三十 王生国天山・石動元博 謁見
時期的には梅雨のまっただ中なのに、一滴も雨が降らない。石動元博は兄への手紙に、天山の様子をまずそう書き記した。気温が低く、空気はいつも乾いている。だがありがたいことに、水にはまったく不自由しない。天山の井戸はどれも、想像を絶するほどの深掘りなのだ。
次に、三の曲輪で出会った人々のことを書こうと考えていると、黒葛貴昌が廊下から顔を覗かせた。
「元博」
「若君。どうぞ、お入りください」
声をかけると、少年は嬉しげに部屋の中へ入ってきた。例の如く、そのうしろに朴木直祐が続く。
「手紙を書いていたのか」文机に近づきながら、貴昌が訊いた。「母上に?」
「いいえ、兄たちにです」
元博は筆を置き、傍にちょこんと座った貴昌に微笑みかけた。
「旅をしていたあいだもずっと、兄たちには近況を書き送っていました。返事は、いちばん上の兄からしか来ませんが」
「孝博どのですね」直祐が横から言う。「彼はいかにも筆まめそうだ」
石動家の長男孝博は、三州の郡楽城で黒葛宗家の当主禎俊に仕えている。今は右筆衆の末席に加わっており、直祐とは仕官当初からの顔なじみだ。
「ええ。無口ですが、筆を持たせると、たちまち饒舌になるんです」
元博は笑いながら言った。
「真ん中の兄の博武は、わたしと似ていてお喋りですが、こちらはあきれるほど筆無精で、滅多に返事はよこしません」
「兄弟がいて、うらやましいな」貴昌は呟くように言って、どこか遠い目をした。「わたしにも兄上がいたんだ、ほんとうは」
貴昌の兄実俊は、弟が産まれる三年前に病を得て、わずか四歳で世を去った。そのため、兄弟の縁があるにもかかわらず、ふたりは一度も顔を合わせたことがなかったのだ。
「兄上たちとは、仲良しか?」
憧れのこもった声で訊かれ、元博は少しくすぐったく感じながらうなずいた。
「はい、兄弟仲はいいほうだと思います。若君のお父上と叔父上がたには及びませんが」
「異体同心!」打てば響くように言い、貴昌は顔を輝かせた。「南部ではそう言われていると、前に直祐が教えてくれた。黒葛三兄弟の絆は、えーと、〝鉄の結束〟だから、どんな戦でも負けないんだって」
「おっしゃる通りです」
「わたしも兄上が生きておられたら、異体同心になれたのに」
残念そうにため息をつく。責任や悩みを分かち合える身近な相手がいないことに、少し心細さを感じているのかもしれない。元博はそう察して、元気づけるように言った。
「おいとこがたが、おられるではありませんか。丈州の俊紀君と立州の貴之君は、いずれ若君にとってご兄弟同様、もっとも頼れるお味方になられるはずですよ」
「元博どのの言われる通りです」直祐が真面目な顔でうなずく。「おふたりともまだお小さいですが、もう少し大きくなられたら、文をやり取りできるようになりますよ」
「そうだろうか。早く大きくなるといいな」
声を弾ませてから、貴昌はちょっと考えるように小首を傾げた。
「でも、いとこにどんな手紙を書けばいいんだろう。元博は兄上に何を書いている?」
「ごく普通の、近況ですよ」元博は笑いながら言った。「王州はまだ寒いとか、こんな人に会ったとか。身の回りで起こったことを、何でも思いつくままに書いています」
「身の回りで起こったこと……」
貴昌は鸚鵡返しにそう呟き、急に顔を曇らせた。
「じゃあ、このあいだ庭で、陛下にお会いした時のことも書くのか?」
妙に真剣な、どこか思い詰めたような様子で訊く。
大皇妃との出会いは椿事ではあったものの、決して嫌な出来事ではなかったはずだ。貴昌は彼女から好意的な扱いを受け、愛猫まで貰い受けた。それなのに、なぜあの時のことを話すのに、こんな表情をするのだろう。
「そうですね、書くと思います」訝しく思いながら、慎重に答える。「書かないほうがよいとお思いですか?」
少年は黙ってうつむき、しばらく考えてから顔を上げた。
