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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 来る者、去る者
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十四  王生国天山・石動元博 黒犬

 王生いくるみ国南部に広がる佐々良(ささら)平原にさしかかると、薄く雲をかぶった天山てんざんの峰がついに前方に見え始めた。ゆるやかな起伏が続く丘陵地を越えていくあいだ、美麗な円錐形の山容がずっと道の先に見え隠れしているが、行けども行けども少しも近づいたように感じられない。街道に沿って進み続けながら四度宿を取り、二度渡河し、五日目の夕暮れが近づくころになってようやく、石動いするぎ元博(もとひろ)は低い丘の上から天山の全容をの当たりにすることができた。

 大陸最高峰、天下の雄峰として名高いが、周囲の風景を圧する勇姿をこうして眼前にすると、その形容が誇張ではないことがよくわかる。単に「山」と呼ぶのがはばかられるほどの壮大さだ。雲を突いてそそり立つその独立峰を、驚嘆と畏怖をこめて〝天山〟と称するようになった人々の気持ちが初めて理解できた。

 山麓に広がるのは茫漠ぼうばくたる緑野と森。そこを抜けてさらに山に近づくと、海原うなばらのように波打つ多彩な緑色の中に、鋭い銀色の線がひとすじ現れる。天山の頂上に築かれた、いわい城の総構えの境界にあたる大外堀おおそとぼりだ。西の丹呉たんご川から引き込んだ水を満々とたたえるその巨大な堀は、山全体をぐるりと取り囲んで堅牢な防御線を成している。

「広い水堀だなあ……」元博は夕日を反射して輝く水面を遠くに見ながらつぶやいた。「どうやって埋めるんだろう」

 攻める時にとは言わなかったが、随行長の黒葛つづら禎貴(さだたか)が隣でにやりと笑う。

「攻城の算段か。勇ましいな」

「あ、いえ、ただ想像しただけです」元博はあわてて言い、頭をいた。「あれを埋めないと、合戦を始めようがないなと思って」

「まあ、それはそうだ。埋めるとなったら、まずは水の手を断たねばならんだろうな。同時に、すでに入っている水をほかへ流すための溝を掘る。からにしてから土砂で数か所埋めて道を造り、大軍を一挙に越えさせるのが上策だろう」

「うーん……埋めているあいだに、城内からかなり攻撃を浴びそうですね」

 近くでふたりの話を聞いていた真栄城まえしろ忠資(ただすけ)が口を挟んでくる。「中で騒ぎを起こし、城内の兵をそちらへ引きつけるのさ」

「どうやってですか?」

「攻城に備えて事前に潜り込んだ味方が中で工作したり、内通者とつなぎを取ったり、いろいろと準備を調ととのえておくんだよ。そうして時が来たら、城内の各曲輪(くるわ)で争いや火災を散発させる。騒然となったところで、門を破って騎馬隊が突入する。さらに天翔てんしょう隊が空から本曲輪ほんぐるわに攻めかかる」

「なるほど」元博は腕組みをして唸った。「内部に兵の意識を向けさせて、外の防備が手薄になったところで堀埋めにかかるわけですね」

「ま、それでもやっぱり攻撃はされるがね」忠資がさらりと言う。「力攻めの攻城戦には、多大な犠牲がつきものだ」

 元博はあらためて天山に目をやった。堀の向こうには城下町が広がり、均整の取れた美しい稜線がそこから空に向けて一散に駆け上っている。城攻めはただでさえ困難だが、これほどの規模の城となると、また格別の難しさがありそうだ。

 西日を浴びながら最後の丘を越えて森へ入り、城外で一泊した一行は、翌日のひる少し前に天山の西大手門にたどり着いた。

 幅六十間を超える大外堀には、石垣造りの細い土橋どばしが架けられている。その先には、切妻屋根を載せたのぼり立ち外門があった。門の左右には腰巻石垣を土台にした土塁が長々と続き、頂部には防柵が張り巡らされている。土塁に芝がびっしり植えられているのは、雨水による土砂の流出を防ぐためだろう。

