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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 来る者、去る者
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二十二 御守国御山・街風一眞 憎悪

 武術指南役を務めている古参の衛士、饗庭(あいば)左近(さこん)と転堂初日に顔を合わせた時、一眞(かずま)は彼が先々面倒な敵になるだろうと直感した。左近は尊大不遜で、不満が多く、からむ相手を常に探しているような男だ。そして彼は一眞をひと目見た瞬間から己の憎悪の対象と定め、苛む機会を見つけたら決して逃すまいと心に決めたように思われた。

 一眞の直感はほぼ当たっていたが、予想外だった部分もある。左近の憎悪の対象は一眞ひとりではなく、また彼がいちばんでもなかったのだ。

 転堂後ほどなく、一眞は左近が誰彼かまわず難癖をつけ、ささいなことをねたに人をいたぶるのを楽しむ性質であることに気づいた。ただし、その相手は行堂の新参や、同じ衛士でも格下の者に限られるようだ。そしてもうひとつ、彼がことさら目の敵にする相手には、顕著な特徴があることもわかった。

 武家の出身であること。それも、家格が高ければ高いほど余計に気に障るらしい。地侍のせがれである信光(のぶみつ)よりも、生家が七十石ほどの知行取りだった伊之介(いのすけ)のほうがより嫌われている。小なりとはいえ(さと)ひとつの領主だった一眞ともなると、そんな彼ら以上に嫌悪をかき立てるらしい。

 だが、もっとも激しい憎しみを向けられたのは、一時ではあるが聳城国(たかしろのくに)()べたこともある名家に生まれた五十公野(いずみの)利達(としたつ)だった。本人はその仰々しい家史にむしろ気後れを感じているが、左近の目には彼が生来恵まれた、鼻持ちならない優越者に見えるのだろう。

 調練の時に一眞は左近からたびたび罵声を浴び、嫌味を言われ、猛烈に打ち据えられたが、利達ほど執拗な攻撃には遭わなかった。彼に対する左近のやりようは、明らかに度を超している。そしてほかの新参とは違い、利達は何をされようと抗うことも反撃することもないため、傍目にはなおさら哀れに見えるのだった。

 新参の大半は、たとえ自分が攻撃の的になっていなくとも左近を嫌っている。だが中には、公然とおもねる者もいないわけではなかった。入堂百日の庄造(しょうぞう)と、彼の腰巾着たちがその筆頭だ。

 庄造の人柄は、左近によく似ている。彼もまた他人にからみ、気に入らない相手をとことん痛めつけるのが好きだった。そして、いちおう指南役という立場がある左近と違って、庄造のやることには際限がない。一見よくいるお山の大将だが、一眞は彼には少々常軌を逸したところがあるように感じていた。

 左近や庄造のような人間のことは、不本意だがよく知っている。だから一眞は当たらず障らずを心がけ、可能な限り彼らには近寄らないようにしていた。しかし時には、分別を忘れてしまうこともある。

 数日来の雨が上がって清々しい晴天に恵まれた日、七ノ門近くで掃除をしていた一眞は参拝者から案内を求められ、そのあとの砲術の調練に少し遅れた。

「おっと、ご領主さまのお出ましだ」

 稽古場に入ってきた一眞を目ざとく見つめ、さっそく饗庭左近がからんでくる。

「わたくしめのつまらぬ調練にお運びいただき、恐悦至極に存じます」

「参拝者の案内をしていたので遅れました。すみません」

 今日はことさら機嫌が悪そうだな、と思いながら早口に言い、一眞はさっさと修行者たちに混じった。うかつに足を止めると、いつまでもくどくど嫌味を浴びせ続けられる。

 射場にはつんと鼻を刺す火薬と、乾いた火のにおいが充満していた。これから撃つ七人が射座に横並びになり、次の七人が発砲の準備を整えてうしろに控えている。その他の者は脇によけて、弾込めや銃身内の清拭をおこなっていた。

 次射列の端に利達の姿がある。剣術以上に砲術が苦手な彼は、いつもの通り身を縮めて青い顔をしていた。稽古を繰り返し、もうずいぶん撃っているにもかかわらず、未だに自分の発砲音にも飛び上がるありさまだ。鉄砲の威力や反動ではなく、激烈な音がいちばん怖いのだという。

 前列が発砲する直前に、一眞は耳に綿で栓をした。さほど遮音効果はないが、ある程度は鼓膜を守ってくれる。洞窟内に発砲音が響く中、彼は架台から火縄銃を一挺取り、装填準備をしている者たちに加わった。

