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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 来る者、去る者
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十六  別役国龍康殿・鉄次 待ち伏せ

 嘉手(かて)川沿いにある馴染みの舟宿〈辰田(たつた)屋〉の二階で、鉄次(てつじ)は縁側の欄干にもたれ、眼下を流れる川面を見ていた。(ひる)過ぎから降り出した小雨が、少し淀んだ水に小さな浅い波紋をいくつも作っている。舟着場に(もや)われている宿の持ち舟にも雨が落ち、使い込まれて黒ずんだ木肌をつやつやと濡らしていた。

「あら、そんな端近(はしぢか)に座ってちゃ、濡れちまいますよ」

 階段を上ってきた女将のつたが、背後から声をかけた。亭主の太兵衛(たへえ)と一緒に宿を切り盛りしている、三十路半ばの艶っぽい女だ。右目の下に泣きぼくろがあり、本人の弁によると「このほくろで、うちのを落とした」のだという。鉄次はかねてより、太兵衛は侍上がり、つたは娼妓(しょうぎ)上がりだろうと見当をつけていた。

「なあに、(ひさし)があるから、大してかかりゃしねえ」

 彼は外に目を向けたまま、呟くように言った。つたが傍へ来て座り、運んできた盆を下ろす。頼んだ酒のほかに、小鉢がひとつ載っていた。

「これね、うちの宿(やど)が食べてくださいって」つたは薄化粧を施した顔に、甘い笑みを浮かべながら言った。「常連さんが気に入ったら、ほかの客にも出すんですとさ」

 鉄次は小鉢に箸をつけてみた。すり身にした魚とおろした蓮根を団子にして蒸し上げ、出汁醤油に片栗粉でとろみをつけた餡がかけてある。団子を噛むと、中から色鮮やかな枝豆が顔を出した。

真薯(しんじょ)に豆を練り込んであるのか」

「ええ、何か歯ごたえが欲しいって。あれこれやってましたけど、やっぱり時期のものがいいだろうってことでね」

 控え目な味つけの真薯は旨かった。太兵衛の丁寧な仕事ぶりが窺える。

「いい味だ」鉄次は箸を置き、こちらをじっと見つめているつたに向かって微笑した。「癖づけに、ちょいと一味唐辛子を振ったりするのも、悪くねえかもな」

「ああ! なるほどね。うちのに言っておきますよ」

 つたは破顔し、いそいそと階段を下りていった。まださほど立て込んでいない板場で、報告がてら亭主と乳繰り合うつもりだろう。夫婦(めおと)になってもう六年ほどになるというが、このふたりはいつまでも祝言をあげたての若夫婦のようだ。

 鉄次は手酌で酒をちびちび()りながら、また嘉手川の流れを見下ろした。囁くような雨音を聞くともなしに聞いていると、妙に物憂い気分になってくる。

 その憂さを吹き飛ばすような足音が、どたどたと階段を駆け上がってきた。見ると、先ほど下りていったばかりのつたが、血相を変えて立っている。

「どうした」

 静かに問いかけると、彼女はしきりに階下を気にしながら答えた。

「あんたにお客が」

「そうか」

「おっかなそうな二本差しですよ」眉をひそめ、寒気でも感じたように首をすくめる。「髭ぼうぼうで、気味の悪い目つきをして」

「心配いらねえ。通してくれ」

「ほんとうに?」

 疑わしげに訊いて、階段のほうへ目をやったつたが、ひっと小さく息を呑んだ。その彼女を荒っぽく押しのけて、男がずかずかと室内へ入ってくる。

「女将」鉄次は、壁に張りついて小さくなっているつたに言った。「こいつに飯を出してやってくれ。(さい)は適当に見つくろってな」

「は、はい」

 つたがなおもこちらを気にしながら下りていき、鉄次は部屋の真ん中に突っ立っている男をじっくりと眺めた。

 女将が言った通り、濃い頬髭と顎髭が伸び放題に伸びて、顔の下半分を覆い尽くしている。髪も眉も同様にもじゃもじゃで、もつれ合った(こわ)い毛の下から剣呑そうな三白眼が覗いていた。見えている部分の肌は浅黒いが、汚れか日焼けかは判然としない。あちこちすり切れて垢じみた着物といい、いかにもむさ苦しい風体(ふうてい)だ。

