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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 来る者、去る者
20/161

十九  立身国七草郷・六車兵庫 雷雨の夜

 当初ひと月あまりと考えていた滞在期間が、いつしか半月近くも延びてしまっている。そろそろ、七草(さえくさ)を去るべきだ。(さと)で悪事を働いている浮浪人集団の一件を片づけたら、また旅に出ることにしよう。

 六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)は今朝、目覚めてすぐにそう決めた。思いがけず長居をしてしまったが、修行の身であることを忘れてはならない。

 ただひとつ心残りなのは、師が実力者と認める椙野(すぎの)平蔵(へいぞう)の本気の剣を、一度も目の当たりにしていないことだ。できることなら辞去する前に、真剣を振るう姿をひと目見てみたい。今日、話をする機会を見つけて頼んでみよう。そう思っていた矢先、彼は平蔵のほうから声をかけられた。

「兵庫どの、匡七郎(きょうしちろう)が何かと煩わせておるようだが、ご迷惑ではないかな?」

 朝の鍛錬を終えて井戸端で浴びた水を拭っていた兵庫は、手早く身なりを整えながら、縁側に座る平蔵の傍へ行った。

「いえ、迷惑などと、そのようなことは。これまでわたしの周りにいたのは、ひと回り以上も年嵩(としかさ)の兄弟子たちばかりでしたので、歳の近い友人を得ることができて嬉しく思っております」

「――友人?」

 思わずといった感じで、平蔵が聞き返す。兵庫は戸惑いながらうなずいた。

「は。何か……?」

「近いとはいっても、相手はご自分の半分ほどの歳の子供。それを友人と称されるか」

「おかしいでしょうか」

「少々、変わっておられる」

 ずばりと言われたが、不快ではない。むしろ、そんな風に評されたことがおもしろかった。

「変わっていると言われたのは初めてです。師からはいつも、面白味に欠ける凡骨よと」

 兵庫の言葉を聞いて、平蔵はくつくつ笑った。

「あのかたの悪たれ口を真に受けておられるとは、素直な御仁だ」目を細め、白髪交じりの顎髭をなでる。「いや、お若い」

 悪たれ口か――兵庫は微かに笑みを浮かべた。あの師匠を、よく知っている人ならではの絶妙な表現だ。彼はたしかに、かなり口が悪い。歯に衣着せぬ物言いをしては、しょっちゅう誰かを怒らせている。

 兵庫も弟子入り当初から、剣であれ何であれ、褒められるよりも腐されるほうが多かった。だが、それに不満をおぼえたことはないし、言い方はともあれ、師匠が言うことの大半は的を射ていると思っている。

「実際わたしは、つまらない男です」

「そう、ご謙遜なさるな」平蔵は苦笑し、いたずらっぽい眼差しを兵庫に向けた。「匡七郎はあなたのことを、剣士としてのみならず、人としても己の理想と見ておるようだ」

面映(おもは)ゆい限りです」匡七郎のひたむきな傾倒ぶりには、未だに困惑せずにはいられない。「自分とは異なる部分が、彼の目には何となく良いように見えるのでしょう」

「あなたがここを去られたら、さぞかし落胆するでしょうな」

 兵庫ははっと顔を上げ、平蔵をまじまじと見つめた。ほんの数刻前に決意したばかりのことを、早くも彼に悟られてしまったのだろうか。

「ご厚情に甘え、長々とお世話になってしまいました。今手がけていることを片づけたら、お(いとま)しようと思っています」

「それは残念」平蔵の目がきらっと光る。「手がけておられること――に、助勢はお入り用かな?」

 再び意表を突かれ、兵庫は目を見開いた。匡七郎が漏らしたのだろうかと考え、それをすぐに打ち消す。もし誰かに話したくなったとしても、あいつはその前に必ずおれに相談するだろう。

