十八 丈夫国白坏郷・黒葛寛貴 歩く死者
水月二十二日、丈夫国主黒葛寛貴は簡単な旅支度をして、払暁に生明城を出立した。速度重視の騎行なので荷物もほとんど持たず、刀以外の武器は帯びていない。供回りには家老真栄城邦元と柳浦重里、近習の鳥谷部直恒を含む七名を選んだ。
目的地は、永穂国との国境に位置する洲之内郷だ。合間に適当な村落に立ち寄って二泊する予定だった。領国内の移動であり、人数も少ないので、宿泊場所はどうとでも都合をつけられる。
初日に日暮れまで馬を進めてかなり距離を稼いだ寛貴は、二日目はそのぶん少し早めに宿を取ることにした。空にはまだ明るさがあり、さほど疲れてもいないが、乗馬は休ませてやったほうがいいだろう。
「この先にたしか、支城のない郷があったな」
街道を横切る細流を渡りながら訊いた寛貴に、うしろを行く直恒が答える。
「はい。白坏郷です」
「御屋形さま」後方から真栄城邦元が声を上げた。「白坏郷でお泊まりなら、宿はこのわしにお任せくだされ」
「心当たりがあるのか」
振り向いて問うと、彼は端正なつくりの細面に快活な笑みを浮かべた。
「かつて戦で生死を共にした竹馬の友が、白坏郷に隠居をしております。ひと声かければ、喜んでもてなしてくれましょう」
半里ほど進むと、道が緩やかな下りになり、その先に白坏郷が見えてきた。永穂国と丈夫国にまたがる五代儀連峰の山間に、長閑な空気と静寂に包まれてひっそりと佇む小規模な郷だ。山並みを縫って流れる楡居川が集落のほぼ中心を南北に貫き、川沿いの狭い平地に百軒あまりの民家が肩を寄せ合うようにして建ち並んでいる。
郷を囲む東西の山裾は昼なお暗いヒバの森で、そこから緩斜面を持った低い丘陵が伸び出ていた。草で覆われた斜面には、こんもりとした土盛りのようなものがいくつもあり、戦場の炊飯を思わせる白い煙が立ちのぼっている。
「あの煙は?」
柳浦重里が馬上で目を細め、太い首を伸ばして遠くを見晴らしながら大声で訊いた。
「登り窯だ」邦元が訳知り顔で答える。
「そういえば、楡居川の上流には陶工の里があるとか……。ここだったのか」
寛貴もちょうどそれを思い出していた。白坏郷はたしか、年貢の半分を陶器で納めている。ここで作られる器は伊代儀連峰に連なる山の名を取って〈小斉平焼〉と呼ばれ、西峽の国々で広く使われていた。寛貴自身が愛用している茶碗も、柔和な白地に茜がほんのりと色づいた紅小斉平だ。
「帰りに暇があれば、窯を見ていきたいな」
寛貴の言葉に、邦元が頬をゆるめる。
「ぜひ、そうなさいませ。以前ここで焼き物の手ほどきを受けましたが、それは楽しゅうございました。その折に自作した花生けを、今も床の間に飾っております」
猪口のひとつも手びねりすれば、よい旅の土産になろうな――寛貴はそう思ったが、同時に、実現しないこともわかっていた。旅の目的を首尾良く成し遂げられれば、いい気分で帰路にはつけるだろうが、ここに再び立ち寄ってのんびり土いじりに興じる暇など作れるはずもない。
兄禎俊との密談からひと月あまり、寛貴は命じられた軍備の増強に着々と取り組んできた。だが、ひとつ片づけるそばに次の仕事が控えているといった具合で、まったく終わりが見えない状態だ。しかも何かしようとする度に、灼熱する溶岩のごとく金が溶け流れ出る。さほど裕福とはいえない丈夫国にとって、これはもっとも頭の痛い問題だった。早晩、何らかの手段で資金を確保しなければ、進行中の企てのいくつかが行き詰まることになるだろう。
だが今回の騎行が、その問題に活路を開く契機となるかもしれない。
