四十九 立身国射手矢郷・真境名燎 相棒
「匡七郎」すぐに返事がないので、真境名燎はさらに声を大きくして再び呼ばわった。「刀祢匡七郎」
軽い足音が近づいてきて、続き部屋との境にある襖が開いた。隙間から覗く顔には、どことなく警戒するような表情が浮かんでいる。
「はい、何でしょう」
「鉢呂砦へ戻るぞ。明朝発つから支度をしておけ」
早口で命じると、若者は目を丸くした。
「お怪我をされてから、まだ半月と少しですよ」
彼は利いた風な口調で言いながら燎が使っている八畳間へ足を踏み入れ、床の脇にすとんと腰を下ろした。
「折れた骨がつくまで最低でも四十日間は安静になさるようにと、経過を診に来た療師が言っていたじゃありませんか」
「だから安静にしているだろう。暑苦しいのを我慢して晒で腹をぐるぐる巻きにしているし、腕もがっちり固定して使えないようにしている」
鷹啄寅三郎との戦いで、燎は鼻骨、右上腕骨、左下腹の肋骨二本を骨折した。さらに左の脇腹には、肋が折れるほどの斬撃を叩き込まれた際に負った深い創傷もある。その傷は縫い閉じられて無事ふさがり、今は治癒過程につきものの痒みと戦っているところだ。
鼻は折れた直後には曲がっていたという話だが、彼女が意識を喪失しているあいだに手当てされてほぼ元どおりの形になった。内出血も疾うに治まり、皮膚が色変わりしていた部分はもはや見分けられなくなっている。
右腕は肩と肘の中間でぽっきり折れていたが、療師の手による巧みな整復で再びまっすぐになった。今のところ、肘から先の腕や指の動きにも違和感などは出ていない。負傷後に燎が担ぎ込まれた旅籠の主人が、街道筋で評判の骨接ぎ名人だという療師を呼んでくれたお陰だ。今後もさほど不自由なく生活していけそうだが、以前と同様に剣が振れるようになるかどうかは、治癒後の訓練次第といったところだろう。
機能回復の道のりは長く苦痛を伴うに違いないが、燎は必ずやり遂げると決意していた。それはあの窮地に駆けつけて命を救ってくれた、亡き由解虎嗣の恩義に報いることにもつながるはずだ。
「安静というのは、動き回らずにじっとして心身を休めることですよ」
匡七郎がまだくどくど言っているので、彼女はじろりと睨み上げた。
「うるさいやつだな、おまえは。兵庫に対してもそんなふうなのか」
六車兵庫の名を出すと、匡七郎はとたんにしょんぼりとなった。一騎打ちで寅三郎を討ち取ったあと、兵庫は誰にも行き先を告げずに姿を消してしまい、それきり何の音沙汰もないという。今回の一連の騒ぎでは大勢の犠牲者が出たため、寅三郎の私怨を招いたことへの自責の念をおぼえているのだろう。
燎は不覚を取って怪我をした自分の未熟さに腹立たしさを感じてはいるが、それが兵庫のせいだなどとは少しも思っていなかった。しかし、もしそう言ってやったとしても、彼はやはり罪の意識を都合よく忘れたりはできないに違いない。
それに鉢呂砦には、兵庫が罪悪感に苦しむことを望む者もある程度いるはずだ。特に、信望厚かった隊長の由解虎嗣と隊士の釘宮早紀を失った第一隊は、今は兵庫に対して複雑な想いを抱いているだろう。彼に非はないとわかっていても、理屈より感情を優先してしまうのが人間というものだ。
兵庫が一時的に隊を離れたのは、少し冷却期間を置くという意味ではよかったのかもしれない。だが部隊での相方であり、日ごろ従者気取りで付き従っていた匡七郎としては、置き去りにされたのがだいぶ堪えているようだ。
「ともかく明日帰ることに決めたから、そのつもりでいろ」
肩を落としたままの匡七郎が、不安げな目で燎を見る。
「それは、あのう……やはり禽で――飛んで帰るおつもりなのですよね」
「むろんだ」
そのために、討伐隊が砦へ戻る際に匡七郎だけわざわざ居残らせて、四十竹宿へ呼び寄せておいたのだ。彼の乗騎も、ここから半里ほどの津戸山に移して待機させている。
「兵庫がいないから、鞍がひとつ空いているだろう。そこにわたしを乗せて、砦まで飛べばいいだけのことだ。何を渋る必要がある」