 外門に向かって馬を進めていた元博は、土橋が途中までしかないことに気づいた。残りの部分は木製の跳ね橋で、有事の際には門内へ引き上げられるようになっている。

 門をくぐった先は土塁に囲まれた正四角形の広場で、右手に総二階建ての内門があった。階上にやぐらを載せ、屋根に銅製のしゃちを飾った重厚な櫓門だ。中央に両開きの大門があり、その左右にくぐり戸らしき小門がついている。

 物々しい構えのわりに、門番に止められてこまごまと問いただされることもなく、一行はあっさり城内に入ることができた。

「なんだか拍子抜けしますね」

 土塁の内側で馬を止め、隊列が最後まで入ってしまうのを待ちながら、元博は横にいる柳浦なぎうら重晴(しげはる)に話しかけた。

「こんなに簡単に通れるとは思っていませんでした」

「まあ城下とはいっても、ここはまだ総構えの外曲輪そとぐるわだからな」そう言って、重晴は干し小梅を口に放り込んだ。腹下しに効くと五葉ごよう祭宜(さいぎ)から教わって食べているうちに癖になったらしく、最近は小袋に入れて常に持ち歩いている。「上の曲輪に入る前に、きっと番所で足止めされるだろうよ」

 そうして話しているあいだにも、櫓門からは続々と人馬や荷車が流れ込んでくる。もともと大した人数ではない黒葛つづら貴昌(たかまさ)一行がさらに小規模に見えるほど、外曲輪は人で満ちあふれていた。

 宿の前で客引きをする少年。反物を満載した荷車を引く逞しい若者。二刀を帯び、あるいは槍を担いでのし歩く武士たち。布に包んだ三味線しゃみせんを抱えた、年増だがいきな身なりの女。大店おおだなの店先で、盛んに何か言い合っている老人たち。重そうな荷を背負って裏路地へ入っていく農婦。芝居小屋の入り口で、弁舌爽やかに口上を述べる伊達男だておとこ。路地を走り回って遊びに興じる子供たち。ありとあらゆる年齢や階層の人々が縦横無尽に入り乱れるさまは、さながら魚を詰め込みすぎた生けのようだ。

 そうした人々が紡ぎ出す喧噪けんそう混沌こんとんに、元博はただ圧倒されるばかりだった。旅の始まりに黒葛家の本城がある郡楽ごうら(ごう)の城下を初めて見た時には、これ以上繁華な場所はまたとあるまいと思ったものだが、やはり上には上があるらしい。

 ほどなく全員が大手門の中に入り、土塁の脇にひとかたまりになったところで、ここまでずっと旅の案内役を務めてきた五葉が一行にいとまを告げた。禎貴が鞍の前に載せていた貴昌と共にさっと下馬し、ほかの随員もそれに続く。

「五葉祭宜」禎貴は彼に歩み寄って言った。「そなたの尽力によって、滞りなく旅をすることができた。一行を代表して礼を申す」

 禎貴が頭を下げ、五葉もそれに応える。

「皆さまのお役に立てて嬉しく思います」

 貴昌も前に進み出た。

「祭宜はこのあと、また旅を続けられるのか」

 七歳の少年は、少したどたどしいながらもしっかりした口調で訊いた。五葉の目に柔和な笑みが浮かぶ。

「はい」

「道中の無事をお祈り申し上げる」

「もったいないお言葉です。若君も、天山でつつがなくお暮らしになられますよう」

 ほかの者たちも口々に感謝を述べ、別れの挨拶を交わしていく中、元博は意図して順番の最後に回った。馬を従者の孫六まごろくに託し、仲間が登山に備えて装備を点検しているあいだに話をしに行く。

「五葉さん、お名残なごり惜しいです」

「わたしもです。長く伝道を続けていますが、元博さまほど熱心な聞き手に恵まれることは滅多にありませんから」

「やっとわたしの質問攻めから解放されますね」元博は思わず笑った。五葉が言う〝原初の教え〟に心()かれて以来、暇さえあればあれこれと問いを投げかけてはわずらわせてきたので、少し申し訳なく思ってもいる。「お陰さまで、天門神教てんもんしんきょうのことが多少はわかった気がします」

