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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 来る者、去る者
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十七  御守国御山・街風一眞 技と力

「下がるな」

 言いながら前へ出ると、向かい合って木太刀を構えている五十公野(いずみの)利達(としたつ)が一歩退()いた。その剣先を軽く打ち払い、さらに前へ出る。

「下がるな」

 再び言ったが、やはり利達はへっぴり腰でうしろへ下がる。街風(つむじ)一眞(かずま)はため息をつき、木太刀を下ろした。

「言ってるだろう、下がるな。前へ踏み込んで、打ってこい」

「自然に足がうしろへ出るんだ」利達は弁解するように言い、小さく肩をすぼめた。「わざとやってるわけじゃないよ」

 ふたりの周囲は、激しく打ち合う木太刀の響きに満ちていた。洞窟の壁に音が反響し、増幅されて何倍も大きく聞こえる。刀の場合はまだいいが、ここで鉄砲を撃つ時には、鼓膜を破りたくないなら耳栓が欠かせない。

「手を止めるな」

 充満する剣戟を貫いて、ふいに鋭い声が飛んだ。堂長で武術指南役の千手(せんじゅ)景英(かげひで)が、打ち合う修行者たちのあいだからこちらを見ている。調練中に気を抜いている者、怠けている者を、彼は決して見逃さない。

 一眞は木太刀を構え直し、利達にも同様にするよう促した。景英の視線が、まだ自分たちに注がれているのを感じる。

「振りかぶって、打て」

 早口で言うと、利達がきょとんとした。

「振りかぶって打ち下ろすんだよ」

「う、うん」

 ほとんど力のこもっていない不器用な打ち込みを、一眞は木太刀の中ほどで受けて弾き返した。そのまま右に振り上げ、頭上で返して打ち下ろす。利達は弾かれた刀を半端に持ち上げたまま、ぽかんとそれを見ていた。

「頭を割られたいのか。防げ」

 彼の額に当たる寸前で止め、一眞は歯を食いしばりながら言った。利達がはっと我に返り、あわてて木太刀を握り直す。

「あ、そ、そうか」

 まったく話にならない。一眞は半ばうんざりしつつ、正眼に構えて前へ進んだ。まるで振り付けられているかのように、同じ距離だけ利達が下がる。どんなに口を酸っぱくして言ってやっても、彼はその場に踏みとどまって迎え撃つということができなかった。そして、自分から打ってくることもない。

「それまで。交替」

 景英の合図で、練兵場に広がっていた八組が壁際へ引き、次の八組が出ていった。「始め」の声と共に、勇ましい叫びと剣戟が再び洞窟内に()ち満ちる。

 利達は水を飲みに行き、一眞はごつごつした岩壁にもたれて、ほかの者の稽古を眺めた。ろくに打ち合いをしなかったので、汗もかいていない。そこへ、伊之介(いのすけ)がやって来た。こちらは息を切らし、額や首筋を汗で光らせている。彼は一眞の横に立ち、にやにや笑って見せた。

「あいつとじゃ、稽古にならんだろう」

「二打以上、続かないからな」一眞は吐息混じりに言った。「本人も言ってるが、衛士にはむいてない」

「友達づき合いするにはいいやつだが、戦場(いくさば)で背中を預けるのはごめんだ」

 伊之介は悪びれずにそう言って、顔を流れる汗を袖で拭った。

「あいつ、祭宜(さいぎ)にでもなりゃいいのにな。頭は悪くないし、何より、熱心な信徒だ」

 昇山(しょうざん)三百日以下の新参の中で、利達は最も信心深い者のひとりだった。祖父が天門神教の熱烈な信徒で、その薫陶を受けて育ったため、自然に傾倒するようになったのだという。

