十三 天勝国門叶郷・伊都 背信
人買い――女衒に売られたのは十四歳の時だった、と多恵は語った。父親が博打にのめり込み、借金を作ったせいだという。先祖代々受け継いできた田んぼや、わずかばかりの家財道具を一切合切売り払ってもまだ完済には至らず、ついに子供までをも売るはめになったのだ。
伊都はひどい話だと思ったが、身の上話をしながら多恵は終始穏やかに微笑んでいた。
「そりゃ、故郷を離れるのはつらかったですけどねえ。あたしが娼楼で働けば、おっ母さんや小さい弟たちがお飯を食べられるようになると思ったら、厭なんて言えませんでした」家族への愛情を声ににじませながら、しみじみと言う。「お父っつぁんのことは、もちろん最初は憎みもしましたよ。でも、堪忍してやることにしたんです。なんだかんだ言っても、あたしの、たったひとりの父親ですからね」
彼女の寛容さは伊都を驚かせた。
「どうして許せたの?」
思わず訊くと、多恵は優しい目を向け、逆に問いかけた。
「お嬢さんなら、許せませんか?」
口をつぐみ、しばし考える。父上がもし、わたしを人買いに売ったら。わたしもきっと初めは憎む。どんな事情があったとしても、そんなことには関係なく憎むだろう。でも、ほかにどうしようもなかったのだとしたら、いつかは許すかもしれない。
眉根を寄せ、真剣に思いをめぐらせていたが、ふと現実を思い出して馬鹿らしくなった。わたしを人買いに売る父上などいない。父上そのものが、もうこの世にいないのだから。
急に悲しくなった伊都は、目をぎゅっとつぶって頭を振り、考えを追い払った。その様子を、多恵が黙ってじっと見つめる。彼女は問いへの答えを得られなかったことなど気にするふうもなく、膝に置いていた端布を持ち上げて針仕事を再開した。その運針は手慣れていて、しかも楽しげだ。
伊都はこれまで、彼女ほど何ごとにもこだわらず、気楽に受け止める人間には出会ったことがなかった。夜半に突然、居候を押しつけられても気にしない。老齢のせいで少し手元が怪しくなっている下男が、畳の上にお茶をこぼしても不快な顔ひとつ見せない。その時彼女は、恐縮する老爺に「拭けば平気よ、茂助さん」と言って自ら台所へ走り、雑巾を持ってきてさっと汚れを拭き取った。まだ年若いにもかかわらず、人や物事への接し方に余裕があり、懐の大きさを感じさせる。
昨日会った、叔母の都留は正反対だった。彼女は切れる寸前まで張った三味線の糸のようだ。下手に触れるとお互いに傷つきそうで、傍にいると自然に緊張してしまう。夫度会典政はそういう妻にはないものを求めて、多恵のところへ来るのかもしれない。
女衒の仲介で、門叶郷にほど近い小さな宿場の娼楼に入った多恵は、そこで一年間下働きをし、十五になった年改めの日から客を取るようになったという。それからほどなく典政に出会い、やがて常客として迎えるようになった。身請けの話が出たのは十六の時だ。
「お見世に残っていた借金ごと引き受けると旦那さまがおっしゃった時には、ほんとにびっくりしました。あたしなんて、たいしてきれいじゃないし、頭も良くありませんしねえ」多恵はころころ笑い、それからぱっと口を手で覆って、申し訳なさそうに眉尻を下げた。「あらいやだ、あたしったら、奥さまの姪御さまになんて話をしてるんだろう。馬鹿なことを申しました。どうか、こらえてくださいましね」
「いいの、平気」
伊都はほんとうに平気だった。父のお妾だと言われたらさすがに動揺するだろうが、血のつながらない叔父に対してそれほどの思い入れはない。ただ、ご城代の使番だという彼に、この別宅や多恵と茂助の暮らしを維持できるだけの金銭的余裕があることが、少しだけ不思議だった。
生家は貧乏でこそなかったが、父と母はしばしば家計のやりくりに骨を折っていたように思う。年改めの祝いや霊祭の費用を捻出するために、父が蔵書や母の着物を質入れしたこともあった。城では武術指南役は尊敬こそされるが、地位そのものはさほど高いわけではない。俸禄も決して多くはないと、以前父から聞いたことがある。