「もしまだ興味がおありでしたら、いわい城の三の曲輪くるわにある祭堂をお訪ねになってみてください。堂司どうし御山みやま大祭宜だいさいぎの一員に名を連ねる人なので、きっと意義深い話をお聞きになれると思います」

「はい。そうします」

「お別れに、これを――」五葉はそう言うと、懐を探って一連の祈りだまを取り出した。「昔わたしが使っていたものを、ばらして組み直しました。粗末なものですが、よろしければお持ちください」

 元博は彼の手からそれを受け取り、まじまじと見つめた。黒瑪瑙(めのう)と透明な玻璃はりだけを使った素朴な構成で、腕にふた巻きできるぐらいの長さがある。輪の合わせ目には、水蓮の花を彫った円形の薄い銀板がついていた。

「わたしがいただいても、いいのですか? その……信徒ではありませんが」

 やや気後きおくれしながら訊いた元博に、五葉はいつもの静穏な眼差まなざしを向けた。

「元博さまのご幸福とご健康を祈りながら組んだものですから、お手元に置いていただければ何よりです」

 元博は感動に胸がさざめくのを感じながら、手のひらにひんやりと冷たい祈り珠を押し戴いた。

「大切にします。――またいつか、お会いできますか」

「はい。次に天山へ参りましたら、真っ先にお訪ねするとお約束します」

 五葉は最後に全員に向かって頭を下げ、馬上と地上の両方から答礼を受けたあと、法衣に風をはらませながら悠々と大手門を出て行った。長い旅のあいだに一行がすっかり見慣れた、着実で揺るぎない足取りだ。

 元博は仲間の顔に目をやり、誰もが同じことを考えているのを悟った。あの頼もしい後ろ姿もこれで見納めだ。持てる知識と経験を惜しみなく提供し、旅の厳しさを軽減してくれていた彼はもういない。

 少し物寂しい気分を引きずったまま、彼らは次の曲輪へ登る道に向かった。目抜き通りの人波に分け入っていくと、たちまち凄まじい喧噪に包まれる。誰もが自分の主張を通そうと、声を限りに喚き、叫び、ののしり合っているようだ。

 街路に漂う空気は、煮すぎたかゆのようにどろどろと濁っていた。山裾に繁茂する木々や草の青臭い香りの中に、長旅をしてきた者たちの動物じみた体臭、汗、飯屋のくりやで焼かれる肉や魚からしたたり落ちる脂、裏手の溝を流れる汚水、女たちがまとうなまめかしい脂粉しふんなどの雑多なにおいが入り混じっている。

 元博たちはその中を通り抜け、山裾の斜面に沿って登る大手道の入り口に立った。

 慶城は輪郭りんかく式の城で、頂上の本曲輪から麓の外曲輪まで十の階層に分かれている。棚田たなだと同じ要領で階段状に平地が造られ、ゆるやかな傾斜でつづら折りに登っていく大手道と搦手からめて道がそれぞれの曲輪をつないでいた。曲輪と曲輪のあいだの斜面は草木を伐採して山肌をむき出しにした切岸きりぎしで、そこに長い竪堀たてぼりが何本も並べて掘られている。攻め寄せた敵に斜面を登らせず、さらに上から大石を落として攻撃するための工夫だ。

 各曲輪の入り口には門と番所があり、一行は最初の番所で身元(あらた)めを受け、番所手形を発行された。これを携えていれば、三の曲輪までは止められることなく登れるという。

 手続きに手間を取られた天山での一日目は、九の曲輪に入ったところで暮れた。曲輪ひとつぶん登っただけだが、外曲輪の喧噪はだいぶ遠のき、空気も澄んでいるように感じられる。山腹を一周する曲輪道くるわみちの両脇にびっしり建ち並ぶ宿やたな、長屋などは、下で見てきたよりもしつらえや建材が少し贅沢になったようだ。

 二日目は早朝に旅籠はたごを出て五の曲輪まで一気に登り、大手道からの入り口にほど近い瀟洒しょうしゃな宿〈乙藤おとふじ屋〉に草鞋わらじを脱いだ。宿の周囲には飯屋などの小店があり、商家もいくつか見受けられたが、曲輪のその他の場所はほぼ武家屋敷が占めているようだ。