「心配なのです。お乗せするのはいいですが、燎さまはまだお体が完全ではありません。両手で把手を掴めないでしょうし、万一、飛行中に落下するようなことでもあったらと」
「落ちたら拾いにくればいいだろう。わたしもおまえと同じく、そういう訓練はたっぷりやっている」
「それは……そうですが」
こやつ、自信がないのだな。燎は彼の胸の内を看破し、ふっと笑みをもらした。
「兵庫にさんざん矯正されて、安定した飛行ができるようになったのではないのか」
痛いところを突かれた匡七郎がうっと眉をしかめる。
「な、なりました」
「ならば落とさぬように飛べるはずだ」
それでこの話は終わりとばかりに言って、燎は彼を手招いた。
「起こしてくれ」
すぐに腰を上げた匡七郎が、横から抱きかかえるようにして楽に起き上がらせてくれる。一見ほっそりしているが、さすがに槍使いだけあって腕の力はそうとうなものだ。
「立たれますか」
「ん、頼む」
支えてもらってゆっくり立ち上がると、少し頭がふらつくのを感じた。人間は寝てばかりいると、恐ろしいほど急速に体がなまってしまう。明日に備えるためにも、今日このあとは起きて過ごしたほうがよさそうだ。
「宿の主人に出立を伝えて、明朝までの掛かりを精算してくる」
手回り品を入れた柳行李から財布を出し、ゆっくりした歩調で廊下へ向かう。
「おまえは、今のうちに腹をくくっておけ」
途中ちょっと足を止めてそう言ってやると、匡七郎は悲愴感の漂う表情で小さく鼻声をもらした。
一夜明けるとあいにくの小雨模様だったが、真境名燎はかまわず四十竹宿を発った。天隼に乗って雲の上に出てしまえば、雨など何の問題もなくなるからだ。
目指す津戸山までは歩いてほんの小半刻だが、刀祢匡七郎がうるさく言うので駕籠を使い、山の麓から頂上までは剛力の人足に背負子で運び上げてもらった。カシの木の幹のような脚をしたその男は、ふだんは峠の集落に物資を届ける仕事をしているという。
複雑な形をした尾根の鞍部を越え、短いつづら折りの山道を登り詰めた先には、少しくぼんだ細長い土地が広がっていた。そこに十数軒の民家が肩を寄せ合うように建ち並んでおり、両側の斜面を利用した畑で野菜などを作っているようだ。
「禽を誰に預けているんだ」
人足に謝礼を払って別れたあと、燎は背負子の上にいて凝り固まった体を伸ばしながら匡七郎に訊いた。
「向こうに見える茶屋の主人です。副業で鷹狩り用の猛禽を育てていて、天隼の扱い方もある程度は知っているので、ときどき立天隊に協力しているらしいですよ」
彼は燎を雨のかからない木陰に置いて茶屋へ禽を受け取りに行き、いくらも待たせずにすぐ戻ってきた。
「西側の斜面に出してくれるそうです。行きましょう」
本道から外れると極端に足場が悪い。燎は匡七郎に左手を預け、転倒しないよう細心の注意を払いながら、畑の中を通る細い道をそろそろと下った。骨折から十日を過ぎたあたりで患部の痛みはかなり和らぎ、今はふつうに歩くぶんにはさほど違和感もおぼえなくなっているが、坂道を下る衝撃は一歩ごとに骨の奧まで鈍く響いてくる。
軽く息を切らしてたどり着いた斜面のくぼ地には、すでに禽が引き出されてきていた。兵庫と匡七郎の乗騎は体幅が広めで全体的に黒っぽく、頭についている羽角という飾り羽根の白さがひときわ目立っている。手厚い世話を受けていたらしく、目にはしっかりと輝きがあって元気そうだ。
匡七郎は禽を引き取って茶屋の主人を帰すと、すぐに鞍を載せて離陸の準備を手早く調えた。
「すまんが、手を貸してくれ」
跳び乗る自信がないので、ここは素直に匡七郎に鞍の上へ押し上げてもらった。ふだんは立って乗る後鞍に尻を乗せ、両脚を禽の胴体に沿わせて、把手の革紐を左手首に巻きつける。その上で前鞍の後驕を握り込むと、ずり落ちそうな感覚はなくなった。
禽は平時でも半刻に二十五里ほどは飛ぶ。いま発てば、遅くとも夕刻までには鉢呂砦へたどり着ける計算なので、集中力を切らさずに二刻半ほど頑張ればすむことだ。これなら何とかなるだろう。
