二十 王生国天山・石動元博 雲上の世界
当初の予定よりも一日遅れて、黒葛貴昌一行は慶城の三の曲輪に到着した。遅れが出たのは、怪我人と病人が相次いだためだ。引受先となる桔流家には、二日前に五の曲輪の宿〈乙藤屋〉から使いを出して遅延を知らせてある。だが番所の周辺に、予期していた出迎えの姿はなかった。
「迎えもなしとは、なめられたもんだ」随員の由解宣親が不満げに鼻を鳴らし、形のいい眉をしかめる。「こっちで勝手に屋敷を探し当てて来いってか」
その隣で、石動元博は思わず苦笑いを浮かべた。まだ二十歳の宣親は、町を歩けば女たちが振り返るほどの男ぶりだが、その顔に似合わない物言いをときどきする。だが気性はさっぱりとしており、心根は優しかった。年少の元博に対しては、弟に対するように接し、何かと気にかけてくれる。
今も元博が馬から下りようとしていると、彼は従者の孫六よりも先に駆け寄って手を貸してくれた。
「ありがとう。でも、平気ですよ」
元博は強がってみせたが、本音を言うと、手助けはありがたかった。頭に傷を受けたあと、どうも平衡覚が安定しないのだ。いつもの調子で不用意に体を動かすと、足がもつれて転んでしまうことがある。
「無理するな」元博の背中を支えながら、宣親は真剣な表情で言った。「ふらつきがなくなるまで数日かかるだろうと、療師が言っていた」
「頭を怪我したのは初めてですが、けっこうこたえるものですね」
努めて明るく言ったが、宣親の面持ちは変わらなかった。
「合戦場でもあるまいに、人に向かって石を投げるとは……まったく、とんでもない悪餓鬼だ」
彼が言う〝悪餓鬼〟とは、大皇三廻部勝元の長女亜矢姫のことだ。男の子のような形をしていて、口ぶりや振る舞いもそのものだったが、実際は六歳の少女だという。
手綱を孫六に預けて、宣親と共に番所へ向かいながら、元博は呻くように言った。
「あんな小さい女の子が投げた石もかわせないなんて、恥ずかしいったらないですよ」
「不意を突かれたんだ、仕方ないさ」
宣親は慰めてくれたが、元博は本当に恥じていた。たしかに、犬のほうに意識を集中していたところを急襲されはしたが、相手はほぼ真正面にいたのだ。距離もほんの二間ほどしか離れていなかった。小丘の上にいた亜矢姫のほうが優位だったとはいえ、もっとよく注意を払っていれば攻撃を受ける前に気づけたはずだし、あの石をまともに食らったりはしなかっただろう。
悪意を持って自分に害をなそうとする者がいるかもしれない、という考え方に元博はあまり馴染みがなかった。良く言えば幸せに、悪く言えば少々呑気に育ちすぎたのだろう。
だがこれからは、もっと気を引き締めなければならない。ここは敵地ではないが、身内や味方に囲まれていた南部でもないのだ。亜矢姫はその教訓を、手痛い方法で叩き込んでくれた。
「何か、もめていますね」
元博はふと、番所内からもれ聞こえる声に気づいて顔を上げた。さほど大声ではないが、かなり険しい調子で数人が言い争っている。うちひとりは、真栄城忠資のようだ。
大手道の入り口で発行された番所手形があるので、それを返納して通行するだけのはずだが、予想外のことが起こったらしい。元博は建物に近づき、入り口から少し顔を覗かせた。すぐそこにいた玉県吉綱の背中に向かって、小声で問いかける。
「どうしたんですか?」
吉綱はその巨体を大儀そうにゆっくり回して、元博のほうを向いた。
「番士がここで、荷車をすべて検めさせろと言うのだ」
「荷物の目録があるのにですか?」
おかしな話だ。桔流家からの事前通達に従い、荷車の積載物は楊枝一本に至るまで子細に目録に記載して、荷物には封を施してある。番所を通行する際には、その目録を見せるだけでいいはずだった。実際の中身を確認するのは桔流家であって、番士のすることではない。
元博はそっと屋内に入り、騒ぎが起きている場所に近寄った。真栄城忠資と番士が土間に突っ立ち、文字どおり額を突き合わせんばかりに睨み合っている。