指南役と使番の序列についてはよくわからないが、叔父が父よりも禄高が上だとは思えない。何かほかに商売でもして稼いでいるのかしら——と、伊都は多恵の仕事ぶりを見守りながらぼんやり考えた。
明日また来る、と言っていた度会典政はその言葉通り、午を過ぎて少し経ったころにやってきた。座敷に多恵と伊都が仲良く座っているのを見て、「姉妹のようだな」と嬉しげに目を細める。
彼は茂助が淹れてきた茶を飲み、多恵と少し言葉を交わしてから、おもむろに銭入れを取り出した。
「多恵、伊都の着替えを買ってきてくれ。いずれきちんとしたものを誂えるゆえ、さしあたり古着で構わんが、映えるものをな」
「あら、じゃあお嬢さんもご一緒に。お好きなものを選んでいただけますし」
「いや、いかん。当面、外へは出ぬほうがよい」
多恵は不思議そうな顔をしたが、伊都には叔父の考えがわかった。城下へ出てばったり叔母と顔を合わせでもしたら、たちまち大ごとになるからだ。
「そうですか――でしたら、あたしが腕によりをかけて選んでまいりますね」多恵はにっこり笑って銭入れを受け取り、裁縫道具を手早く仕舞って立ち上がった。「二、三軒回れば、きっと掘り出し物が見つかるはず」
「茂助を連れてゆけ。おまえも気に入った飾り物などあれば買ってよいぞ。たまには羽を伸ばしてくるがいい」
ほかに人がいてはできない話をするのだな、と伊都は悟った。ようやく、二日前の夜に起こったことの真相を聞かせてもらえそうだ。
多恵たちが出かけてふたりきりになると、典政はあらためて伊都を手招き、自分の正面に座らせた。その表情は昨日と変わらず思いやりにあふれているが、目に少し緊張の色が見て取れる。
「さて、何から話そうか」
「志鷹頼英――さまについて」伊都はすかさず言い、叔父をまっすぐに見据えた。「なぜ、あんなことをなさったのか、叔父さまはご存じですか」
典政はわずかにたじろぎ、唇を引き結んでしばらく考えていたが、やがてゆっくりを口を開いた。
「そう……知っている。頼英さまは今、ある……謀をめぐらせておいでなのだ」
「はかりごと、とは」
「詳しくは言えぬ。そなたは知らぬほうがよい」
叔父の曖昧な態度に伊都は腹立ちをおぼえた。家族が巻き込まれたのだから、わたしはすべて知らされるべきだ。
「父が殺されたのはなぜですか」
「そなたの父上は、志鷹家お抱えの御指南役の中でも、実力者として夙に名高い人物だ。同僚たちからの評判がよく、城内に味方も多く、なによりご当主朋房さまの信任が篤かった。頼英さまはその器量を買って、仲間に加えようと考えられたのだろう」
「でも――父は……断った」
「そうだ」典政はうなずき、目を伏せてつけ足した。「おそらくは」
「叔父さまも、そのはかりごとのお仲間なのですか」
伊都はずばり斬り込んだ。とたんに典政の表情が硬くなる。彼は身じろぎして低く呻き、深いため息をついた。
「直接、誘われたわけではない。主の都志見重実さまが声をかけられ、お仲間になられたのだ。それゆえ、いずれ事が起きる時には、主と共に頼英さまに与力することとなろう」
そう決めてはいても、心はまだ揺れているのだろう。叔父の目には後ろめたさが見え隠れしている。伊都は彼を見つめながら、今聞いた話をじっくりと考えた。
志鷹頼英。はかりごと。大光明のご城下に住む武士や、門叶のご城代も仲間に加わっている。いずれ事が起きたら、と叔父は言った。事とは何だろう。
頼英は父の主君である朋房さまの弟君だ。その彼から誘われ、父が拒むことといったら――それは、朋房さまに何か危害が及ぶような悪事としか考えられない。そして、悪いことをしようとしている人間が最も恐れなければならないのは、秘密が外に漏れることだ。
あの夜、父は少し帰りが遅かった。勤めを終えてお城を出たあとで、頼英に呼び止められたのかもしれない。そしてはかりごとについて打ち明けられ、勧誘されたが、仲間に入るのを断った。頼英はなぜその場で父を斬らなかったのだろう。もし誘いを断られた場合は、あとで面倒の種になりそうな家族ともども片づけると、初めから決めていたのだろうか。
伊都は奥歯を噛みしめ、膝の上で両の拳をきつく握った。