 宿の門内に入った元博が、式台の前の白砂しらすで宿泊の手配が済むのを待っていると、黒葛つづら貴昌(たかまさ)が笑顔で駆け寄ってきた。

「元博、庭を見に行こう。池に亀がいるって」

 亀に喜ぶ年ではないが、若君が自分を遊び仲間と見なしてくれているのは嬉しい。

「大きい亀ですか」

「わからない」貴昌は生真面目そうに言い、眉根に皺を寄せた。「宿の主人は、よく泳ぐ亀だと言っていた」

「では、どれぐらいうまく泳ぐか見に行きましょう」

 元博の手を引っ張って庭園へ向かう貴昌に、式台に入りかけていた禎貴さだたかが声をかける。

「若君、宿の敷地から出てはなりませんぞ」

「はい」

 貴昌は素直に応え、白砂の隅にある神祠しんしの脇を通って、書院の裏手にある庭園へ元博をいざなった。

〈乙藤屋〉自慢の庭は、池を中心に大胆な刈り込みや自然石を配し、座敷から眺められるように設えた地泉ちせん庭園だった。緑の濃淡が美しい植え込みに、真っ赤なサツキが鮮やかな彩りを添えている。池の中央には細く優美な石橋がかかり、その向こうの小さな丘へ渡れるようになっていた。柔らかそうな草で覆われた、思わず寝そべりたくなるような斜面に、庭を囲む土塀に沿って植えられた背の高い木々が涼しげな影を落としている。直立する幹の隙間からは、裏木戸の門扉がわずかに見て取れた。

「亀が見えますか?」

 元博に言われ、池を覗き込んだ貴昌が、ぱっと顔を輝かせる。

「いた! ほら、あそこ」彼は水中を移動する亀を指差しながら走り出し、欄干らんかんのない石橋をなかばまで渡った。「ぐんぐん泳いでる」

 元博はあわてて後を追った。浅い池だが、もし落ちたら大変だ。少年の肩をうしろから捉まえてほっと息をついた瞬間、彼は水面に映る異様な黒い影に気づいた。

 ゆっくり上げた目が、丘の頂きに立つ犬の姿を捉える。そいつはたくましい体つきをした大型の黒犬で、明らかな敵意と鋭い牙をき出しにしていた。

「若君、どうかそのまま、うしろへお下がりください」元博は静かに言い、少年の肩を優しく引いた。「わたしがこうして捉まえていますから、だいじょうぶ。急がずに一歩ずつ」

 貴昌はまだ犬の存在に気づいていない。これも何かの遊びかというように、小さく笑みを浮かべている。

 元博は息を呑んだまま、彼に歩調を合わせてじりじりと後ずさった。ともかく石橋を降りて、足元のたしかな場所に立たなければ。あいつが飛びかかってきても、ここにいたのでは逃げることも戦うこともできない。

 ようやく橋から降り、短い芝が植えられた地面に立つと、安堵感が全身に広がった。これで、もしもの時には自分の体を若君の楯にできる。

 元博はすり足で貴昌の前に出た。黒犬は丘の下まで降りてきて、石橋のたもとに片足を載せている。その時、貴昌が初めて犬に気づき、小さな喘ぎをもらした。

「わたしのうしろにいらしてくださいね」元博はできるだけ平然とした声を出すよう努めた。少年を怯えさせてはいけない。「合図したら、さっきの道を駆け戻ってください。振り返ってはいけません」

 犬が悠然と石橋を渡りきった。その目は、寄り添って立つふたりの人間にひたと据えられている。元博は額と背中に汗が噴き出るのを感じながら刀を抜き、正眼に構えた。

 一歩、二歩と黒犬が近づいてくる。少し距離を置いて立ち止まったそいつは、鼻面に皺を寄せてあたりの空気を嗅いだ。

 わたしたちの恐怖を嗅いでいる。元博はそう思いながら大きく息を吸い、口を細く開けてゆっくりと吐き出した。激しく打っていた心臓の鼓動が、ほんの少し静まる。次の瞬間、黒犬が首と四肢にぐっと力を入れるのが見えた。