「個人の旅荷や道中に増えたものを見せるぶんには構わんが、荷物の封を破ることは承伏しかねる」
普段は飄々として穏やかな忠資が、珍しく声を荒らげていた。彼のすぐうしろにいる黒葛禎貴も、険しい顔をしている。しかし番士のほうも負けてはいない。
「怪しい物を持ち込まれては困るのだ」
痘痕顔のずんぐりした番士は、口を尖らせながらふてぶてしく言った。その隣にもうひとり、細身で長い手足をした若い番士がいる。彼らの背後には一段高くなった座敷があり、ここを仕切っているらしい年配の番役が仏頂面で座っていた。
「中身は目録に記した通りで、怪しい物などない。あらぬ疑いをかけられるのは不愉快だ」忠資はびしりと言い放ち、肩を怒らせた。「是が非でも若君のお荷物に手をかけるというなら、目録外の物が何も出なかった場合、それなりの覚悟をしてもらうぞ」
表情を引き締めたまま、昂然とした態度で番士に詰め寄る。元博はその堂々たる姿を惚れぼれと見つめた。こんなに頼りがいのある人だったのか――と思い、微かな驚きと共に彼への認識を新たにする。
「言うなあ、忠資どの」
低い囁きが聞こえて振り返ると、いつの間にか宣親が傍に来ていた。
「優しげに見えて、あの人はあれで意外と喧嘩好きなんだ」
「ほんとうですか」
そう言ったあとで、元博は〈乙藤屋〉での一幕を思い出した。三廻部亜矢の護衛に危うく斬られそうになった時、あいだに入った忠資が、誰よりも早く抜刀して立ち向かおうとしたことを覚えている。しかも彼は、挑発するかのように微笑んですらいた。
「人は見かけによらないなあ」
元博が呟いた時、番所の入り口から新たにふたりの人物が入ってきた。ひとりは立派な身なりをした五十がらみの武士。もうひとりは鼻筋の通った知的な顔立ちの若者。こちらは二十歳ぐらいだろうか。彼らは元博の横を足早に通り過ぎ、奥のほうへ進んでいった。
黒葛禎貴が、口を一文字に引き結んだ厳しい表情のままで振り向き、年配の武士に物問いたげな視線を投げかける。相手は彼の前で足を止め、こちらも厳めしい顔で口を開いた。
「桔流家家老、織恵國房」
「黒葛禎貴と申す」
「黒葛ご宗家嫡子のご一行とお見受けするが」
「いかにも」
禎貴の短い返答は、剣の切っ先のように鋭かった。今ごろになってのこのこと迎えに現れ、謝罪の気配すらない國房に、半ばあきれつつ腹を立てているようだ。
「それで禎貴どの、番所手形はいかがなされた」
「返納いたした」
「では、ここで何をしておいでか。なぜ曲輪へ入られぬ」
「足止めを食ろうたゆえに」
淡々と答える禎貴の表情が、一段と険しさを増した。好きこのんでぐずぐずしていると言わんばかりの國房の物言いに、ほかの随員も思わず気色ばむ。元博は急に、番所の中がたまらないほど狭く、息苦しくなったように感じた。いや実際、今ここには人が入りすぎている。
同じことを思ったのか、ほかの者の三倍の空間を占有していた玉県吉綱が、丸い体を揺すりながらよたよたと外へ出て行った。進行しているやり取りの行方には、あまり興味がないらしい。あるいは、険悪な雰囲気に耐えかねたのだろうか。
一方、黒葛禎貴は織恵國房をじっと見据えたまま、身じろぎひとつしなかった。そそり立つ岩峰にも似て、突いても押してもびくともしそうにない。國房はそんな彼から目を逸らすと、所在なげに立っている番士たちと、座敷で尻をもぞもぞさせている番役を順繰りに見た。
「ご一行をお止めしたは、なにゆえか」
ぶっきらぼうに訊かれた番役が、針で突かれたように腰を浮かす。
「は、その、に、荷車の検分をと」
しどろもどろに答える彼に、國房は冷たい眼差しを注いだ。
「それは後ほど、当家にて行う」棘のある口調で言い、禎貴のほうへ視線を戻す。「疾く三の曲輪へ入り、当家屋敷までお越し願いたい。それがしは本日いささか多忙ゆえ、この――」
彼が顔を向けた先には、一緒に来た若者が立っていた。
