二十一 丈夫国洲之内郷・黒葛寛貴 面影
黒葛寛貴は樹神家との会合場所として、洲之内郷の北にある古い砦を指定した。事前の申し合わせ通り、家臣二名を一日先行させ、先方の家来と共に準備にあたらせている。
前泊した白坏郷を朝まだ暗いうちに発った彼は、日が昇りきる前に洲之内郷の手前まで辿り着いた。ずっと楡居川沿いに北上してきたが、ここで進路を北東に変える。だだっ広い草原の中の一本道に馬を進めて四里ほど行くと、水田を中心にした小規模な集落と、その北端の小高い丘の上に建つ砦が見えてきた。砦と言っても、木柵と空堀で囲われた主郭と副郭の中に、木造平屋建ての陣屋と小屋が数棟、厩、井楼櫓があるだけの小規模なものだ。
寛貴は六年前、樹神有政が本陣を敷いていたこの砦を落とし、洲之内郷と周辺の三つの郷を永州から切り取った。今日の話し合いがうまくまとまって両家の縁組みが整えば、おそらく国境線にあるこれらの郷は、いずれ結納の一部として樹神家に返還することとなるだろう。それはそれでかまわなかった。もともと永州のものだった土地を返すだけのことだ。代わりに樹神家からは、持参金としてたっぷりと黄金がもたらされる。
集落にさしかかったあたりで、鈍い陽光が差す白っぽい空から小雨が落ち始めた。この騎行はずっと好天に恵まれていたが、どうやらそれもここまでのようだ。
「すぐ砦だ。このまま行くぞ」
寛貴は家臣らに声をかけ、常歩から速歩に切り替えた。生暖かい空気に湿った土と草のにおいを嗅ぎながら、水田の中のあぜ道を一気に駆け抜ける。瞬く間に砦が近づき、副郭への登り口が見えてきた。入り口の木戸は開けられている。
一行は副郭まで乗り入れ、主郭へ入る土橋の手前で馬を降りた。すぐに、入り口で見張りについていた家来が駆けてくる。
「お待ちしておりました。――お驚きなさいませぬよう」
謎めかす彼に馬の引き手を渡し、寛貴は主郭にちらりと目をやった。
「もしや、もう樹神家が来ているのか」
「はい、一刻ほど前にお着きになりました」
「誰をよこした? 筆頭家老か」
「それが、思いがけぬかたがたで」
ここで詳しく聞くよりも、実際に見るほうが早い。寛貴は連れてきた供回りに周辺の警戒を命じ、家老の真栄城邦元と柳浦重里だけを連れて陣屋へ向かった。
杮葺きの簡素な建物の周囲は、黒葛家の家紋を黒く染め抜いた純白の陣幕で囲まれていた。主郭を取り巻く木柵の四隅にも、黒葛の旗印が立てられて風にはためいている。本来なら樹神家の旗印も同様に立てるところだが、両家がここで談合していることを喧伝するのはまずい。
陣屋の中に入った寛貴らは傘と手甲を外し、盥の水で手足をすすいでから、樹神家の代表が待つ奥の間へ入った。陣屋の中でもっとも広い檜張りの部屋は、桐の摺り上げ板を下ろすと板戸になる段襖で四方を仕切られている。
室内には向かい合う形で大畳が二枚敷かれ、その一方にふたりの人物が端然と座していた。慎み深くも入り口に近い下座のほうを選び、こちらに背を向けている。
寛貴はそのふたりの肩に流れる長い髪と優美な衣装を見て、図らずも一瞬、戸口で立ち尽くしてしまった。こちらの動揺を誘う狙いがあるのだとすれば、それは成功したと言っていい。
なるほど、こうきたか――寛貴は心中で呻いたが、砦の入り口で警告されていたこともあり、顔には出さなかった。無言のまま板間を横切っていき、畳の上に腰を下ろす。真栄城邦元と柳浦重里も後に従い、背後に置かれている円座に胡座をかいた。
「生明黒葛家当主、黒葛寛貴」静かに言い、軽く会釈する。「お待たせいたし、相済まぬ」
正面にいるふたりの女と、そのうしろに座っている樹神家の家臣二名が揃って頭を下げた。
「なんの、わたくしどもが思いのほか、早う着いてしまったのです」そう答えたのは、向かって右側に座る老女だ。「わたくしは樹神家当主有政の母で、登紀と申します。こちらは――」
目顔で促され、左に座る女が自ら名乗る。
「有政の妻、由莉にございます」
落ち着いた優しい声だ。歳は三十ぐらいだろうか。寛貴は顔を上げ、彼女をじっと見つめた。視線を留めていた時間が、少し長すぎたかもしれない。だが由莉は注視にたじろぐ様子もなく、唇の両端をわずかに上げて控え目に微笑んだ。