「だいじょうぶそうですか」
匡七郎が前鞍によじ登り、気づかわしげに訊く。
「問題ない。行こう」
燎の返事を聞いて、彼は前に向き直った。「上げます」
その言葉と同時に、禽が巨大な翼を広げた。力強い羽ばたきをひとつして風を巻き起こし、たちまち五間以上も浮き上がる。
殴られたような痛みが肋に走り、燎は顔をしかめながら呻きを押し殺した。心づもりをして身がまえていたが、やはり痛いものは痛い。
しかし、離陸の一瞬を過ぎると急に楽になった。いったん気流に乗ってしまえば、禽は翼を広げたまま帆翔して上空へあがり、高度を稼いだあとは長く滑空を続けることができる。大きく方向転換させないかぎり、ほとんど羽ばたかないので振動も揺れもない。やはり禽で移動することにしたのは正解だった。着陸の際にはまた同じぐらい痛い思いをするだろうが、それはその時のことだ。
匡七郎は昨日はびくついていたが、今はゆったりと落ち着いて禽を操っているように見える。
ぐんぐん上昇して陰鬱な厚い灰色の雲から抜け出ると、その上には胸がすくような紺碧の空が広がっていた。
「この季節の飛行は気持ちがいいな」
燎は清冽な乾いた風を浴び、心地よさに目を細めながら言った。怪我のせいで思いきり深呼吸できないのが残念だ。
「冬場だと、遠乗りは地獄の苦行だが」
「そうですね」
匡七郎の返答は短い。やはりまだ緊張しているのだろうか。会話に釣られて気を散らし、下手な操禽をしてしまうのを恐れているのかもしれない。臆病者と笑ってやろうかと思ったが、かつて自分も訓練中に指南役の古参隊士を乗せて飛ぶ時はこんなふうだったのを思い出したのでやめにした。この半月あまり彼には世話になったことだし、弄るのもほどほどにしておかなければ。
「匡七郎」
燎の声に変化を感じたのか、若者は肩ごしにこちらを振り返った。
「はい」
「わたしのわがままにつき合わせて、すまなかったな。禽に乗せてくれて感謝している。無理をしてまで戻る必要はないとわかっているが、どうにも気が急いて落ち着かないんだ」
「博武さまがおひとりで、事件の後始末や部隊の建て直しに難儀なさっていると――そう思われるからですよね。わかります」
彼は燎の胸中を正確に言い当て、真面目な顔でうなずいてから前へ向き直った。
「それに本当は、わたしも砦へ戻りたかったんです。仲間のことも気になりますし、兵庫さまがひょっこり戻られるかもしれませんから」
負い目を感じさせないよう、気を使ってくれているのがわかる。ずいぶんと気の回るやつだな――と燎は感心し、兵庫が彼を傍に置いている理由が呑み込めた気がした。
「兵庫がどこに行ったか、まったく見当もつかないのか」
問いかけると、匡七郎はちょっとうつむき加減になった。
「はい」
「郷里へ戻ったのでは?」
「かもしれませんが、そこがどこかはわかりません。何度か訊ねましたが、出自のことはいつもはぐらかされてしまうので」
「そういえば、わたしも彼の生まれ故郷の話は聞いたことがないな」
兵庫が立天隊に来て以来だから、かれこれ八年もつき合いがあるというのに。
「一緒に旅をした時も、道中は暇に飽かしてさんざん四方山話に興じたが、自分のことはほとんど話そうとしなかった」
匡七郎がくるりと振り向いた。目が輝いている。
「兵庫さまと旅をなさったのですか?」
「わたしと彼と、博武どのの三人でな。たしか五年ほど前だったか。ちょうど戦が小休みになっていた時期で、籠長の榧野孫兵衛が久夛良木島まで雛の買い付けに行くと言うから、天隼が産卵するという崖を見るために我々も同行したんだ。船と馬を乗り継いで往復でひと月ほどかかったから、けっこうな長旅ではあったが、なかなか愉快だった」
その先も知りたいというように、匡七郎はじっとこちらを見つめている。食いつきのよさに苦笑しながら、燎は彼に注意を促した。
「前を見て飛べ。進路が曲がっているぞ」
禽は放っておいても飛び続けるが、きちんと手綱を取ってやらないと好き勝手な方向へ行ってしまう。匡七郎は「すみません」と謝り、すぐに前へ向き直った。しかし好奇心を押し込める気はないようだ。