「椹木彰久がご案内いたす」
名指しされた若者は、黒葛禎貴をまっすぐに見て微笑み、丁重に頭を下げた。それから随員をさっと見渡し、一人ひとりに目礼する。少なくとも彼の態度からは、番士たちや國房のような侮りや敵意めいたものは感じられなかった。
「では、屋敷にて」
國房はそれだけ言うと、さっさと番所を出ていった。呆気にとられて見送る元博の傍で、宣親が小さく舌打ちする。
「くそ、馬鹿にしてやがる」
たしかに、馬鹿にされているんだろうな、と元博は思った。客として来たわけではないので、別に手厚い歓迎など望んではいない。とはいえ、まさかこうまで粗略な扱いを受けるとは想像していなかった。だが、これが人質生活というものなのだろう。
「では皆さま、屋敷へご案内いたしましょう」
ふいに、椹木彰久の爽やかに澄んだ声が響き、番所の中の重い空気を吹き払った。
「わたしが禎貴さまのお馬を引かせていただきます。広い曲輪ですので、屋敷までは小半刻ほどかかるかと」
彼は笑みを湛えながら、先に立って番所を出た。そのあとに黒葛禎貴と真栄城忠資、元博、由解宣親が続く。外では玉県吉綱と、貴昌君の駕籠を守る朴木直祐、柳浦重晴の三名が待っていた。禎貴が彼らに椹木彰久を引き合わせ、全員にそれぞれ名乗りを促す。
彰久は最後に名乗った元博にしばし注目し、気づかわしげに訊いた。
「負傷なさったと、主から聞きました。お加減はいかがですか」
「もう平気です」元博はそう言って手を上げ、晒を厚く巻かれた頭部にちょっと触れた。「こんな大げさな様子をしていますが、傷は縫い合わされてふさがっていますから」
元博の傷は予想外に深かったため、呼ばれて治療にあたった療師は熱した焼酎で患部を洗い、木綿糸を使って皮膚を縫合した。悲鳴が出そうなほど痛い処置だったので、布を巻いて押さえるだけにしてくれればいいのにと内心思ったが、最近ではこうしたやり方が主流になっていて、治癒もずっと早いのだという。
「縫合をされたのですか」彰久は気の毒そうに言った。「さぞ痛かったでしょう」
「痛さはさておき、破れ褌にでもなった気分でした」
元博の言葉を耳にした宣親と忠資が、声を揃えて笑った。彰久も一緒になって、上品にくすくす笑う。
「楽しいかただ」
彼はそう言って、笑みを浮かべたままゆっくり離れて行った。すでに馬上の人となっている禎貴に近づき、従者から引き手を受け取る。
馬を引くと言ったのは本気だったのか――と、元博は少し驚きながら思った。彼が桔流家の中でどういう立場にいる人なのか、今ひとつわからない。小者や中間というには身なりが良く、立ち居振る舞いも洗練されすぎている。しかし馬取り役をすることに、なんら抵抗を感じていないらしいところは、身分の低さを思わせた。
一行は彰久の先導で動き出し、番所の敷地を通り抜けて、三の曲輪への門をくぐった。平坦で幅の広い曲輪道を挟んだ先には、灰色の瓦屋根を載せた長大な長屋門が横たわっている。その向こうに、主屋のものと思しき見事な檜皮葺屋根と、よく手入れされた美しい庭木の梢を見ることができた。
「正面は、白須家のお屋敷です」
彰久は進路を右に取り、良く通る声で皆に説明をしながら曲輪道を歩いた。
「ひときわ高い望楼を備えたお屋敷は妙泉家。その向こうに見える白壁造りの長屋門は、久留馬家のお屋敷のものです」
曲輪道に沿って建ち並ぶのは、いずれも壮麗典雅な家中屋敷の数々だった。これまでに通ってきた曲輪でも上級家臣の屋敷らしきものを見たが、それらと比べても、この曲輪にある屋敷群は明らかに格が違う。
元博は馬に揺られながら、一軒一軒をじっくりと眺めた。門構えにもその家独特の趣があり、ひとつとして同じようなものはない。門扉の飾り金具にすらこだわって、それぞれに意匠を凝らしている。
「おもしろい釘隠だなあ」
「ああ、お気づきになられましたか」彰久が嬉しげに言った。「近ごろ、このあたりのお屋敷では、生き物を模した釘隠を表門につけるのが流行りなのですよ」