父上。どうしてあの夜のうちに、朋房さまのところへお知らせに行かなかったの。秘密を知った父上を、頼英が何もせずに放っておくわけないのに。
「伊都」典政が気づかわしげに声をかける。「ほかに何か、聞きたいことはあるか」
伊都は視線を落としたまま少し考え、ゆっくりと顔を上げた。
「朋房さま――御屋形さまに、すべてお話しすることはできないでしょうか」
胸の前で腕を組んだ叔父が、沈痛な面持ちで嘆息する。
「そうさせてやりたいのは山々だが……大光明へ舞い戻ったら、そなたは無事ではいられぬだろう。城下には、おそらくあちこちに見張りが配されている。その目をかいくぐり、何とか城までたどり着けたとしても、取り次ぎ役の番士は頼英さまに与力する者かもしれぬ。あるいは近侍、家老。女中の中にすら、謀の賛同者がいてもおかしくはない。その中の誰かが、御屋形さまへのお目通りが叶う前に、必ずやそなたを捕らえるだろう」
まただ。忘れていた。〝誰が敵かわからない〟。伊都は唇を噛んで、小さくうなずいた。
「はい」
「つらかろうが、今は堪えることだ。もし頼英さまの謀が失敗に終わったら――その時は、すべてを白日の下にさらすこともできよう」
では成功したら、家族の無念を晴らす機会は永遠に訪れないのだろうか。
伊都は悔しかった。大光明城へ乗り込み、その思いを、悲しみを、怒りを訴えたかった。でも、話す前に殺されてしまったのでは何にもならない。叔父の言うことは、いちいちもっともだ。ここは我慢して、先行きを見守るべきなのだろう。
はかりごとが失敗すればいい。事が起こる前に秘密が漏れて、頼英もその仲間も、みんな牢につながれればいい。伊都は黒々とした思いが頭の中に渦巻くのを感じながら、叔父を見上げた。
「わたしは、これからどうなりますか」
「しばらくは、ここに身を潜めていてもらいたい。城下にいるのも危ないが、今動くのはさらに危険だ。頼英さまは、そなたが頼って行けそうな先すべてに探索の手を伸ばされるだろう。早ければ今夜にも、使いの者が我が家を訪れるやもしれぬ」
「はい」
「いずれ、もっと安全な隠れ家を見つけるつもりだ。この先何があろうと、わしは力の及ぶ限り、そなたの身を守るつもりでいる」
いつかまた移動しなければならないと知り、伊都は少し残念に思った。多恵のことが好きになっていたし、彼女のほうも「お嬢さんが一緒だと楽しい」と喜んでくれているのに。だが叔父の真摯な言葉には胸を打たれた。昨日会ったばかりの彼が、まさかここまで心にかけてくれるとは。
「ありがとうございます、叔父さま。お頼りするばかりで申し訳ありません」
伊都は深く頭を下げた。畳についたその手を典政が取り、持ち上げて優しく握る。
「都留がそなたを見捨てようとしたことへの、せめてもの償いと思うてくれ」
「叔母さま――は、わたしをどうするおつもりだったのでしょう」
典政は苦い顔をして黙り込んだ。その手に少し力が入り、伊都の指先を締めつける。それだけで、だいたいのことはわかった。やはり叔母は、わたしを殺す気でいたのだ。
「わたしはひとりで逃げたことになっているのですか?」
問いを変えると、叔父は安堵の面持ちになり、手を離して座り直した。
「うむ。夜中のうちに、誰にも気づかれず出ていった――と、あれは思っている。姿を消した理由について、あれこれと思いめぐらせてはいるが、まったくわかっておらぬようだ」
「そうですか」
「都留で思い出したが……」典政はふいに身をよじり、うしろに置いていた袋包みを引き寄せた。「そなたが言っていた小太刀な、都留がどこかにしまい込んだようで、今朝は見つけることができなんだ」
「はい」がっかりだ。
「遠からず取り戻すゆえ、少し待っていてくれ。その代わりと言っては何だが、これをそなたにと思って持ってきた」
叔父が差し出した袋包みは、一見したところは藍染めの弓袋だが、それにしてはかなり短い。伊都は不思議に思いながら受け取り、鱗結びにしてある絹紐を解いてみた。中から出てきたのは、やはり弓だ。だが三尺ほどしかなく、まるで玩具のようだった。表面は漆で仕上げられ、滑らかに黒光りしている。弦は張られており、弓袋に一緒に納められた矢筒には四本の矢が入っていた。