息を呑む美人というわけではないが、彼女の容貌にはどこか惹きつけられるものがあった。長い睫毛に縁取られた、あの大きな目のせいだろうか。黒々とした瞳は情熱的であると同時に、思慮深さも感じさせる。
寛貴は視線を由莉から引きはがして、登紀のほうを向いた。
「母堂と奥方がみえられるとは、意外であった」
同盟では、話を持ちかけた側のほうがどうしても不利な立場になる。寛貴はそれを解消すべく、わざわざ自らここまで出張ってきた。有政が送り込むと思われた家老や侍臣を国主の権威で圧倒し、優位に立って話を進めるためだ。
だが樹神家は、寛貴の想定とは異なる、もっと強力な札を切ってきた。しかも二枚だ。黒葛家側の優位性はこれでほぼ消滅し、拮抗状態になったと見るべきだろう。悔しいが、奇襲に奇襲で返された形だ。
「国の仕置きや、戦の話に女子が口を出すのはもってのほかなれど――」小柄だが堂々とした物腰の登紀は、寛貴に無邪気な笑みを投げかけた。「事が縁組みとあらば、出る幕もございましょう」
政略がらみの婚姻であることは百も承知のはずなのに、涼しい顔をしてぬけぬけと言う。
寛貴はかつて、永州生まれの商人から、樹神家は女が強い家柄だと聞いたことがあった。男か女かにはかかわりなく、正妻が産んだ最初の子供に家を継がせる伝統があり、過去に何人も女の当主が誕生しているという。いま目の前にいる登紀も婿養子を取って家を継いだ嫡女で、寛貴の父の時代に二十年ほど永州を治めていた。さすがに、戦には夫が出てきていたが、実権を握っていたのは彼女のほうだ。
そしてもうひとつ、別の筋から聞いた噂がある。樹神有政は、幼いころからたいへんな母親っ子だった。そのため、家督を継いだあとも母親に頭が上がらず、国政から日ごろの振る舞いに至るまで、今なおあらゆることへの口出しを許しているという。
現に登紀がこうして出しゃばり、息子の名代を務めているところを見ると、おそらく噂は真実なのだろう。
つまり登紀の意向は、そのまま樹神家の意向であると考えていい。彼女は国主と同等の権限を携え、今回の軍事同盟に今日この場で明確な返答をすべくやって来たのだ。
だが、なぜだ。寛貴は内心で首を傾げた。この一度の顔合わせで、すぐに決めてしまおうとする理由がわからない。今回は双方の代表が会って、さり気なく互いの要求を出し合うだけで終わるはずだった。それを国に持ち帰って評定にかけ、書簡を交わし、また会って話を詰める。戦の最中でもない限り、同盟の締結までには、そういうもどかしい手順を踏むのが定石だった。双方納得してまとまるまでに、普通はかなりの時間がかかる。
しかし樹神家は、その手順を省略しようとしていた。話を持ちかけられた側が事を焦るというのは、何か異様なことのように思える。
「おふたりが来られたは、此度の申し入れに樹神家が気乗りしている証と思うてよいかな」
ずばり斬り込んでみた。これに対する反応で、相手の心中をある程度推し量れるだろう。
樹神登紀はとろけそうな笑顔になり、幼児をあやすように甘い声で言った。
「おお、もちろん。願ってもないお話でございます。そうよな、由莉」
話をふられた由莉もまた、柔らかな笑みを見せる。
「はい、おふくろさま」
寛貴は一瞬、我が耳を疑った。〝おふくろさま〟? 一国の主の妻とも思えぬ、随分と垢抜けない物言いをするものだ。
「これ、このような場で」
登紀はすかさずたしなめたが、不快に思っているようには見えなかった。由莉のほうも、さほど悪びれている様子はない。
「この嫁は武家の出ではないので、万事くだけたところがあり、時折こうして表に出てしまうのです」寛貴に向かって、取りなすように言う登紀の顔には、そういう欠点をむしろ好ましく思っているらしい色が表れていた。「わたくしの息子には幸い、この子がよう合いましたが、本来、武家は武家同士、名家は名家同士で縁組みをするのが常道。家の釣り合いが取れていてこそ、夫婦は長続きするものです。そうは思われませぬか」