「あの時、わたしが陛下に申し上げたこと……」落ち着かなげに、尻をもぞもぞさせながら言う。「義母上のこと――は、書かないで欲しい」
最後のほうは声が尻すぼみになった。そんな要求をする自分自身を恥じているかのようだ。
元博は、彼があの時の会話を今も気に病んでいることに初めて気づき、微かな驚きをおぼえながら急いで言った。
「そんなことを書いたりはしません」
少年の目に希望の光が宿る。「ほんとうに?」
「もちろんです。わたしが書こうと思っていたのは、真名さまが目も眩むほどお美しかったことや、若君が堂々とご挨拶なさったことですよ」
貴昌は見るからに安心した様子で、ほうっと息を吐いた。だが、表情はまだ痛々しいほど張り詰めている。
「わたしは、あんなことを言っちゃいけなかったんだ。急に訊ねられたから、亡くなった母上のことしか思いつかなくて……。でも、わたしが富久さまのことを忘れていたと知ったら、きっと父上は嫌なお気持ちになると思う」
彼は文机の上に広げられたままの手紙に、ちらりと目をやった。
「もし元博がそれを手紙に書いたら、孝博は父上に言うかもしれない。だって、父上の家来だから」
「万一、わたしが若君の言われたことを伝えたとしても、兄は郡楽の御屋形さまにそんなことをご注進したりはしません」
きっぱり言うと、ようやく貴昌の表情がゆるんだ。
「よかった」
その時、外の廊下を白い影がさっと走り抜けた。大皇妃から譲り受けた猫が、屋内に入り込んだ虻か何かを追っているようだ。軽い足音が廊下の先で忙しく跳ね回り、それからまた戻ってきて、開け放しの襖をかすめながら通り過ぎた。
つい先ほどまでの気鬱なやり取りなど忘れたように、貴昌が快い笑い声をもらす。
「猫と遊んできていい?」
半ば腰を上げながら訊かれ、直祐が小さくうなずいた。
「屋外へはお出にならないよう」
「わかった」
答えるなり立ち上がり、貴昌は廊下へ駆け出していった。虻からそちらに興味を移した仔猫が、追ってこいと言わんばかりに家の奥のほうへ逃げ、捕まる寸前に引き返して少年を翻弄する。
「いい遊び相手ですね」
楽しげな足音に耳を澄ましながら言うと、直祐が穏やかに微笑んだ。
「陛下には感謝しています。あの猫が来てくれたので、当面は若君の気晴らしを見つけずともよくなりました」
「直祐どの」元博は彼のほうに少し膝を進め、声を落として訊いた。「わたしは郡楽の家臣ではなかったので事情に疎いのですが、若君は奥方――富久さまと、あまり折り合いが良くないのですか?」
「誤解なさらないでいただきたいのですが……」彼は用心深い口ぶりで、ゆっくりと言った。「奥方さまが若君を虐げているとか、そういうことではないのです」
「はい」
「ただ、あのかたは若君に――興味がない。そう、おそらく、これがもっとも正鵠を射た表現でしょう。〝興味がない〟というのが」
その言葉から滲み出る、身も蓋もない拒絶感が元博をたじろがせた。少なくとも自分なら、〝興味がない〟と言われるよりは、〝嫌いだ〟と言われるほうがずっといい。
「富久さまが郡楽へ輿入れされたのは、若君がまだお小さい時だったのでしょう?」
「ええ、三歳でした」
「それぐらいの年から母親代わりをしていたら、たとえお腹を痛めた我が子でなくとも、自ずと愛情を感じるようになるものだと思うのですが」
直祐の表情は変わらなかったが、その目にほんの少し沈痛な色がさしたように思えた。
「人それぞれということでしょう。富久さまはおそらく、もともと子供がお好きではない。ゆえに、義理の息子となった貴昌君に対しても、これといった感情を抱くことがおできにならないのだろうと、わたしは考えています」
「でも、それでは――若君がおかわいそうだ」
つい感情的になり、気づいた時には、思ったままを口に出してしまっていた。禎俊公の臣を前にして、奥方を批判するなどもってのほかだ。みぞおちのあたりに一瞬ひやりと冷たい感触をおぼえたが、直祐が特に不快感を示さなかったため、それはすぐに消えていった。