「まあ座って一杯()りな」鉄次はそう言って、杯に酒を注いだ。

「うむ。馳走になる」

 腰の物を外しながら、男が地の底から轟くような声で言い、鉄次を思わずにやりとさせた。

「その声、どこから出してるんだ」

「腹にこう、力を入れてねえ」説明を始めると、急に声が変わった。こちらは絹のように滑らかで柔らかい。「喉仏を下げて、息の通り道を狭めるんだよ」

 鉄次から杯を受け取って干し、男は深々とため息をついた。

「ああ、旨い」

「見事な化けっぷりだなあ、音弥(おとや)

「〝用心棒〟って注文だったからね、つけ髭やら何やら、いろいろ仕込んでみたんだ。強そうに見えるかい?」

「見えるぜ。女将も怖がってた」

 音弥は含み笑いをもらし、舌先をちらりと覗かせて唇をなめた。

「あの女将、えらく鉄次さんのことを心配してたねえ。惚れられてんじゃないのかい」

「あいつは板場にいる亭主に首ったけさ」鉄次は欄干に頬杖をついて、なおも音弥を観察した。「肌の色は化粧か?」

「素浪人が生っ(ちろ)い肌をしてたんじゃ、格好がつかないからさ。体にも、さらしやら(こも)やら巻いて、厚みを出してあるんだよ」

「どうりで、いつもよりでかく見えると思った」手を伸ばし、彼の胸板に軽く触れる。「筋骨隆々って感じだな」

「ちょいと暑いけどね。――久しぶりに声かけてもらえて嬉しかったよ、鉄次さん」

芝居小屋(こや)のほうはだいじょうぶか」

「平気さ。ちょうど演目の変わり目なんだ。おれはもう科白(せりふ)も振りも入ってるから、明日の朝に通しをやれば、そのまま昼興行に出られる」

 すっかり大人になりやがった――そう思いながら、鉄次は音弥をじっと見つめた。仕事をさせている子供たちの中でも彼は古株で、つき合いはもう五年ほどにもなる。初めて会った時は、嘉手川の下流にかかる六角橋の下で身を寄せ合って暮らしている孤児(みなしご)たちのひとりだった。がりがりに痩せこけ、薄汚れていたが、その顔に不思議な気品と、ほとばしるような生気が見て取れたのを今でも覚えている。そして彼は、特別な才能を持っていた。他人の皮をすっぽり被るように、別人になりきる才能だ。

「おまえ、いくつになった」

「十六さ」

「ぼちぼち女役は難しくなってきただろう」

「まあ、ねえ。おれは意外と背が伸びたから」音弥は目を細め、柔和な笑みを浮かべた。「でも、化粧次第でまだいけるよ。近ごろは、もらう役の五つにふたつが女役って割合かな」

「残りは色男か?」

「色男、悪党、いろいろだよ」

 そこへ、女将が膳を持って上がってきた。まだびくついているが、気丈にも、それをできるだけ表に出すまいとしている。

「お待たせを」

 音弥の前に置かれた黒漆塗りの猫足膳には、飯椀に盛った玄米、スズキの煮付け、おぼろ昆布と梅干しの入った吸い物、厚く切った胡瓜のぬか漬けが載っていた。また無頼漢になりきって仏頂面を決め込んでいる若い役者が、太いつけ眉の下で目を一瞬輝かせる。

 つたが下がると、音弥は小鼻をひくつかせて、嬉しげに煮付けのにおいを嗅いだ。

「こりゃ旨そうだ」

「遠慮なくやってくれ」そう勧めて、自分は杯を満たす。「ここの庖丁人は腕がいいぜ」

 言われてさっそく箸を取った音弥は、いかにも若者らしい健啖ぶりを発揮した。吸い物に口をつけて目尻を下げ、煮付けをしみじみと味わい、ぬか漬けを噛みながら音を楽しむ。全身全霊を傾けて食べ物と向き合う彼の食事は、見ているこちらまで満たされるような幸福感にあふれていた。