「お気づかい、痛み入ります。が、ご助勢いただくには及ばぬかと」

「さようか。ま、何かあればお声がけくだされ」

「かたじけのう存じます」

 兵庫は軽く頭を下げ、そのまま少し考えてから、ゆっくりと顔を上げた。

「先生、それとは別に、ひとつお願いがございます」

「ほう、何かな」

「当地を去る前に、先生のお手並みを拝見いたしたく」

「ふむ」

「手合わせでなく、型だけでも結構です」

「槍と剣、いずれをお望みか」

「剣で――真剣で、ぜひ」

 少し熱を込めて言う。槍の達人の技に興味はあるが、見せてもらうなら、やはり剣がいい。

「相わかった」平蔵はあっさりと承諾した。「田舎剣法だが、あなたのご修行の一助となるならば幸い。近々、折りを見てご披露いたそう」

「楽しみにしております」


 その日の午後、兵庫は刀祢(とね)匡七郎を伴って森へ出かけた。百姓家の男たちが毎夜、盛り場へ繰り出す時に通るという道を実際に見てみるためだ。人々の往来によって踏み固められたその道は、細く曲がりくねりながら森の中を抜けて隣郷へと続いていた。

 道の右手には、大木が連なりあってうっそうと生い茂っている。一方、左手の木立に五間半ほど入ったところで森は切れ、傍を流れる幅の広い川に向かって地面が低く傾斜していた。川を挟んだ対岸には、野菜を育てる農作地が広がっている。ところどころに孤立した小さな林があるが、民家らしきものは見えず、そちら側に視界を遮るものはほとんどないと言ってよかった。

「この道は、夜になると暗いだろうな」木々のあいだから対岸の農作地を透かし見ながら、兵庫が呟く。「水面に反射する月明かりも、ここへは届くまい」

 隣を歩いていた匡七郎は、彼と同じ方向を見てうなずいた。

「そうですね。夜は提灯なしでは歩けません」

「やつらも提灯を下げて歩いていたか」

「はい。二日間とも、灯りはふたつでした」

「ふたつ、な」

 兵庫は得心顔で言い、道幅が少し広がっているところで足を止めた。右手の木立に分け入るようにして地面が丸く(なら)され、その中央に据えられた平らな石の土台の上に(ほこら)が建てられている。長年の風雨に耐えてきた木造の本殿は黒ずんではいるものの風格があり、茅葺きの屋根もよく手入れされていた。正面の両脇には、背は低いがどっしりとした石灯籠も置かれている。

 兵庫は本殿に上る階段の下まで行き、切妻屋根の(ひさし)を見上げた。その横に匡七郎が立ち、同じように見上げながら「土地神さまの祠です」と説明する。兵庫はそのままゆっくり歩いて、祠の周囲をぐるりと一周した。

「匡七郎――」正面で待っていた少年の傍まで戻り、静かに問いかける。「舞踊や猿楽をやっている人を誰か知らないか」

 突然の言葉にまごつきながらも、匡七郎は素早く考えをめぐらせて名前を挙げた。

「わたしの友達の叔父に熊三(くまぞう)という人がいて、郷の豊年祭りでいつも踊っています」

「この郷に住んでいるのか?」

「はい。道場からあまり遠くないところに家がありますよ」

「よし、あとで案内してくれ」

 兵庫はそう言うと、再び道へ戻って歩き出した。髷をひょこひょこ跳ねさせながら、匡七郎がそのあとをついてくる。

「兵庫さま、何をなさるおつもりなのか、そろそろ教えてくださってもいいでしょう?」

 もう待ちきれない、というように訴えた彼を肩越しに見やって、兵庫は小さく笑みを浮かべた。

「焦らずとも、おまえには事を起こす前にちゃんと説明する」

「じゃあ、いつ始めるのか、それだけでも」

「今夜からだ」

 それを聞いて、途端に匡七郎が勇み立つ。

「では、今夜も道場に泊めていただくということに――」

「それには及ばん」兵庫はすかさず制し、足を止めて振り向いた。「例の男たちが、遊びから戻って寝つくのはいつごろだ」

「大抵、四更を過ぎてからでした」

「そのころに起きて、家を抜けだして来られるか?」

「はい!」

 自信満々に答えた匡七郎を、兵庫は少し疑わげに見つめた。朝早く報告に来た日、飯の時刻になって彼を起こそうとしたが、何度名を呼んでもいっこうに目覚める気配がなく、夜着を剥がして無理矢理引き起こしてやっても、まだしばらくのあいだは夢うつつの状態だった。子供の眠りは、それほどまでに深いものなのだ。いったん寝ついたあと、真夜中を過ぎてから再び起き出すなどということが、果たしてできるものだろうか。