「叔父さま、これは?」
「鯨半弓というそうだ。その名の通り、鯨の髭で作られている。せがれの典照に買い与えたものだが、あの子は力が弱くてその程度のものすらうまく引けなくてな。ろくに練習もせず、すぐに投げ出してしまった。そなたはどうだ、引けるかな」
伊都は握りを掴み、何もつがえないままで素引きした。軽々と引くのを見て、叔父が感嘆の声を上げる。
「ほう。さまになっているな」
「引きのこつを、父から教えられたので」伊都は引きやめ、弓を膝の上に横たえた。「わたしも、力はまだあまりありません」
「どれ、腕を見せてくれ」
言われるまま、伊都は左袖をまくり上げ、腕を差し出した。叔父が手首の少し上を握り、自分のほうへ引き寄せながらまじまじと見つめる。
「ふむ――細いが、筋はしっかりついているな。それにしても、なんと白い……練り絹のような肌だ……」
典政はつぶやくように言うと、おもむろに屈み込んで肘の内側に唇を押し当てた。きれいに整えられた口髭の硬い毛が、ちくちくと肌を刺す。伊都は驚き、反射的に身を引こうとしたが、腕をしっかりと掴まれていて動けない。ややあって上げた叔父の顔は紅潮し、陶然たる面持ちを浮かべていた。一方その目は、怖いほどぎらぎらと輝いている。
「……叔父」さま、と言い終える前に、畳に押し倒された。崩れた膝の上から弓がこぼれ落ち、弦が弾んで楽器のように、びぃん——と一声鳴る。
何が起こっているのかわからなかったが、伊都は本能的に抗った。自由な右手で叔父に打ちかかり、足を蹴り上げる。だが上に覆い被さった彼の力は強く、その体は重く、床に押しつけられた背中をほんの少し浮かすことすらできない。
叔父の手が着物の裾から入り込み、内腿をなで上げた瞬間、困惑が掛け値なしの恐怖に変わった。指の感触に怖気を震いながら、それから逃げようと渾身の力で身をくねらせる。だが彼女が抗えば抗うほど、典政は昂ぶっていくようだった。
叫ぼう。取り散らかった頭の中で、ふいに思いついた。外には町衆が歩いている。大声を出せば、きっと誰かに聞こえる。伊都は思い切り息を吸い込んだ。だが「助けて」と声にして吐き出すより先に、叔父の大きな手で口をふさがれてしまう。
放熱する怒りの絶叫が、伊都の頭の中だけに谺した。目が眩み、白く濁った視界のあちこちで光が爆ぜる。
気絶しそうになっていることに気づいた伊都は呼吸をゆるめ、ゆっくりと目蓋を閉じた。歯を食いしばり、身を固くして、災厄が通り過ぎてしまうのをただひたすら待ち続ける。
あの惨劇の夜と同じで、それ以外にできることは何もなかった。
多恵と茂助が戻ってきた時、伊都はまだ座敷に横たわっていた。疲れ切ってこわばった体の上には、典政が去る前にかけていった小袖が今も載っている。ずっと横向きに寝ているので、体の下になった右腕が痺れていた。手指の先は冷え、棒きれのようになっている。
「とっても素敵なお着物が見つかりましたよ、お嬢さん。これ、ちょっとあててみて――」
朗らかに言いながら座敷に入りかけた多恵が、はっと息を呑んで足を止める。彼女はすぐに踵を返し、土間にいる茂助に向かって小声であれこれ言いつけ始めた。
「ねえ茂助さん、悪いけど、すぐお風呂を沸かしてちょうだいな。あたしも焚きつけ手伝いますよ。それからね、あたしとお嬢さんがお湯を使ってるあいだに、ご飯を八合ばかり炊いておいて」
「八合も。何に使いなさるので」
「あらいやだ、もちろん食べるんですよ。今日全部じゃなくて、おむすびにしておいて明日もね」
「行楽へでもお出かけに?」
「いいえ、出かけませんよ。いいからほら、早く早く」
茂助は何やら口の中でもごもご言いながらも、裏の井戸へ水を汲みに行った。多恵もそのままついて行く。
ほどなく風呂の支度が整い、多恵が座敷に戻ってきた。手には新しい絹のぬか袋を持っている。彼女は半ば抱き上げるようにして伊都を湯殿へ連れて行き、自分も手早く着物を脱いで一緒に中へ入った。
ひと坪ほどの湯殿の中には、いいにおいのする湯気が立ちこめている。風呂桶の湯には、摘み取ったばかりの桜の葉が入れられていた。導かれるまま腰かけに座った伊都の体に、多恵がその湯を汲み出してそっとかける。