「おまえほど幸せそうに飯を食うやつを、おれはほかに知らねえよ」

 そう言うと、音弥は椀からちらっと目を上げて、ふふ、と笑った。

「腹が満たされるってのは、ありがたいことだからねえ。しかもこう旨いときちゃ」吸い物を飲み干し、満足の吐息をもらす。「あんたの言った通り、板さんは腕がいいや」

「気に入ったかい。良かったな」

「まんまと()づけされちまったよ。それで、今日は〝用心棒〟を連れて、どこへ行こうってんだい?」

賭場(とば)だ。近々、ちょいとまとまった金が入り用になるんで、ひと稼ぎしようと思ってな」

 音弥は怪訝そうに眉をひそめた。

「おれの出番はどこに?」

「なあに、ただつき合ってくれりゃいいんだ。強そうな連れがいれば、帰り道で懐を狙われる心配が減る」

「負けて素寒貧(すかんぴん)になる心配はしないのかい」くつくつ笑う。

「おれは負けねえよ」

 音弥は笑みを引っ込め、しばらく鉄次の顔をじっと見ていたが、やがて得心したようにうなずいた。

「あんたがそう言うなら」

 信じるよ、とは敢えて言わないが、彼がそう思っているのはたしかだ。音弥は昔から、鉄次の言うことなら何でも信じ、どんなことにも従った。逆らったり、疑問を呈したりしたことは一度もない。

「ぼちぼち出よう」

 杯を置いて鉄次が立ち上がると、音弥もそれに続いた。二刀を取り上げて、まず脇差し、次に大刀を帯に差し込む。いかにも手慣れた、自然な所作に見えた。

「その刀、小道具か」

「そうさ。でも(まが)い物じゃないよ。うちの座頭(ざがしら)は本物志向だから、竹光を振り回すような、ぬるい殺陣(たて)には辛抱ならないんだ」音弥はそう言いながら、大刀の鯉口を切って刀身を少し覗かせた。「もちろん刃引きしてあるから切れないけどね。まあ刃がついてたって、どうせおれに本当の斬り合いなんてできやしない。先に振りをつけて、相手もその通りに立ち回ってくれるなら別だけど」

「おまえに誰かと斬り合えなんて言うつもりはねえよ。万一、おれが誰かに襲われたら、一目散に逃げろ」

 鉄次は音弥を連れて階段を下り、板場の入り口にいる女将に声をかけた。

「ちょいと出てくるぜ。あとで戻って泊まるから、部屋は空けといてくれ」

 つたは傍へ来て、さっさと外へ出て行く音弥の背中を見ながら、低い囁き声で訊いた。

「あの人、何者なんです?」

「おれの古馴染みだよ。あんな風体(ふうてい)だが、悪いやつじゃない」つい苦笑がもれる。つたが本気で怖がっているのが可笑(おか)しかった。「太兵衛の腕を褒めてたぜ」

 その一言で、彼女の表情ががらりと変わった。

「あ、あら……まあ、そうですか」場を繕うように襟元をちょっと直し、ひとつ咳払いしてから澄まし顔で言う。「舌の肥えたおかた」

 鉄次は笑いを噛み殺しながら宿を出た。舟付場の縁で待っていた音弥が振り返る。

「どこの賭場へ?」

「五番町の外れにある〈圓楽(えんらく)〉に行く」

「おれ、博打にはあんまり詳しくないんだけど……あんたの得意は賽子(さいころ)かい? それとも(ふだ)勝負?」

「札勝負だ。今日やる〈札揃え〉は簡単だから、なんならおまえもやってみな。ただし、おれとは別の〝場〟でな。同じ場でやると負けるぜ」

 曇天の下を五番町へ向けて歩きながら、鉄次は〈札揃え〉についてざっと説明した。

「裏返しに配られた札の中から二枚ずつめくって、同じ絵柄を揃えられたら取る。合わない場合は、全員に見せてからそのまま戻す。いちばん多く札を取った者が、場に張られた金を最後に全部もらう仕組みだ」