元博は、南部では考えられないほどの華美と贅沢に圧倒されつつ、各家々の釘隠を観察した。
最初に見た白須家は、たしか亀だった。妙泉家は鶴。久留馬家は苗字にあやかっているのだろう、駿馬をつけている。次に通った屋敷の門には、風変わりな形のものがへばりついていた。
「あれは……蟹?」
「はい。珍しいでしょう。こちらは、津雲家のお屋敷です」
しばらく行くと、低い石柵で囲まれた小さな森が姿を現した。入り口には雲突くように聳え立つ二本の巨木と、石造りの冠木門がある。そこから短い参道が伸び、山に抱かれるように奥まってひっそり佇む祭堂へと続いていた。
「天山で、もっとも大きい祭堂です」彰久が、森の奥へ目をやりながら説明する。「堂司は九重という人で、位階は大祭宜とか。ほかに小祭宜が十人ほどと、唱士が五人いるそうです」
元博は、麓で別れる前に五葉が三の曲輪の祭堂について話してくれたことを思い出した。屋敷の外へ出ることが許されるようなら、明日にでもさっそく行ってみよう。そう思いながら懐に手を入れ、彼からもらった祈り珠にそっと触れる。
心臓のすぐ近くにあるにも関わらず、それはなぜかまったく熱を帯びていなかった。冷たくはないが温もりもしない珠肌は、五葉その人に少し似ている気がする。
祭堂を通り過ぎると、次の曲輪へ上がる大手道の入り口が見えてきた。
「この先が、当家屋敷です」
彰久が肩ごしに一行を振り返って言い、元博は顔を上げてその方向へ目をやった。大手道の向こうに、石垣の土台を持った海鼠壁の土塀が長く伸びている。
「あの海鼠壁……」元博の横に馬を並べながら、由解宣親が低く囁いた。「賭けてもいい、きっと隠狭間があるぞ」
「隠狭間?」
元博は壁の表面を注意深く見ながら進んだ。土塀全体の高さの四割ほどが海鼠壁に仕上げられている。上部は、普通の白漆喰塗りだった。土塀が海鼠壁になっているのは珍しいし、整然と並ぶ格子模様は美しいが、宣親がそこに何を見つけたのかはよくわからない。
首をひねっているあいだに、いつしか桔流家表門のすぐ前まで辿り着いていた。ここまでに見たどの屋敷の門よりも大きく、最高の格式を感じさせる荘厳重厚な建築だ。
元博の体よりも太い鏡柱を含め、木材の表面は全て黒漆で仕上げられていた。勾配のある入母屋造りの屋根は、渋い鉄色の本瓦葺き。軒丸瓦には、桔流家の家紋である釜敷桔梗が刻印されている。
上部に透かしのある厚い杉材の門扉は開かれており、脇に門衛がひとり立っていた。両脇には曲線状の破風屋根を載せた番所がふたつ、前面を土塀と揃える形で突き出し、門の前に小さな枡形を形成している。
椹木彰久は番所から番士二名を呼び出し、一行のうちの侍以外の者を、馬や荷車ともども脇門へ案内するよう申しつけた。
「荷車のお荷物を、このふたりがあちらで検めさせていただきます。お立ち合いのため、どなたかおひとり、ご一緒いただけますか」
要請に応じて、黒葛禎貴は玉県吉綱を行かせた。
「では皆さま、どうぞ中へ」
彰久の先導で貴昌の駕籠がまず邸内に入り、随員がそのすぐあとに続く。
元博は門をくぐる時に、釘隠の意匠を確認するのを忘れなかった。桔流家のものは翼を広げた蝙蝠だ。これもまた、かなり変わっている。
「ほら、元博」
宣親に小声で促され、元博は彼が目くばせする方向へ顔を向けた。庭木の幹のあいだから、先ほど通り過ぎてきた土塀の裏側が見える。ややあって彼は、あ、と声をもらした。
「ほんとうだ、狭間が切ってありますね」
漆喰で塗り籠めた白い壁面に、狭間の木枠がいくつも埋め込まれている。
「でも貫通していない」
「そうだ。海鼠壁の隠狭間は、表に貼ってある薄い平瓦のうしろに木枠を入れて、外からは見えないように狭間を切る。そして、いざという時になったら、裏側から瓦を突き破るんだ」
元博は小さく感嘆の声を上げた。「よくご存じですね」