「無理をしなくてもいいんだぞ」

「起きられますよ」匡七郎は、ぷうっと膨れっ面になって言った。「あの朝はほんのちょっとしか眠らなかったから、なかなか目が覚めなかっただけです」

「わかった、わかった」

 苦笑しながら踵を返そうとして、兵庫はふと木立の中に視線を止めた。冬のあいだの落ち葉が堆積した地面に、小さな兎の死骸が横たわっている。彼はそちらへ歩いて行ってしゃがみ込み、まだ微かに温もりの残る柔らかい身体に指先でそっと触れた。見れば首のうしろからほんの少し血が出ているだけで、身体にはほとんど傷がない。

 匡七郎が近づいてきて兵庫の手元を覗き込み、微かに眉をしかめた。

「狐にでもやられたんでしょうか」

「おれたちが来たので、獲物を残して逃げたらしいな」

 そう言って懐から小刀を取り出した彼を、ぎょっとしたように匡七郎が凝視する。

「兵庫さま……それ……」

「見たくなかったら、離れていろ」

 兵庫は一瞬だけ顔を上げ、彼ががその場に留まるつもりなのを確認すると、再び死骸に視線を向けた。仰向けにした兎の腹部に小刀の刃先を押し当て、躊躇なく一気に切り裂く。彼はそこからある部位だけを切り取ると、再び死骸を横向きに寝かせて立ち上がった。

「おれたちが去れば、すぐにもこいつを仕留めた獣が戻ってきて喰らうだろう」

 懐紙で手を拭っている兵庫を見上げて、匡七郎が大きなため息をつく。

「ああ、びっくりした。火でも(おこ)して、ここで召し上がるつもりなのかと思いました」

「狐の獲物を横取りするほど食い意地は張ってない」

 兵庫は低く笑うと、切り取ったものを懐紙で丁寧に包んだ。その様子を見守りながら、匡七郎が小首を傾げる。

「そんなものを、どうなさるんですか?」

「ちょっとした道具を作る材料にする」

「道具……?」

 訝しげに呟いた彼を見て、兵庫は思わせぶりに微笑んだ。

「玩具のようなものだ。今夜会った時に、使い方を教えてやる」

「それも、あの連中を追い出す仕掛けに使うんですか?」

「そうだ」

 匡七郎の目の中で、好奇心が膨れ上がった。だが彼は、詮索がましい言葉を必死でこらえているようだ。

「兵庫さま、熊三さんに会いに行くなら、そろそろ引き返しませんか」

「そうだな。おれの注文には少し時間がかかるやもしれん。早めに頼んでおいたほうがよさそうだ」

 兵庫は呟きながら身を屈め、足元に落ちている小石を拾い上げた。つるりとしていて丸く、適度な重量がある。それを二本の指でつまみ、匡七郎に掲げて見せた。

「道すがら、こういう石を拾いながら行こう」

「それ――はい、兵庫さま」

 また思わず質問しそうになるのをぐっとこらえて彼はうなずき、先に立って歩き出した兵庫のあとを足早に追ってきた。


 やせ細った月が微かに放つ光の下、兵庫は道場の板塀の前で匡七郎と落ち合った。ふたりとも黒い稽古着と袴をつけているので、ともすれば闇に姿が溶け込んでしまいそうだ。

 兵庫が帯刀していないことに、匡七郎は少し驚いた様子を見せた。

「刀はお持ちにならないのですか?」

「昼間使った小刀は持っているぞ。それから、これだ」

 兵庫は浮浪人たちが(ねぐら)にしている空き家へ向かって歩きながら、脇に抱えていたものを匡七郎に手渡した。受け取った少年が提灯の明かりに近づけ、真剣な面持ちで検分する。

 それは、倒竹を割ってしならせた竹ひごと、弾力のある兎の腸管を使った、兵庫手製の素朴な小型弓だった。腸を()り合わせて紐状にしたものを弦として取りつけ、中心に楕円形に切った革の弾受けを通してある。そこに弾をつがえて強く引っ張り、狙いを定めて飛ばせば、手で投げるよりもずっと正確に的を撃つことができた。

 小さいので玩具の域は出ないが、硬い石を弾に使えば武器としてもそれなりに通用する。

 使い方を説明してやると、匡七郎は興奮に目を輝かせた。

「矢を使わない弓か。おもしろいですね」

「撃ってみるか」

 兵庫は足を止め、(たもと)に入れていた小石を取り出して彼に与えた。

「縦に持つとぶれやすい。(さお)をしっかり握って、少し斜めに構えろ」片手を添えながら教え、道の先に見える立ち木を指差す。かなり暗いが、当たれば音でわかるはずだ。「革で弾をくるむように掴んで引っ張り、狙いをつけたら親指の力を少し抜くんだ」