 ひとつの場に入れるのは最大で五人。同じ絵柄の札四枚をひと組として、三十二組、総計百二十八枚の札が使われる。札に描かれた絵柄は、武者や女、馬、弓などさまざまだ。

 まず配り手が、絵柄を見せながら一枚ずつ札を裏向きに並べていき、それが終わると勝負が始まる。場の左端に座る者から順に賭け金を出し、札をめくって取っていくが、次の者は前の者が張ったのと同額か、それ以上を張らなければ札をめくれない決まりだった。途中で勝負を降りることもできるが、それまでに張った金は取り戻せない。

「同じ絵柄は四枚あるから、〝四丁(よんちょう)〟を宣言して、一度にまとめて取ることもできる。ただ、よほど自信がなけりゃ、やらないほうがいいな。三枚目や四枚目で失敗しても、最初に揃えた二枚ともども場に戻す決まりだから、間違いなく次のやつにかっ(さら)われちまう」

 黙って聞いていた音弥が考え深げにゆっくり、ひとつ、ふたつうなずいた。

「始めに配られる札の位置と、ほかのやつが揃え損ねた札をどれだけ覚えられるか――そういう勝負なんだね」

「単純だろう」

「うん、まあ。勝つこつは何かあるのかい」

「配られてるあいだ、配り手が見せる札だけをずっと目で追うんじゃなく、場の全体を漠然と見るってのが、こつと言えばこつだ。おれはいつもそうしてる」

「なるほど……」音弥は外見に相応しく大股で歩を進めながら、腕組みをして低く唸った。「最初に二、三組は取れそうな気もするけど、そのあとが続くかねえ」

「おっと、〝旋風(つじかぜ)〟の話をしてなかったな」

 配り手が残りの札を回収して混ぜ、再び並べ直すのが〝旋風〟だ。場に出ている札の数が半分以下になるまでのあいだに、参加者は各自一度だけこれを要求することができる。確実に取れそうな札がなくなった者にとっては、配置を覚え直す絶好の機会だった。

「機を見てうまく使えば、強い相手の邪魔をすることもできる」

「次に取ろうと思ってた札を、〝旋風〟で持って行かれたら、頭にくるだろうな」

 控え目に笑う音弥の腕を引き、鉄次は川沿いの裏通りから逸れて細い道へ入った。路地を抜けた先は、五番町の本通りだ。


 龍康殿(りゅうこうでん)の顔とも言える目抜き通りは、小雨がそぼ降る陰気な日にも関わらず、意気揚々と繰り出した人々でいつも通り賑わっていた。広く整えられた道の両脇には、素人も遊べる賭場(とば)を備えた旅籠(はたご)がずらりと軒を連ね、派手な店構えと呼び込みのうまさを競い合っている。

 ふたりはそのまま本通りを北上していき、宿つきでない賭場が集まっている界隈へ差しかかった。開帳するのは一見何の変哲もない長屋の中で、客引きもしないため、これらの賭場にお(のぼ)りの遊興客がやって来ることはない。

 目当ての〈圓楽〉は、長屋の軒先に朱色の扇を吊し、外行灯(あんどん)に火を入れて開帳を知らせていた。

「おまえも遊ぶなら、元手をやるぜ」

 鉄次の言葉に、音弥はかぶりを振った。

「やめとくよ。勝負に熱くなって、ぼろが出るとまずいから」

「なら待ち合いで、酔わねえ程度に酒でも飲んでな」銅銭を何枚か出し、彼の手のひらに落とす。「ときどき様子を見に来て、おれのうしろで偉そうに立っててくれ」

「いいよ」

 鉄次は長屋の端へ行き、窓を覆っている(しとみ)戸を指の節で三度叩いた。すぐに戸板が細く開き、その隙間から男が片眼を覗かせる。彼は鉄次を見て、その向こうの音弥にも一瞬視線を送った。

「おふたりで?」低く問いかける。

 鉄次が、そうだ、と答えると、入り口の戸が引き開けられた。途端に奥の部屋の賑わいが、わっともれ響いてくる。すでに、かなりの数の客が集まっているようだ。長屋は五部屋をぶち抜きにして、入り口に近いひと間が畳敷きの待ち合い、その先の四部屋が板敷きの賭場として使われていた。