寛貴は先月、永穂国を支配する樹神有政に書状を送った。奇しくも同年で、背格好までほとんど同じの彼は、過去に幾度となく国境付近の領地をめぐって争った宿敵だ。最後に顔を合わせた時、寛貴は自ら騎馬隊の先頭に立って敵陣へ斬り込み、有政の馬廻を蹴散らして兜首を三つ挙げた。あと一歩のところで大将首は取り損ねたが、有政はおそらく今もあの時の屈辱と恐怖を覚えているだろう。明日到着する予定の洲之内郷は、その折に永州から切り取った領地のひとつだ。
兄から隣国との軍事同盟に関する一切を託された寛貴は、当初、それについて考え始めるのは数年後でいいだろうと思っていた。同盟締結は面倒で困難の多い仕事だ。まして相手が、明らかにこちらを憎んでいる場合には。
長い目で見れば、同盟は互いにとって利益となるはずだが、そうとわかっていても有政は積年の恨みで、容易く首を縦には振らないだろう。最終的には同意する公算が大きいが、彼の懐柔にはおそらくかなりの時間と労力を費やすことになる。ならば今は、より重要な問題、すなわち軍備のほうへそれを振り向けるべきではないか。
だが、自分が気の進まない仕事を後回しにする理由をひねり出そうとしていることに、ふと気づいた。これではだめだ。若いころから数多くの戦に出て、強気の先制と奇襲で勝利を収めてきた。後手に回ってうまくいった例はない。同盟も戦も同じことだ。積極的に打って出る気概を持ってこそ、優位に立つことができる。
そこで彼は数日間かけて熟考した末、樹神有政に宛てて一通の書状を書き上げた。内容はもちろん同盟に関してだが、ただの軍事同盟ではない。色打掛をまとった同盟――婚姻の申し入れだ。
黒葛家はこれまで、他国とはほとんど縁組みをおこなってこなかった。現当主の禎俊も寛貴自身も、妻は一門や支族から選んでいる。弟貴昭もそうだし、父や祖父も同じだ。だから慣例を破るにあたっては、兄にまず相談を持ちかけた。まかりならんと言われれば、それまでだ。だが意外にも兄からの返書には「樹神家との同盟はおまえに一任した。思いのままにせよ」と、寛貴の行動を全面的に支持する文言が記されていた。
さらに予想外だったのは、樹神家がすぐさま好意的な返答をよこしたことだ。意表を突く申し入れに好奇心をかき立てられたか――あるいは何か別な腹づもりがあるのかはわからないが、ともかく有政には、この縁組みを前向きに検討するつもりがあるらしい。
それから二十日あまりの間に、書簡がさらに一往復し、早くも双方の代表が一度顔を合わせようという話になった。堰を切った水が、轟音を立てて峡谷を駆け下るがごとき急展開だ。
樹神家は当主の弟である清長か、彼に匹敵する重臣の誰かを代表に立ててくるだろう。黒葛家からも、筆頭家老の花巌義孝あたりを出すのが妥当なところだ。だが寛貴は今回、自ら顔合わせの場に乗り込もうとしていた。これもある意味、奇襲のようなものだ。黒葛家はそれほどに、この同盟を重く見ているのだと強調する狙いもある。
そして万事思惑通りに事が運び、婚約の取り決めを誓紙にしてこの会合を終えることができたら――その時にはようやく、少しだけ肩の荷を下ろすことができるだろう。だが、帰路で物見遊山を楽しめるほど気を抜けるわけではない。
白坏郷の入り口には境界石の代わりに、白い釉薬をかけた馬の焼き物が二体置かれていた。どちらも大人の腿ぐらいの高さがあり、一頭は雲を追うように頭を上げ、一頭は草を食むかのごとく首を下げている。鬣や馬具なども精緻に再現されており、かなりの出来映えだった。ほっそりとした足先は下草に覆われ、その下の地面に深く潜っているようだ。盗人に引き抜かれないよう、長めに作って土に埋め込んであるらしい。
「これは見事な……」鳥谷部直恒が感嘆の声をもらした。「いかにも陶工の里らしい」
通り過ぎたあとも、しきりに背後を振り返っている。感受性が強く、美しいものに目がない直恒は、陶製の馬にすっかり心を奪われてしまったようだ。寛貴は近習の様子を見ながら、ひっそりと笑んだ。次にあいつの屋敷を訪ねたら、庭先で似たような陶馬を目にするやもしれん――と、胸の中でひとりごちる。