 匡七郎は言われた通りに構え、充分に引き絞ってから放った。ひゅっと鋭い音を立てて弾が飛び、三間ほど離れた立ち木に見事命中する。

「うまいぞ、匡七郎」

「この弓がよく出来ているからですよ」

 匡七郎はそう言って、あらためて感心したように手の中の竹弓を見つめた。

「小さいのに、こんなに飛ぶなんて、びっくりです」

「子供のころ、時々これを使って兄弟子に悪さをした」兵庫は呟き、昼間拾った小石を全部掴みだして、匡七郎に渡した。「いつも、あとでさんざんに叱られたが」

 この人にもそんな時代があったのか、というように目を丸くしたあと、匡七郎はさも愉快そうにくすくす笑った。

「いたずらっ子だったんですね」

「たまにな」

 暗い空のどこかで、遠雷が轟いた。まだ雨の気配はないが、少し風が出てきているので、そのうち雨雲を運んでくるかもしれない。兵庫は匡七郎を促し、再び歩き出した。

「手拭い一本あれば石を遠くまで飛ばすことはできるが、腕を振り回すから、どうしても目立ってしまう。この弓を使えば物陰から、相手に姿を見られず撃つことも可能だ」

「どこかに隠れてあいつらを撃つのが、今夜のわたしの役ですか?」

「そうだ」察しの良さに、密かに舌を巻きながら答える。「森の入り口に立つ、あの大木のあたりがいいだろうな」

「南側の草むらはどうでしょう」

「あそこはおれが使う」

 そう言った瞬間、また遠雷が聞こえた。少しずつ、こちらへ近づいているようだ。猫の爪のような白い月に、薄く雲がかかり始めていた。まだかろうじて道は見えるが、じきにもっと暗くなるかもしれない。兵庫はそう思い、少し足を速めた。

「匡七郎、何をするつもりなのかと、昼間訊いたな」

「はい」

「あの空き家に住む、百姓たちを怯えさせる」

「怯えさせる?」匡七郎は怪訝な表情で、鸚鵡(おうむ)返しに言った。「どうやってですか?」

「この郷でも、夏に子供らが森や墓場で肝試しをするだろう。脅かし役になったことはあるか」

「あります」

「そういう時、何をして怖がらせる?」

「白い布をかぶって、道の脇からわっと飛び出したり、墓石の陰で気味の悪い声を立てたり……」

「それと同じだ。正体のわからない何かが、自分たちにつきまとっていると感じさせる。不気味な声や物音、視界の隅にちらつく影、見えない相手からの打擲、そういう小さな怪異の積み重ねでな」

 匡七郎が、あ、と小さく声を上げた。

「暗い中で、離れたところからさっきの石を撃たれたら、何が当たったのかわからなくてびっくりしますね」

「その通りだ」兵庫はにやりと笑った。「黒い猫を捕まえてきて、寝ているところに放り込むのもいいな」

「森の中で待ち伏せて、いちばん後ろを歩いている者の後ろ首に、木の上から水を垂らしてやりましょう」

 匡七郎は元気よく言って含み笑いをもらし、それからふと小首を傾げた。

「でも、誰かのいたずらだと、すぐに気づかれませんか?」

「あの牢人(ろうにん)たちは気づくだろう。だから、仕掛ける相手は百姓だけにする」

「こちらの見込み通り、怖がってくれるでしょうか」

「百姓はしたたかだが、反面臆病でもあり、得体の知れないものを恐れる。迷信深いからな」

 それにやつらの心には、これまで牢人たちと一緒になって悪行をはたらいてきたことへの(やま)しさもある――と、兵庫は腹の中で呟いた。もちろん仲間の手前、表には出さないだろう。だが内心では、図らずも死に至らしめた者の恨みや、いつか下るかも知れない神罰を恐れているに違いない。そういう中、異様な出来事が頻発すれば、心を平静に保つことはできないはずだ。