「前に三州東部の城で、ああいう土塀を見たことがある。だが、個人の屋敷でやっているところがあるとは思わなかったな」
「天山は過去に一度も、五の曲輪より上まで攻め上られたことはないそうですが、やはり備えは厳重にしているんですね」
「どんな敵に備えているのやら、な」
そう言ったのは、ふたりのうしろにいた真栄城忠資だった。怪訝な顔をする元博に、謎めいた笑みだけを返してくる。
門を入った右手には厩、左手の奧には家来衆が住む長屋があった。どちらも長大で、かなりの数を収容できそうだ。前庭には堂々たるケヤキや、樹齢百年は数えそうな桜、梅、キササゲなどが植えられ、主屋へ向かう玉石敷きの幅広い道に影を落としている。
元博は、当然このあと桔流家の当主和智に謁見するものと思っていたが、彰久は一行を脇道にいざなった。主屋をぐるりと回り込み、敷地の奥まった場所へと案内する。そこで彼らを待っていたのは、池を中心にして築山や園路を配した、広大で優美な池泉回遊式庭園だった。微風に小さくさざ波立つ池のほとりには、鄙びた雰囲気の瀟洒な離れ家が建っている。
「あの離れ家は〈賞月邸〉と申します。いささか手狭で恐縮ですが、若君と随行の皆さまでご自由にお使いください」
彰久は庭の中の小道を通って、離れ家の傍まで一行を率いて行った。家のうしろは雑木林で、その背後に山肌が迫り上がっている。左手の土塀沿いには、六棟が連なる長屋があった。一行が引き連れてくる奉公人や足軽の住まいとして新築したばかりなのだろう、木材の色が真新しい。
離れ家には式台はないが、それなりに立派な表玄関がついていた。その前で黒葛禎貴が駕籠を下ろすよう指示し、貴昌君の手を取って立ち上がらせる。少年は目を輝かせて、物珍しそうに辺りを見回したが、その顔は少し青白かった。
「若君は、お顔の色が悪いようですが」
彰久の問いかけに、禎貴が低く答える。
「五の曲輪で一日余分に足を止めたのは、元博の負傷に加え、若君がにわかにご不快を訴えられたせいもあってな」
「そうでしたか。当家出入りの療師を呼ばせましょうか?」
「いや、それには及ばぬ。〈苓風散〉とやらいう薬が効いて、いまはもう落ち着いておられるゆえ」
「ああ、〈浮昇酔い〉をなさったのですね」彰久は訳知り顔に言い、眉をひそめた。「おかわいそうに」
浮昇力の働きを感じるほど高所に行くと、人はしばしば浮昇酔いという症状に襲われることが知られている。頭痛や吐き気、めまい、眠気などをもよおし、場合によっては昏倒することもあった。それで死ぬことはないものの、浮昇に慣れるまではつらい状態が続く。貴昌は登山中ずっと元気だったが、五の曲輪で例の事件があったあと、突如吐いて歩けなくなった。
「浮昇酔いに備えて、ゆっくり登ってきたのでだいじょうぶだろうと思っていましたが、お小さいのでこたえたようです」
元博の言葉に、彰久が深々とうなずく。「お子さまやご老人は、浮昇酔いにかかりやすいとか」
それを聞いて、忠資がからからと笑った。
「重晴は子供か年寄りか、さて、どちらだろうな」
随員の中で唯一、若君に続いて浮昇酔いで倒れた柳浦重晴が重い呻きをもらし、脇にいる忠資の腹に肘鉄を食らわせた。
「うるさいぞ」
「おや、蚊が刺したほどにも感じなかった。まだ足元が覚束ないのでは?」
剽げた会話を耳にした貴昌が、浮昇酔いを起こして以来、初めて声を立てて笑った。ほんの少しだが、頬に赤みがさしている。
「ああ、よかった。お元気そうだ」彰久がほがらかに言い、少年の面前で片膝をついた。「わたしは椹木彰久と申します。どうぞ、お見知りおきください」
「桔流家のご家中か」
貴昌は、初めて会った若者の顔をしげしげと見ながら問いかけた。彰久が厳粛な面持ちでうなずく。
「はい。ですが、若君のご用も相務めます。何なりとお申しつけを」
元博はふたりのやり取りを聞きながら、疑問がつのるのを感じた。この人ははたして、我々人質の監視役なのか、それとも世話役なのか。主の桔流和智から、いったいどんな命令を与えられているのだろう。