 御山への奉職を志願する者は、皆がみな信心深いわけではない。単に新しい生き方や、衣食住が保証される生活を求めて来る者もいる。

 伊之介は小身微禄の武家の六男坊で、近隣の商家に婿入りするか昇山するかの選択を迫られ、昇山することに決めたと話していた。衛士になろうとする者には、彼と似たり寄ったりの経緯で昇山した者が多い。戦のない時代に、嫡男として産まれなかった武家の子が選べる道は限られているのだ。


「それまで」景英が大声で言い、木太刀を携えて中央に立った。「伊之介、来い」

 呼ばれた伊之介が「うへえ」と首をすくめながら、それでいて少し楽しげに前へ出て行く。

 景英は毎回の調練で、修行者同士に打ち合いをさせるだけでなく、最低でも五人に手ずから稽古をつけた。誰が選ばれるかは、いざ彼に呼ばれてみるまでわからない。

 一眞は岩壁から離れ、居並ぶ仲間の前列に出て、ふたりの勝負をじっくりと見た。伊之介は大柄だが、新参の中でも五指に入るほど動きが速い。力も強く、やや大味な技をそれで補っている。相手が同じ修行者なら、滅多なことでは負けなかった。だが堂長となると、話は別だ。

 千手景英の戦いぶりは、華麗のひと言に尽きた。無駄のない優雅な足運びでくるくると立ち位置を変え、縦横無尽の剣さばきで相手を翻弄する。伊之介の無骨だが獰猛な突きも、当たれば吹っ飛ぶほどの力強い打ち込みも、彼の体にはかすりもしなかった。

 足だ。足を止めないと、あの男には勝てない。一眞は景英の動きを目で追いながら考えた。先に攻撃させて、沈んでかわしながら脚を斬る。切断できなくても、腱を断つだけでいい。足運びが乱れれば、付け入る隙ができる。矢継ぎ早に打ち込んで追い詰め、足が止まったところで急所を狙う――首か胸、あるいは脚の付け根。

 伊之介が木太刀を叩き落とされて負け、赤くなった手の甲を舐めながら戻ってきた。

「くっそう。強いな、まったく」声に悔しさと感嘆が入り混じっている。「勝てる気がしない」

 次の者が呼ばれて打ち合っているあいだに、一眞はふと思い出して利達の姿を探した。水を飲みに行っただけにしては帰りが遅い。

 稽古を見ている修行者の中からそっと抜け、彼は細い横穴へ入って行った。練兵場となっている主洞の大広間と違って、横穴は天井が低く、道幅も人ふたりがやっとすれ違える程度しかない。薄暗い道を少し歩くと緩やかな下りになり、さらに五間ほど進むと蝋燭の明かりが見えてきて、細長い縦型の小空間に行き着いた。突き当たりに井戸があり、その背後の壁に大きな亀裂が走っている。利達の姿はないが、井桁の横に彼の木太刀が立てかけられていた。

 ここにいないということは、亀裂に入っていったとしか思えない。人が通れる程度の幅はあるが、中は漆黒の闇に包まれ、先がどうなっているのかはまったくわからなかった。

 臆病な利達が、自ら進んでこんなところに入るだろうか。

 疑問に思いつつも、とりあえず中を覗いてみることにした。内壁に手を当て、首を半分突っ込むと、鼻先に微かな風と草木のにおいが漂ってくる。どうやら、外に通じているらしい。

 興味を引かれた一眞は、そのまま亀裂に体をねじ込んだ。穴の天井はかなり低く、小柄な彼でも腰を屈めなければ進むことができない。息が詰まるような闇の中を、両側に押し迫る岩壁に手を添えながら歩いていくと、やがて前方が明るくなり、足元に転がる石や道の出っ張りなどが浮かび上がった。一歩進むごとに、草のにおいがますます濃厚になる。