 休耕地が近づくころ、歩き続けるふたりの周囲が急に騒がしくなった。少し湿気たぬるい風が吹いて、伸びかけた青い稲の穂をざわめかせ、道の脇に立つケヤキの梢をぎしぎしと揺らす。田んぼの中では、何十匹もの蛙が一斉に鳴き始めた。雨が来るぞ、と警告しているかのようだ。

 目指す空き家が道の先に見えてきたところで、しばらく黙っていた匡七郎が口を開いた。

「兵庫さまは、百姓たちをこの郷から出ていかせるとおっしゃっていました。それも自分から出ていきたくなるようにすると」

「ああ」

「毎日怖がらせていたら、いずれ嫌になって出ていく、ということですか?」

「いや、そんな悠長なことはやっていられない。何日かいたずらを仕掛けてびくつかせておき、最後にもっと恐ろしい目に遭わせて、逃げ出すように仕向けるつもりだ」

「もっと恐ろしい目……」匡七郎は兵庫を見上げながら、少し掠れた声で呟いた。顔を正面に戻し、ぶるっと身を震わせる。「わたしは絶対、兵庫さまの敵にはなりたくありません」

 突拍子もないことを真剣な調子で言われ、兵庫は思わず大きな笑い声を上げた。闇に響いた哄笑に驚いたのか、蛙の合唱がぴたりと止まり、匡七郎が目をわずかに見開く。兵庫は笑いの残響を断ち切るように、急いで唇を閉じた。隠密に事を運ぼうとしている時に、よもやこんな間抜けをするとは。己の不用意さにあきれかえる。

「おまえといると、気が緩む」

 ため息混じりに言いがかりをつけると、匡七郎はぱっと顔を輝かせた。

「本当ですか?」

 褒め言葉と受け取ったらしく、本気で喜んでいる。そして兵庫はふいに、自分の言ったことが真実であることに気づいた。この少年が傍にいると、なにか住み慣れた場所へでも戻ったような気分になるのだ。それは心地よく――同時に危険なことだと思えた。

「連中、もう戻っていますね」

 匡七郎の囁き声で我に返り、兵庫は前方に意識を向けた。雑草だらけになった休耕地を挟んで、ずんぐりと不格好な空き家が佇んでいる。薄暗い中でも、窓の(しとみ)戸が少し開けられているのを見て取ることができた。家の中に灯りはない。浮浪人どもはいつもより少し早く戻って、もう寝ついているのだろう。

「よし、始めるぞ」兵庫は低く言って匡七郎のほうを向き、闇の中でも黒々ときわだつ小山のような森を指差した。「木の陰に隠れて待て。百姓を誘い出したら、おれはそこの草むらに移動する。右手をこう――上げて合図をしたら、石をぶつけてやれ」

「わかりました」

 匡七郎が答えると同時に、大太鼓を長(ばち)でどろどろと打つような雷が、すぐ近くの空で鳴り渡った。その威嚇的な響きで、気持ちがぴりりと引き締まる。

「またあとでな」

「はい」

 ふたりは短く言葉を交わし、二手に分かれた。ここからは慎重に、かつ素早く行動しなければならない。


 兵庫は提灯を吹き消し、足音を忍ばせながら空き家へ近づいていった。開いた蔀戸の隙間から、いくつもの(いびき)がもれ聞こえてくる。彼は窓の下にぴったり張りつき、少し間を置いて暗さに目を慣らしてから、ゆっくり首を伸ばして中を覗き込んだ。

 隙間から見えるのは部屋の半分ほどだけだが、入り口に近い土間の周辺はほぼ見渡すことができる。むき出しの土の上に敷布代わりの(むしろ)を敷いて、四人の男が雑魚寝をしていた。この集団を取りまとめている牢人ふたりは、その中にはいないようだ。おそらく家の奥の、いちばんいい場所を占拠しているのだろう。

 もっとも窓に近いのは、ふたりいる若者のうちのひとりだった。その隣には、片足の悪い中年男が横たわっている。

 兵庫は窓から少し目を覗かせたまま、片方の肩を壁板に押し当てて体重をかけ、内側にぐっと押した。薄い壁板がわずかにたわみ、みしっと音を立てる。

 若者が眠りながらびくっと身を竦ませ、膝を縮めてもぞもぞしてから、窓のほうに寝返りを打った。まだ半分夢の中にいるが、眉と目蓋がぴくぴく動いている。それをじっと見つめながら、兵庫は再び壁板を軋ませた。若者の口が小さく引きつり、眉根に皺が寄る。しつこい蚊につきまとわれてでもいるかのようだ。そして彼は、兵庫がさらに二度家を軋ませ、爪を立てて外壁を長くゆっくり引っ掻いた時に、ついに目を覚ました。手の甲で荒っぽく目蓋をこすり、身をよじるようにして起き上がる。