由莉を前にして肯定するのは憚られる。だが、おおむねは登紀の言う通りだった。家格差がある男女の婚姻には、さまざまな困難がつきまとうものだ。
寛貴は少し間を置いてから、ややぶっきらぼうに言った。
「ご意見もっともなれど、男と女の仲は一概には量れぬものゆえ」
「まあ、寛貴どのはお優しい」登紀はころころと笑った。「我が嫁に、気を遣うてくだされた」
それから彼女は急に表情を引き締め、背筋を伸ばして座り直した。
「我が家の姫にとって黒葛家の御曹司は、これ以上ないほど釣り合いの取れた、まことによいお相手と存じまする」
寛貴ははっとして、眼前の老女の光り輝く目を見つめ返した。まるで剣先のように、鋭く突き刺さってくる。かわいい年寄りが、親戚の子供をからかうような態度は消え失せていた。隠居した今も絶大な権力を有する、老いた女傑が本性を覗かせている。
「永州と丈州は国境を接する隣国同士。にもかかわらず、あるいはそれゆえに、長の年月にわたり諍ってまいりました。しかしながら世の趨勢を見るに、このあたりで両家は過去の遺恨を水に流して手を結び、心をひとつにして事に当たることべきであると、わたくしは思うのです。南部に隠れなき名家同士が互いに助け合い、補い合えば、いかなる困難にも打ち勝てましょう」
「ふむ」
短く相槌を打ちながら、寛貴は彼女の腹の内に考えをめぐらせた。〝事に当たる〟と言ったな。どんな〝事〟だ? 黒葛家を何に巻き込もうと算段している?
「先ほど、女の出る幕について話されていたな。戦の話に女子が口を出すのはもってのほか――と」寛貴はことさらにゆっくりと言った。「然らば、今しがた申されたことは徹頭徹尾、縁組みについての話と思うてよろしかろうな」
登紀の表情は変わらなかったが、片方の眉がぴくりと動いて心の動きを露わにした。縁談から始めて、さり気なく話を広げていくつもりだったのだろう。自らの言葉を逆手にとって機先を制され、明らかに苛立ちを感じている。
何でも言うなりの息子と同じように、おれを御せると思ったら大間違いだ。寛貴は内心でほくそ笑みながら、相手の出方を待った。
「――むろん」登紀が毅然と頭を上げて答える。「縁組みのお話でございます」
気位の高い女だ。寛貴は苦笑を咳払いで隠し、努めて真面目な表情で女たちに言った。
「当家の嫡子俊紀は、齢三つ。すこぶる健康で、言葉もすでにかなり達者だ。明るく清々しい気性で、生き物をたいそうかわいがる」
由莉が目をなごませ、温かみのある笑みを浮かべる。
「長女の真璃は齢四つで、いろはを少々習い覚え始めております。少し引っ込み思案なところはありますが、体は丈夫で風邪ひとつひきません」
「ひとつ年上か。俊紀は尻に敷かれそうだな」
軽口を叩くと、由莉は快い笑い声をもらした。
「優しく、おとなしい娘ですから」
「それはよい」
寛貴は穏やかに言い、風を通すために一枚だけ開かれた段襖から外を見た。到着の直前に落ちてきた小雨は、今もまだ降り続いているようだ。ささやくような雨音が耳をくすぐる。
しばらくその音に聞き入ってから、彼は再び女たちのほうを見て、今度は登紀に話しかけた。
「婚約したことは、当面のあいだ伏せたい」
「はい」老女が迷いなく答える。
「こまごまとした準備が整うまで――さよう、五年ほどだ」
「五年間」登紀は繰り返し、かすかにうなずいた。「けっこうかと」
「その翌年、姫君が十になられたら当家にお迎えし、輿入れまでこちらでご養育しよう」
「十二で」
斬り返すように言った登紀の言葉に、寛貴は目をしばたたいた。
「なに?」
「姫は十二になるまで親元にて養育し、その後、そちらへお預けいたします」
断固とした口調だ。寛貴は一瞬考え、ここは譲ることにした。
「よかろう」
「双方が文字を綴れるようになりましたら、手紙のやり取りをさせたいと存じます」
「許婚同士、早くから絆を深めておくに如くはない。婚約を披露したのちには、何か行事にかこつけて互いの城も行き来させよう。年に一度か、二度ほど」
「異存はござりませぬ」