「遅いじゃない」

 話しかけてきたのは玖実(くみ)だ。彼女は撃つ時に髪が邪魔をしないよう、白手拭いを鉢巻き代わりにきりりと締めていた。

「あたし、もう一発撃ったよ」

 一眞のほうを向いて大声で喋りながら、手元を見もせずに器用に弾込めをしている。熟練の砲術師さながらに手慣れた様子だ。

「的中か」

 自分も弾込めをしながら一眞が訊くと、玖実はにやりと生意気な笑みを浮かべた。

「もちろん」

「おまえ、もっと遠くからでも当てられるだろう?」

 この射座は短く、的までの距離は半町もない。だが玖実の腕なら、一町ぐらいまでは命中させられるはずだ。

「たぶんね。外で撃つ機会がないからわかんないけど。風があるところとか、雨の中でも撃ってみたいわ。洞窟で撃つのとは、きっと全然違うよね」

「だろうな」一眞は短く答え、着火されている火縄を一本取って数回振り回し、火挟(ひばさみ)に取りつけた。「次の列に入る。一緒に撃つか?」

「的人形の眉間に近いほうが勝ち」すかさず玖実が言う。

「負けたら何をさせる?」

「勝ったほうが好きに決める」

「よし」

 一眞は玖実と共に射座へ向かい、利達がいる列のうしろに並んだ。三人置いた向こうには、伊之介の姿もある。

 左近の「構え」の声に合わせて、前列が一斉に鉄砲を構えた。次の「切れ」で火蓋を開ける。

「放て!」

 号令のあと一瞬置いて銃声が炸裂し、あたりに硝煙のにおいと白い煙が立ちこめた。うまく的に当てた者もいれば、大きく外した者もいる。

 一眞が撃ち終えた前列に代わって射座に進み出ながら、利達はと見ると、そもそも彼はまだ発砲していなかった。左近もすぐそれに気づき、憤怒で顔を赤く染める。

「そこ、何をやってる!」

 怒鳴られた利達はびくっと身を竦め、鉄砲をお手玉して、危うく落としそうになった。

「さっさと撃たんか、間抜け」

 耳栓をしていても鼓膜に突き刺さるような大声で、左近が立て続けに罵る。

「撃てと言ってるんだ、ぐずぐずするな。構え直して狙え。何を待ってる、貴様、おれの言うことが聞こえんのか!」

 ちょっとしたことでも萎縮しがちな利達に、罵声は逆効果だ。だが左近はかまわず怒鳴りながら、ずかずかと射場の中に入り込んだ。利達と、彼の正面にある的とのあいだに立ち、わずかに右によける。

「臆病者め、性根を鍛え直してやる。構えて、おれをかわして撃ってみろ。的に当てられたら、号令を無視したことは許してやろう。だが、もし外したり、おれに少しでもかすったりしたら、ただで済むと思うなよ」

 一眞はおもしろいと思い、同時に危険だとも思った。利達の砲術の腕はお粗末どころの話ではない。なにしろ、これまで一度も的に当てたことがないのだ。彼は発砲のたびに的を逸らして岩壁に撃ち込むか、射線上の地面を掘り返している。

 おれならそこには立たないぞ――一眞は無謀な左近を冷ややかに見つめ、それから歯の根も合わないほど震えている利達に目をやった。両肩が激しく上下し、それに合わせて銃口が危なっかしく揺れている。

 誰もが息を詰めて見守る中、左近はさらに(かさ)にかかって声を張り上げた。

「何度も言わせるな、撃て! 今すぐ撃たないなら、足腰立たなくなるほど叩きのめすぞ。撃て、撃て、撃て!」

 攻め立てられた利達が、ひいっと泣き声をもらして身じろぎした瞬間、発砲音が轟いた。銃弾が抉ったのは的とはまるで違う場所、左近の左足の爪先だ。生身の部分には触れなかったようだが、かなりきわどい位置に当たっている。

 水を打ったように洞窟内が静まりかえる中、利達は膝から崩れ落ち、地面に手を突いて五体をわななかせた。

「貴様……」血の気の失せた顔で、左近が猛獣のように低く唸る。「ようし、いいだろう。覚悟しろ」

 それは死刑宣告に等しかった。利達は殺されこそしないが、死んだほうがましだと思うほど手ひどく痛めつけられるだろう。今日だけでなく、これからずっとだ。そして彼は、そんな苦痛と恐怖には決して耐えられない。