 兵庫はぱっと身を沈め、地面に片膝をついた姿勢で耳を澄ました。若者が口の中で何かぶつぶつ言い、深いため息をつく。それを聞き咎めたように鼾がひとつ止まり、誰かが筵をがさがさいわせながら体を起こした。

「どうした甚六(じんろく)、眠れねえのか」しわがれた囁き声で訊く。おそらく隣にいた中年男だろう。

「家がぎしぎし音たてるんで、なんだか目が冴えちまってよう」甚六はそう答えて、再び嘆息した。「風もねえのに。気味が悪ぃや」

「いや、風は出てきてるぜ。雷が鳴ってるし、雨のにおいもする。じき降り出すかもな」

 兵庫はふたりの会話に耳をそばだてながら少し移動し、今度は入り口の引き戸をぎいっと軋ませた。室内ではっと息を呑むような気配がして、土間の鼾も少し小さくなる。だが家の奥のほうで響いている高鼾は、まったく乱れなかった。

「あの牢人たち……音がしても目を覚ましもしねえ」

 甚六が呟き、もうひとりが小さく咳払いをする。

「それでも、こないだ郷の連中に襲われた時は、あいつらが真っ先に起きだしたぜ。戸が蹴破られる前に、もう刀を引っ提げて立ってた。おれらがまだ、寝床から起き上がりもしねえうちにだ」

 しばし沈黙が続いたあと、甚六がさらに声をひそめて言った。

「なあ留吉(とめきち)よう……こないだのあの百姓……おっ()んだってな」

「ああ」留吉が唸るように答える。「腹を刺されて、いっぺえ血が出てたからな。ひと目見て、助からねえと思ったぜ」

 兵庫は引き戸の縦板にわずかな隙間を見つけ、そこから再び室内を覗いた。甚六と留吉が、窓の下で向かい合って座っている。甚六は壁板に背中をつけ、陰気な表情で両膝を抱えていた。

「さっき聞こえたんだ。誰かが外で壁を引っ掻いてた。まるで、中に入れてくれって言うみてえによ」

 留吉は胡座(あぐら)をかき、(のみ)でもたかっているのか、しきりに体を搔いている。

「どうせ夢でも見たんだろうぜ」

「住み着いたころには、こんなに家がぎしぎしいったりしなかった。なんで変な音がするようになったんだ?」

「古い家だ。気にするこっちゃねえ」

「おれ……おっかねえんだよう」甚六がぽつりと言い、身の置き所がないように肩をすぼめた。「酒食らって暴れて、女抱いて――それだけなら愉快だけど、人死にが出ちまったら、もうおもしろいと思えねえ」

「つまらねえこと言うな」

「だってよう、(たた)られるんじゃねえかと思ったら、おれ……」

「しいっ! よせ、そんな話はしねえほうがいい!」

 そう叱咤した留吉の声に眠りを破られ、土間の奥で寝ていた男が頭を上げた。

「うるせえぞ、おめえら」

 男は口の中でさらに何かもごもご言っていたが、またすぐ夢の中に戻っていった。甚六と留吉が、黙って顔を見合わせる。やがて甚六が、そわそわと身じろぎしながら訴えた。

「おれ……なんか、小便がしたくなった」

「行ってこいよ」留吉は素っ気なくそう言ったものの、気を変えて腰を浮かした。「いや、おれもつき合おう」

 兵庫はさっと身を翻し、空き家の前の草地を一気に駆け抜けた。ふたりが出てくる直前に、間一髪で背の高い草むらに飛び込む。そこからは空き家も、匡七郎が隠れている森の入り口も見渡すことができた。

 引き戸を開けた甚六と留吉が、こちらへ向かって歩いてくる。留吉は左足を少し引きずっているが、それでも甚六より足取りはずっとしっかりしていた。若者は闇を恐れるように縮こまり、ちょこちょこと小刻みに足を動かしている。今にも、もつれさせて転びそうだ。