あっさりと、話し合いは終わった。いまここで決断できることは、もうほかにはない。婚姻に伴う諸条件については、本来来るはずだった両家の代表が、このあと書状を介して内容を詰め、各自の城で評定にかけていくこととなる。
寛貴は、全体的には満足していた。女が出てきたことには驚かされたが、ほぼ望み通りの成果を出せたと言っていい。しかし、樹神家がこの縁談を断ることはないものの、こうもすんなり受け入れるとは想像していなかった。
やはり彼らは焦っている、と思う。黒葛家が、来るべき守笹貫家との争いに備えて樹神家の資金力を欲しているように、樹神家もまた、差し迫った何かに対して黒葛家の援助を欲しているのだ。同盟を持ちかけるのをもう少し待っていたら、あるいは樹神家のほうから何らかの働きかけがあったかもしれない。
おれの動きが性急すぎたか、とも思ったが、すぐにその考えを押しやった。いや、これで良かったのだ。後手に回った戦は負け戦となりやすい。戦場には常に先駆けして、自らの手で勝利をもぎ取るのがおれのやり方だ。
寛貴はうしろに控えていた真栄城邦元に支度をさせ、取り決めた内容を書面にした。最後に列席者全員が署名し、由莉以外はそれぞれ花押もしたためる。写しも作り、そちらは樹神家に渡した。
「実りある顔合わせであった」
滞りなく終わったことに気をよくする寛貴に、登紀は取り澄ました笑顔を見せた。
「ほんに、お目にかかれてようございました。この上は早う日紫喜の城に戻って、有政にめでたい知らせを伝えてやらねば」
「帰路のご予定は」
「楡居川の関に舟を泊めておりますので、まずはそれで二日ほど北上いたしまする。あとは駕籠と馬にて」
「さようか。道中つつがなくゆかれよ」
「お気遣い痛み入ります。寛貴どのも、どうぞお気をつけあそばして」登紀はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。「お暇する前に手水を借りねば。年を取ると、厠が近うなって困りまする」
あけすけな物言いに鼻白みながら、寛貴は廊下で控える家来に案内を申しつけた。登紀が部屋を出かけ、そこでちょっと足を止めて振り返る。
「由莉や、寛貴どのに砦を見せていただきなされ。そなた、このあたりへ来るのは初めてであろう」
老女はそのまま出ていき、残された寛貴と由莉は自然に顔を見合わせた。
「――お見せするほどのものではないが、よろしければ」
半ば儀礼的に言った彼の言葉に、由莉は優しい微笑みで応えた。
「はい。嬉しゅうございます」
喜ばれては仕方ない。寛貴は立ち上がり、由莉を濡れ縁に誘った。
陣屋を囲む幕と木柵の向こうには鈍い空の色を映した水田が広がり、雨にもかかわらず草取りをしている百姓の姿がぽつりぽつりと見える。小さな荷車を牛に引かせて、砦の方角へゆっくり歩いてくる人影もあった。彼らの背後には、雄大な伊代儀連峰の山塊がすっくと立ち上がっている。山頂付近は雲に隠れ、山裾からは濃い霧がうねるように湧き上がっていた。どこかこの世ならぬ、幻想的な風景だ。
寛貴は由莉と共に濡れ縁の端に立ち、砦の敷地を見回した。
「洲之内郷は、もとは永州の土地であった。わしが手に入れたあとで砦の防備は少々変えたが、この陣屋は当時のままにしてある」
「広々とした、見晴らしのよいところですね」
由莉は遠くを見やり、ゆっくりと視線を移動させて、隣にいる寛貴のところで止めた。何ら底意を感じさせない、落ち着いた眼差しだ。
寛貴もまた、あらためて由莉をじっくりと見た。立ち上がるまで気づかなかったが、女にしてはかなり背が高い。若い柳のようにすらりとした痩身に、思わず目を引きつけられる見事な紬をまとっている。
風合いのいい爽やかな浅縹色の地に、梅幸茶と青鈍色で染め抜かれた優美な葡萄唐草文。その文様を縁取る金彩や金駒刺繍は、まさに豪奢のひと言に尽きた。
さすがは、領内に湧き出る石清水にも金の粒が混じると噂される、西峽きっての富国。寛貴は感じ入り、それをそのまま口に出した。
「殺風景な陣屋には、もったいないほどの装いですな」
「義母の見立てです。わたしは衣装のことには、とんと疎くて」
「武家の出ではない、というお話であったが」
