ちも、すでに消え去っていた。
それなのに。
若菜は濡れた目元を腕にぎゅっと押しつけて、苦々しく考えた。
それなのに、十六歳で降山しなきゃいけなくなった。長春と、赤ん坊と三人で。どうやって生きていけばいいのかもわからない外の世界へ、今日、あたしたちは放り出される。そしてもう二度と、御山へ足を踏み入れることは許されない。
若菜はだるい体を起こし、寝台の端に座ってため息をついた。泣きすぎたせいか、頭が重い。そして、ひどく喉が渇いている。昇山前に出産を経験したということで、育児を手伝ってくれている吉野という祭宜が、赤ん坊にお乳をやっているあいだはやたら喉が渇くものだと言っていた。
涙でひりひりする頬を手の甲でぐいぐいぬぐって、若菜は老婆のようにぎこちなく立ち上がった。出産から五日が経ち、体力は戻ってきているようだが、まだ足元が少し頼りない。倒れないよう、両足を床にしっかり踏ん張り、着ていた寝衣を頭からすっぽりと脱ぐ。
乳房は重く張っていて、軽く触れただけでも痛かった。当てていた布が、しみ出た乳を吸って少し湿っている。乳がたくさん出るのはよいことだと吉野は言うが、若菜は自分の体がこんなにも変わってしまったことに戸惑いをおぼえずにはいられなかった。
大祭堂へ行こう。彼女はふいに思いついた。あたしたちは降山じゃなく、破戒の罰として山を追われるから、一度麓の門を出たらもう戻ることは許されない。大祭堂に参拝できるのは今日が最後だ。行って、これからのことを神さまにお祈りしよう。そして、見納めをしてこよう。
白い木綿の万事衣を選んで手早く身形を整え、赤子をそっと腕に抱きかかえて、若菜は部屋を出た。
板張りの長い廊下に、人の姿はない。若巫女と若巫子が暮らす北の院は、まだまどろみの中に沈んでいる。若菜は足音を忍ばせながら歩いていき、子を宿したことがわかるまで四人の仲間と一緒に寝起きしていた部屋の前を通り過ぎた。閉ざされた扉の向こうで、差し迫った難事も憂慮もなく、無邪気な眠りを貪っている仲間たちのことを思うと、嫉妬と羨望がちくりと胸を刺す。その痛みは、蓮水宮を出るまでしつこく追ってきた。
宮殿と大祭堂は、屋根のついた吹き放しの長い渡り廊下でつながっている。その高床の下をひとすじの細い川が流れ、中庭にある大きな蓮池に注ぎ込んでいた。池には真鴨の親子がいて、水面に浮かんだ睡蓮の花と丸い葉のあいだを縫うように泳いでいる。池の中央に造られた小島では、一羽の白鷺が優雅に翼を広げて羽繕いをしていた。
拍子抜けするほど、御山は普段と何も変わらない。若菜は渡り廊下の中ほどで足を止め、今朝開いたばかりの睡蓮の花を見つめながら、変わってしまったのは自分なのだと痛感した。
長春があたしを変えた。長春と、そしてあたしの弱さが、御山で暮らせない人間にあたしを変えてしまった。
長春は若菜と同じ年に昇山した、裕福な商家出身の若巫子だ。たまたま年齢も同じだったことから、ふたりはすぐに仲良くなり、競い合うように修行をしながら成長した。幼なじみで、いちばんの親友で、好敵手。その関係が変わり始めたのは、若菜が初潮を迎えたころからだった。
同じぐらいだったふたりの体格にいつしか差がつき、若菜を見る長春の目がまず変わった。同時に、若菜もそれまでとは違う目で彼を見るようになった。ふとした体の触れ合いに、気恥ずかしさと不思議な高揚感をおぼえるようになり、お互いを何となく避けつつ、そのくせ姿を目で追ってしまう、曖昧でもどかしい距離感が生じた。