まったく同じことを考えていたかのように、朴木直祐が訊いた。
「あなたは、ご当主の側仕えをなさっておいでなのですか?」
彰久は立ち上がり、曖昧な表情を浮かべた。質問に当惑しているとも、おもしろがっているとも取れる。
「はい、そんなところです。側仕えというのが、お側に侍って、命じられればなんでもするということなら――まさにその通り」
おかしな言い方だ。元博は彼が〝なんでも〟という言葉に、わずかだが奇妙な抑揚をつけたことに気づいた。
「当面は、皆さまのお世話をするよう申しつかっております。ご不便なことや、お入り用のものがありましたら、わたしにご相談ください。できる限り、便宜をはからせていただきます」
そのあと一行は離れ家に入り、ここでの暮らしについて彰久からざっと説明を受けた。
食事は主屋の厨から運ばせるが、〈賞月邸〉にも台所はあるので、自炊をしてもかまわない。家の横の、芝垣で囲われた小さな土地は自由に使える。剣術の稽古場にしてもいいし、耕して野菜などを植えてもいい。屋敷の敷地内にある弓場、馬場、奥庭はいずれも開放されている。黒葛貴昌及び禎貴は、主屋の表への出入り自由。その他の者も、番士に用向きを伝えれば、おおむね出入りを許される。
「しばらくはこの曲輪のみにお留まりいただきますが、陛下へのお目通りが済めば、五の曲輪あたりまで通行可能な番所手形を発行されると思います」彰久はここで表情を引き締め、真剣な声になった。「それから、皆さまに必ず守っていただきたいことがございます。昼間どこにいらしたとしても、亥の刻鐘が鳴る夜五つ半までには〈賞月邸〉にお戻りください。毎夜、基本的にはわたしがお部屋と長屋を見回って、ご人数を確認させていただきます」
やはり監視役なのか――と元博は思い、そっと仲間の顔を見回して、皆が同じように考えているのを感じた。あの番士たちや織恵國房とは異なり、彰久は出会った時から一貫して礼儀正しく親切だったが、それでも断じて味方ではあり得ないのだ。
想像していたよりはずっと自由な生活を送れそうだが、人質という立場であることに変わりはない。今後もそれを、常に意識させられることになるだろう。とはいえ、どこかの座敷牢に軟禁されたり、労役に就かされたりするわけではないと知り、ほっとしたのもたしかだ。まさかと思いつつも心のどこかで、ずっとその可能性を否定しきれずにいた。
「最後にひとつ、皆さまにお詫びしなければならないことがあります」彰久はここまでの話が皆の頭に浸透したところを見計らって、再び口を開いた。「本日は若君の後見役となるべき主和智が不在で、お出迎えもご挨拶もできず、大変申し訳ありませんでした」
「意図して無視されたのではなかったわけか」
由解宣親が無遠慮に言い、元博は背中がひやりとするのを感じた。だが彰久の表情に変化はない。
「そうおっしゃられるのも無理はありません。ですが、決して若君をないがしろにしたわけではありませんので、どうか誤解をなさいませぬよう」
黒葛禎貴が静かに割って入った。
「ご当主は、家老の國房どのと同じくご多忙か」
「実は、朝から屋敷を空けております」彰久はそう言って、禎貴のほうを向いた。「夜明け前に突如城から使いがあり、陛下の鷹狩りに同行を求められました。帰宅はおそらく、二、三日後になるでしょう。あまりに急なことだったため、当家としても予定にさまざまな齟齬が生じ、混乱している次第です」
曲輪門に出迎えが来ていなかったのはそのせいもあったのだな、と元博は悟り、敵意や軽視の表れだと早合点してしまったことを反省した。
表面だけを見るから、こういうことになるのだ。もっと本質に目を向けるようにしなければ。
「さて皆さま、長旅でお疲れになったでしょう。旅装を解いて、おくつろぎください。主屋から女中をふたり、こちらへ来させています。女手が入り用になりましたらお使いください」彰久は一同を見渡して頭を下げ、身軽に立ち上がった。「わたしはお荷物がどうなったか見て参ります」