「口に気をつけてと言うべきところですが……」直祐は唇の端に小さく笑みを浮かべた。「若君のために憤ってくださる、そのお気持ちを嬉しく思います。わたし自身、傅役になってからは、いつも胸の内に富久さまへの不満を抱えていました。本当の親子のようにとはいかずとも、せめてわずかなりと愛情を傾けてはくださらないものかと」
生真面目で思慮深い直祐が、珍しく赤裸々に内心を吐露するのを聞いて、元博は彼の貴昌への思いの深さに心を打たれた。一門衆や支族の出ではないにもかかわらず、禎俊公から信頼され、大切な嫡男を任されているだけのことはある。
「そういえば元博どのは、寛貴さまの小姓をしておられたのだから、富久さまの妹御の喜多さまをご存じなんですよね」
「あ、はい。奥方さまには生明城で、いつも優しくしていただいていました」
そう言いながら、元博は黒葛喜多を思い浮かべた。育ちの良さを窺わせるおっとりした物腰の女性で、他人を疑うことを知らないような目をしており、微笑むと両の頬にかわいいえくぼができる。
貴昌の随員として天山へ来ている玉県吉綱は彼女の兄であり、そう思って見れば、ふたりの顔立ちには少し似通ったところがあった。
「喜多さまは、ちょっと変わっておられるんです。虫が大好きなんですよ」彼女が御殿の方々に虫籠を置き、それらを無邪気に覗き込んでいた姿が思い出される。「庭へ出てきれいな蝶を追ったり、俊紀君のために、ご自分で甲虫を捕まえてこられたり」
「若君のために……」
直祐は小さく呟き、笑みを浮かべた。だがその笑みには、微かに憂いが含まれている。
「ご姉妹といっても、富久さまとはご気性が異なるようですね」
「少なくとも、喜多さまは子供好きではあると思います。わたしのことも、まだ子供のうちだと言って、何かと世話を焼いてくださっていたほどですから」
そしてもちろん、一粒種の俊紀君を溺愛している。寛貴公の方針で乳母をつけておらず、侍女の助けがあるとはいっても初子の世話は大変だったはずだが、彼女には自ら進んでそれを楽しんでいるような雰囲気があった。
「さっき直祐どのは〝人それぞれ〟とおっしゃったけど、たしかにその通りですね」
元博がそう言ったところへ、椹木彰久が現れた。今日の彼は渋い錆青磁色の紬をまとい、粋な菫色の半襟を覗かせている。
「お話し中に失礼を」
廊下から声をかけ、彼はふたりに向かって微笑んで見せた。いつも通り、聡明さと小賢しさが半々に入り混じったような、どこか油断のならない笑顔だ。
「主の桔流和智が、勝元公と共に帰還いたしました。慶城の表御殿にて、皆さまをお待ちしております。貴昌君と随員のかたがたは急ぎお支度を整え、謁見に向かわれますよう」
元博は思わず、直祐と目を見交わした。急すぎる、と彼の顔に書いてある。自分の顔からも、おそらく同様の言葉が読み取れるはずだ。
天山の主が狩りから戻ったら、早々に謁見の運びとなることは承知していたが、ある程度は余裕を持たせて知らせが来るものと思っていた。
いま戻ったばかりですぐに引見するとは、三廻部勝元はかなりせっかちな気性らしい。だが思えば、狩りへ出かけることを決めたのも、かなり唐突だったと聞いた気がする。
「足軽長屋へ寄って、皆さまの従者にお手伝いを申しつけておきました。じきにやって来ると思います」彰久はにこやかに言って、軽く会釈をした。「では、ほかのかたがたにもお知らせに参りますので」
元博らが何も返事をできないでいるうちに、彼はさっと踵を返して、奥の間のほうへと歩いて行った。
すぐさま直祐が我に返り、表情を引き締める。
「若君のお支度をせねば」
「お手伝いします」
元博はにわかに緊張が高まるのを感じながら、彼と一緒に腰を上げた。