長春と若菜はあやしい[#「あやしい」に傍点]ぞ、とからかっていた仲間たちは、本人らが思う以上にふたりのあいだの空気を的確に感じ取っていたに違いない。内宮に勤める小祭宜たちの中にも、おそらく気づいていた者はいただろう。だが、寝る部屋こそ違うものの、ほかはすべて男女の区別なく一緒に行うため、思春期の若巫女と若巫子が色恋沙汰を起こすのは決して珍しいことではなかった。実際、昂ぶる思いを抑えきれなかった若者たちが、共に降山させられた例は過去にいくつもある。
しかし開山以来、御山で身ごもってしまった若巫女は、若菜以外にはいない。
初めて長春に体を許したのは、蓮水宮の東の院の中庭にある鄙びた四阿の中だった。夏の大祭礼を終えたばかりで、御山全体が祭りのあとの物憂げな静けさに包まれていたのを覚えている。明るい半月が四阿の中まで照らしていて、その光輝を背にした長春は後光を放っているように見えた。
処女の恥じらいとわずかな抵抗をものともせず、彼が自分の中に押し入ってきた時、思わず伸ばした手で掴んだ欄干の感触もまだ覚えている。顔を影にして上に覆い被さっている長春が、あんなに雄々しく、強く見えたことはかつてなかった。そして、それが最後でもあったように思う。
ほんの数回の、人目を忍んでの慌ただしい交わりのあと、若菜は自分が子を宿したことに気づいた。それからのことはもう、悪夢としか言いようがない。甘酸っぱい思いは砕け散り、残酷な現実が目の前に立ち塞がった。
かつてない醜聞の発覚に蓮水宮が騒然となる中、若菜は罠に捕らわれた獣のように、ただ怯えていることしかできなかった。戸惑いと恐れを抱いて距離を置く仲間たち。育ての親でもあった、内宮の小祭宜たちが向ける蔑みの眼差し。十二人の宗司の、怒りに満ちた冷たい沈黙。
若菜と長春に対して、何も態度を変えなかったのは祭主だけだ。歴代で最も長くその地位に就いているという、澄んだ目と皺の寄った古い紙のような肌と、銀色の光沢を放つ白い髪を持ったその老人は、罪を犯したふたりを批判せず、叱りもしなかった。だが、そのことがなおさら、若菜をいたたまれない思いにさせたのもたしかだ。
ふたりをすぐに追放せよという声は多かったが、祭主は出産まで蓮水宮に留まることができるよう計らってくれた。
ほかの修行者から離れ、内宮の雑用を手伝いながら過ごした、針のむしろの上の九か月。その間、長春との交わりはもちろん許されなかったが、敢えて禁じるまでもなく、彼は二度と若菜に触れようとはしなかった。
破戒を周囲に知られてからの彼は、ほとんど別人になってしまったかのようだ。呑気でほがらかだった少年はどこかに消えた。今は無愛想で陰気で、何を考えているのかわからない暗い目をした男がひとりいるばかり。彼はあまりにも怯えすぎていて、同じぐらい怖がっている若菜の助けにも慰めにもならなかった。
蓮池を泳ぐ真鴨の家族から、若菜は腕の中の赤ん坊に視線を移した。長春はもう三日も、この子に会いに来ていない。降山後のことを、ふたりで話し合いたかったのに。そうしなきゃいけないのに。ほんとうにこの先、彼と一緒にやっていけるんだろうか。そのことを考えると、不安に押しつぶされてしまいそうになる。
若菜は胸にもやもやとわだかまる憂慮を抱えたまま、渡り廊下の先の小さな扉から大祭堂へ入っていった。
巨大なケヤキの円柱が林立する大祭堂の内部は、まるで広大な森のようだ。いつ来ても静かで、薄暗く、清澄な空気に満たされている。天井は、格子状にめぐらされている梁や、その間に描かれている華麗な楽土の天井画がほとんど見えないほど高い。
脇扉を閉めた若菜は、顔が映るほどに磨き上げられた板間の上を横切っていき、大扉の正面に設えられている巨大な祭殿への階段を上った。一般の信徒は祭殿の下の長い薫台で祈りを捧げるが、御山の奉職者は祭殿の上まで上がることを許されている。