 艶やかな短い毛で覆われた巨体が高々と跳躍し、空を切って迫ってくる。元博は左肘を引きながら切っ先を上げ、間合いを計って中段を斬り払った。

 きゃん、という甲高い鳴き声と共に、犬の体が草の上へ転げ落ちる。

「走って!」

 ひと声叫ぶと、背後にいた貴昌が弾かれたように走り出した。よし、もう安心だ。あの犬が立ち上がっても、ここで食い止めていれば援軍が来る。わずかに緊張をゆるめたその時、彼は予期せぬ衝撃を正面から額に受けてり、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

 斬られた。違う。何かが当たった。鋭くて硬い――元博はよろめきながら立ち上がり、痛みにくらむ目をしばたたかせて曇りを払うと、足元に落ちている灰色の石塊いしくれを見つめた。大人の握り拳ほどもあり、縁が鋭利に尖っている。当たったのはこれだ。でもいったい、どこから来たんだろう。

 脳天にがんがん鳴り響く音を払いのけようと頭を振ると、髪の生え際から熱い血がどっと流れ出てきた。それが右目に入り、片方の視界がふさがれる。わななく手で何度も目蓋まぶたぬぐっていると、池の向こうから声が聞こえてきた。

「わたしの犬を斬った罰だ」

 顔を上げると、丘の中ほどに立つ人影が見えた。白っぽい小袖と、紺桔梗こんぎきょう色の袴をつけた細身の少年だ。年は貴昌(ぎみ)より少し大きいぐらいだろうか。整った顔立ちだが、ひどくきつい目をしている。

 彼の両脇には、長身の男がふたり立っていた。ひとりは白い陣羽織、もうひとりは黒い陣羽織をまとっている。三人組は石橋を渡ってくると、まだふらついている元博の前に仁王立ちした。

「割れなかったのか。石頭だな」少年は幼い声で皮肉っぽく言い、左うしろに立つ白い陣羽織の男のほうに視線を向けた。「〈しろ〉、殺せ」

 命じられた男が刀に手をかけながら、無言で前に進み出る。その時、間一髪でこの場に駆けつけた黒葛禎貴(さだたか)が突如雷を落とした。

「待てい!」

 彼が腹の底から発した大音声だいおんじょうには、刀を抜きかけていた男の手をしばし止めるほどの迫力があった。

「その者に指一本でも触れたら、ただではおかんぞ」

 禎貴は怒鳴りながら大股に歩いてくると、元博と三人組のあいだに敢然と立ちはだかった。

「なにゆえの狼藉か、理由わけを聞かせてもらおう。三鼓みつづみ国国主、黒葛禎俊(さだとし)公の家中かちゅうと知ってのことか」

「どこの家中かなど知らん」少年が傲然と言い放つ。「そいつがわたしの犬を斬ったのだ。だから成敗する。〈白〉、何をしている、さっさと殺せ」

 男が刀を抜き放つと同時に、真栄城まえしろ忠資(ただすけ)がさっと走り寄って禎貴の隣に立った。彼もまた抜き身を引っ提げている。

「戦うというなら相手になるぞ」

 不敵に微笑む彼のうしろに、柳浦なぎうら重晴(しげはる)由解ゆげ宣親(のりちか)も押し並ぶ。

「元博は、意味もなく犬を斬るような男ではない」宣親はそう言って鞘を払った。「先にけしかけたのは、そちらではないのか」

「けしかけたわけではないよ」

 ふいに、それまでずっと黙っていた黒い陣羽織の男が口を開いた。のみで荒削りした岩のようにごつごつといかつい顔立ちだが、物腰はゆったりしており、声もしゃべりかたも柔らかく穏やかだ。

あるじについておとなしく歩いていたが、畜生の悲しさでふいに何やら気まぐれを起こし、たまたま開いていた裏木戸からこの庭に入り込んだのだ。追ってきた時にはちょうど、そこの若者に飛びかかって斬られる間際だった」