 やがて彼は、突如として狭い亀裂の圧迫感から解放された。目の前には灰を混ぜた水のように白っぽい、雨もよいの空がどこまでも広がっている。

 亀裂の先にあったのは、御山(みやま)の中腹に突き出た小さな岩棚だった。幅も長さもちょうど一畳ほどで、中央が少し窪んでいる。眼下は切り立った崖で、急角度の斜面を形成するごつごつした岩の隙間に樹木が根を張り、逞しく生え育っていた。岩棚の端にも、卵のような形の葉と、紫色の小さな花をつけた背の低い草が群生している。その草に尻を半ば埋もれさせて、利達が座っていた。空虚な表情で膝を抱え、ぼんやり前を見ている。

「調練中だぞ」

 声をかけると、彼はゆっくりこちらを向いた。

「うん……」気のない口調だ。

「いないのが堂長に知れたら――」いや、確実に知られているだろう。あの男は何もかも見ている。「あとで叱られるぞ」

「わかってるよ」

 普段は景英の姿を見ただけで縮こまるくせに、妙に投げやりな態度だ。一眞は彼の傍に膝をつき、その顔を覗き込んだ。

「何やってるんだ」

「落ち込んでる」利達は呟き、両手で目元をごしごしこすった。「もう二十日も毎日こんなことばかりやってるのに、ちっとも上達しないから」

「たった二十日で上達するか」

 これは嘘だった。ほんの数日でも、上達する者はする。一眞自身、昇山するまで鉄砲を扱ったことはなかったが、三日に一度行われる砲術の調練で瞬く間に習熟し、今では「誰にも負けない」と言っていた玖実(くみ)と腕を競い合っている。それは持って生まれた感性の違いによるものだと、彼は考えていた。

 自分や玖実には、戦いに対する感性がある。伊之介にもあるし、景英も持っている。だが利達にそれはなかった。彼にも感性はあるが、それは戦いとは別のものに対応しているのだ。

「ここ、どうやって見つけたんだ」

 話題を変えると、利達の表情が少し和んだ。

「あの亀裂、最初は見るだけで怖かったんだ。でも妙に惹かれるものもあってさ。思い切って入ったら、何て言うか――違う世界に行けそうな気がして。わかるかい?」

 夢見がちな彼らしい、突拍子もない空想だ。一眞はそれに共感はできなかったが、話の先を促すためにうなずいた。

「ああ。それで?」

「それで……まあ、つまり、入ってみたんだよ。六日前だったかな。蝋燭を持って、半分ぐらいまで行ってみた。でも怖くなって、そこで引き返したんだ。狭いから途中でつっかえたりして、戻るのはすごく大変だった。ここで詰まったまま、二度と外へ出られないんじゃないかと思ったりもしたよ」

「そうならなくて良かったな」

「うん。で、次の日にもう一度、今度は突き当たりまで行く覚悟を決めて入ってみた。前に引き返したところを過ぎて、少し下って、右にちょっと曲がって――そうしたら急にわかったんだ、これは外に出るなって。で、ここへ出てきたら……もやもや考えてたことがすーっと消えて、空っぽになれた」

 一眞はあらためて、眼前の茫漠たる空間に意識を向けた。視界を遮るものが何もないため、ほんのつかの間だが、宙に放り出されたような感覚に陥る。それを〝空っぽ〟と表現した利達の気持ちが、少しだけわかるような気がした。

「よく来るのか」

 外界に目を向けたまま問うと、彼は少し躊躇ってから「たまに」と小さく答えた。

「調練中はまずいぞ」

「いつもは温習の時間とか……そういう時に来るんだ」利達は不安そうに身じろぎして、ため息をついた。「今日は、なんか――水を飲みに来たら急に、どうしても外が見たくなって」

 一眞は立ち上がり、利達のほうを振り向いた。

「戻ろう」

「……うん」

 名残惜しそうに腰を上げ、岩に手をついて亀裂のほうへのろのろ這っていく。立つのは怖いらしい。そのくせ、こんな吹きさらしの狭い岩棚に通っているというのだから、おかしなものだ。