聳城国を統べる大皇とは、どのような人物なのか。背は高いのか。痩せているのか。顔立ちは。人柄は。戦と和平、いずれを好むのか。
天山へ向けて旅をしてくるあいだ、元博は幾度となく大皇三廻部勝元のことを考えた。すべての武家の頂点に君臨する支配者。丈州で〝御屋形さま〟と呼んで仕えていた黒葛寛貴よりも、その彼の兄で、西峽南部三国の太守である黒葛禎俊よりも高いところに座る男。
いま、慶城表御殿の大広間へ向かう通路を歩きながら、元博は再び最高権力者の実像について考えをめぐらせていた。もうじき、その当人を目の当たりにすることができるのだと思うと、武者震いがこみ上げてくる。
「なんと長い廊下だ」元博の横で、柳浦重晴がぼそりと呟いた。「広間に辿り着く前に日が暮れそうだぞ」
彼のほうを見た元博は、その顔色が冴えないことに気づいた。
「ご気分が悪いのですか?」
「曲輪をふたつ上がったので、またぞろ浮昇酔いがな……」
筋肉質な体躯や、厳めしい顔つきに似合わず、重晴は意外に体が弱い。旅のあいだも彼だけが何度も風邪をひき、腹をこわしていた。そして天山へ着いてからは、もっぱら浮昇酔いだ。にもかかわらず、薬療学に不信感を抱いており、服薬や療師の手当てを頑として拒む。昵懇の間柄である真栄城忠資は、いつもそれをねたに彼をからかっていた。
「重晴」その忠資が、歩きながらこちらを振り返った。「周りを見てみろ。素晴らしい障壁画だぞ。少しは気が紛れるだろう」
重晴が顔を上げ、長い通路の左右に目をやる。一連の障壁には巧みな筆づかいで、咲きこぼれる桜花が丹念に描き込まれていた。背景に金箔をあしらった金碧障壁画で、その豪奢さと華麗さは目を瞠るほどだ。だが彼はちらりと見てすぐに眉をしかめ、また視線を足元に落としてしまった。
「煌々としすぎて、なおさら目が回る」
不機嫌そうにぼやくのを聞いて、忠資がからからと笑う。厳粛な空気をまとった一行の中で、彼だけが普段どおりにくつろいでいるようだ。
「あの〈苓風散〉とやらいう薬を飲んでみればいいものを」
重晴が、うるさい、と言い返したところで、一行はようやく通路の端まで辿り着き、大広間の殿舎へと足を踏み入れた。
謁見の間は六つの部屋と、遣り水をめぐらせた中庭で構成されていた。入り口に近い五の間が最も大きく、九十畳ほどの広さがある。その左隣に四の間があり、以降、三の間、下段の間、中段の間、そして大皇夫妻が坐する上段の間が、庭を囲んでコの字型に配されていた。すべての部屋を合わせると、優に五百畳を超えるに違いない。
元博は殿舎を取り巻く畳敷きの入側を歩きながら、御殿の規模と壮麗さにただ圧倒されていた。これに比べると、実家の狩集城は掘っ立て小屋も同然だ。
下段と中段の間には、三廻部家の譜代家臣や重臣たちが左右にずらりと居並んで新参者たちを出迎えた。黒葛貴昌と七人の随員に、好奇心に満ちた、値踏みするような視線が注がれる。
下段の間の中ほどで、元博ら随員は足を止めた。貴昌だけがさらに前へ進み、中段の間に上がる。一行が畳の上に腰を下ろし、上段の間に向けて平身低頭したところで、奏者が拝謁者の名を披露した。
「三鼓国、黒葛貴昌」
やや間があって、ひれ伏す一同の頭の上から、ひび割れた銅鑼を叩くような声が降ってきた。
「南部から遠路はるばる、よう参った。みな面を上げよ」
控え目に顔を上げた元博は、上段の間に座る三廻部勝元が、すでにかなり聞こし召していることに気づいて唖然とした。手に持った大振りの盃を口に運びながら、脇息にだらしなくよりかかっている。頬骨のあたりの皮膚は赤らんで、てらてらと光っていた。
酒飲み。大皇を評する言葉として、まず頭に浮かんだのはそれだ。それから元博は、彼の鼻の頭に血管が赤く浮き出ていることを見て取り、〝酒浸り〟に訂正した。
体格はかなりいい。肩ががっしりして胸板が厚く、盃を持つ手も巨大だった。どんな大槍や大剣も軽々と振り回せそうな、規格外の力強さを感じさせる手だ。だが腹回りには余分な肉がたっぷりとついており、その影響が動作にも表れていた。
