十五 立身国七草郷・刀祢匡七郎 偵察任務
とっておきの報告を携えて、刀祢匡七郎は意気揚々と椙野道場へ行った。今日は稽古のない日だが、目当ての人はいつも稽古場にいる。
弾む足どりで塀を回り込み、半開きの脇戸を勢いよくくぐった彼は、ちょうど外へ出ようとしていた六車兵庫に危うくぶつかりかけた。兵庫が咄嗟に腕を伸ばし、衝突寸前でその体を捉まえる。
「闇雲に飛び込むと怪我をするぞ」
穏やかにたしなめられ、匡七郎は照れ笑いを浮かべた。
「お出かけですか?」
「郷の中をぶらぶらしようかと思ってな。一緒に行くか」
「はい」と元気に答える。だが、すぐに警戒心が頭をもたげた。「あ、でも、もし走りに行かれるのでしたら、わたしはご遠慮します」
「今日は歩くだけだ」安心させるように言い、兵庫がにやりと笑う。
彼が海まで走るのを日課にしていると知り、匡七郎は昨日の朝、ぜひにと頼み込んでつき合わせてもらった。脚力をつけ身体を鍛えるために、兵庫は七草へ来てから、毎日欠かさず同じ距離を走り込んでいるという。それを聞いて俄然やる気を出したまではよかったが、結果はさんざんだった。
匡七郎はかなり足が速く、同年代の仲間との駆け比べでは一度も負けたことがない。だが長距離を走りきるだけの持久力はないため、折り返し地点まで行ったところでへたばって動けなくなってしまった。兵庫の前で弱音を吐きたくはなかったが、膝が笑って立つこともできないのだからどうしようもない。
結局、彼に背負われて復路を戻るはめになり、すっかり面目を失ってしまった。一日経ってほぼ立ち直りはしたが、やはり迷惑をかけた本人を前にすると少々きまりが悪い。だが兵庫のほうは何とも思っていないようだ。
「日々鍛錬を続けていれば、自ずと体力はついてくる」門を出て歩き出しながら、彼は静かに言った。「身体をつくるには、走るのが一番だ」
半歩後れて追い、匡七郎は神妙な顔でうなずいた。
「これから、わたしも毎日走ることにします」
「最初は短い距離から始めて、少しずつ伸ばしていくといい」
「はい」
商人町を出たふたりは南へ向かい、そのあと何度か脇道に逸れて、足の向くままに農作地の中を進んでいった。もう梅雨入りしているが、今日はよく晴れていて風も爽やかだ。いきおい、歩む速度もゆっくりとしたものになる。
しばらく黙って歩いたのち、匡七郎は少しためらいながら、前を行く兵庫に声をかけた。
「兵庫さま」
「なんだ」
「今朝、先生がうちへおいでになりました」
声に微かな昂ぶりを聞き取って、兵庫が肩越しに振り返る。無言のまま視線で先を促され、匡七郎は急いで言葉を続けた。
「明日からわたしに、槍術を手ほどきしてくださるそうです」
「そうか」兵庫は左手で匡七郎の背中を軽く押し、自分の横に並ばせた。「よかったな」
「兵庫さまから、先生に何か言ってくださったんですか?」
少し歩調を速め、跳ねるようにして隣を歩きながら問いかける。兵庫は無表情で首を振った。
「いや、何も言っていない」
「そうですか……。どうして急に先生がそんなことを考えつかれたのか、ちょっと不思議だったので、もしかしたらと思って」
「槍を使うことにむいているやもしれんと、お気づきになられたのだろう」
本当は何か知っていそうだが、言う気はないらしい。彼の引き締まった頬に微笑が浮かぶのを見て、匡七郎はそう判断し、それ以上しつこく追及しないことにした。
「今日は農作業にはいい日和りだが、少し暑いかもしれんな」
兵庫がさり気なく話題を変え、うなじをすっかり覆うほど伸びた髪をうるさげにかき上げる。その仕草に匡七郎は興味を引かれた。
「髪を伸ばしていらっしゃるのですか」
「旅に出てから切っていないので、伸びてしまっただけだ。伸ばそうとしているわけじゃない」