 一眞は鉄砲を構えて火蓋を切り、自分に考える間を一切与えず、左近の足元に銃弾を撃ち込んだ。

 利達に向かって威嚇的な一歩を踏み出そうとしていた彼がたたらを踏み、さっと視線をこちらに向ける。一眞は銃を下ろし、何の感情も表さずに相手をまっすぐ見据えた。

「そうか。なるほど」

 目をぎらぎらさせながら、左近が呻く。

「よくわかった」

 次の瞬間、新たな一発が列のどこかから放たれ、彼をその場でまた踊らせた。左近の顔から怒りが薄れ、怯えが微かに滲み出る。そして間髪を入れず、もう一発銃声が響いた。最後の弾が当たったのはもっともきわどいところ、両足のあいだの地面だ。

 一眞は横の列に視線を走らせ、伊之介の銃口から白煙が細く立ちのぼっているのを見つけた。隣の玖実はまだ銃を下ろしてすらおらず、得意げな顔でふんぞり返っている。

 誰かが遠慮がちに笑った。小さい声だが、洞窟の中なのでよく響く。それに、もうひとりが加わった。大っぴらに快哉を叫ぶ者はさすがにいなかったが、左近の無様な踊りっぷりを見た多くが、こらえきれずにくすくす笑いをもらし始める。

 左近の顔が髪の生え際まで真っ赤になり、それからゆっくりと青ざめていった。両眼は冬の墓石よりも冷たく凍りついている。その目で修行者たちを見渡しながら、彼は笑い声が完全に消えるのを待った。最後に、一眞を長々と睥睨してから口を開く。

「自習」

 吐き捨てるようにそれだけ言うと、左近は踵を返して練兵場を後にした。怒りに満ちた足音が遠ざかり、ついには聞こえなくなると、緊張感から解放されたため息と、ぶり返した笑い声が稽古場を満たした。誰の顔にも、いい気味だと書いてある。そしてまた、どの顔も憂慮に曇っていた。まったく平気そうに見えるのは玖実だけだ。

 みんなが火縄銃を片づけ始めると、ようやく立ち上がった利達がよろよろと一眞の傍へやって来た。

「なんで……なんで……あんなこと」

 咎めるような、泣き出しそうな、あるいはその両方を同時にやりそうな調子で利達が訊く。一眞は何も答えなかった。

「ひどい目に遭うよ……ほんとうだ。きっとひどい目に……」

「じゃあおまえ、この場であいつに糞をもらすほど殴られたかったのか?」そう訊いたのは、銃を肩に担いで歩いてきた伊之介だった。「それにしても、なんであそこで撃ったりしたんだよ」

 うつむいた利達の目から、涙がぽろぽろこぼれた。

「う、撃つつもりなんか、なかったんだ。でも指南役が怖くて、あ、あ、あんまり怒鳴られたからわけがわからなくなって、気づいたら引き金を引いちゃってたんだよ……」

「まあ、それでも、体に当てなかっただけましだったね」

 玖実が、からっと明るく言って、利達の手から銃を取り上げた。

「あんたに砲術は向いてないよ。剣術もね。誰かを間違って殺さないうちに、すっぱりあきらめたほうがいいんじゃない」

 嫌味ではなく、心底から案じている様子で助言する。それに対し、利達は視線を落としたまま小さく首を振った。

「え、衛士になるしかないんだ。い、い、家の面目が――」

「馬鹿言っちゃって」玖実があきれたように鼻を鳴らす。「昇山したら家なんか関係ないよ。あんたはもう御山の者でしょ」

 彼女は二挺の鉄砲を手早く片づけ、そのままひとりで洞窟を出ていった。残された一眞らのところに、信光がぶらぶらやってくる。

「おれも撃ちたかったけど、一列うしろでさあ」彼はいつものように、陰気にぼやいた。「大抵こうなんだ。間が悪いんだよな」

「加わらなくて正解だぞ、おまえ」

 伊之介はそう言って、剛胆な笑い声を響かせた。

「利達の言うとおり、きっとおれたちはひどい目に遭う」

 一眞は口をつぐんだまま、洞窟を去る前に見せた左近の陰険な目つきを思い出していた。


 その夜、微かな衣擦れの音に浅い眠りを破られた一眞(かずま)は、上体を起こそうとしたところを数人がかりで押さえ込まれた。両腕と肩、両足を掴まれ、ぴくりとも動けない。次いで誰かが上にのしかかり、手のひらで口を隙間なく塞いだ。さらに別の手が伸びてきて鼻をつまむ。