剣のひと振りで武者を殺せる。でも、そのひと振りで息が切れる。
元博はそう思い、何か言いようのない失望感に囚われた。この広大な国を治める大皇は、その力の下にすべてをひれ伏させるだけの強さと、人民のみならず自らをも律する厳しさを持った人物であって欲しいと思っていたのかもしれない。少なくとも、酒を浴びながら引見するような男は想定外だった。
その大皇の横、少し離れた場所には、相変わらず輝くように美しい三廻部真名が端然と座していた。こうして夫妻を並べてみると、ずいぶん年齢差があることがわかる。勝元は四十代、対する真名はまだ二十代半ばの若さだ。
今日の大皇妃は、生来の肌の白さを引き立てる、漆黒の縮緬地の打掛をまとっていた。右の肩口には白梅、左の腰から裾にかけては紅梅が色鮮やかに描かれている。花弁は金彩、花びらを縁取るのは金糸の刺繍だ。この一着に、どれほどの手間暇と金が注ぎ込まれているのか見当もつかない。
しかし、そんなにも艶やかな装いをしながら、大皇妃の表情に浮き立つものはなかった。夫の大皇にも、面前に座る家臣たちにも、そして数日前に会った時にはあれほど好意を示した貴昌にもまったく関心がないように、冷ややかな目をしてそっぽを向いている。
「黒葛貴昌、もそっと近う寄れ」
大皇に促され、貴昌は膝行してわずかに前へ出た。そこで再び頭を下げ、少し緊張気味に挨拶の口上を述べる。
「両陛下の麗しきご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
それを聞いた勝元は、吠えるように大声で笑った。
「麗しいか」盃を持ち上げ、ぐいっとひと息に飲み干す。「まあたしかに、奥は麗しい。これこの通り、有明の月のごとくな」
彼は横にいる妻に目をやり、彼女から視線が返ってこないことに気づいた様子もなく、再び貴昌のほうを向いた。
「七歳と聞いたが、ずいぶん小さいな。たんと食って、もっと大きゅうなれ。わしが獲ってきた牡鹿を、桔流の屋敷に届けさせよう」
「ありがたき幸せ」
少年が少し怯えていることを、元博は彼の声から感じ取った。勝元の荒々しさに、すっかり呑まれているようだ。だが懸命に隠そうとしており、それはおおむね成功していた。礼装の大紋をまとい、黒葛家の家紋である〈千切り〉を背負っていることが、彼に力を与えているのかもしれない。
「随行の者らも、長旅大儀であった」勝元は貴昌の背後を見やり、元博たちにも声をかけた。「黒葛家の者がもうひとり、いるそうだが」
随員の右端にいた黒葛禎貴が、畳に両拳を置いて低く頭を下げた。
「これに。当主禎俊のまたいとこで、黒葛禎貴と申します」
「おお、さすがは黒葛の一門衆、よい面構えだのう」唇の片端を上げ、からかうように言う。「こうして、天山の懐へと入り込んだ心持ちはどうだ。よもや機に乗じて、わしの寝首を搔くつもりではなかろうな」
禎貴は顔を上げ、勝元に向かって不敵に微笑みかけた。
「ご用心召されませ。我が主がそうせよと申さば、陛下のお首をいただきに参るやもしれませぬぞ」
うわ、禎貴さま――元博はにわかに脈が切迫するのを感じた。なんと大胆な物言いだろう。だが言われた大皇のほうは、再び哄笑しただけだった。
「南部衆は油断がならんわい」
太い腹を揺すって、げらげらと笑う。会話を聞いていた家臣たちも、それに追随するように笑い声をもらした。
「だが黒葛禎俊は、おぬしにそのような下知はすまいよ。わしもまた、大事な預かり子に何人たりとも害をなすことのないよう、充分に目を配るつもりだ」
「それを伺い、安堵いたしました」
「後見役の桔流和智にも、その点はしかと言いつけてある」
そう言って彼が目をやった先には、万年氷のように冷たく引き締まった顔つきの男がいた。おそらくあれが、〝天山の懐刀〟と言われる桔流和智だろう。