「どうりで……。いつも邪魔そうになさっているなと思ってました」
「おれの髪は扱いづらい」量が多く、うねりのある髪を指で掻き回してため息をつき、匡七郎の頭に視線を向ける。「おまえの髪は素直でいいな」
匡七郎は軽い驚きをおぼえた。まさか自分が、兵庫から何かで羨ましがられることがあろうとは。
「では、いずれ切ってしまうのですか」
「入軍の前にな」
「そのまま長く伸ばして結えば、邪魔にはならないと思います」
「毎朝結うのは面倒臭い」
しかめっ面の兵庫が吐息混じりに言い、匡七郎はくすくす笑った。彼のこういうところが好きだ。
「髪を結うのなんて、慣れてしまえば手間はないですよ」
「おれは、あまり器用なほうじゃ――」
言いかけて、兵庫はふと口をつぐんだ。何かに注意を引かれたようだ。匡七郎は周囲を見回し、いつの間にか集落のはずれまで来ていたことに気づいた。今歩いている道をまっすぐ行くと海、西向きに曲がって森を抜ければ隣の郷に出る。森の端の田んぼはほとんどが休耕中で、その脇に人の住まなくなった家がぽつりぽつりと建っていた。
特に目を引くようなものは何もない。だが兵庫は、西のほうに視線を据えたまま足を止めた。
「匡七郎――」森の近くに建つ一軒の古い百姓家を見ながら、低い声で問いかける。「あそこにいる連中は郷の者か」
匡七郎はそちらの方向に目をやった。一見したところ空き家に見える百姓家の裏手に、薪の束がいくつか積まれている。その上に腰を下ろし、ひとりの男が煙管で煙草をふかしていた。その他にも三人の男が、所在なさげに荒ら屋の周囲をうろついている。うち、ひとりだけが帯刀していた。
このあたりでたまに友達と遊ぶが、これまでああいう男たちを目にした記憶はない。匡七郎はじっくり観察してから、かぶりを振った。
「郷の人ではないと思います。それに、あの家はずっと空き家だったはず……」
眉をひそめて呟いた彼の肩に、兵庫がそっと手を置いた。表情がやや険しくなっている。匡七郎は首を伸ばし、彼の顔を下から覗き込むようにして訊いた。
「気になりますか?」
「少しな」百姓家に目を据えたまま、小さくうなずく。
「じゃあ、ちょっとここで待っていてください。さっき通った畑に知り合いがいたので、あいつらが何者なのか訊いてきます」
匡七郎は役に立てるのが嬉しくて、返事を聞く前に走り出した。目指す畑は、男たちがたむろする荒ら屋から三区画分の農作地を隔てた場所にある。彼はそこで鍬を振るっていた知り合いに声をかけ、しばらく話を聞いたのち、急いで兵庫の元へ駆け戻った。
「お待たせしました、兵庫さま」
用水路の脇の斜面に腰を下ろして待っていた彼の隣に座り、聞き込んできた内容を息せき切って語る。
男たちは五日ほど前に、北の街道を通ってふらりと郷に現れたそうだ。彼らはしばらく近隣をうろつき、空き家となっていた百姓家に目をつけて勝手に住み着いた。その後はずっと酒を食らって放埒な明け暮れを重ねている様子だが、一応は炉の埃を払って煮炊きなどもしているらしい。
「食べ物や酒が欲しくなると、近隣の百姓家に押し入って力ずくで奪っていくそうです。みんな困っているけど、相手が刀を持っているので逆らえないのだとか」
一度、見かねて意見をしようとしたこの集落の顔役は、数人がかりで半殺しの目に遭わされた。さらに二日前には、亭主が野良作業に出ているあいだに、留守宅にいた妻と娘が暴行されるという事件も起こっている。これを知ってついに怒り心頭に発した屈強な百姓たちが、夕べ鍬や鋤を手にして荒ら屋を襲撃したが、あっさりと返り討ちにされてしまった。その際重傷を負ったうちのひとりは、今もまだ意識が戻らないままだという。
話を聞いた兵庫は、厳しい面持ちで低く唸った。