 亀裂を抜けて洞窟の中に戻ると、遠くで打ち合いの音がまだ続いていた。誰かが奮戦しているのかもしれない。

「一眞」

 主洞へ急ごうとした一眞を、うしろから利達が呼び止めた。妙に張り詰めた表情をしている。

「頼みがあるんだ。あの場所のこと……みんなに話さないでくれないか」

「知ってるやつもいるだろう」

「うん。でも、おれがしょっちゅう行ってることは、たぶん誰も知らない」彼はおずおずと、しかし熱のこもった口調で、すがるように言った。「ひとりになってほっとできるのは、あそこだけなんだ。誰にも知られたくないし、邪魔されたくない」

 一眞は、〝空っぽになれる場所〟など()らなかった。これから先も、必要になることはないだろう。そんなものに執着するのは馬鹿らしい気もする。だが、利達があの岩棚を逃げ場にして、自分の中で何らかの均衡を取ろうとしていることは理解できた。彼はそうやって折り合いをつけなければ、ここではやっていけないのだろう。

「わかった。ほかのやつには言わない」

 利達の顔に安堵の笑みが浮かぶ。「ありがとう」

「ただ、人に知られたくないなら、これからは木太刀を持っていけ。ここに置いてると、誰かがおれみたいに気づくぞ」

「あっ」彼はあわてて、井桁に立てかけてあった木太刀を取り上げた。「そうだよね。気をつける」

 照れくさそうにする彼を急き立て、一眞は打ち合いの音が止む前に、どうにか練兵場へ帰り着いた。人垣にそっと近づき、さり気なく伊之介の横へ戻る。

「どこへ消えたかと思った」

 彼は一眞に低く囁き、うしろに立っている利達をちらっと見た。

信光(のぶみつ)が、なかなかいい勝負をしたぞ」

 口を開けば悲観的なことばかり言うが、信光はいざ戦うとなると、どこまでも前向きでしぶとい闘士に変貌した。本人も認めている通り技量は今ひとつだが、いくら打たれても尻込みせず、何度でも立ち向かってくる。彼は新参仲間の中でも、特に手強い相手のひとりだ。

 一眞は首を回し、人垣の中にいる信光を見つけた。のぼせたように顔を紅潮させ、噴き出る汗をしきりに拭っている。目にはまだ、戦いの余韻を留めていた。彼と堂長の〝いい勝負〟を見逃したのは残念だ。

「今、何人目だ?」

 打ち合いに視線を戻しながら問うと、伊之介がふふっと笑った。

「五人目。おまえら、戻るのがもうちょっと遅かったら、まずいことになってたぞ」

 亀裂の外に出てから戻るまでに、ずいぶん時間を食ったと思っていたが、実際はさほどでもなかったのかもしれない。あるいは、信光がよほど粘ったのだろうか。そう考えていると、五人目の修行者が景英に木太刀を弾き飛ばされた。


 そろそろ朝の調練が終わるころで、五人に稽古をつけ終え、ちょうど切りもいい。誰の顔を見ても、早く(じき)堂で朝飯にありつきたがっている。だが景英は稽古場の中央に戻り、大声で呼んだ。

「一眞、来い」

 大勢の目が一眞を見た。その注目の中、ゆっくりと前に進み出る。迎える景英の表情は、静かに凪いでいた。五人を相手に打ち合ったばかりだというのに、息も切らしていない。だが、彼はいつもそうだった。どんな時も冷静で、峻厳で、弱さを微塵も見せない。

 木太刀を構えて向き合うと、眼前に立つ痩身が二倍も大きくなったように感じられた。景英がまとう揺るぎない雰囲気が、そう錯覚させるのだ。気の弱い者なら、これだけで負けた気分になる。一眞は気圧(けお)されない代わりに、普段はあまり感じることのない闘争心に火を()けられた。