 呼吸を完全に封じられたまま、一眞は大きく目を見開いて薄暗がりを凝視した。胸をつき合わせて密着している相手の顔が、ゆっくりと闇に浮かび上がってくる。

 顎のしゃくれた馬面。酷薄そうな薄い唇。庄造(しょうぞう)だ。

 一眞は抗わず、静かに長く持ち(こた)えた。だが我慢にも限界がある。やがて頭全体が拍動し、それに合わせて少しずつ膨れ上がっていくように感じられ始めた。視界が白っぽく霞み、いくつもの小さな光がちかちかと明滅する。

 もう無理だ、と思って胸を大きく痙攣させた瞬間、唐突に拘束から解放された。むさぼるように空気を吸い込み、萎みきっていた肺をいっぱいに膨らませる。喘ぐように(せわ)しなくふた呼吸したところで、一眞は寝台から荒っぽく引きずり下ろされ、背後から誰かに抱えられた。

 眼前で仁王立ちした庄造が拳骨をつくり、左の頬骨のあたりを素早く殴りつける。一眞の目の中で閃光が弾け、激痛が駆け抜けた。両足から力が脱け、そのまま板敷きの床に倒れ込む。

 たちまち、激しい暴行が始まった。まだ窒息の痛手から回復しておらず、息を継ぐだけで精一杯の一眞を取り囲んで、庄造たちが無言のままで殴り、蹴り、引きずり回す。全員の顔ぶれはわからないが、人数はおそらく四人だ。

 一眞は半ば朦朧としながらも、どうにか体を丸めて、臓器が集中する腹部を(かば)った。さらに頭部を守るため、両腕でしっかりと抱え込む。その前に拳を握るのも忘れなかった。指を伸ばしたままにしていると、一蹴り食らっただけで簡単に骨が折れてしまう。

 これは以前にも何度か経験したことだ。だから、どう対処すべきかはわかっている。体から不要な力を抜き、苦痛から意識を逸らし、過ぎ去るのをただ待つしかない。

 永遠とも思える時間が流れ、ついに庄造たちは息を切らしながら攻撃を止めた。狭い部屋の中には、むっとする汗臭さと血のにおいが充満している。

 庄造は最後に、一眞の左肩を低く押さえつけ、腕を掴んで伸ばしながら背後にひねり上げた。凄まじい痛みが走り、肩関節が嫌な音を立てて外れる。ほとばしりそうになった悲鳴を呑み込み、一眞は再び床に突っ伏した。

 意識を完全に失いはしなかったが、少しのあいだぼんやりしていたらしい。ふと気づくと、室内から庄造たちの姿が消えていた。

 暴行されているあいだに自分で舌を噛んだのか、口の中に湿った銅の味がある。一眞はのろのろと首を上げて粘り気のある血を吐き出し、右手で体のあちこちを触って状態をざっと確かめてから、傷めた左腕を庇いながら横向きに転がった。