「それで旅のあいだ、兵庫さまはどんなご様子だったんですか」
続きを聞く気満々で、それを隠そうともしない。燎は可笑しくなったが、砦に戻るまでの退屈しのぎにはなるだろうと思い、兵庫について記憶に残っている挿話を道々いくつか語り聞かせてやった。
短い休憩を二度挟んだ以外はひたすら飛び続け、予想通り夕七つ半ごろには鉢呂砦に帰り着いた。四十竹宿で療養中のはずの燎がいきなり現れたので、さすがにみな驚きを隠せない様子だ。
あれこれかまわれるのも面倒なので、集まってきた者たちには簡単に挨拶だけして、すぐに兵舎と奉公人の長屋が建ち並ぶ南の副郭へ向かった。年老いた従僕の利助が気を揉んでいるだろうから、早く元気な顔を見せてやりたい。
そう考えて、はたと自分の顔の現状に思い至った。
鼻骨の骨折以外にも、燎は顔面に傷を負っている。寅三郎に短刀か何かで斬り裂かれたのだ。それは左の額から頬の中ほどまで続く直線的な長い傷で、出血がなかなか止まらなかったため療師はいったん縫合したが、一日あまりですぐ抜糸して包帯で固定する方法に切り替えたという。傷に加えて糸の跡までもが顔に残らないよう配慮してくれたらしい。
傷を陽に晒さないよう言われているので、今は患部に油紙を貼り、目と口の部分だけ覗いて顔全体に包帯を巻きつけている。かなり大げさな様子になっているので、利助が見たら震え上がるかもしれない。だが包帯を外したら外したで、無惨な傷を見て衝撃を受けるだろう。
どうしたものかと迷っているうちに、もう長屋に着いてしまった。ここまで来たら、あれこれ考えても仕方がない。
「利助、わたしだ。いま戻った」
外から声をかけると、板間を横切る軽い足音に続いて引き戸が開いた。框の向こうには、喜びと不安とが綯い交ぜになった表情の老従僕が立っている。
利助は燎を見上げると、鋭く息を呑んで後ずさった。皺に覆われた優しげな両眼に、みるみる涙が盛り上がる。
「お、お嬢さま……」
掠れ声で言いかけて、彼は絶句した。あふれ出した大粒の涙が、ぽろぽろと頬をこぼれ落ちていく。
温和な老人をこんなにも動揺させて申し訳なく思い、燎は左腕だけで彼の肩をそっと抱いてやった。
「心配させてすまなかったな。傷はどれも、もうだいぶ良くなっているんだ。だが利き腕を折っていて何かと不自由だから、これからしばらく手間をかけると思う」
利助は何も言葉が出ない様子で、痩せた肩を燎の腕の中で小刻みに震わせている。
「さあ、もう泣き止んでくれ。今後は下手を打つことのないよう気をつけるから」
そんな約束を信じたかどうかは定かではないが、利助は懐から手ぬぐいを出してびしょ濡れの目元をぬぐった。
「お部屋に、お床を取りましょうか」
涙声で問われ、燎は首を横に振った。
「いや、いい。体が萎えるから、寝て過ごすのはもうやめにする。今夜は湯浴みしたいから、夕餉のあとで入れるよう支度をしてくれるか。髪も洗って欲しい」
利助は「はい、はい」と従順にうなずき、ようやく普段どおりの穏やかな表情を見せた。
「右手が使えるようになるまで、食事は部屋で取る。賄いにそう伝えてくれ」
「ではこれから行って、ついでに布海苔をいただいてまいります」
「そうだな、頼む。わたしはちょっと、博武どのに挨拶してくる」
利助と別れた燎は、その足で主郭へ上って陣屋に行った。立天隊の士大将である石動博武は、陣屋の敷地の奧側に位置する〈二ノ棟〉の小書院を執務室として使っている。今時分はおそらくそこにいて、夕餉が運ばれてくる前に書類仕事を片づけようと精を出しているはずだ。
書院造りの〈一ノ棟〉から渡り廊下を通って〈二ノ棟〉へ入り、南の一角へ向かった彼女は廊下で博武の従者久喜伝兵衛に出くわした。
「燎さま」彼は心底驚いた様子を見せ、それを実際に口に出しもした。「驚きました。いつお戻りに」
「つい今しがただ。刀祢匡七郎に無理を言って、禽を飛ばせて帰ってきた」
「なんとまあ、お怪我をなさっているのに危ないことを。ご無事で何よりです」