踏み込みすぎだろうか、と思いながら訊く。
「はい。父は日紫喜の城下で、玉や地金を商う商人でした」由莉はこだわりなく答えた。「嫁いでもう十二年ほどになりますが、未だに武家の――大身の暮らしには馴染めていない気がします」
「わしの最初の妻小夜も、商人の娘だった」
考える間もなく、言葉が飛び出してしまった。不用意な、と思ったが後の祭りだ。
由莉は少し驚いた顔をしたが、口を差し挟むことなく、先を促すように寛貴を見つめた。
「そして、降山の若巫女でもあった」
大抵の者はこれを聞くと仰天するが、由莉はわずかに目を見開いただけだ。
「家を継ぐはずだった子らが相次いで世を去り、ただひとり残った小夜を、親が御山に願い出て十三で降山させたのだ。還俗したばかりの小夜に、わしは郡楽の城下で出会い……その翌年に妻問いした」
「ぶしつけなことを伺ってもよろしいでしょうか」
そっと遠慮がちに訊く由莉に、寛貴はうなずいて見せた。
「何なりと」
「ご親族は、お許しにならなかったのでは」
「むろん、両親には反対された。当時存命だった祖父、祖母、近親のほとんどに入れ替わり立ち替わり、思い直せと説教されたものだ」
寛貴は苦笑して、遠く霞む山並みに目を向けた。
「だが、兄禎俊だけは味方をしてくれた。父を説得し、母をなだめ、わしが小夜を城へ招んで、披露目をできるよう計らい……」
あの時のことを思い出すと、今も胸が熱くなる。四面楚歌の状況にもかかわらず、意志を押し通すことができたのは、どこまでも自分の側に立ってくれる兄の存在があったからだ。
「小夜を娶ることができたのは、紛うことなく兄のおかげだ」
由莉は少しいたずらっぽい目をして、ふふ、と笑った。
「では兄上さまには、生涯頭が上がりませんね」
「その通りだ。わしは兄のためならば、どんなことでもすると決めている」
自らも頬をゆるめたあと、寛貴はふと笑みを消し、しっとりと濡れて黒ずんだ地面に目を落とした。
「だが、兄があれほど骨折ってくれて結ばれたにもかかわらず、小夜と夫婦でいられたのはほんの一年足らずだった」
言葉に出すと、痛恨の思いがちくりと胸を刺した。以前に比べるとはるかに痛みは軽くなった気がするが、おそらく完全に消え去ることはないのだろう。
「城山の麓で、草むらに隠れていた蝮に咬まれたのだ。苦しみながらも三日持ち堪えたが、命を助けてやることはできなかった」
由莉は小さく吐息をもらし、うつむいて首を振った。
「若い身空で……おいたわしい」
「まだ十五だった。あれが息絶えた時は、もはやこの世の終わりとも思えたな。わしも当時は十九の若造で思慮浅く、務めも何もかも捨てて、共に死にたいと願ったものだ。同じ蝮に咬まれて果てようと、雑草の中を歩き回って探したりもした。あの時もし見つけていたら、躊躇はしなかっただろう。葬儀を執り行った城付きの堂司に頼んで、昇山することも考えた。それはいち早く兄に気づかれ、阻止されたが」
禎俊は小夜の死のあと半年近くも、弟から目を離そうとはしなかった。そうでなければ寛貴は妻の後追いを実行するか、今ごろは昇山して祭宜にでもなっていたかもしれない。
「そんなにも愛されて……」
これまで終始穏やかだった由莉の声が、ふいに震えて乱れた。
「奥さまはさぞかし、思いを残して逝かれたことでしょう」
見ると、彼女はその大きな黒い瞳に、涙をいっぱい溜めていた。それがこぼれ落ちる前に、寛貴から顔を少し背け、袖で目元をそっと押さえる。
「由莉どの……」
思わず声をかけると、由莉はこちらを向いて、悲しげな微笑を浮かべた。
「お許しください。わたしは泣き虫なのです」
寛貴は口をつぐみ、彼女の潤んだ瞳を見つめた。黙って佇むふたりを、雨音がやわらかく包み込む。
その時ふと寛貴は、由莉とのあいだで何かが静かに通い合うのを感じた。昨夜の女中とのあいだで電撃的に行き交った一時の昂ぶりとは違う、もっと秘めやかで掴み所のないもの。それでいて揺るぎなく堅固なもの。敢えて言葉にするなら〝共感〟だろうか。これ以上何も語り合わずとも、彼女とはすべてわかり合える気がする。