 入り口の土間にいる、屈強そうな男ふたりは用心棒だ。ひとりは戸の脇に立ち、もうひとりは土間に置いた樽の上に座って、客の出入りを見張っている。どちらも武器を帯びていないように見えるが、懐に小刀ぐらいは忍ばせているだろう。

 樽の上にいた男が、土間に入った音弥を見てさっと立ち上がった。

「旦那、お腰の物を預からせていただきます」どすの利いた声で言う。

 音弥はすでに、役になりきっていた。突如全身から怒気を噴出させ、大刀の柄に手をかける。立ち回りに備えるかのように左足を引くと、用心棒たちが色めき立った。にわかに緊迫した空気に気づき、待ち合いで勝負の合間にひと休みしている客や、入り口に近い賭場の見物客もこちらの様子をちらちらと窺っている。

差料(さしりょう)を預からせろだと」

 音弥があの恐ろしげな声で吠えるように言い、用心棒の面前に肉薄した。かなりの迫力だが、敵も()る者、そう簡単に引き下がりはしない。

「失礼ですが、賭場の決まりですので」

 しばし睨み合いが続いたところで、鉄次が割って入った。

「申し訳ねえ、おれの説明が足りなかった」

 さり気なく肩に手をかけ、音弥を一歩下がらせる。

「先生、賭場は刃傷沙汰が起こりやすいんで、刀の持ち込みは御法度なんですよ」

「しかし――」

「ここはひとつ、おれの顔を立てて」鉄次は彼の言葉を遮って言った。「〈圓楽〉は手堅い見世(みせ)ですから、どうぞご安心なすってください」

 音弥は不機嫌な獣のように目をぎらぎらさせながら沈黙していたが、やがて憤懣やるかたない様子で腰の物を外した。用心棒が腰を低くしてそれを受け取り、片割れが口をわずかに開けてゆっくりと息を吐く。

 待ち合いや賭場にいた客たちも、物騒なことにならなかったのを見て安心したように肩の力を抜いた。だが、新来の客の連れが短気で凶暴な男だということは、全員の頭にしっかりと刻み込まれたはずだ。音弥は期待どおり、完璧に演じた。

「迷惑かけたな」鉄次は用心棒ふたりに、一枚ずつ銀銭を与えた。

「あっ、こりゃどうも……」

 ふたりは恐縮したように押し戴き、急に愛想が良くなった。

「さ、どうぞお上がりなすって。奥で〈札揃え〉をやっておりますから」

「ありがとよ」

 鉄次は音弥を促して座敷へ上がり、板間が続く賭場のほうへ歩いていった。どの部屋も蔀戸は閉ざされているが、太い蝋燭を立てた燭台が方々に置かれて闇を払っている。

 各部屋にはそれぞれ一枚ずつ、〈札揃え〉の〝場〟として、藺草(いぐさ)を丸く編んだ大判の敷物が置かれていた。これを囲むように配り手と遊び手が座り、見物人はその周囲で立ったまま勝負の行方を見守る。

 いちばん奥の部屋まで行くと、ちょうどこれから始めようとしている〝場〟が見つかった。遊び手は四人で、まだ座がひとつ空いている。鉄次は仕切り役である配り手に声をかけ、同席の者たちと顔を見交わして、仲間入りの承認を得た。

 座の左端には、落ち着いた物腰の小柄な老人が座っている。その隣は、頬に大きな刀傷のある侠客。鉄次は彼と、いかにも遊び慣れた感じの若者とのあいだに腰を下ろした。右端にいるのは、懐が温かそうな商人ふうの男だ。

「では、始めさせていただきます」

 配り手が声を大きく張って呼ばわり、見物人が集まってきた。音弥もその中に混じっている。

 人の移動が落ち着き、ざわめきが静まると、配り手が札を並べ始めた。一枚ずつ取って遊び手に向け、絵柄を見せてから裏返して場に置いていく。鉄次はその様子を、場の全体を視界に入れて漫然と眺めていた。音弥に言った通り、これがいつもの彼のやり方だ。