 待て待て、落ち着け――深呼吸しながら、自分に言い聞かせる。あの男の術中にはまるな。むきになると視野が狭くなる。

 稽古を受ける者の礼儀として、一眞は自分から仕掛けた。正眼に構えてまっすぐ前に進み、直前で八双に変えて急速に間合いを狭め、烈しく打ち込む。景英はそれを簡単にあしらい、返す刀で脇腹を狙ってきた。軽く振っているように見えるが、実際は苛烈な一撃で、当たればただではすまない。

 一眞は体を開いてかわし、小刻みに足を動かして彼の側面に回った。そのすぐあとから、空を切って剣先が追ってくる。間一髪で腰を屈めた彼の頭上を、鋭い音を立てて太刀風が走った。

 よし、ここだ。一眞は片足を引いてさらに深く沈み、片手斬りに相手の臑を薙ぎ払った。だが、景英は一瞬早く半歩退いている。体勢を立て直し、一眞は再び彼に肉薄した。木太刀を打ち合わせながら、間合いを詰める隙を探り、何度も執拗に急所を狙っていく。

 しかし一眞の剣は、いつもあと一寸届かなかった。完全に読まれている。そして、弱みも把握されている。

 長時間戦い続ける体力のないことが、彼の最大の弱点だった。技の巧みさと素早さはあるが、伊之介や信光のようにじっくり構えて戦っていると、すぐに体力切れしてしまう。現に今も、すでに足さばきが鈍り始めていた。こうなっては、たとえその機会があっても、自分から打って出るのは難しい。そして防戦中心になると、押されずにいるのは到底無理だった。

 一方、景英の打ち込みは、一打ごとにより強くなっていくように感じられる。足の動きも、(はた)から見るぶんにはまだまだ軽かった。少しも疲れていないのだろうか。いったい、あの細い体のどこに、この底なしの体力が隠されているのだろう。

 一眞は必死に食らいついたが、最後にはやはり、足がもつれた一瞬をついて木太刀を叩き落とされてしまった。ほかの武術指南役は修行者に痛打を与えて降参させることが多いが、景英は武装解除するのを好む。負ける側にとってどちらがより悔しいかといえば、もちろん後者だ。まだ戦う気力が残っているのに武器を奪われると、嫌でも力不足を思い知らされる。

 早朝の調練はこれで終了となり、修行者たちは朝飯が待っている(じき)堂へ飛んでいった。それに続こうとした一眞を、景英が呼び止める。

「一眞」

「はい」

 練兵場の端で足を止め、壁際を歩いている景英を目で追いながら、一眞は彼の次の言葉を待った。そうしているあいだにも、重く湿った万事衣(まんじごろも)の下で、肌に浮いた汗が少しずつ冷えていく。

「誰に剣を習った」

「父の家来です」

「流派は」

「知りません。聞いたことがありませんでした」

 答えながら、一眞は少し落ち着かない気分になった。彼と個人的な話をするのは、転堂初日に顔を合わせたあの時以来だ。

「なぜ負けたかわかるか」

「ことごとく先を読まれました」

「それから?」

「体力不足」しつこい追及に微かな苛立ちをおぼえながら、憮然と言う。「時間が経つほど、不利になっていった」

「おまえは独特の戦い方をするな」景英は呟くように言い、刀架にかけてあった刀を取り上げた。柄に黒糸を巻いた、二尺五寸ほどの打刀だ。それを腰に差して、こちらへゆっくり歩いてくる。「恐れ気もなく刃圏に入り、常に一手で急所を断とうと狙ってくる。勝負を長引かせないためか」

「長く斬り結んでいると、消耗して負けます」

 正直に言うと、景英の唇を笑みがかすめた。

「もし木太刀に刃がついていれば、おまえはここで死体の山を築けるだろう。だが使っているのは、斬れない刀だ。ほかの修行者はともかく、それでわたしに勝てると思うか」

「でも実際の戦場(いくさば)では、刃がついた刀を使います」実戦と同じように戦って何が悪い、と言外の意味を込める。

 景英は二歩分の距離を置いて立ち止まり、一眞をじっと見つめた。洞内で焚かれている火が、その瞳に映り込んでゆらめいている。

「おまえの技を活かすには鋭利な刃が欠かせないが、戦場では得物はすぐになまくらになるぞ。ほかの刀を拾って持ち替えても、それもまた刃先は鈍っている。刀が斬れるうちに、手練の技で数人倒したとして、そのあとはどうする? あるいは、力でまさる相手に、先ほどのように得物を叩き落とされたら? 己に足りなかったものを悟ると同時に、おまえは死ぬだろう」