伝兵衛にまで言われると、やはり無謀なことをしたのかなと思わなくもない。
「博武どのは部屋においでかな。ひと言ご挨拶したいが」
「いらっしゃいますが……」
珍しく伝兵衛が言葉に詰まった。そういえば、どことなく顔色が冴えないようだ。
「どうした、博武どのに何かあったのか」
「何かあったことはたしかですが」伝兵衛は彼らしからぬ暗い眼差しで燎を見つめた。「それが何なのかはさっぱりわかりません。ただ、この数日というもの誰にも会わずに奥の間に引きこもっておられて、わたしですらお顔を見ることが叶わないのです。お食事を運んでも、毎回ほとんど手をつけずに次の間に置かれたままで」
そんな博武は想像もできない。彼はどんな時も前向きで楽天的で、いかなる難問に直面しようとも、それが難しければ難しいほどむしろ勇躍して果敢に挑んでいくような男のはずなのに。
「しかし、理由もなく突然そんなふうになりはしないだろう」
燎は伝兵衛の戸惑いと不安が自分にも伝染するのを感じながら言った。
「何かきっかけがあったはずだ」
「思い当たるといえば、三日前に伝道の祭宜が訪ねて来たことぐらいです」
「さ、祭宜?」
予想外の話が飛び出して、思わず面食らってしまう。
「博武どのに、伝道の祭宜が会いにきたのか。それは既知の人物というわけではなく?」
「はい、初めて見る若い男の祭宜でした。なんでも、何か届け物があるとかで。わたしが取り次ぎを申し出ましたが、本人に直接でなければ渡せぬと言われ、博武さまの了承を得て奧へ通しました」
「その届け物というのは」
「わたしは見ませんでした。祭宜は半刻ほどですぐに帰り、そのあとから博武さまとは――ほぼ会話をしておりません」
ではその祭宜か、彼が届けた物が博武の異変の原因に違いない。
「いずれにせよ、このままにしておくわけにもいくまい。ともかくひと目会いたいが、中に入ってもかまわぬだろうか」
「誰も入れるなと命じられておりますが」
伝兵衛は低くつぶやき、すがるような目で彼女を見た。
「燎さまならば」
「いいのか」
「あなたさまは、博武さまにとって特別なおかたですから」
「わたしにとっても博武どのは特別な人だ」
十代のころから戦場で背中を預け合ってきた相棒で、互いに取り繕うことなく己をさらけ出せる親友同士。今は共に立天隊を率いる将でもある。
石動博武はこの部隊の大将、言わば屋台骨だ。それがぐらついているのだとしたら、支えられるのは副将である自分しかいない。
「もし長引くようだったら、わたしの分の夕飯もここへ届けてもらえるか。それと利助が心配するだろうから、どういう状況か話してやって欲しい」
「心得ました」
伝兵衛とも長いつき合いだが、彼のこんな張り詰めた表情はかつて見た覚えがない。独特の慇懃な剽軽さは影を潜め、まるで別人になったかのようだ。それだけ事態を重く見ているということだろう。
「あまり思い煩わぬようにな」
励ましを込めてひと言かけてから、燎は部屋に入って行った。
博武の執務室は十二畳敷きを仕切った二間続きで、丸窓のある次の間は日ごろ部隊長らと作戦のことなどを話す時によく使われている。何の調度も置かれていないその室内を横切って主室の小書院に近づくと、足音を聞き咎めた部屋の主が襖の向こうで尖った声を響かせた。
「入るな。誰にも会わんと言ってあるはずだ」
少なくとも怒鳴る元気はあるらしい。燎は少しほっとするのを感じながら、穏やかに問いかけた。
「わたしにもですか」
室内で何かこするような音がしたと思ったら、次の瞬間には襖が大きな音を立てて開かれ、目の前に博武が立っていた。
まばらな無精髭を生やした、疲れ切った顔。艶のない肌と充血した目。ずっと眠っていないに違いない。
「燎?」
彼は確信がないかのように訊き、まじまじと顔を見つめてから繰り返し名を呼んだ。
「燎」
「はい」
「なぜここにいる」
察しのいい彼らしくない質問だ。しかも本気でわからないかのように、かすかに困惑の色を浮かべてさえいる。燎は心が乱されるのを感じたが、努めて平静を装った。