 ほかの遊び手は身を乗り出し、息を止め、まばたきすらやめて食い入るように見ている。隣の若い男が、一度だけ鉄次に目をやり、彼がひとり悠然と構えていることに驚いた様子を見せた。だがすぐ我に返り、また札のほうに意識を戻す。

 札を並べ終えた配り手が「一番手のかた、どうぞ」と促すと、まず左端の老人が銅銭三枚を場に置いて札をめくり、〈祭宜(さいぎ)〉を揃えて二枚取った。次の侠客も同賭けで、〈三叉槍〉をひと揃い当てる。鉄次は自分の番になると、銅銭五枚を場に置いた。

「四丁」

 宣言して次々に札をめくり、〈赤犬〉の絵柄を揃えていく。最後の一枚を表に向けると、見物人のあいだから感嘆の唸りがもれた。

「おいおい、初手から〝四丁〟とは」隣の若い遊び人が明るく言い、鉄次の背を軽く叩く。「兄さん、やるねえ」

 鉄次は彼のほうにちらっと目をやってから、揃えた札四枚を手元に集めた。賭け金を上げたので、ここからは銅銭五枚以上の勝負となる。

 札取りが二巡したところで、右端にいる商人ふうの男が〝旋風(つじかぜ)〟を求めた。鉄次の横で、侠客が不満げに鼻を鳴らす。次に狙いを定めていた札があったのだろう。

 勝負が再開され、順番が回ってくると、鉄次は再び〝四丁〟を宣言して、賭け金を銀銭一枚につり上げた。今度は〈風車(かざぐるま)〉を四枚揃える。

「三番手のかた、また〝四丁〟的中」

 配り手が大声で言い、ほかの部屋にいた見物人たちがこちらに集まってきた。派手な動きがあり、賭け金がどんどん上がっていく勝負は好まれる。

 七巡目で左端の老人が〝旋風〟を求め、この機に〝四丁〟を的中させた。彼と、右端の商人が比較的浮き気味で、侠客と若い遊び人はやや沈んでいる。最も札数を増やしているのは、ここまでに三度〝四丁〟を的中させ、まだ一度も札を取り損ねていない鉄次だった。

 部屋はいつの間にか見物人で埋まり、息苦しいほどの暑さになっている。空気がどんよりと濁って重く、湿気も増して、体にまとわりついてくるようだ。鉄次は〈圓楽〉の若い衆に声をかけ、茶碗に白湯を汲んでこさせた。少し生ぬるいが、喉を湿すと生き返った気分になる。

 賭け金は十巡目に銀銭二枚まで上がり、以降は動かなかった。それでも、この規模の見世としては破格の勝負だ。

 十四巡目に残り札が六枚になり、誰かひとりがそれを全て取ったとしても、鉄次の持ち札数には届かないことが明らかとなった。配り手が札を表に向け、厳かに〝(しめ)〟を宣言する。

「三番手のかたを勝ちとして、〝〆〟させていただきます」

 遊び手も見物人も緊張を解き、一様に長々と息を吐く中、〝場〟に出ている鉄次の勝ち分を配り手が数えた。銀銭八十三枚と、銅銭百五十六枚。自分が張った銀銭二十枚ほどを差し引いても、三金十銀の大勝ちだ。鉄次はその中から、約一割にあたる銀銭十枚を胴元の取り分として分け、心づけの銀一枚を加えて配り手に渡した。

「まいったな、あんたみたいに取りまくる人は見たことがねえよ」

 右に座る若者が、負けたにもかかわらずからっとした調子で言い、二番勝ちだった商人がその隣でうなずく。

「まるで、札を透かして絵柄が見えてるようだ」

「何度かいい間合いで、〝旋風〟が入ったからな」鉄次はそう言うに留めた。

「次の勝負に移らせていただきます」札を回収し終えた配り手が呼ばわり、座をぐるりと見渡す。「お続けになりますか?」

 老人と侠客、商人はそのまま残った。鉄次は「場を変える」と言って立つ。若者は「おれは、今日はこれで上がらせてもらうよ。楽しかった」と、機嫌良く笑いながら場を抜けた。ずいぶん負けっぷりのいい男だ。