 心臓の鼓動に合わせて、全身がずきずきと痛む。もっとも激しいのは脱臼した肩の痛みだった。これだけは、早く処置をしなければならない。

 本音ではもう動きたくなかったが、一眞は呼吸が整うまで少し待ってから、決然と上体を持ち上げた。たちまち左肩に痛みが炸裂し、猛烈な吐き気がこみ上げる。

 その時、居室の入り口に人影が差した。はっと身構えた一眞の姿を見て、新来の客が鋭く息を呑む。

「ど、ど、どうしたんだ」

 つっかえながら囁いたのは利達(としたつ)だった。

「手を貸してくれ」安堵の吐息をもらしながら言う。「肩を入れる」

 利達は戸惑いながらも室内に入り、一眞を支えて立ち上がらせた。ゆっくりと寝台に導き、仰向けに横たわらせる。慎重に背中を支える手は、ずっと小刻みに震えていた。

「か、肩を入れるって言ったよね? 外れてるの?」

「そうだ」

療師(りょうじ)を呼ぶよ」

「いい。手伝ってくれれば、すぐできる。前にもやったことがあるんだ」

「でも療師を呼ばなきゃ!」利達は震えながらも、あくまで頑固に言いつのった。「だってひどい怪我だよ。打ち身も、き、切り傷も……こんなの放っておけない」

「手伝うのが嫌なら、ひとりでやる」

 一眞は譲らなかった。療師に体をいじられて、余計なことをあれこれ訊かれるのはごめんだ。とにかく今は早く肩を整復して、朝まで頭を空っぽにして眠りたかった。

「傷は多いが出血はそれほどでもないし、骨も折れてないから平気だ。これぐらいの怪我なら、しっかり食って眠ってればすぐ治る」

 経験から言っていることだが、利達には狂気の沙汰と思えたらしい。

「自分でわかってないんだよ、どんなにひどい状態か。悪いことは言わないから、治療を受けたほうがいい」

「ああ。もういい、戻って寝てくれ」

 議論にうんざりして突き放すように言うと、利達は傷ついた表情になり、小さくため息をついて首を振った。

「……わかった、やるよ。どうすればいい?」

 一眞は右手の親指を左脇に入れ、残りの指で飛び出た上腕骨を軽く掴んだ。

「おれはこのまま動かないから、左腕を持って引っ張り上げてくれ」

「い、痛くないのかい?」

「痛いが、外れてるともっと痛い」

 利達は青い顔をしながらも、寝台の頭側に回り、言われた通り一眞の左腕を持ち上げた。

「引っ張り上げる……んだよね? どれくらい力を入れて?」

「綱引きみたいにだ。ただし、ゆっくり頼む」

 おっかなびっくりで利達が腕を引き始めると、一眞はできるだけ体から力を抜くよう努めた。痛みから意識を遠ざけ、肩の骨を締めつけている筋肉を緊張から解き放つ。ややあって、鈍い音を立てて肩関節が元の位置に戻った。

「よし、入った」全身に汗が噴き出すのを感じながら、深く息を吐く。「ありがとう」

「ほ、ほんとうに入ったのかい?」

「ああ」

 一眞は寝台に寝たまま、左腕を自力でそっと動かしてみた。少し違和感はあるが、動作に支障はないようだ。

 激痛が鈍痛に変わって、肉体的な昂奮状態から醒めると、猛烈な眠気が襲ってきた。

「いま……何刻だ」

 半分目を閉じながら訊くと、利達は寝台に腰を下ろして、暗い室内を見回した。

「さあ、(うし)の刻ぐらいかな」

「なんで起きてきた?」

「廊下を歩く音が聞こえた気がしたんだ。それも、ひとりじゃなかった。(かわや)に行くにしては変だろ? それで、ちょっと様子を見に出て……ここの戸が開いてたから、中を覗いてみた」

 利達の声がだんだん遠くなる。一眞は「なるほど」と相槌を打ったあと、すとんと眠りに落ちた。


 体が燃えるように熱い。鉄釜に入れられて、下から火を焚かれているようだ。口の中がからからに乾き、水気を失った舌が腫れ上がっている。目を閉じたまま身じろぎすると、体中がひどく痛んだ。あのじじいに、またこっぴどくやられたな、と苦々しく考える。

 ややあって、額に何かひんやりしたものが触れ、水で湿した布だとすぐに気づいた。誰かが、熱を帯びた顔の汗をそっと拭いてくれている。布越しに伝わる優しく力強い指の感触で、その誰かが男だとわかった。

 意識を集中して気配を窺い――ああ、親父だ、と思う。だが次の瞬間、その考えの奇妙さに気づいて、全身がぞっとそそけ立った。

 まさか。嘘だろう。混乱した頭の中で、当惑と疑念が激しく渦巻く。あのじじいがおれを袋叩きにしたあと、介抱するなんて絶対にあり得ない。いつだって気絶するまで痛めつけて、置き去りにするだけだったじゃないか。

 そう思ったあとで、急に確信がなくなった。

 それとも……あいつがおれをぶん殴ったり蹴ったりしたことは、全部夢の中の出来事だったんだろうか。おれの親父は、おれが思っていたような人でなしじゃなく、本当は家族を守って息子を気づかう、ごく普通の父親なのか?

 それを信じたい気持ちと、根深い猜疑心に心を引き裂かれながら、一眞は夢と(うつつ)(あわい)で狂おしく煩悶した。

 目を開けて、顔を見たい。そう願ったが、目蓋が糊で塞がれたように重く、ほんの少し開くことすらできない。思い切って幼いころのように〝父上〟と呼びかけてみようとしたが、唇は開いても声は出なかった。

 すぐ近くで快い水音がして、また優しい手がひんやりと額に触れる。再び口を開けると、今度はかすれた呻き声がもれた。

「どうした」

 静かに問いかける声を耳にした瞬間、一眞はようやく半覚醒状態から抜け出し、完全に目を覚ました。細く目蓋を開け、いつの間にか灯されていた蝋燭の明かりを頼りに、寝台の横に座る男に目の焦点を合わせる。