 兵庫は携えていた風呂敷包みを開け、匡七郎の知り合いに頼んで郷の会所から借りてもらった、猿楽用の白木彫りの鬼面を取り出した。それを顔につけ、地面から霧が湧き上がるように、ゆらりと立ち上がる。

 先に気づいたのは留吉だった。はっと足を止めた彼の喉から、笛を吹くような音が細くもれる。続いて甚六が兵庫の姿を捉え、顎が外れそうなほど口を大きく開いた。ふたりは進むも退くもならず、眼前の闇に突如現れたものに、ただ凝然と目をこらしている。

 その時、まさに絶好の間合いで、彼らの頭上を稲光(いなびかり)が走った。細長く巨大な紫電が地上に向かって駆け下り、一瞬、辺りが真昼のように明るくなる。

 それに合わせて、兵庫は右腕をすっと上げた。人差し指をまっすぐ突き出し、甚六を糾弾するかのように差す。すると、闇を貫いて飛んできた石が、彼の右の耳たぶに痛烈な一撃を加えた。

 ひーっと甲高い悲鳴を上げて、甚六がその場にへたり込む。留吉は突然のことにうろたえながら、彼の肩に手をかけて乱暴に揺さぶった。

「なんだ、どうした!」

「い、いま、あの鬼が、おれの耳を()った」

「阿呆、何を言って――」

 留吉の声が、轟く雷鳴にかき消された。空が真っ二つに裂けたかと思うほどの凄まじさだ。

 耳を押さえながら、彼が怯えきった視線をこちらに向けたところで、兵庫は再び指差した。間髪を入れず、次の弾が留吉の後頭部を直撃する。思わず飛び上がった彼の血相が変わり、遠目にもわかるほど五体ががたがたと震え出した。

「お、お、おれもいま、後ろ頭ぁ小突かれた!」

「祟りだ、やっぱり祟りだ」甚六が頭を抱え、息を詰まらせながら喚く。

 新たな稲妻が走った瞬間、兵庫は素早く身を沈めた。そのまま頭を低く保ち、丈高い雑草の隙間から、百姓たちの様子をそっと窺う。

 彼らは兵庫がふいに現れたことよりも、忽然と消えたことのほうに強い恐れを抱いたようだった。もはや辺り憚ることなく大声で叫びながら、先を争うようにして空き家へ駆け戻っていく。

 彼らがこちらを振り向くことはないと見定め、兵庫は立ち上がって森のほうへと走った。ふと見上げれば、月はもう完全に雲の中に隠れている。

 匡七郎は、森の入り口に立つ大木のうしろで待っていた。構えは解いているが、まだ弓を持ち、いつでも撃てるよう、手の中に石を握り込んでいる。

「よくやった」

 面を外しながら働きを褒めてやると、彼は少し照れながら相好を崩した。

「うまく当てられて、ほっとしました」

 ふたりは木の陰から顔を出し、空き家の様子を盗み見た。甚六たちが中に戻って騒ぎ、仲間たちが起き出したらしく、いまは室内に灯りがともっている。微かだが、何か言い争っているような声も聞こえた。

 甚六と留吉が体験した恐怖は、何も見ていない連中にはうまく伝わらないかもしれない。だが彼らの心に、そこはかとない不安感は植えつけるはずだ。

 ふいに、空き家の引き戸が開けられた。戸口にふたつの影が立っている。そのうちのひとつが、ゆっくりと家の前に出てきた。あの痩せた牢人だ。

 彼はその場にしばし佇み、顔だけわずかに動かして辺りを睥睨した。頭上でいくつもの雷光が弾け、雷鳴が空気をびりびりと震わせているが、少しも気にしていない様子だ。

 やがて男が家の中に戻って行くと、兵庫は胸に溜めていた息をそっと吐き出した。

「今夜はこのあたりで切り上げよう」

 懐から風呂敷を出し、大いに役立ってくれた鬼の面を丁寧に包み込む。匡七郎はそれを、傍らでじっと見守っていた。

「兵庫さまがそれをかぶって立ち上がった時の、あいつらの顔は最高でした」

 彼が真面目くさって言い、兵庫も同じぐらいしかつめらしく応じる。

「おまえが石を当てた時のうろたえぶりも、なかなかの見ものだったな」

 ふたりが顔を見合わせ、一瞬置いて同時に笑い出した時、桶の底が抜けたかのように雨がどっと降り出した。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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