郷の中に入って少し進むと、道が二股に分かれた。細い側道は、右手の雑木林へと続いている。一行は道幅の広い本道を選び、郷の中心部に向かって進んでいった。集落の南側には、細い畝で細かく仕切られた水田が広がっている。そこに植えられた、まだ丈の短い水稲の列を縫って、数羽の鴨が泳ぎ回っているのが見えた。なんとも、のんびりした光景だ。
寛貴はゆっくり馬を歩かせながら、眠気を誘うようなアブの羽音や、川面を低く飛ぶカワセミの鳴き声に耳を傾け、風が山裾の森から運んでくるヒバの清しい香りを楽しんだ。
「隠居地にはよいところだな」
彼がもらした呟きを聞きつけ、真栄城邦元が破顔した。
「わしもいずれは、このような土地で安気に暮らしたいと思うております」夢見るような目をして言い、それからちょっと苦笑いを浮かべる。「ただ、父資剛が齢六十七を数えた今も現役ゆえ、わしも七十ぐらいまでは働かねば、楽隠居などという贅沢は許されぬでしょうな」
彼の隣を行く柳浦重里が「然り」と笑い、寛貴も思わず微笑んだ。
「おぬしの友は、随分と早く戦場を去ったのだな」
邦元はたしか今、四十代半ばのはずだ。とすると、おそらく友人も同じぐらいの年代だろう。それは武士が隠居を決めるには、少々早すぎるように思えた。
「名を、新行内正則と申します。御屋形さまの父君、景貴さまにお仕えしておりました。剛胆無比な槍使いでしたが、十年ほど前の江州攻めの折に足を負傷し、杖なしでは歩けなくなったのです」
「十年前というと――耶岐島での戦か」寛貴は当時のことを思い出しながら言った。「あの時は兄が先代と共に出陣し、わしは郡楽で留守居を務めた。激しい戦いだったそうだな」
「はい。戦のあと正則は、槍働きができぬ己に価値はないと言い、まだ四十になったばかりでしたが、幼い息子に家督を譲りました」
「その子は、今どうしている」
「郡楽で、禎俊さまの側仕えをしております。石動孝博――あの元博の長兄と年が近いので、親しくしているとか」
一行の誰もが石動元博の名に反応し、はっと胸を突かれたような表情になった。その少年はつい先月まで生明で寛貴の小姓を務めていたが、今は黒葛宗家の嫡男である貴昌の随員となって、遠い北部の王生国へ行っている。そして随員の中には、ここにいる真栄城邦元の三男忠資と、柳浦重里の末弟重晴も含まれていた。彼らがいつ南部に戻れるかは、今の時点では誰にもわからない。
「元博は達者だろうか。あいつがおらぬと、なにやら城内の灯火が減ったように思える」
重里がしみじみと言い、みな一様にうなずいた。
「なあに、無事息災に過ごしておるさ」邦元がにやりと笑う。「うちのせがれや、おぬしの弟もついていることだしな」
そうであって欲しい、と寛貴は心から願った。元博を天山行きの随員に推挙したのは自分だ。あの時はそれが正しいと思ったし、今も後悔はないが、ずっと彼の安否は気にかかっている。生明から送り出す前に元服式で烏帽子親を務めたこともあり、半ば我が子を思うような気持ちにもなっていた。
小姓として傍に置いていたのは一年足らずだったが、元博の顔はつぶさに思い浮かぶ。石動家特有の明るい目。いたずらっぽい笑みを湛えた口元。利口で礼儀正しく、それでいて茶目っ気もあり、誰とでもすぐに打ち解けられる性質だった。彼の朗らかさは、天山で気苦労の多い日々を送る者たちにとって大きな慰めとなるに違いない。だが果たして、彼自身を慰撫してくれる者はいるのだろうか。随員に推したもうひとりの人物、またいとこの黒葛禎貴が、その役目を担ってくれるものと信じたい。
川沿いにしばらく行ったところで、邦元が左の道へ入るよう一行を促した。