ふたりきりの時間がもう少し長く続いていたら、その共感は、あるいは何か別のものへと変化していたかもしれない。だがそうなる前に、いつの間にか部屋に戻っていた登紀から声がかかった。
「そろそろお暇しましょうぞ、由莉」
「はい、義母上」
由莉は振り返って答え、再び寛貴のほうを見ると、決然とした調子で言った。
「娘の舅となられるかたの、情け深いお人柄を知ることができ、安堵いたしました。婚儀が整いました暁には、どうぞ真璃のことをよろしくお願い申し上げます」
深々と頭を下げたのを最後に、彼女は二度と寛貴と目を見交わすことなく、登紀のうしろに粛然と従って部屋を出ていった。真栄城邦元と柳浦重里が見送りに立ち、寛貴はそのまま残って再び畳に腰を下ろす。
ややあって、先ほどふたりで立っていた濡れ縁のほうを見ると、陣屋の前につけた駕籠がちょうど出立するところだった。他領内を通行するあいだ身分を隠すためだろう、装飾のほとんどない平凡な町駕籠を使っている。雨が降っているので垂れを下げており、中にいる人物の姿は見えない。
駕籠がふたつとも陣幕の向こうに消えて少し経つと、邦元らが部屋へ戻ってきた。洲之内へ同行した、ほかの家臣も伴っている。彼らは元博の面前に並んで座し、真栄城邦元が朗々とした声で祝辞を述べた。
「ご嫡男俊紀君のご婚約相整い、祝着至極に存じます」
「うむ。ここへ来た目的は首尾良く果たせたな」
寛貴が満足の笑みを浮かべると、邦元らも揃って破顔した。
「しかし、樹神家のやりようには驚きましたなあ」柳浦重里が、半ば感心の態で言う。「談合に女子を出すとは」
「いや、あれは母御の出しゃばりと見た」
重里の横に座る邦元が、細く尖った顎をなでながら、にやりと笑った。
「樹神有政はおふくろさまに弱いと、もっぱらの噂だしな」
「〝おふくろさま〟」重里が繰り返し、ぷっと吹き出す。「あれは良かった。わしはあの奥方が気に入ったぞ」
おれもだ。寛貴は心の中でそっと言い、表情をあらためて家臣らを見渡した。
「今後は慣例どおり、双方の代表が婚姻の諸条件についてのやり取りをすることとなる。真栄城邦元、俊紀の代人として事に当たれ」
「御意」
「それと同時に、樹神家の内情を探らねばならん。彼らはこの縁談に、待っていたとばかりに飛びついてきた。むろん、こちらにとっても渡りに船ではあったが、樹神家の動きはいささか性急にすぎる。何をそれほど焦っているのか、わしは理由を知りたい。柳浦重里」
「は」重里が応え、少し身を乗り出す。
「永州に手の者を送り込んで探らせよ。樹神家が黒葛家に対して真に求めているもの――おそらくは武力だが、なぜそれがいま必要なのか。外敵に脅かされているのか、身中の虫に悩まされているのか。町場の噂であれ何であれ、少しでも役立つと思うものはみな拾わせろ」
「お任せを」
指示が一段落したところを見計らって、鳥谷部直恒が静かに問いかけた。
「今宵の宿所はいかがなさいますか。洲之内の地頭の館が、ここから二里のところにございますが」
「いや――」寛貴は少し考えてから答えた。「この陣屋で寝よう。誰ぞ近くの集落へ行って、酒といくばくかの食い物を贖うてくるがよい。戦のない時に陣中で酒宴としゃれ込むのも、なかなか愉快だと思わんか」
「それは、ようございますな」邦元が打てば響くように言って、呵々と笑った。「篝火を盛大に焚いて、景気よくやりましょう」
「陣中の雑魚寝は久しぶりだ」重里も相好を崩す。「では、わしがひと走り行って、いろいろかき集めて参ります」
「砦の番人をひとり連れて行け」
「は」軽く会釈して立ち上がり、重里はからかうような眼差しで寛貴を見やった。「なんなら、酌取りをする娘もひとりふたり、調達して参りましょうか」
床の相手が必要かと暗に訊かれ、寛貴は思わず苦笑をもらした。
「いらぬ気を回すな。早う行け」
「仰せのとおりに」
意気揚々と出ていく彼を見送りながら、寛貴は胸の中で、今夜は小夜の面影を抱いて眠る――と呟いた。
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