「なぜ郷庁に届けない?」
「お殿さまが城を離れてからは特にそうですけど、立身の国庁や郷庁はちっとも頼りにならないんです。さっき話を聞いた人も、庁士は百姓のことなんか気に懸けないから、訴えてもわざわざ出張ってくれないだろう、と言っていました。あの男たちもたぶんそれを知っているので、百姓家ばかりを狙って狼藉をはたらいているんです」
「だが、それは前の殿さまのころの話だろう。新しい国主は、なかなか心映えのよい人物のようだ。庁なり城なりに訴え出れば、何らかの対処はしてもらえると思うが」
匡七郎はちょっと驚いて、兵庫をしげしげと見つめた。
「兵庫さま、新しいお殿さまをご存じなんですか」
「いや、直接知っているわけじゃない」兵庫は慎重な口ぶりで言った。「だが、家来だという人物と、七草へ来た日に偶然知り合ったんだ。彼の話によると、人情味のあるかただということだった」
「そうですか……」
前の殿さまは評判が悪かった。家では父や兄たち、外では町の人々からいろいろ聞いているので、匡七郎もそのことは知っている。ここ何年も暮らし向きが良くならないのは、殿さまが政に無関心なせいだと、郷に住む者は上から下までみんな不満たらたらだった。
今度来た殿さまが、本当に領民を気に懸けてくれるような人なら、きっと人々の鬱憤もやがては晴れるだろう。だが、今すぐにというのは難しそうだ。
「新しいお殿さまがいいかたでも、お城に頼ってみようという風になるには、ちょっと時間がかかりそうです」
「自検断か。前代のころのようだな」
初めて聞く言葉だった。「じけんだん?」
「簡単に言うと、村内で起きた問題は自分たちで解決する――といった意味合いだ。領主の支配力が弱まれば、郷村の自治性は自ずと高くなる。戦が続いていた時代には、そういうことがよくあったそうだ」
「戦はないけど、七草は今、本当にそんな感じです」
「まあ無理もない。しかし、このまま捨ててはおけんな」
兵庫が鋭い眼光を荒ら屋のほうに注ぎながら言うのを聞いて、匡七郎は心が沸き立つのを感じた。
「何をなさるんですか」
「おれに何ができるか、とりあえずやつらのことをもう少し探ってから考えてみる」
「どんなことを知りたいですか?」
「やつらが正確には何人いて、その中の誰が統率しているのか。また、どんな時間帯に家を出入りしているのか、そのあたりだな」
「わたしが調べます」
すかさず言った匡七郎の言葉に、兵庫が瞠目する。
「なに?」
「兵庫さまは、どうやったって百姓には見えません。家の周りをうろついていたら、すぐにやつらに怪しまれてしまいますよ。でも、郷の子どもたちはみんなよくこの辺りで遊んでいるので、わたしならだいじょうぶです」
自信たっぷりに述べる彼を、兵庫はしばらく黙って見つめていた。一理あると思い、半ば賛同しつつも、危険なことに年少の者を巻き込んでいいものだろうか、と悩んでいるようだ。
「お手伝いさせてください。絶対に、へまはしません」
匡七郎は膝立ちになって身を乗り出した。揺るぎない真剣な眼差しをひたと据えて言いつのる。そのあまりの熱心さに圧され、根負けする形で、兵庫はようやくうなずいた。
「——わかった。だが、くれぐれも怪我だけはしてくれるなよ」
「はい」
真面目な表情を保つよう心がけたが、つい声が弾んでしまう。彼の共謀者にしてもらえたことが嬉しく、浮き立つ気持ちをどうしても抑えきれなかった。
二日後、匡七郎は明け方に師匠の家を訪れた。錠を差していない裏木戸から入り、足音を殺しながら庭を横切って、母屋の縁側へ忍び寄る。暖かい夜が続いているので、杉遣り戸は大半が開けられていた。そこから入側へ上がり、目指す部屋の障子をそろそろと引き開ける。