「先駆けして、正則にご来訪を知らせます。突き当たりまで、このままお進みください」
寛貴にそう言い置き、彼は馬を走らせて行った。道は民家や小さな畑のあいだを縫って、三日月のような弧を描きながら山裾のほうへ続いている。
片手で手綱をさばきながら、寛貴は首を回して道沿いの家々を観察した。この郷の家屋は、ほかで見かけるよりも若干屋根が高いようだ。半二階を造って、焼き上げた陶器の倉庫代わりに使っているのかも知れない。
脇道はヒバの森の端に接するように建つ、どっしりとした館に突き当たって終わっていた。敷地を低い石垣が囲っているが、入り口に門はなく、道からそのまま母屋の前庭へ入れるようになっている。一行は石垣の手前で、新行内正則と邦元に出迎えられた。太い樫の杖をつきながら歩み出た正則が、馬から降り立った寛貴の面前で深々と頭を下げる。
「はるばるご来駕を賜り、恐悦至極に存じます」
折り目正しく挨拶する彼に、寛貴も会釈を返した。
「大勢で押しかけてすまぬな。一晩、世話になれるか」
「どうぞご遠慮なく、拙宅にておくつろぎくださりませ」正則は少しくだけて、健康そうな日焼け顔に笑みを浮かべた。「夕餉は腕を振るわせていただきます。白坏の地酒も、ぜひご賞味くだされ」
「おお、それは楽しみだ」
なごやかに言葉を交わしたあと、正則の奉公人が用意した水で足をすすぎ、寛貴は母屋の奥座敷に通された。中座敷との仕切り襖が開け放たれ、二十畳ほどがひと続きになっている。そこへ腰を落ち着けて一息ついたところで、一行は入れたての煎茶と豆菓子を供された。間を心得た、そつのないもてなしだ。
寛貴は、茶菓を運ぶ女中のひとりに、ふと目を留めた。二十歳そこそこの若い娘だが、物腰に奥女中のような落ち着きと品がある。それでいて、こちらを見る目つきや、口角に淡くにじませた笑みは妙に艶っぽかった。化粧っ気のない肌は白く滑らかで、体つきは牝鹿のようにほっそりと優美だ。
漆塗りの茶台を持って武将たちのうしろを歩きながら、娘は何度かそっと寛貴を盗み見た。突如現れた国主に、強く興味をそそられているらしい。寛貴もまた、香り立つ茶をすすりながら、目だけで娘を追った。互いの心中を探り合うような視線が、つかの間、ふたりのあいだを行き来する。古来から飽きることなく繰り返されてきた、男と女の秘めやかな遊戯だ。
もし寝間へ誘ったら、今夜あの娘はおれに抱かれるだろう。寛貴はそう確信し、微かな情欲のうずきをおぼえた。こういう感覚は久しぶりだ。長男の俊紀が産まれてから、我ながらかなり落ち着いたと思っていたが、やはり人間そう簡単に変わるものではないらしい。戦と女に目がなかった、若造時代の放縦さが頭をもたげかけている。
その時、下座にいる鳥谷部直恒が、同じように娘を見ていることに気づいた。だが、彼の表情に艶めいたものはない。主に対して特別な興味を示した者に、近習の務めとして純粋な警戒の眼差しを向けているだけだ。
旅先で少し気張らしをしたからといって、誰に文句を言われるわけでもないが――寛貴は嘆息し、娘から目を逸らした。さり気なく、豆菓子を一掴み取って口へ放り込む。それを機に、娘のほうも思わせぶりな目つきをやめ、ちょうどやって来た正則の妻と入れ替わりに部屋を下がった。
「ようこそ、おいでくださいました。正則の妻、せつでございます」彼女は中座敷に正座して丁寧に頭を下げ、低く柔らかな声で挨拶した。「ご用があれば、何なりとお申しつけくださいませ」
「うむ、世話になる。まことに、気持ちのよい住まいだな」
寛貴が気さくに声をかけると、せつは老いてなお愛らしい丸顔をほころばせた。
「過分なお言葉、もったいのうございます。間もなく酒など運ばせますので、ごゆるりとおくつろぎください」
せつが下がると、柳浦重里が目を輝かせながら、満面の笑顔を寛貴に向けた。