「玄関までお見送りを」
元博は禎貴のほうを見ながら言い、彼がうなずくのを待って腰を上げた。彰久と共に座敷を出て、静かで薄暗い廊下をゆっくり歩いて行く。
「とても立派な建物ですね」
邸内の設えに感心する元博に、彰久は優しく微笑みかけた。
「気に入っていただけてよかった。ここには志鷹家のご兄弟も、一時期ですが住まわれていたことがあります」
「志鷹家というと、天勝国の?」
「はい。現当主の朋房さまが少年のころ、陛下への臣従の証として天山へおいでになり、弟頼英さまと共に二年間ほど滞在されました」
つまりは人質か――と考えていると、ふいに人の姿が視界に入った。長廊下の突き当たりにある台所らしき板間の入り口に、うら若い女性がふたり立っている。突然のことで驚いたが、先ほど彰久が女中をよこしたと言っていたことを思い出した。
女たちは袖で口元を隠しながら、小声で何やら話している。元博はふたりが、女中とは思えないほど凝った織り地の小袖を着ていることに気づいた。色柄も、はっとするほど華やかだ。生明城では城主の奥方ですら、なにか行事でもない限り、ここまで派手な着物は身につけなかった。
しかしよく見れば、椹木彰久が着ているのも、かなり洒落た小紋だ。紫根色の地に、滝縞と瓢箪が白く染め抜かれている。こんな装いをしている人々の目に、あかぬけない南部人はどう映るのだろう。
その時、女中のひとりが元博を横目で見て、もうひとりのほうに顔を傾けながら「まあ、野暮ったい」と感想をもらしたのが聞こえた。囁きに近かったが、辺りが静かなので思いのほか声がよく響き、言った当人もはっと顔をこわばらせる。
元博は頬が熱くなるのを感じながら、思わず目を伏せた。いたたまれない空気の中、隣にいる彰久の表情をそっと窺う。
彰久は激昂していた。少なくとも、一瞬はそう見えた。だが元博が驚愕に目を瞠った時には、もう元どおりの彼に戻っていた。本当に腹を立てたのだとしても、表情にも目にもその名残はまったく見られない。
彼は元博を促して長廊下の半ばまで歩き、女中たちに一瞥もくれることなく玄関のほうへ折れた。
「口さがない者ばかりで申し訳ありません」低い声で、静かに言う。「お恥ずかしいかぎりです」
「い、いえ、気にしていません」
慌てて取り繕った元博に、彼はいわるような眼差しを向けた。
「番所で、皆さまのお荷物を検めさせろと言った番士を覚えていらっしゃいますか」
「はい」
「あの者たちは、本気で荷を見ようとしていたわけではないのです。面倒なく、速やかに次の曲輪へ上がりたいなら、賄をよこせと暗に言っていたのですよ」
元博は唖然とした。「金を……取ろうとしていたのですか」
「天山には、心がけの良くない者が多いのです。外から来た人を見下し、事あるごとに蔑んだり、食いものにしたりしようとする」
彰久は玄関で足を止め、元博をまっすぐに見た。
「雲上という言葉がありますが、天山の四の曲輪より上は、文字どおり雲の上にある世界です。ここに長くいると傲慢になり、雲の下で暮らす人々を、ちっぽけな虫か何かのように感じるようになる。そういう驕りきった雲上人まがいが、きっと今後も皆さまを悩ませたり、憤らせたりすることでしょう。もちろん、皆がみな害意を抱いているわけではありませんが、信用するに足る者、頼りにできる者はそう多くありません。人をよく見て、関わりを持つ相手をお選びになることです。そうすれば、利用されたり、陥れられたりするのを避けることもできるでしょう」
元博は彰久の饒舌さと率直さに圧倒され、しばし言葉もなく立ち尽くした。自らもその一員でありながら、まるで〝雲の上の人々〟を蔑んででもいるかのようだ。彼がどういう人なのか、ますますわからなくなった気がする。
ややあって、元博は戸惑いをおぼえながら口を開いた。