子供のころに住んでいた家よりも広い祭殿の奥に進んだ若菜は、〈闢神〉と〈闔神〉の二体の神像が安置された祭壇の下に膝を折って額ずいた。像の足元にある、美しい彫刻が施された黒檀の薫台には太い蝋燭が何本も立てられ、石の香炉が置かれている。彼女は赤ん坊を片腕で抱き、長い棒状の香を二本取って先端に火を点け、ふたつの神像の前に捧げた。
祭壇の右に立つ〈闢神〉は〝ひらく神〟であり、道を開く、運命を開くといった前向きな願いによく応えるとされる。その神像は顔をやや上向きに、両手を少し広げた姿で表現されていた。左の〈闔神〉は〝とじる神〟であり、死者を鎮める、悪運を封じるといった目的に力を貸すとされる。こちらは視線を落とし、胸の前で両手を触れ合わせかけた厳粛な姿だ。
「闢神さま」若菜は懐から出した祈り珠を片手に巻き、その手を薫台に置いて神像を見上げた。「どうか、あたしの行く先をお示しください。子供と、夫になる人と共に、正しい道を進めるようお導きください。過ちを犯したあたしに、償いの機会をお与えください」
ゆらめく蝋燭の明かりが、ふたつの神像の艶やかな木肌の上を放縦に踊り、まるでそれらが生きて動き出すかのような錯覚に陥らせる。その様子に魅入られながら、若菜は一心に祈りを捧げた。
「闔神さま。悪い巡り合わせを断ち切ることができるよう、力をお貸しください。全てが正しい場所へ収まり、再び乱れることのないよう、天門を閉じてお守りください。下界へ降りて、新しい住まいを見つけることができたら、真っ先に祭壇を調えます。毎日必ず香を焚いて、お灯明を上げて祈ります」
そうして頭を垂れ、どれくらいのあいだ祈っていただろう。捧げた香がほぼ燃え尽きたころ、若菜は祭殿へ上る足音に気づいて顔を上げた。やって来たのは小祭宜の吉野だ。
「ここにいたのね。祭主さまがお呼びです」
低く囁くような彼女の声が心臓を貫き、静まっていた心が再び騒ぎ出す。若菜は額のあたりがすっと冷たくなるのを感じながらうなずき、赤ん坊を抱き直して立ち上がった。長く跪いていたので、歩き出した時には両方の膝に痛みが走ったが、それもほとんど意識に上らない。
ついに、その時がきた。頭の中にあるのはそのことだけだ。
蓮水宮へ戻るために渡り廊下へ出たところで、吉野が肩ごしに訊いた。「長春はどこか知っている?」
「ううん、知らない。もう何日も会ってないから」
「さっきから探しているけど、見つからないのよ。今さら逃げ隠れしたって、どうなるわけでもないのに。あなたは、心を決めて落ち着いているみたいだからよかった」
若菜が大祭堂で祈っていたことを好意的に見ているらしく、彼女はあながち優しくなくもない口調でそう言った。
あたしだって逃げたい。怖いもの。若菜は心の中で思ったが、口には出さなかった。吉野の言う通り、逃げてもどうにもならない。今になって、まだそれがわからないようなら、長春はどうしようもない馬鹿者だ。
少し重く感じられ始めた赤ん坊を、抱え直すためにちょっと足を止めた時、蓮水宮のどこかで荒々しい怒鳴り声が響いた。いや、叫び声だろうか。
「なんでしょうね——」吉野が振り返り、眉を寄せる。
ふたりが宮殿へ入ると、数名の内宮衛士が何か大声で言い交わしながら、廊下の先を走っていくのが見えた。彼らは蓮水宮内部の警護を務める衛士で、通常は〝宮士〟呼ばれることが多い。
「まあ、あきれた。宮士が内宮で走るとは」
吉野の声が怒っている。だが、若菜はほとんど聞いていなかった。宮士は佩刀しているが、よほどのことがないかぎり蓮水宮内で抜刀はしない。同様に、よほど差し迫った事態に直面しないぎり、内宮で走ることもしゃべることもしないはずだ。
何か起こった。宮士たちをあんなに走らせるほど、途轍もなく悪いことが。若菜は背中に冷水を浴びせられたように身震いし、物も言わずに走り出した。うしろで吉野が興奮気味に何か言ったが、足は止めない。