六畳間の中央に敷きのべた床の中で、六車兵庫は静かに寝息を立てていた。空はもう薄明るいが、室内はまだ暗い。匡七郎は細く開けた障子の隙間から、温かく湿った早暁の霧をまとって室内へ滑り込んだ。爪先歩きで畳の上を横切り、床のすぐ傍で足を止めて腰を下ろす。
それからしばらく静かに座っていたが、小半刻も経つとさすがに少々退屈してきた。といって、眠っている者を起こすのも気が引ける。彼は畳に両手をついて身を乗り出し、仰向けに寝ている兵庫の顔を上からそっと覗き込んだ。
「何の用だ、匡七郎」
目を閉じたままの彼に突然訊かれ、匡七郎は文字通り飛び上がって後ずさった。
「ひどいですよ、兵庫さま! 寝ているふりをするなんて」肩で大きく息をしながら、囁き声で抗議する。心臓が激しく動悸を打っていた。「気づいていたなら、どうしてすぐに声をかけてくださらないんですか」
兵庫は右肘をついて上体を起こし、気怠そうに匡七郎を手招きした。
「陽も昇らんうちから押し掛けてきておいて、何を言う」
「それは……調べたことを早くご報告したくて」
這い寄って再び座り込んだ彼を、兵庫がじろりと睨む。
「まさか、夜通し張り込みをしていたのか」
厳しい声で追及された匡七郎は、肩をもぞもぞさせて首をすくめた。
「家の者には、今夜は道場に泊めていただくと話してあるので、だいじょうぶです」
さり気なく話を逸らして、にっこり笑う。そういう問題ではない、と言いたげな顔で兵庫が小さく嘆息した。
「危ない真似はしなかっただろうな」
「はい。昼間は近くの炭焼き小屋や百姓家の軒先から、夜は森の端にある大きな木の上から見張っていました。やつらには一度も姿を見られていません」
意気揚々と答える。兵庫は起き上がって、床の上に胡座をかいた。
「それで、どんなことがわかった?」
「あの百姓家に住み着いている男たちは、全部で八人です」
匡七郎は、張り込みの成果を夢中になって語った。
二十歳をいくらも過ぎていないように見える若い男がふたりと、小太りで動きの鈍い中年男がひとりいて、あの集団の中ではもっぱらこの三人が水汲みや薪割りなどの雑用をやっている。
顔の半分が黒い髭に埋もれた大男と、痩せて鋭い顔つきをした陰気な男は滅多に外へ出てこない。
右頬に大きな痣のあるごろつき風の粗野な男は、しょっちゅう大声で誰彼構わず怒鳴り散らしている。残るふたりは仲が悪いらしく、何かと言っては衝突している様子だ。
「まとめ役をしているのは、髭ぼうぼうの熊みたいな大男です」
匡七郎はその様子を思い出しながら言った。
「あまり威張ったり、大きな声を出したりはしませんが、ほかの者たちはみんなその男に何か言われると素直に従っていました」
「匡七郎――」ずっと黙って話を聞いていた兵庫が、ここでようやく口を開いた。「その中で、おまえが怖いと感じた者は何人いた」
「ひとりです」
即座に答えると、兵庫はうなずいて彼のほうに少し身を乗り出した。
「最初の日に外で煙草を吸っていた、あの痩せた男か」
「はい」ぴたりと言い当てられ、匡七郎は驚きを隠せなかった。「どうしてわかったんですか」
「おれも同じように感じたからだ」
彼と意見が一致したことに気をよくして、匡七郎はにんまり笑った。だが、またすぐ真顔に戻る。
「あと、熊男も強そうだと思いました」
「おそらく、そのふたりは牢人者だろう」
「それから――兵庫さま、このあいだやつらにやられて以来ずっと意識がなかった壮助という人が、夕べ遅くに亡くなりました」
小さな声で告げた彼に、兵庫が鋭い眼差しを向けた。硬く険しい表情で、唸るように問いかける。
「どんな傷を負っていたか聞いているか」
「はい。腹の右側に背中まで抜けるような刀傷があって、そこからの出血がなかなか止まらなかったそうです」