「戻ってきたのです。この体でも、何かお役に立てることはあるだろうと思ったので。それとも、わたしは必要ではありませんか?」
少しおどけて言ってみたが、博武は笑わなかった。だが淀んだ沼のようだった瞳に、わずかながらいつもの生気が戻りかけている。
「燎」
彼はくぐもった声で、またしても彼女の名を呼んだ。
「はい」
辛抱強く応える燎に博武が一歩近づき、ふいに腕を伸ばして彼女の左手をしっかりと握る。
「ありがとう」
低く囁いた彼の目の端に小さく光るものを見つけ、燎ははっと胸を突かれた。
「おぬしが必要だ。力を貸してくれ」
小書院に明かりを灯して畳に腰を下ろし、落ち着いて向かい合ってみると、石動博武の憔悴ぶりにあらためて胸をざわつかされた。いったい何が、彼をこんなにも打ちのめしたのだろうか。
座ったあとも博武はなかなか話を切り出さず、しばらく待ったのちに燎は自分から先に口を開いた。
「伝道の祭宜が何か届けに来たとか」
博武は夢から覚めたように顔を上げ、少し間を置いてから小さくうなずいた。
「三日前だ。小柄で童顔だが、身のこなしにまったく隙のない、狼のような目をした男だったな。別役国の商人〈川渡屋〉鉄次の使いだと言い、伊吹と名乗った」
〈川渡屋〉と聞いて、燎はちょっと驚いた。この五年ぐらいのあいだに広く名が知られるようになったやり手の武器商人で、江州役では黒葛軍ともかなり取り引きをしたが、主人はいっさい人前に姿を現さなかったと聞いている。〝鉄次〟という名もいま初めて耳にしたが、実際ごく一部にしか知られていないのかもしれない。
「正体のわからない、謎の人物だと言われていますが――そんな商人が、いったいあなたに何を?」
博武は沈痛な面持ちで懐から分厚い紙包みを取り出し、それを燎に手渡そうとしかけて、ふと動きを止めた。こちらを見据える目に異様な光が点っている。
「これを読んだら……」彼の声に重々しい響きが加わった。「もう引き返すことはできなくなる」
脅すような口調に彼自身の戦きが表れ出ていて、燎は軽く肌が粟立つのを感じた。
「黒葛家にとって重要なことが書かれているが、きわめて扱いの難しい内容だ。おぬしの力を借りたいとは言ったが、危険に巻き込まれるのが厭なら断ってくれ」
わたしを試しているのだろうか。そんな柔な人間だと?
彼の慎重さと気づかいが、かえって燎の気概を熱くかき立てる。
「これまで幾度となく、あなたと一緒に危ない橋を渡ってきました。次に渡るのが燃え落ちる橋だというなら、振り向かずにただ前へと進むだけです」
挑むように言って身を乗り出し、彼女は博武の手から紙包みを奪い取った。あれこれ考える前に封紙を開き、幾重にも巻かれた竪紙をさっと横に広げて読み始める。
そこには墨痕鮮やかな麗筆で、恐ろしい内容がしたためられていた。
「博武どの、これ……」
一読しただけでは膨大な情報を呑み込みきれず、忙しなく二度読み返してはみたが、それでもまだ完全には理解が追いつかない。
「なんです、これは。とんでもない――まさか、こんなことが真実のはずは……」
天山で人質生活を送っていた黒葛宗家の嫡子、黒葛貴昌が暗殺された――と〈川渡屋〉は書いている。夜道で武装集団に襲撃され、凶弾に斃れたと。彼の随員や護衛の足軽衆なども、みなその夜に命を落としたものと思われると。そして、そのことを国許へ伝えるためにひとり天山の外へ逃れた石動元博――博武の弟――が、瀕死の状態で〈川渡屋〉の船に拾い上げられて事件の顛末を語り、親族に伝えるよう言い遺して息絶えたと。
遺体は封霊後に王生国天沢郷の川湊近くに埋葬し、魂送りの儀式を執り行ったとのことで、その場所を示す図も添えられていた。
それだけではない。
一見、事件の首謀者は大皇の息女三廻部亜矢に思えるが、実際は〝さわらぎあきひさ〟という男で、黒葛家の支族である玉県家の者と共謀しているとも書いている。同盟者のひとりは玉県家から黒葛宗家に嫁いだ富久かもしれず、亡くなる前に元博はそう確信していたようだったと。