赤ん坊を落とさないよう両腕でしっかり抱え込みながら、全速力で北の院の半分を走り抜けた。宮士たちの足音を追って開け放しの杉戸をくぐり、学殿として使われている東の院へ入る。そこで行き先がわからなくなった。彼らはどっちへ行ったのだろう。
息を切らしながら立ち止まり、耳を澄ませた。右だ。中庭のほうから人の声がする。再び走り出した若菜の体に冷たい戦慄が走った。
東の院。中庭。あの[#「あの」に傍点]——四阿。
雲間から鈍く朝日が差し込む中庭に飛び出した彼女の目に、四阿を取り巻く人々の姿が映った。宮士たちだけでなく、大祭宜や小祭宜、宗司も何人か来ている。若菜は彼らを肩で押しのけるようにして、まっすぐに四阿へ近づいていった。途中、誰かが腕に手をかけたが、それを振り払って強引に前へ出る。
ふたりの思い出の場所である四阿。その屋根の梁から、長春の体がぶら下がっていた。首には細紐が幾重にも巻かれ、肌にきつく食い込んでいる。色白だった顔は青黒く膨れ上がり、開いた口の端から紫色の蛞蝓のような舌が力なく垂れていた。体のすぐ下の床には、嫌なにおいのする水たまりができている。
若菜はふらふらと近づき、欄干のすぐ手前で足を止めた。変わり果てた姿を見上げながら、彼と共に過ごした日々を、ここで初めて体を重ねた夜のことを思い出そうとする。だが、できなかった。頭に浮かんでくるのは長春への激しい罵倒ばかりだ。
どうしようもない馬鹿。本当に大馬鹿だ。あたしたちは御山の掟戒のひとつである〈不犯〉を破って、山を追われることになった。それだけは足りずに、長春はもうひとつ〈不殺〉まで破った。怖くて不安だから。それから逃げるために。あたしと赤ん坊を置いて、ひとりだけで。卑怯者。大馬鹿野郎。死ねばいい。殺してやりたい。なのにもう死んでいて、殺すこともできない。
若菜は大声で喚きたかった。長春を梁から引きずり下ろし、罵りながらさんざん蹴ってやりたかった。怒りで血が沸騰しているように感じられる。今なら、どんなひどいことも平気でやれるだろう。だが何もせず、ただ黙って立ち尽くしていた。
長く感じたが、実際はほんのわずかな時間だったに違いない。やがて心が凍りついたようになり、凶暴な衝動は過ぎ去った。全身の力が完全に抜け、薄い靄の向こうに消えていた周囲の音や色がゆっくりと戻ってくる。
誰かがそっと肩に手をかけた。虚ろな視線を向けた先にいたのは吉野だ。彼女は壊れ物のように若菜を抱きかかえ、四阿に背を向けさせた。抵抗せず、何も考えず、手を引かれるままに歩き出す。心身ともに疲れ切っていて、もう何もできる気がしない。
ふたりが中庭を出ようとしたその時、背後の様子がにわかに緊迫した。
「いかん、刀を抜け」宮士の誰かが叫ぶ。
玉石敷きの地面を、慌ただしく走るいくつもの足音。
「笛だ、笛を使え」
「封札を——」
若菜は振り返らなかったが、やり取りを耳にするだけで何が起こっているかはわかった。
強い念を残して死んだ者はしばしば、〝魂〟が去ったあとの〝魄〟に悪霊が宿って〈漂魄〉となる。漂魄は暴れ、手当たり次第に人を襲うため、封霊を施して鎮める必要があった。祭堂がない田舎の村などでは大きな被害が出ることもあるが、御山には封霊の術を知っている者がいくらでもいる。今この場だけ見ても、大祭宜や宗司すら揃っているのだから、すぐに魄から霊を抜かれて、ただの亡き骸に戻るだろう。
肉欲に負けて、自死して、おまけに漂魄になるなんて最低だね、長春。あんたは若巫子になるべきじゃなかったのよ。そしてあたしもたぶん、若巫女になんてなっちゃいけなかった。