「脾臓か、肝臓の刺創が致命傷になったようだな」呟きながら、兵庫は手刀にした右の指先で匡七郎の腹を軽く突いた。次に掌が上になるよう手首を回し、さらに突く。「背中まで通すには、こう――刃を寝かせて、肋骨のあいだの隙間に突き入れる。口で言うのは簡単だが、実際にやろうとすると意外に難しい。大勢が入り乱れて揉み合う中でそんなことができるやつは、相当な手練れと見て間違いないだろう」
斬ったのはあの男だろうか――匡七郎はそう考えながら兵庫と目を見交わし、互いに同じ人物を思い浮かべていることを悟った。
百姓家の外で見かけた、細身の剣のような男。煙管をくわえている姿はのんびりとしたものだったが、時折見せていた射抜くような眼光が強く印象に残っている。刀を帯びてすらいないにもかかわわらず、あの男にはまるで隙というものがなかった。
「ほかには何がわかった」
「やつらは午を過ぎて九つ半をまわったころに、やっと起き出してきます。陽のあるうちはほとんど出歩かないし、家の周辺からも離れません。でも暮れ六つごろになると全員揃って、森を抜けた先の繁華な界隈へ出かけて行きます。二日続けてそうだったので、たぶん毎日そうしているんじゃないでしょうか」
「二日続けて?」
そこは流して欲しかったが、やはり聞き咎められた。探るような眼差しで、じっと見つめられる。匡七郎は肩をすくめ、精一杯あどけない表情をして見せた。
「夕べは家から出ていくところを見届けて、すぐに帰りました。行き先までついて行ったのは今夜だけです」
兵庫が、こいつめ、と軽く睨めつけた。だが、調べてきた内容には満足してもらえたようだ。
「酒を飲みに行っているんだな」
「はい。あとは博打と、それから――」
思わず口ごもると、兵庫が笑みをもらした。
「女か」代わりに言ってくれる。
匡七郎は頬が熱くなるのを感じながらうなずいた。
「それから、酔ったほかの客に通りで因縁を吹っかけて、金を巻き上げたりもしています」
「ろくなやつらじゃないな」兵庫はあきれたように言い、髪に指を突っ込んで乱暴に頭を掻いた。「連中は遊びに出る時、得物を持っていくのか」
「はい。痣のある男は手斧を帯に差していて、他はみんな刀を持っていました」
これで報告はひととおり済んだが、まだ伝えておくべきことがある。
「兵庫さま、実は百姓たちの中に、この件を道場に相談してはという意見があるようなんです。どう思われますか?」
「やめたほうがいい」兵庫は言下に否定した。わざわざ考えるまでもないという表情だ。
「なぜですか」
「道場の手練れが手を貸し、村人総出で痛い目に遭わせて追い払えば、たしかに話は早いかもしれん。だが、そのやり方では必ず遺恨を残す。やつらは報復を誓い、いずれまた数を頼んでこの郷に押し寄せてくるぞ。そうなったら、もっと厄介なことになる」
「でも、このままじゃ……」
「昨日、おれもあの百姓家を少し探りに行ったんだが、気づいていたか?」
ふいに問いかけられ、匡七郎はまごつきながらかぶりを振った。
「いいえ。いつごろでしょう?」
「夕暮れ刻だ。おまえの話した若い男がふたり、裏手で薪を割っていた。少し離れたところには、左足が少し悪いらしい男もひとりいたな。そのうちに、別な男が家から出てきて、薪割りをしているふたりを怒鳴り始めた」
「あの時、わたしも近くから見ていましたが、兵庫さまの姿には全然気づきませんでした」
狐につままれた気分だ。ずっと見晴らしのいいところにいたのに、なぜ彼を見つけられなかったのだろう。その戸惑いを感じ取って、兵庫が口の端にちらりと笑みを覗かせる。
「おれは、おまえに気づいたぞ。街道へ向かう道の辻に祀られた、道祖神のうしろにしゃがんでいた」
「あそこは百姓家からは死角になると思って」