「この郷は美人が多いですなあ」
「そうだな」寛貴は慎重に言った。「飾らぬ美しさというやつだ」
「女中らも粒揃いで、実に羨ましい」
ふたりの会話を黙って聞いていた直恒が、ちらっと視線をよこした。腹の内を探られているようで、なにやらむずむずする。
そこへ、話題に上った女中らが再び、せつに率いられて酒肴を運んできた。酒器や器はすべて、青みがかった白釉が特徴的な小斉平焼だ。
酒は口開けしていない甕入りの三年古酒で、深みのある銅色に色づいていた。きりっとした酸味の中に、何とも言えない甘みが潜んでいる。
最初の肴は、大根と梅干しの和え物だった。ほぐして叩いた紫蘇漬けの梅肉を千切り大根にからめ、醤油をわずかに垂らして、極薄に削った鰹節をまぶしてある。舌がきゅっと引き締まるような、爽やかなひと品だ。
次に好物のシジミが出て、寛貴は思わず口元をゆるませた。殻から外した身を葱や木綿豆腐と共に、赤味噌を溶かした濃い目の出汁でさっと煮込んである。
「槍に料理に――おぬしの友は芸達者だな」
すっかりいい気分になって邦元に声をかけると、彼は自分が褒められたかのように、嬉しげに微笑した。
「昔から食い道楽な男でしたが、隠居後に器を作るようになったら、同時に料理にも興味が沸いてきたそうです。焼き上げた器に、どんな品を盛ろうかと考えるのが、たまらなく楽しいのだとか」
三品目はウズラの焼き物だった。粗塩と胡椒をまぶし、炭火でこんがりと焼き上げてある。骨の周りの身に歯を立てると、肉と脂の旨味が口いっぱいに広がった。皿の端には、柚子の香りのする味噌も添えられている。それをちょっとつけて食べると、また違う風味を楽しむことができた。
急な来訪にもかかわらず、これだけのものを咄嗟に用意できるとは大したものだ。寛貴は杯を重ね、料理を味わうたびに、新行内正則の並々ならぬ器量と手際の良さに感じ入った。平素からの心構えがなければ、なかなかこのような接待はできない。
さらに鯉の刺身、棒鱈の甘煮と続き、場が大いに盛り上がったところで、素揚げにして抹茶塩をふったスジエビや蒲鉾などの取り肴を盛った大皿を携え、正則自身が座敷に現れた。たった今まで厨で汗にまみれて働いていたのだろうが、髪も身なりもきちんと整えており、そんな様子は微塵も窺わせない。
寛貴は彼を傍に呼んで料理と器を褒め、手ずから酒を注いで杯を与えた。正則が恐縮の態でそれを受け取り、勢いよくひと息に干す。
「ありがたき幸せ」
「あらためて礼を言わせてもらいたい。何から何まで、行き届いたもてなしに感謝する」
「身に余るお言葉でございます」正則は笑み崩れながら深く頭を下げた。「しばしご歓談をお楽しみいただき、のちほど飯物や汁物などをお運びしましょう。寝間のご用意もできておりますので、いつでもお声がけくださりませ」
少しも出過ぎたところのない、控え目で慎ましい振る舞いに感心しながら、寛貴は部屋を出ていく正則の姿を見送った。
「あのような人物が、片田舎で埋もれているとはな……」
思わずもらした呟きに、脇から重里が同意する。
「いやまったく、もったいないことでございますな」
「やることに隙がない。人品もよい。隠居させておくには惜しいと思わんか」
友人への賞賛を聞きながら、邦元が苦笑した。
「何しろ、万事に欲のない男で」
「軍働きができずとも、召し抱えたいと思う家は幾らもあろう」
寛貴はスジエビをひとつつまみ、鼻に抜ける抹茶の香りと身の甘みを楽しみながらパリパリと噛み砕いた。そのあとで口に含んだ酒は、さらに旨さを増したように思える。
「再び表舞台に出るつもりはないのか」
「ございますまいな。己の出番は終わった、今はせがれの時代だと常々言うておりますゆえ」
「その奥ゆかしさがまた、たまらんな」