 彼は少し間を置き、上体をわずかに乗り出した。

「技に溺れる者は、最後には皆そうなる」

 何を言われているかはわかる。わかるが、簡単には納得したくなかった。

「技には意味がない、ということですか」

 思わず訊き返し、一眞はそんな自分に驚いた。ほかの指南役に同じことを言われたとしたら、従順な顔をして、おっしゃる通りですとうなずくだろう。なのになぜおれは、この男の言葉をもっともだと思いながら、()ねた子供のように逆らっているのか。

「技と力だ、一眞」景英は静かに言った。「技と力。どちらも欠けてはならない。おまえの師は、どうやらそれを教え損ねたようだな」

 剣を教えてくれた義益(よします)は、たしかに技に重きを置いた。それは当時の一眞がまだ幼く、体格にもあまり恵まれていなかったからだ。刀を振る時にそれ自体の重さを利用することや、相手に隙を作らせて懐に入る方法、どんな人間にとっても等しく急所となる場所の狙い方などを手ほどきしてくれたが、彼は体力や腕力の強化についてはあまり多くを語らなかった。いますこし成長するのを待って、それから伝えるつもりだったのかもしれない。だが、その前に一眞は、父親に家を叩き出されてしまった。

「教え損ねたというより――」注意深く言葉を選びながら言う。「おれ自身が、教わる機会を逃したのだと思います」

 (おき)のような目をして、景英がうなずいた。

「だが、いま学んだな」

「学びました」今度は逆らわない。「技と力」

 景英はそうだとも違うとも言わなかったが、表情に満足の色が見て取れた。

「飯を食いに行け」

 ほとんど優しいと言ってもいいような声に送られて洞窟を出ると、雲間から鈍い朝日が差していた。堂舎へ続く林道の少し先で、利達らが待っているのが見える。

「先に行けばよかったのに」

 近づいて言うと、信光がむっつりと唇を尖らせた。

「ほらな、そう言うと思った。でも伊之介と利達が、待つってきかないからさ」

「叱られたか?」伊之介がにやりと笑う。

「いや。剣術の話だった」

 利達が見るからにほっとした様子で、深いため息をついた。

「ああよかった。おれのせいで叱られたのかと」

「だから、平気だって言ったじゃない」玖実が目をきらめかせながら明るく言い、利達の背をぽんと叩いた。「叱られるなら、ふたりとも呼ばれるって」

「うん、でも心配で」

「待たせて悪かったな。飯を食いっぱぐれないうちに行こうぜ」

 一眞はそう促し、先頭を切って駆け出した。新参仲間が急いで後を追ってくる。食堂が見えてきたあたりで伊之介が追いつき、隣に並んだ。

「剣術の話?」好奇心を声にみなぎらせて訊く。

 一眞は答える前に間を置いた。伊之介は生来の剣術好きで、仲間内ではかなり強い部類に入る。ただし今はまだ、力に技が追いついていない。自分と似ているところが半分。似ていないところも半分。互いに高め合うには、いい相手かもしれない。一瞬のあいだに、頭の中でそれだけのことを考えた。

「聞きたいなら話す。ただし、温習の時間に」早口で言い、彼のほうへ目を向ける。「今夜から、稽古につき合ってくれ」

 率直に頼むと、伊之介は少し驚いた顔を見せたが、それはすぐに気のいい笑みに変わった。

「いいぜ。やるからには手抜きなしだぞ」

「望むところだ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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