「その通りだ。いい場所を見つけたな」さらりと誉め、兵庫は匡七郎の目を覗き込んだ。「ほかにも気づいたことがある。おそらくやつらの半数以上は、元は借金か何かで田んぼを失って食い詰めた百姓たちだ。刀をぶら下げてはいるが、まともな使い方も知らないだろう」
「そんな――百姓が、同じ百姓を苦しめるような真似を……」
武士が百姓を虐げるのもひどいが、同じ立場の者がそれをするのはもっとひどい。匡七郎はやり場のない怒りに身を震わせ、きゅっと唇を噛みしめた。だが兵庫のほうは、その顔に怒気も憂いも表していない。
「一緒にいる牢人に煽られてのことだ」淡々と言う。「朱に交われば赤くなると言うだろう」
「じゃあ、兵庫さまはあいつらをどうなさるおつもりなんですか」
「中心となっている牢人たちには、相応の懲らしめが必要だ。刀を振るって狼藉をはたらくなどということが、二度とできないようにする」
「百姓たちは?」
「この郷から追い払う。自分から出て行きたくなるように仕向けてな」
きっぱりと言った彼を、匡七郎は驚きの目で見上げた。
「そんなことが――?」
「何ごとも、やり方次第だ」
自信ありげな口ぶりを聞いて得心はしたものの、まだ匡七郎には気がかりがあった。
「ここから去ったあと、やつらが他の郷に流れて、また悪さをするということはありませんか?」
「あるやもしれん」兵庫は微かにうなずいた。「だが、それは我らの与り知るところではない」
彼が平然と言い放った言葉に不意を突かれ、匡七郎は黙り込んで、思わず視線を床に落とした。
非情だ。でもその通りだ。
ひとりの人間にできることは限られている。己の身の回りで起こる、ほんのわずかな出来事に対処するだけで精一杯だ。手の届く範囲を外れたところで起こることにまで関与することなどできない。わかっているつもりだったが、どこかで、それでも何かできるだろうと思い上がっていた気がする。
匡七郎はゆっくりと顔を上げ、兵庫をまっすぐに見つめた。
「……誰もかれも、みんな救えるんじゃないかって、ちょっとだけ思ってしまいました」
恥じ入りながら言う。そんな彼に向ける兵庫の眼差しは優しかった。
「それは無理だな。――だが、少なくともこの郷の人々に降りかかる禍を、おれたちで取り除くことはできるだろう」
おれたち、という言葉に匡七郎は素早く反応して、顔をぱっと輝かせた。
「わたしも、お手伝いさせていただけるのですか?」
「おまえに、そのつもりがあるなら」
「もちろんです!」即座に答え、膝をすすめて彼のほうへにじり寄る。「それで、どんな仕掛けを?」
「策はこれから練る。床を貸してやるから、少し眠れ」
わくわくする気持ちに水を差され、匡七郎は少し不満をおぼえながら唇をとがらせた。
「眠くなんかありませんよ」
「いいから、眠れ」
断固とした口調で命じられ、諦めた匡七郎はしぶしぶ床に潜り込んだ。夜が明けるまであまり時間はないが、それでも半刻以上は眠れるだろう。兵庫は彼が寝床に落ち着いたのを見届けると、文机の脇に腰を下ろして壁に背をもたせかけた。
いつの間にか、室内が少し明るくなっている。話し込んでいるうちに、夜が明けたようだ。匡七郎は夜着の下から片眼を覗かせ、兵庫の様子を盗み見た。彼は立て膝に右肘を載せ、無意識のように指先で眉をいじりながら、正面の壁にじっと目を据えている。そうして静かに、考えをまとめているようだ。彼の頭の中を覗き見できないのが残念だった。
どうやって、あいつらを出ていかせるおつもりだろう。匡七郎は自分でもその方法を考えてみようとしたが、すぐに頭がぼんやりしてきて、ほどなく眠りの中に引きずり込まれてしまった。
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