寛貴は唇を歪めてにやりとしかけ、ふとそのまま動きを止めた。後頭部のあたりに何やら、ちりちりと感じるものがある。主の様子を見て、重里らも機敏に反応した。鳥谷部直恒はすでに立ち上がっている。
その時、家の外で誰かが怒鳴り、女が悲鳴を上げた。母屋の入り口付近で、何か騒ぎが持ち上がったようだ。
「御屋形さま」
直恒が視線をよこし、寛貴は短くうなずいた。
「見に行け」
命じた直後、直恒が部屋を出る前に正則が入ってきた。その態度は依然として落ち着いているが、表情はかなり険しい。
「お騒がせいたし、申し訳ござりませぬ」彼は立ったまま早口で言い、一同を見渡した。「先刻亡くなった郷の者が悪霊に憑かれ、漂魄となりました。ふたり殺め、このすぐ近くまで来ておるそうです。万一に備え、どうか皆さまは奥庭の蔵へお入りを」
寛貴は、背後の刀架に置かれていた大刀を引っ掴みながら腰を上げた。
「堂司は呼んだのか」
正則が厳しい面持ちで首を振る。「亡くなった当人が、この郷で唯一の祭堂の堂司なのです」
「ほかに誰ぞ、封霊の術を知る者は」
「おりませぬ」
「わかった。わしは蔵へは入らん」
寛貴はそう言って、式台へ向かう長廊下への襖を開けた。
「松明を持て」大声で命じながら、暗い廊下を足早に歩いて行く。「女どもを奥へ入れろ」
半ばまで進んだところで直恒が、少し後れて重里らが追いついた。
「いかがなさるおつもりで」邦元が訊く。
「封霊できぬなら、暴れられぬようにするまでだ」
その言葉尻が、式台の向こうで上がった叫びにかき消された。喉の奥から絞り出すような悲痛な声だ。寛貴は奥歯を噛みしめ、廊下の残りを一気に駆け抜けた。
陽の落ちた前庭には数人の男たちがいて、手に持った竹竿や農具を振り回している。その包囲の中心で、法衣をまとった漂魄が、ひとりの若者の喉元に食らいついていた。噴き出る血を顔に受けながら、鉤のように曲げた指で若者の胸を掻きむしっている。犠牲者はすでに絶命しているようだ。
凄惨な光景に、両腕の毛が逆立つのを感じながら、寛貴は裸足のまま地面に降り立った。大股に前へ進み出て、大刀の鞘を払う。
「下がれ!」
語気鋭く命じると、男たちは驚いたように彼を見て、貧弱な武器を漂魄に向けたままじりじりと後退した。みな怯えているが、逃げだそうとはしない。なかなか気骨のある連中だ。
さらに距離を詰めようとした時、直恒が背後から腕に手をかけた。「御屋形さま、ここは我らが」
「黙って見ておれ」
寛貴は不敵に笑い、右脇構えを取って漂魄に近づいた。犠牲者を引き裂くのに熱中しているようで、こちらの動きには気づいていない。
松明を持った奉公人たちが家から出てきて、前庭に明かりが差した。炎を背にした寛貴の影が伸び、土の上に広がる血溜まりの端に届く。その瞬間、漂魄がさっと顔を上げた。
生前は堂司だったというそいつの顔は、肌が不気味に黒ずんで、ところどころ斑になっている。両眼は瞬膜がおりた鳥の目のように白濁していた。歯を剥き出して凶暴な表情を形作っているが、そこに感情らしきものは何も読み取れない。漂魄は腕の中に抱えていた若者の死骸を放り出し、今度は寛貴に狙いを定めた。
寛貴もまた、狙うべき部分に意識を集中する。漂魄はすでに死に、魄から魂が飛び去った抜け殻だ。たとえ臓腑を貫き、首を落としたとしても殺せない。彼らは封霊の術を施されて魄に宿った悪霊を抜かれない限り、どこまでもさまよい歩いて、生ける者たちを襲い続ける。それを阻止するには、歩くことも這うこともできなくするしかない。
血まみれの口を大きく開き、漂魄が寛貴に向かって突進した。肉体の操り方を忘れてしまったかのようにぎこちない動きだが、決してのろくはない。寛貴は掴みかかってくる腕を狙い、右の肘から先を一刀のもとに斬り落とした。