「まだ動くな」

 千手(せんじゅ)景英(かげひで)はそう言うと、湯飲みを一眞の口元にあてがった。

「白湯だ。少しずつ飲め。そうすれば、声が出るようになる」

 一眞は言われるまま、時間をかけて白湯をすすった。陶然となるほど甘く、ひと口ごとに体中にしみわたっていくのが感じられる。湯飲みに半分ほど入ったそれを飲み干すと、ようやく舌の厚ぼったさが和らいだ。

「療師は嫌だと言ったそうだな」景英が湯飲みを脇に置きながら言う。「途方に暮れた利達が、わたしを呼びに来た」

 あの野郎、勝手なことをしやがって――と思ったが、腹立ちはすぐに消えた。人を呼ばずにいられなかった気持ちも、わからなくはない。だが、この男でなければよかったのに、とは思う。千手景英は苦手だ。こんなに弱っている時に、何もかも見透かす男に傍にいられたくない。

「腕は(さらし)で体に固定した」

 言われて少し頭を上げると、肘を曲げた左腕が、腹に縛りつけられているのが見えた。

「しばらくは無理に動かすな。肩はうまくはまっているが、手を使っていると治りが遅くなる」

「はい」声は出たが、(しゃが)れている。

「打ち身のひどいところには湿布をしてある。それから、背中の皮膚が裂けていたので、縫い閉じておいた」

 一眞は驚き、景英を凝視した。鋭い目をした男が、わずかに頬をゆるめる。

「若いころに薬療(やくりょう)学を学んだ。わたしの持ち芸のひとつだ」

「ありがとうございました」

「誰にやられた、一眞」

 室内に沈黙の(とばり)が降りた。双方口をつぐみ、そのまま時が過ぎる。

「言いたくないか」

 淡々とした問いかけに、一眞はなおも無言を貫いた。

「御山には、守るべき掟と戒めがある」景英は穏やかに言い、燭台の明かりに目をきらめかせて一眞を見つめた。「知っているな」

「不殺、不盗、不欺(ふぎ)不犯(ふぼん)、不虐」

 かすれ声で、五つの掟戒(ていかい)を早口に述べる。

「おまえを痛めつけた者は、不虐の掟を破った。御山に仕える者として、相応の戒めを受けねばならない」

「部屋が暗かったので、誰だったかはわかりませんでした」

 そしておれは今、不欺を破った。所詮はこんなものだ。真に掟戒を守れる者が、御山の奉職者の中にひとりもいなかったとしても、別に驚きはしない。

 だが――と思う。千手景英は、あるいはその希有なひとりなのかもしれない。

 一眞は先ほど自分が景英を父親だと錯覚したことに、まだ少し動揺していた。半分夢を見ていたとはいえ、なぜそんな風に思ったのかわからない。ふたりには、似ているところなどひとつもなかった。

「相手はひとりか、複数か」景英がさらに問う。「それぐらいはわかるだろう」

「四人だった……と、思います」

 今度は正直に答えたし、景英もすぐにそれを信じたようだった。

「そうか」

 彼はうなずき、ゆっくりと腰を上げた。

「明日は(とこ)から出るな。食事もここへ運ばせる。明後日以降、歩けるようだったら、できる範囲で調練と当番に復帰しろ」

「はい」

 景英は(たらい)の水に漬けていた手拭いを絞り、一眞の額に載せた。

「傷と体内の炎症のせいで、少し発熱している。ともかく今は眠ることだ」

「そうします」

「早く治せ」

 そう言った彼の眼差しが、あまりにも深い慈愛といたわりに満ちていたので、一眞は思わず目を逸らしてしまった。

 くそ、まただ。どうしておれは、この男の前で普段どおりに振る舞えないんだ。

 一眞の狼狽を感じ取ったとしても、景英がそれを表に出すことはなかった。黙って蝋燭を吹き消し、静かに部屋を出て行く。

 闇の中で横たわり、遠ざかっていく気配を追いながら、一眞は彼への憎しみが自分の中でじわりと育つのを感じた。庄造とその取り巻きや、彼らをけしかけたであろう饗庭左近に対するものとは比較にならないほど激しく強い感情が湧き出し、それが黒い蛇となって胸の奧の暗い場所でとぐろを巻く。

 だが、なぜ千手景英を憎まずにいられないのか、その理由はまるでわからなかった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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