「貴昌よ」
大皇からふいに呼ばれ、少年の背中が緊張した。
「はい」
「和智は厳しいが、分別ある立派な男だ。天山での父と思うて敬い、何ごとにつけ教えを請うがよい」
「仰せの通りにいたします」
「素直な子だ」酒に濁った大皇の目がなごみ、その顔に心からの笑みが浮かんだ。「では、これにて――」
彼が引見の終わりを告げようとしたその時、突如大皇妃が黒葛家の一行に顔を向けて口を開いた。
「貴昌どの、あの猫はどうしていますか」
「とても元気です」貴昌が声を弾ませる。「わたしやみんなと仲良くなり、すっかり〈賞月邸〉での暮らしになじみました」
「そう、よかったこと」
大広間に当惑の空気が流れた。会話についていけているのは、事情を知っている南部衆だけだ。大皇も妻から何も聞いていないらしく、眉をしかめてふたりを交互に見やった。
「猫が何だ」
そこで初めて真名は、夫である勝元のほうを向いた。
「わたくしの猫を一匹、貴昌どのに差し上げたのです」
「ほう」勝元の目に、おもしろがっているような光が宿る。「珍しいこともあるものだな」
その皮肉っぽい言葉を無視して、真名は再び貴昌に問いかけた。
「もう呼び名をつけられましたか」
「いいえ、陛下」貴昌が礼儀正しく答え、少し間を置いてから言葉を続ける。「あのう――陛下がなんと名づけられていたのか、お訊きできればと思っていました。もしお許しをいただけるなら、わたしもその名であの猫を呼びたいのです」
真名の表情が和らぎ、雲間から光が差すように笑みがこぼれた。
「まあ、嬉しいこと。わたくしはあれに〈白雪〉と名づけ、日ごろは〝雪〟と呼んでいました。天山に降る新雪のように真っ白ですからね」
「白雪?」
詰問口調でそう問いかけたのは、貴昌ではなかった。みなが目をやった先にいたのは、大皇の息女亜矢姫だ。例の〈白〉と〈黒〉、月下部知恒と一来将明を従えて書院から続く廊下をやって来た彼女は、今日もやはり袴を着けて男の子の形をしていた。上段の間の入り口に仁王立ちして、拗ねたように口をとがらせ、きつい目で母親を睨んでいる。
「これ姫よ、このようなところへ来るでない」
勝元はたしなめたが、甘い口調が言葉を裏切っていた。彼がどれほどこの長女を愛しているかは、とろけるような笑顔を見れば誰の目にも明らかだ。
元博は父と娘を見比べ、似ている、と思った。亜矢姫は母親の美貌ではなく、もっぱら父親の男性的な厳つさを受け継いだようだ。そして、ひと目見て親子とわかるほど似ているがゆえに、なおさら勝元は娘を溺愛せずにいられないようだった。
「奥へ戻っておれ。あとで父が、狩りの話を聞かせてやろう」
相好を崩しながら、やんわりと言い含める。しかし亜矢は父親を無視し、重ねて母親を問い詰めた。
「白雪をあいつにやったのですか」
「そうですよ」
つまらなそうに、真名が答える。彼女の表情は再び虚ろになり、その目からは柔らかさが消えていた。
「母上がいちばん可愛がっていた猫だ!」亜矢がふいに激昂し、叫ぶように言った。「あいつにやるくらいなら、わたしにくださればよかったのに」
「あなたは、猫をいじめるでしょう」
「そんなことしない! 母上の猫ならきっと大事にしたのに!」
亜矢は真っ赤な顔をして、癇癪を起こしたように拳を振り回した。口調も声も、年齢よりずっと幼く聞こえる。
貴昌が落ち着かなげに身じろぎし、うしろに座る家臣たちを振り返った。心優しい少年の目に、争いの元になってしまった罪悪感が滲んでいる。
どうすればいい?と問いかけるような視線をよこした彼に、元博の横にいる朴木直祐がゆっくり首を振って見せ、唇に指を当てて沈黙を守るよう伝えた。
そう、たしかに、この場で彼が何を言ったとしても状況は好転しない。むしろ悪化させるだけだろう。それぐらいなら、黙っているほうがいい。
「白雪を取り返してください。あいつの家来は、わたしの犬を斬ったんだ。それなのに、母上の猫をやるなんて」