 鉄次はその後、部屋を移りながらあと二番勝負した。彼が強いことをすでに知っているので、ほかの遊び手は慎重になっており、あまり賭け金を上げようとしない。それでも帰るころには、儲けは七金十八銀にまで増えていた。一日の上がりとしては充分だ。


 賭場を出ると、とうに日は暮れており、雨も上がっていた。閉めきった室内にずっといたせいもあって、洗い晒された屋外の空気が清々しく感じられる。

 鉄次は音弥を伴って、本通りを南へ下った。もう初更を過ぎているが、辺りの賭場旅籠は赤や緑の提灯を賑やかに灯し、夜通し遊ぶ羽振りのいい連中をなおも引き寄せている。

 しばらく黙って歩いたあと、音弥がぽつりと言った。

「鉄次さん、あんた、その気になれば全部の札を〝四丁〟で取れるんだねえ」

 質問ではない。鉄次は口を閉じたまま彼のほうへ目をやった。音弥もこちらを見ていて、一瞬視線が合う。すると彼はにっこり笑い、ひとり満足げにうなずきながら、顔を前へ戻した。

「途中でしばらく待ち合いに抜けたけど、なんだかんだで、三番勝負をほとんど見たよ」

「おもしろかったかい」

 訊くと、音弥はにんまりして肩を揺すった。

「そりゃ、おもしろいさ。身内が大勝ちするんだから」

「今日の駄賃だ」鉄次は懐から銀銭を三枚出し、音弥に渡した。「ちょいと少ないが、その代わり、〈辰田屋〉に戻ったら好きなだけ酒を飲んでいいぜ」

「酒より飯がいいな」

 話しながら本通りを外れ、川筋の道へ向かう暗い裏路地を半ばまで行ったところで、ふたりの前にいきなり男が立ちはだかった。人相の悪い大柄な牢人(ろうにん)で、帯に打刀を差している。

「横道へ入れ」うしろから声がした。

「読めなかったな――」鉄次はそう言いながら、ゆっくり振り返って肩ごしに背後を見た。「まさか、いちばん負けっぷりのよかったやつが、こんな真似をするとは」

 裏路地の入り口近くを塞いでいるのは、賭場で右隣に座っていた、あの若い遊び人だった。早々に場を抜けたのは、助っ人を呼び、襲撃の算段をするためだったらしい。

「兄さん、あんた、勝ちすぎたよ」

 低い声で、ねちっこく言う。賭場でのさっぱりした態度は、完全に消え失せていた。

「さあ入れ」

 若い男が距離を詰め、牢人が刀を抜く。ふたりに挟まれる形で、鉄次と音弥は右側の、さらに暗く細い裏道へ足を踏み入れた。ほんの二、三本隔てただけだが、本通りの賑わいが急に遠ざかる。

 殺してから金を取るつもりだ――鉄次は一瞬瞑目し、横を歩いている音弥のほうに首を傾げて低く囁いた。

「あの牢人の脇をこじ開けるから、逃げろ」

「い、いやだよ」

 初めて異を唱えた。声は震えているが、頑固な口調だ。鉄次は小さく舌打ちして、肘で彼の腕を強く突いた。

「言うことをきけ」

「いやだ」

 刀を正面に構えたまま、後ろ向きに歩いていた牢人が足を止めた。背後にいる若い男も立ち止まる。やるなら今だ。彼らより先に動かねばならない。

 鉄次は二歩前に進んで牢人に近づき、体が切っ先に触れる直前に右へかわして、彼の腕を横から掴んだ。素手の相手がそんな真似をするとは予想していなかったらしく、虚を突かれた牢人がわずかにたじろぐ。

「行け」

 鋭く命じたが、音弥はなおも踏みとどまろうとした。決然とした表情で右手を上げ、刀の柄にかける。

「馬鹿野郎、そんなもんで戦えるか!」鉄次は彼に向かって大喝した。「いいから逃げろ!」

 怒声にすくみ上がった音弥が、泣きそうに顔を歪ませる。牢人は鉄次を振り払おうと、右手で顔を殴りつけた。思わぬ展開に動揺していた若い男も、助太刀に入ろうと懐の短刀を抜く。