諦観したような無表情のまま、若菜は吉野に導かれて、御山の主が住まう奥の院へ向かった。その入り口には白木に精緻な彫刻を施した両開きの扉があり、左右に立哨がひとりずつ仁王立ちしている。手前で立ち止まると、左側の立哨が無言で片方の扉を開け、目顔で先へと促した。
白木板張りの廊下を歩いて連れて行かれた先は、客殿となっている〈祥雲亭〉だった。若菜がそこへ足を踏み入れるのはこれが初めてだ。室内に入ると、背もたれの高い黒檀の椅子に腰かけている祭主が、穏やかな目を向けて手招いた。
「こちらへおいで、若菜」
扉の前に留まった吉野に赤ん坊を預け、若菜だけが前へ進む。祭主に近づくと、仄かな香の香りが鼻をくすぐった。
特に重要な祭礼もない今日、老人は白い練り絹のゆったりとした衣と、袖の大きい紫苑色の法衣という簡素な装いをしている。その袖で若菜を包むように両腕を伸ばし、彼は足元に跪いた彼女の顔に優しく触れた。
「おまえはもう、行かねばならない」祭主が低く静かに語りかける。「わかっているね」
「はい」
温かな両手で頬を包まれたまま、若菜は小さくうなずいた。そして、ふと思う。祭主さまは、さっき起こったことをご存じなんだろうか。東の院の騒ぎは、ここまで聞こえていたに違いない。でも、詳しいことはまだ伝わっていないだろう。
それにもかかわらず、彼はすべてを知っているに違いないという確信があった。
「今日まで置いてくださって、ありがとうございました。御山にご恩返しをできないまま去ること、本当に申し訳なく思っています」一息に言う。祭主の傍にいると心が安らぐが、もうここでぐずぐずしていたくなかった。長春の死にざまは無惨だったが、あれを目の当たりにしたおかげで、かえって迷いや恐れが払拭できたように感じている。「あたしは過ちを犯しましたが、降山したら正しい道を歩くよう努めます。そして、娘のためにも強くなります」
前向きな言葉を述べると、自然に微笑みすら浮かんできた。だが、それを見つめる祭主の表情は、なぜか悲しげだ。
少し間を置いて彼の手が離れると、頬が急に冷たくなった。その冷たさが、瞬く間に全身に広がっていく。
ふいに暗い予感を抱いた若菜は、床に膝をついたまま、急いでうしろを振り返った。扉の前にいたはずの吉野がいない。彼女に預けた赤ん坊もいない。
その瞬間、すべてがわかった。
「いや——」小さな悲鳴をもらし、若菜は身をひねって、祭主の膝に取りすがった。「いやです、祭主さま、あたしの赤ん坊……あたしの子——」
法衣をきつく握り締めている若菜の手に、祭主が自分の手を重ねる。
「夕べ、おまえと赤子のために〈尋聴〉を行ったのだよ」
「いやです、そんな、あたし——」
「赤子は神告を授かった」
「もういないのに。長春も。なのに、あの子まで取り上げられたら、どうやって生きていけばいいの。あたしひとりで、どうやって……!」
血を吐くように叫ぶと、もう枯れ果てたように思えていた涙が再びあふれ出した。大粒の雫が次々と滴り、若菜の手と紫苑色の法衣を濡らしていく。
「無理です。生きていけない。たったひとりでなんて。お願い、返してください。ちゃんと育てます。これからは何もかもちゃんとしますから」
若菜はしゃくり上げながら必死に言いつのり、祭主の膝に顔を伏せて激しく慟哭した。そのうなじに、いたわりに満ちた手がそっと載せられる。
「あの子は、御山で産まれて育つ初めての若巫女だ。そうなるべく、逃れられない宿命を背負っているのだよ」
ゆっくりと辛抱強く言い聞かせる祭主の声は穏やかだが、断固とした響きを湛えていた。
「祝名は、〝青藍〟と定められた」
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