急にお鉢が回ってきた。今にも噴火しそうに頭から湯気を出しながら、亜矢がこちらをまっすぐ指差す。元博は目を丸くして、彼女を見つめ返した。
「犬を斬った?」そう訊いたのは勝元だ。「あの黒犬を?」
我が意を得たりと、亜矢が勝ち誇ったようにうなずく。
「そうです。だからわたしは、あいつの頭を割ってやろうと石を投げました。でも割れなかったから、成敗するよう〈白〉に言いつけたのに、〈黒〉がそれを止めたんです」
ここに至り、大皇はほとほとうんざりした様子で、大きくため息をついた。
「何の話か、さっぱりわからん」
その時、亜矢のうしろに控えていた傅役の一来将明が、小さく含み笑いをもらした。
「陛下、おそれながら」
彼は跪いたまま顔を上げ、勝元のほうを見た。
「姫君のお犬が、貴昌君を襲おうとしたため、石動元博どのが返り討ちにして傷を負わせました。姫はそれにお怒りになり、元博どのを石打ちになさったのです」
勝元はさっと首を振り、娘が指差した方向へ顔を向けた。元博の額に今も残る傷に目を留め、厳しい面持ちでじっと見つめる。
「その傷――そうか。大事ないか」
突如、直に声をかけられ、元博は全身が棒を呑んだように硬直するのを感じた。
「は」低頭しながら、急いで答える。「すぐに手当てを受けましたので」
そのやり取りが終わるのを待って、将明が再び口を開いた。
「姫君は知恒どのに、元博どのを殺すよう命じられました。そこでわたしが、先に陛下にお伺いを立て、そうしてよいというお許しをいただくよう申し上げたのです」
「許すはずがなかろう」
あきれたように言い、勝元は荒っぽい仕草で盃を口へ運んだ。なみなみと注がれていた酒を飲み干し、ふーっと大きく息を吐く。
「姫、貴昌と仲良うせよ。南部衆ともだ。彼らはこれより天山に滞在し、そなたの爺さまの屋敷で暮らす。貴昌とは年も近いことだし、よい遊び相手となるだろう」
「遊び相手などいりません。父上、あいつらを殺してください」
中段の間に座る家臣たちが、ぎょっとしたように顔を見合わせた。わがままな姫君の言動に慣れているであろう彼らにとっても、これは少々度を超していると感じられたらしい。
勝元は気まずそうな顔をして、片手をぞんざいに振った。
「将明、知恒。姫を連れて行け」
将明が薄笑いを浮かべる。「どちらへお連れしましょうか」
「どこでもよい」大皇はいらいらと言った。「菓子でも玩具でも与えて、おとなしくさせよ」
傅役と護衛が立ち上がり、亜矢の背に手を添える。少女は燃えるような目をしてその手を振り払い、畳の上に足を踏ん張った。
「触るな。わたしはここにいる。父上、あいつらを――」
「陛下」
真名の落ち着いた声が、亜矢の言葉尻をすっぱりと断ち切った。
「少し頭が痛みますので、下がらせていただいてもよろしゅうございますか」
「む……よかろう」
勝元が不機嫌顔で諾すると同時に、彼女はふわりと立ち上がった。長い着物の裾を優雅にさばき、侍女の一団を率いて畳廊下へ向かう。
部屋の出口には亜矢姫が、頑固そうな顔で立ちはだかっていた。眉間に皺を寄せ、母親を睨み上げる。だが真名は娘に一瞥すら与えることなくすれ違い、ゆっくりと廊下の奥へ歩き去って行った。
「南部衆も下がるがよい。大儀であった」
場の空気が変わったのを好機と見て勝元が言い、元博らはすぐさまその言葉に従った。長居をしても、ろくなことにはならない。
大広間を去る間際、元博は肩ごしにちらりとうしろを振り返った。亜矢はまだ同じ場所に突っ立ったままだ。その幼い顔の上には、さまざまな感情がどろどろと渦巻いている。
羞恥。嫉妬。落胆。憤慨と憎悪。元博はさらに、それらの中に哀しみが一滴落ち、弱々しく波紋を広げるのを見た気がした。
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