普通の人間なら、これだけでも怯んで戦意を失うが、漂魄は痛みを感じず何も恐れない。そいつは片腕を失ったことに気づいた様子すらなく、残った左腕を大振りした。
うなる拳がこめかみをかすめ、寛貴をわずかによろめかせる。それを見た漂魄はすかさず、前のめりになりながら迫ってきた。見守っている家臣たちが、背後で小さく息を呑む。
刃を向けられても意に介さない相手というのは、厄介なものだな――寛貴は乾いた唇を舌先でなめながら素早く退き、地面に両脚を踏ん張った。腰を少し落として狙いすまし、上段に振りかぶって渾身の力で斬り下ろす。肩の接合部に刃が当たり、肉に食い込み、法衣の袖ごと腕を断ち斬った。
両腕の長さが変わって平衡を失った漂魄が、上体を危なっかしく揺らし、足をもつれさせる。寛貴はその腹に軽く蹴りを見舞って半歩後退させ、下段を横一文字に薙ぎ払った。前に出ていた左脚の膝頭から下を一撃で切断する。
漂魄は片足で踏み留まろうとしたものの果たせず、ぐらりと傾いて仰向けに倒れ込んだ。手に汗握っていた見物衆が、うしろでどっと歓声を上げる。寛貴は地面に片膝をついたまま大きく息を吐き、顔に浮いた汗を袖で拭ってから立ち上がった。四肢のうち三本までをも落とされながら、漂魄はまだ地面でのたうっている。だが、もう立ち上がることはできないはずだ。
寛貴は刀を血振りして、傍に来た直恒に手渡した。
「首を落とせ。ついでに右足もな。各部分だけでも動くから油断するな。拾い集めて荒縄で縛り、奉公人に言って、籠にでも入れさせろ」
指示し終えてふと見ると、新行内正則が長槍を構えて式台の前に立っていた。さすが歴戦の勇士だけあって、隠居の身とはいえ様になっている。寛貴が近づくと彼は構えを解き、深く頭を下げた。
「見事なお手並み、感服いたしました」
静かな口調だが、双眸は猛々しい輝きを放っている。彼の興奮を感じ取り、寛貴は薄く笑みを浮かべた。
「ひさびさに昂ぶった」
「はい」
「戦には及ばぬが、な」
正則の口元にも笑みがにじむ。ふたりはしばし、同じ思いを共有しながら佇んでいた。
やはり、おれにはこれだ。寛貴は顔を仰向け、暗い空に視線を向けながら思った。殿さま稼業など、少しもおもしろくはない。兄の士大将として軍勢を預かり、敵陣に斬り込んで暴れ回っていたころがいちばん愉快だった。
「御屋形さま」
直恒の控え目な声が、寛貴を現実に引き戻した。重里らも集まって、主が動くのを待っている。
「片づいたか」
「はい」答えたのは邦元だ。「手足と胴体を縛り上げ、甕に詰めました。首には石を噛ませてあります。先ほど犠牲になった者たちの遺体も、念のため同様にするよう申しつけておきました。明日、隣の郷の堂司を呼んで、封霊を行わせるそうです」
「よし」
寛貴はうなずき、母屋へ戻るべく歩き出した。
「ひと暴れしたら腹が減ったな」
その言葉に、家臣たちが陽気な笑い声を上げた。正則も一緒に微笑む。
「すぐに食膳をお運びします」
彼は槍を杖代わりにしながら奉公人に近づいて、小声で何やら命じた。騒ぎが起こる前に言っていた飯物などは、もう出来上がっているのだろう。
式台から上がって廊下を歩き出すと、すぐに下男が現れて足元を手燭で照らした。家の中は、すでに落ち着きを取り戻している。だが寛貴自身の中には、まだ先ほどの昂ぶりが残っていた。ゆるゆるとした炎に、狂おしく身の内をなぶられているようだ。
寛貴は右肩のほうに顔を傾け、うしろを歩いている直恒に視線を送った。察しのいい近習が、すぐに近寄ってくる。
「あとで、寝間にあの女中を呼べ」
声をひそめて命じると、直恒は表情ひとつ変えず、ただひと言「御意」と低く答えた。
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