 彼はすっと手を上げ、〈白〉が構えている剣の切っ先を押し下げた。

粗相そそうをした犬は、たれても致し方ない。ここは我らが引き下がるべきでしょうな、姫さま」

 姫さまと呼ばれた少年の目がぎらりと光り、その頬にしゅが差す。

「黙れ、〈くろ〉。あいつを殺す」

「では殺してよいかどうか、先に陛下にお訊ねなさい。よいと言われたら、わたしが殺してさし上げましょう」

「もういい。うるさい。うるさい!」

 少年は癇癪かんしゃくを起こしたように地団駄じだんだを踏んで喚き、くるりときびすを返した。家来ふたりを置き去りにして、いらいらと歩いていく。その背に向かって、呑気そうに〈黒〉が問いかけた。

「犬はどうなさいます」

「馬鹿犬などいらん」

 その言葉を聞くなり、〈白〉が無造作に刀をひと振りした。腹這はらばいになって前(あし)の傷をめていた犬の頭がごろりと転がり、流れ出た血が芝を真っ赤に染めていく。男はその様子を一顧だにせず、少年の後を追って石橋を渡っていった。

 あとに残った〈黒〉が、やれやれと肩をすくめ、禎貴のほうを邪気のない目で見やる。

「〝天山の武者姫〟は少々、かんのきついお子で。この度のことは不運だったと思って、早々に忘れるのがいちばんですよ。どうしても収まりがつかぬというなら、勝元かつもと公に直訴してみられるのがよろしいでしょう。だが、わたしならそれはやめておきますね」

 男はふふ、と含み笑いをもらし、元博に少しのあいだ視線を留めて「傷を大事に」と言ってから、ぶらぶらと散歩でもするような足取りでその場を立ち去った。彼の背中が丘の向こうに消えるのを待って、禎貴がゆっくりと口を開く。

「――〝天山の武者姫〟とは、大皇たいこう息女亜矢(あや)姫のことだ」

 少年ではなかったのか。元博は驚きに目を見開いた。たちまち流れ込んだ血が眼球にしみ、刺すような痛みが走る。思わず呻き声をもらすと、一同のうしろで傅役もりやく朴木ふのき直祐(なおすけ)に守られていた貴昌が急いで駆け寄ってきた。

「元博、痛いのか? だいじょうぶか?」

 泣きそうな声で問われ、元博はあわてて彼の前に膝をついた。

「平気ですよ、若君。それより、わたしの合図を聞いて、ちゃんと走ってくださいましたね」

 貴昌はうなずき、元博に抱きついた。親愛の情を示されて嬉しくはあるが、彼の着物に血がついてしまう。

「だめですよ。お召し物が汚れます」

 き込んで言うと、忠資たちがほのぼのと笑みをもらした。彼らのうしろから歩み出た直祐が、気づかわしげな表情で貴昌をそっと引き離し、小さな手を握る。

「さあ、宿へ入りましょう。元博どのは早く傷の手当をしないと」

「その通りだ」禎貴が言い、脇にいる宣親に視線を向けた。「宿の者に言って、療師りょうじを呼ばせてくれ」

 足元がふらついている元博に肩を貸して玄関へ戻りながら、禎貴は低い声で静かに話した。

「亜矢姫が〈白〉と呼んでいた男、あれはおそらく月下部かすかべ知恒(ともつね)とかいう手練てだれの剣術使いだ。姫の護衛役として、常に傍に付き従っているという。〈黒〉のほうは一来いちらい将明(まさあき)。出自はよく知らぬが切れ者だという噂で、つい最近、傅役に任ぜられたらしい」

「わたしは……」元博は、口の中に入り込んだ血の金気臭い味を感じながら言った。「まずいことをしてしまったかもしれません」

 禎貴がこちらを向き、厳然たる表情で首を振る。

あるじを襲おうとした敵を撃退したまでのこと。おまえにとがはない。責められるべきは亜矢姫のほうだ。大皇の前に出ても、わしは同じことを言う」

 彼の言葉は心強いが、胸にわだかまる不安は晴れなかった。刀を抜いたのは間違いだった気がする。ほかにもっと、うまいやり方はなかっただろうか。

 一歩ごとに頭を痛みに刺し貫かれながら宿へ向かうあいだ、元博は先ほどの場面を幾度も思い返し続けていた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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