「こんな途方もない話――」燎は動揺を隠しきれず、上ずった声で訊いた。「あなたは信じられるのですか」
博武はうつむき気味にしばらく沈黙を漂わせてから、目だけ上げて彼女を見た。
「八割がたは信じている。手紙の中にある〝三度元服した男〟というのは、おれと弟との間だけで通じる冗談のようなものだ。それを知っているということは、少なくとも〈川渡屋〉があいつと接触したのは間違いない」
「しかし真実だとしたら、あなたの弟御が……元博どのが……」
燎が口ごもると、彼は懐から別の紙包みを取り出して畳の上に広げた。藍染めの生地の長財布と、使い古された巾着がひとつずつ。一連の祈り珠。そして、紙縒りで括られたひと束の黒髪。遺髪に違いない。
真贋は定かではないと思おうとしたが、それらの品々から亡き人の遺志が胸に迫ってくるように感じられる。
「どれも元博のものと断定はできんが、あいつが持ちそうな品ではあると思う。巾着以外はな」
博武は静かに言って、粗末な巾着の紐を解いた。中から出てきたのは多少の銭貨と、小さく折り畳まれた紙片がひとつ。彼はその紙をつまみ上げて広げ、燎に差し出した。
「そこに書かれているのは、杵築正毅とかいう男のことだ。中の上ぐらいの武家の子息だが、あまり素行のいい人物ではないらしい」
小さな字でびっしり綴られた文章には、正毅が野良猫をくびり殺したとか、女中を薪小屋に十日も閉じ込めていたぶったとか、そういったよくない噂が過去に何度か立っていると書かれていた。両親には可愛がられているが奉公人からは好かれず、交友関係といえるようなものはないに等しいとも。筆者は彼の人物像を調査していたようだ。
「この巾着の持ち主は、おそらく空閑忍びの政茂だ。手紙でも言及されているが彼は弟の脱出を助けて、別れる前にこれを――最後の情報を渡したのだろうな」
博武は淡々と述べたあと、ゆっくり顔を上げて燎を見据えた。
「手紙の内容が〈川渡屋〉の捏造で、真実味を持たせるために遺髪と遺品をでっち上げたというのもあり得なくはない。だがそこに、こんな巾着と通信文まで偽造して加えるのは不自然だ。元博が実際にこれを持っていたから、〈川渡屋〉はあいつの持ち物として一緒に届けてきたのだとおれは思う」
彼はこの三日間にあらゆる可能性を考え尽くして、すでに自分なりの結論に至っているようだ。
「そしてこれらを手放したということは、弟は……元博は、やはり死んだのだろう」
先ほど燎がどうしても口に出せなかった言葉をつぶやき、博武は深いため息をついた。
彼を慰めたいが、何を言えばいいのかまるで思いつかない。まだ亡くなったと決まったわけではありませんよなどと、そんな自分でも信じていない白々しい台詞はとても言えるわけがなかった。
最初は認めたくない気持ちがまさって否定しようとしたが、手紙と遺品と博武の考えが出揃い、こうして目の前に並べられてしまうと、暗殺事件など起きていないと思い続けるのは難しい。しかし、すべて真実だったとしたら、このあと自分たちはどうすべきなのだろう。
力を貸せと博武は言ったが、いったい何をすれば彼の役に立てるのか。
「手紙に書かれていることがほんとうなら、一刻も早く宗主にお届けして、その後のご判断を仰ぐべきでは」
建設的な意見を述べたつもりだったが、博武は奇妙な眼差しをよこした。間違ったことを言ったような気分にさせられる目つきだ。
「まさか、秘匿するおつもりですか」
「いや」彼は言下に否定した。「いずれ必ず、白日の下にさらす時が来る。――が、今はまだ公にするべきではないと思う」
「しかし、遅かれ早かれ貴昌さまの死は黒葛家に伝わります。暗殺の企てがあったことを知らなければ、宗主は三廻部勝元に報復すべく天山に戦を仕掛けられるでしょう。そうなってもいいのですか」
「そこだ」
博武がにわかに表情をあらためる。
「そのことで、おぬしに知恵を借りたかった。おれはもう考えすぎて、どれが正しい判断か正直わからなくなっているんだ」