「お嬢さん」彼女はぬか袋を湯に浸しながら、低い声で問いかけた。「あたしがお体に触っても平気ですか?」
伊都は怯み、逡巡し、それでも最後には小さくうなずいた。多恵がほっとしたように微笑み、温かく湿ったぬか袋で丁寧に肌をこすり始める。そうしながら、彼女は静かに語りかけた。
「お見世で初めてお客を取った時、あたし、自分がすごく汚くなったように思えて、しかもそれがほかの人たちに見えてしまっているような気がしてたまりませんでした。そしたら、古参のお姐さんがやっぱりこうやって、お風呂で体を洗ってくれたんです。汚れたのはあんたの体だけ、それは落とせるからだいじょうぶだし、洗ってしまえばもう誰にも見えなくなるよって。初めはそんなの嘘だと思ったけど、不思議ですねえ、洗ってもらっているあいだに、ほんとうにそうかもしれないってだんだん思えてきたんです。そのあとは、お客を取って薄汚れた気分になる度に、お姐さんがやってくれたように自分で体を洗いました。きれいになったと思えるまで、何度も何度もね。――今でもあたし、旦那さまがいらっしゃったあとは、朝でも夜でも必ず体を洗うんですよ」
多恵の声音が少し変わり、伊都ははっと顔を上げた。彼女の目に、これまで見たことのなかった色が浮かんでいる。そこには悲しみと苦悩があった。そしてたぶん、怒りが。だがそれはすぐに消え、見知った穏やかさと呑気さが戻ってきた。
「さ、お嬢さん、目をつぶっててくださいねえ」
多恵は手桶一杯に湯を汲み、それを伊都の頭からざっとかけた。さらに汲み、もう一度。そして目を開けた伊都の顔を間近で見つめ、満面に笑みを浮かべて歌うように言った。
「ほうら、すっかりきれいになった」
髪から湯を滴らせながら、伊都は〝ほんとうにきれいになった〟と素直に感じ、そのことに驚きをおぼえた。光沢を放つほど磨き上げられた肌からは、桜の葉の仄かに甘いにおいが立ちのぼっている。頭の中にかかっていた、どんよりと重い霧もいつしか晴れていた。まるで心の澱までも洗い流されたようだ。
そのあと、ふたり一緒に湯船に浸かりながら、多恵は少しだけ典政を擁護した。
「無体な真似をなすったけど、旦那さまはねえ、ほんとはそんなに悪い人じゃないんですよ。でもお嬢さんがあんまり可愛くて、見たこともないぐらいおきれいだから、辛抱できなくなりなすったんでしょうね。殿方にはそういう時があるそうです」
伊都は黙って聞いていた。どんなつもりだったにせよ、叔父はけだもの以外の何者でもない。
「ほんとう言うと、あたしも未だに……殿方のことはよくわかりません。怖くもあります。お見世にいたころはお客に、そりゃあひどいことをたくさんされましたから。ほんとにねえ、女には思いつきもしないような、とんでもないことをしたがる人がいるものなんですよ」
多恵は苦笑いしながら言い、ふうっと息をついた。湯殿の外の様子を窺うようにちょっと首を伸ばしてから、伊都に身を寄せて囁き声で訊く。
「お逃げになりたいですか?」
伊都は思わず目を見開き、多恵の顔を凝視した。これは何かの罠だろうか、という疑念が胸に沸き起こる。〝誰が敵かわからない〟。だがすぐに、その考えを頭から押しやった。この人は違う。この人だけは。
「ここにいらして旦那さまのお世話になれば、きっと安楽にお暮らしになれます。でもこれからも旦那さまは、お嬢さんに触れずにいることはおできにならないでしょう。それがおつらいなら――」
伊都は湯の中で彼女の左手を探り当ててぎゅっと握り、ただ一度だけ深くうなずいた。言葉にするまでもなく、多恵が思いを汲み取ってくれる。彼女はうなずき返し、もう片方の手で伊都の髪と頬を愛おしげに何度もなでた。
「ああ残念……。お嬢さんと暮らしたかった」
明るい笑みとは裏腹な涙声に、胸がいっぱいになる。
「わたしも」伊都は多恵の首に両腕を回すと、万感の思いを込めて抱きしめた。「ありがとう」
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