「肝に銘じておきます。あのう――どうしてわたしに、そんなことを教えてくださるんですか」
「それはもちろん、南部一の名家のご家中とよしみを結びたいからですよ」彰久は明るく笑って言った。「わたしは出世を望む性質なので、こういう機会は決して逃さぬことにしているのです」
この答えもまた、元博を面食らわせた。本気とも冗談ともつかない口調に混乱させられる。元博は彼をじっと見つめたが、理知的なその顔に浮かぶ表情は、未知の文字で書かれた書物のようで、何も読み取ることはできなかった。
「いま、こう考えていらっしゃいますね。こいつは信用できるやつか――それとも自分を利用しようとしているのか」
図星だった。「はい」
「よいことです。あなたは〝懐疑〟の鎧をまとわれた。天山では決して、それをお脱ぎになるべきではありません」
彰久の顔に、ちらりと何かが浮かんだ。何か不穏で、厭なもの。狡猾さだろうか。しかしそれもまたすぐに消え去り、親しげで愛想のいい笑顔が取って代わった。
「よしみを結びたいというのは本当です。この午後をご一緒して、わたしは皆さまに肩入れしたくなりました。わたしのような者の助力に大して価値はないとお思いでしょうが、これで意外とお役に立つこともありますよ」
彼はさらりと売り込み、足取りも軽く玄関を出て行った。
〈賞月邸〉には襖で仕切られた部屋が十室あり、黒葛貴昌の居間と寝間、全員が集まれる広間を確保した上で、各自が一室ずつ居室を持つことができた。もっとも狭い部屋でも五畳はあるので、そう悪い住環境ではない。
元博は夕餉のあと、割り当てられた南側の六畳間に引き上げ、従者の孫六に手伝わせながら荷物を片づけた。手に馴染んだ品々を各所に配置し、室内を居心地よく整える。そうして人心地ついたところでようやく、これから数年、あるいはもっと長くここで暮らすのだという思いに実感が伴い始めた。
「悪くないお部屋ですが、見晴らしがいまひとつですね」外向きの障子を開けた孫六が不満をもらし、目の前にある柳の古木を睨む。「この木がなければ、立派なお庭がよく見えるものを」
畳の上に胡座をかいて室内を見回しながら、元博は気のない返事をした。
「部屋から何が見えようと大差ないだろう。池に映る月を見たところで、名句のひとつも浮かぶわけじゃなし」
孫六が嘆息しながら障子を閉める。
「お勉強なさいませ。幸いここでは、その時間がたっぷりありそうですから」
どう応酬しようかと考えていた元博は、内廊下からの呼びかけを危うく聞き逃しかけた。
「失礼いたします」
そう言って襖を開けたのは、元博を「野暮ったい」と評したあの女中だった。華やかな着物の柄に見覚えがある。お互いに気まずい一瞬が過ぎ去り、彼女は伏し目がちに問いかけた。
「何かご用はございますか」
「いや、特にない」
昼間のことは別に気にしていない、それが伝わるよう願いながら優しく言った元博は、ふと彼女の顔に殴打の痕を見つけて息を呑んだ。目の周りや口元に、化粧でも隠しきれない痛々しい赤痣がついている。先刻見かけた時には、たしかになかったはずだ。この二刻ほどのあいだに、誰かに殴られたとしか思えない。
音もなく襖を閉めて女中が下がると、孫六が声をひそめて言った。
「あのお女中、誰ぞに無体な真似をされたようですね」
「うん……」
ぼんやり答えながら、元博は胸がざわつくのを感じていた。か弱い女を、あんなにひどく殴ったのはいったい誰だろう。個人的な諍いによるものか、あるいは雇い人や上の者に何かの落ち度を咎められたのか。その時、彼女が失言をした際に、椹木彰久がほんの一瞬だけ見せた怒りの表情を思い出した。
まさか。あり得ない。動揺しつつ、心の中で即座に打ち消す。だが、違うと否定するそばから、彼のすっきり整った知的な顔が繰り返し浮かび上がってくるのを止めることはできなかった。
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