彼の口調に少し気圧されるものを感じつつも、燎は即座に応じた。
「知恵でも何でもお貸しします」
「この手紙に書かれた内容を知ったら、宗主は戦争を思い留まられるだろうか」
「そ――」
唐突に理解が及び、燎は口を開きかけたまま凝然となった。
もちろん思い留まる――わけがない。
暗殺の首謀者が〝さわらぎあきひさ〟とやらだとして、それが何だというのか。そんな、どこの馬の骨とも知れぬ者の首ひとつが、黒葛宗家の嫡子の命の代償になり得るはずもない。宗主は貴昌君の死を知ればすぐにも兵を挙げるだろうし、もし可能ならば天の日輪を落として〝あきひさ〟と大皇ごと天山を焼き払うことさえ厭わないだろう。
裏にどんな企てがあったにせよ、大切なひとり息子を奪われた事実にはいささかの変わりもないのだ。宗主は事の始めに人質を要求した大皇も含めて、責任を取らせるべき者はひとりたりとも生かしておくまいとするに違いない。
「元博はこの情報を伝えれば、黒葛家と三廻部家の戦いは回避されると考えていたようだ。だが、おれにはそうは思えない。おぬしの考えは?」
重ねて問われ、燎は呻くように答えた。
「戦争は避けられない――と思います」
意見が一致したことで博武の目に安堵が浮かび、彼はほろ苦く笑った。
「おれの考えは極端に寄りすぎているかと……少し心許なく思いかけていた」
「わたしも初めは元博どのと同様に考えましたが、冷静になってみれば、戦わずしてこの一件の幕を引くというのはあり得ません。家中の大半も苛烈な復讐を望むでしょうし、その相手は〝さわらぎあきひさ〟などでは不相応です」
「そうだな」
「天山にいる〝あきひさ〟とは、戦になればいずれ必ず対峙することになるとして――」
燎は先ほどからずっと気になっていたことを口に出した。
「玉県家が本当に陰謀にかかわっているなら、それは主家への謀反です。このまま放っておくのは、口中に毒を含んでいるようなものではありませんか」
「だが、今すぐ糾弾することはできない。元博の証言だけでは不十分だ。まして本人がもう……この世にいないのではな。玉県家をとことん追い詰め、いざという時に言い逃れをさせないためには確たる証拠がいる」
「どうやって集めるのです」
「まずは立天隊の中で、身近なところから探りを入れようと思う」
瞬時に彼の考えが読めた。
「玉県綱正――ですか」
かつて大胆にも燎に求婚した男。その時すげなく断って以来、彼とはほとんどかかわりらしいものを持たずにきた。いま綱正は立州中部の調月砦にいて、第三隊の副長を務めている。
「彼を鉢呂砦に?」
「由解虎嗣の後釜に据えようかと思うが、どうだ」
どうだと言われても、少々複雑な気分なのは否めない。綱正と同じ砦でまた毎日顔を合わせるようになるのは気詰まりだし、亡き虎嗣が育てた第一隊を彼が率いることになると思うと、何やら胸の中にもやつくものもある。とはいえ、まったくつき合いのない当主の玉県綱保や宗主の奥方の富久にいきなり接触を試みるより、旧知の綱正にそれとなく当たってみるほうが簡単なのは間違いないだろう。
「近くに置き、昇進でいい気にさせてから情報を引き出すということですよね。悪くないのではありませんか。及ばずながら、わたしもお手伝いします」
「ありがたい」博武が微笑み、しかしすぐ真顔に戻る。「だが、くれぐれも用心してくれ。大それたことを企むからには、玉県家はかなり警戒しているだろう。謀反を暴こうとしていることを悟ったら、何か過激な手を打ってくるかもしれない」
彼は燎をじっと見つめ、噛んで含めるように言った。
「おぬしを巻き込んだことを後悔させないでくれ。始めにおれは引き返せないと言ったが、ほんとうに危ないと感じたらいつでも退いてくれていい」
「わかっています」
分別顔をしながらうなずく。だがここまで首を突っ込んでおきながら、今さら「いち抜けた」などと言う気はさらさらなかった。
すでに橋は落ちたのだ。
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