 そこへ、やけにのんびりした声が割り込んだ。

「物騒だのう」

 全員が声の主を探して首を回した瞬間、何かが牢人の顔に向かって飛んできた。びしゃっ、と濡れた音を立てて当たり、彼と鉄次の足元に落ちる。妙に生臭いにおいがした。

「こっちだ、間抜け」

 声の主は、若い男の背後にいた。あわてて振り返った彼の腹に、暗がりに立っていた髭面(ひげづら)の男が拳を突き込む。その一撃で、若者は物も言わずにくずおれた。男が彼の体を跨ぎ、ずかずか前に出ていって牢人に肉薄する。

「それどうした、遅い、遅い」

 彼はそう言いながら、ひょいと手を伸ばして牢人の眉間と鼻を続けざまに殴り、さらに手刀で手の甲をひと打ちした。どうということもない軽い打擲に見えたが、相手は「うっ」と呻いて刀を落とす。男はそれを素早く拾い上げ、左脇構えを取った。

「形勢逆転だなあ。どうするよ、まだやるか」

 少し腰を落とし、切っ先をすっと上げる。それをぴたりと胸元に定められた瞬間、牢人は踵を返して一目散に走り去った。道に倒れている仲間を、振り返りもしない。その背中を見送りながら、男はあきれ声を出した。

「まったく、使い物にならんな、今どきのやつは」まず音弥を、次いで鉄次をじろりと睨む。「おい鉄次。刀を抜きもせん用心棒など、連れ歩く意味があるのか」

「そいつは〝用心棒もどき〟だ。音弥だよ」

 髭面の男――南浮(なんぶ)傳次郎(でんじろう)は眉をしかめ、音弥に近寄っていって、その顔をまじまじと見つめた。

「暗くてようわからん。ほんとうか?」

「音弥です」小さく答えた声は、まだ少し震えている。この時ばかりは、彼は素の少年(こども)に戻っていた。

「なんとまあ」傳次郎が、さらにあきれかえった様子で鼻を鳴らす。「危ない目に遭いそうなら、〝もどき〟じゃなく本物の用心棒を雇え、阿呆」

 無遠慮に罵る彼に、鉄次は苦笑を返した。

「夜釣りの帰りかい」

「おう。向こうの辻を通りかかったら、声が聞こえたんだ」言いながら、ふと真顔になる。「おまえの怒鳴り声は、初めて聞いたなあ」

 傳次郎は倒れている男の傍へ歩いていって、道に落としてあった竿と魚籠(びく)を拾い上げた。戻りながら、鉄次の足元に目をやり、忌々しげにため息をつく。

「酒の肴がだいなしだ。どうしてくれる」

 鉄次は、踏みしだかれ、土にまみれたメジナを見下ろした。

「投げるなよ」

「投げなきゃ、おまえ、斬られてたぞ」

「ありがとよ、助けてくれて」鉄次は彼の肩に腕を回し、音弥のほうへ歩いていった。「〈辰田屋〉につき合うか? 酒でも肴でも、好きなだけやっていいぜ」

「あの、色っぽい女将がいるとこか」

 傳次郎は呟き、口の(はた)で笑って、禿頭をつるりとなでた。

「ま、そういうことなら」

 鉄次はふたりを伴って元の道に戻った。音弥はもう落ち着いているが、仕込みで膨らませた体が、一回り小さくなったように見える。

「音弥」

 歩きながら静かに声をかけると、彼は少し緊張した眼差しを向けてきた。

「怖い目を見させて悪かったな」

「いいんだ」悄然と言う。「役立たずで、ごめんよ」

「役に立ったさ。だが、逃げなかったのはまずかったな」

 鉄次は音弥の後ろ首に手を置いた。

「おれは、おまえらを便利に使うが、死ぬ時は手前(てめえ)ひとりで死ぬ」指先に、わずかに力を加える。「だから二度と、道連れになろうとするんじゃねえぞ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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